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2008年3月30日 - 2008年4月5日

aboutme:48552

あれ?記事を書いていないのに、記事を書いたあとにくる鬱っぽい感じがキた。アバウトミーにいろいろ書いてもこういうことはなかったのに。今日はさすがに勝手に書きすぎたか。

JRF 2008年4月 5日 (土)

aboutme:48530

これを解析的に証明できないかなぁ…。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48528

バッファを使ったフィルタ。バッファの数を最短にして、端を削るのを2/3の確率でやれば、真ん中をとった分布ではなく削られたほうの分布を見ると台形になってる。これに今度は削る確率は同じでバッファをかなり長くしたフィルタにかけて真ん中をとるとほとんど一様分布になる(はず)。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48521

はぁ、こういうのをまとめて本当は記事にしないとダメなんだろうな。そうでないと、まったく伝わるチャンスがないから。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48520

でも、まぁ、これは妄想だからね。しかも他の人には伝わらないタイプ、というか、伝わったと感じる人は騙されているだけというタイプの話だから。途中、おかしな方向にいきかけたのでムリヤリ結果をネジまげたから、論旨もムチャクチャだし。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48518

そこまでして守ろうとする者が何を許してしまうのか…。 私は恐ろしい。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48515

だが、そこで犠牲になっているものは本当に「表現」だけになるかは想像力をはたらかせてみる必要がある。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48514

それが結局、「表現の自由」を末端レベルでは守ることにつながっていくのだ。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48513

だから、まずは犠牲を払ってでも情報に価値を付けなければならなかった。そして、それはときに自由を払ってでも成し遂げられてきた。だから、その資産を安易に壊そうとする者が「やってきた」ならば、あえて「表現の自由」を犠牲にしても、情報への価値を守ることが優先されることもある。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48512

そこで力を用いることがいかに非効率的であろうとも、情報をつくる行為が非生産的とみられている限り、その議論は相殺される危険がある。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48511

そのフレーミングに立ったとしても、ある特定の表現を禁止することが、思想的「分断」をもたらし力関係を変化させることもあるからだ。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48509

表現の自由の問題は、実際にはその背後にある力関係によってほとんど一方的な物言いができることにある。だから、問題は、ほんとうは表現の自由にあるのではなく、「背後にある力関係にある」。……これは半分うそだ。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48508

表現の自由がなくても現代民主主義は可能かもしれないが、表現の自由がなくてもよいなら現代民主主義は必要ないとされてしまう危険がある。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48507

その自由が確保されているという「フィクション」を保持し続けるには、どういう政体や経済が必要かという観点から現代民主主義が構築されている、という意味において基盤なのである。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48505

現代民主主義にとって表現の自由は思想的基盤である。基盤であるという意味は、それがないと存在しないということではない。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48503

ただ、この問題を考えていく上で恐ろしいのは、今の時代のアジアでは「それもありかな」と思える場合がありそうに見えるということだ。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48458

インターネット時代、IP を監視するなどして、匿名人による問いかけを実質的になくそうとするのは、表現の自由という「慨念」に対する攻撃と言ってさえ良いのではないだろうか。

JRF 2008年4月 4日 (金)

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aboutme:48457

当然、そのとき用いられる「問い」も表現であり、二者間の問答を前提とするところからは表現の自由はまやかしにすぎないという実体はありえただろう。しかし、出版により匿名人による問いかけが可能となった時点において表現の自由は意味を持つようになる。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48455

表現というのはある種の信仰告白となっていることがある。自由と言いながら、特定の表現のみが現ることを具体的個人に期待するのは、その者の人格への攻撃としての側面を持つことがある。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48448

うーん、しかし、私に関していえば、確かに一方的な意見ばかり読んでいる状態ではあるかな。その点は反省する機会を与えられているのかもしれない。でも、じゃぁ、どこを新しいソースとすればいいんだろう?

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48446

あと、このままだと特定人を想定しすぎていて、陰口みたいになってるな。まぁ、この程度の破綻した片隅のコメントなど意に介さないだろうけど。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48445

…と、辛辣な意見になればと思って書いてみたが、新しく考えたところは論旨の明解さが不十分だな。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48444

結局、表現は制限した上に、命令系統に階層を認めたいというのは、自らの優越に自信がない上に他者を信頼できる人間ではないことを表明しているだけではないだろうか。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48442

一方、理性が平等にあり(という時点で下の「イスラム」的だが)、「判断」は常に正しくなされていて、得られる情報からただ行動すればいいだけであると考えるなら、情報に関する階層はいらず、ただその効率を上げていけばいいだけということになる。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48441

知識が不十分な状態が誰しもにあるとすると、このとき「判断」を得た情報しか求めてはいけないというのは、良い「判断」をできるチャンスを逃す結果につながる。よって、そのような良い「判断」をするためには、「判断」を得ていない情報の表出の可能性を増やすために表現の自由を認めざるを得ない。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48440

「理性が劣る」というのは理解に難しい状態だが、そういう人がいるとするのだから、おそらく下のように「知識」と「判断」に差がある場合が頻出することもあるという立場なのだろう。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48438

表現された「ベタ」な情報という慨念には、ある者の知識に基づく情報が、その者の判断によっては意味をなしていないが、他のものの知識となったとき判断の根拠となるものがありうるという含意がある。

JRF 2008年4月 4日 (金)

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aboutme:48435

これと表現の自由を結びつけて考えてみよう。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48434

西欧は、事象を知識にする際の情報劣化を深く考え、イスラムは、知識を行動にする際の情報劣化を深く考えたのだろう。ここには、イスラムが子音のみを記述するアラビア語に根差すことに関係があるのだろうか?

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48433

西欧とイスラムの境界では、ときおり「知識」も「判断」も「行動」も同じであるとし、善悪の判断を強制的にさせ、それに従って即座に行動することを求める不寛容が起こり、悲惨な結果を生んできた。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48432

よって、善とわかっていても行動を起こさないことは認めるが、理性はあるはずだから、善悪の判断の表明を常にせまっても良いという考えを生む。(知識が不足していたり判断がまちがっていたりするのは神のみぞ知るということである。)

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48431

一方、イスラムの定義では、「判断」と「行動」は別物だが、「知識」と「判断」は同じであるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を表すには言葉によるしかないのに、その言葉を「判断」の証明として求められるからである。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48430

よって、善は必ずなされねばならないが、理性が足りないために、すなわち、知識不足で、善悪の判断がつかないことはあるという考えを生む。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48429

西欧の「理性」の定義では、「判断」と「行動」は同じだが、「知識」と「判断」は別物であるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を特別視するために、「判断」と「行動」が相対的に接近した概念としてとらえられるからである。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48428

しかし、「知識」と「行動」を直接関連づけることは難しい。よって、「知識」と「行動」の間にいかに「判断」を位置づけるかが問題となる。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48427

「判断」と「行動」にも関連はある。人は自分の「判断」によらない「行動」は自分のものとは思わないし、客観的には「行動」によってしか人の「判断」を知ることはできない。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48426

「知識」と「判断」は相互に関連するものである。「知識」を得るときには、現実の取捨選択の「判断」が常にあるし、善と悪を正しく「判断」するためには、他で得た「知識」が必要になる。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48425

議論を単純にするために、人は、「知識」に基づいて「判断」し、「行動」すると考えよう。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48424

人と動物の大きな差として言葉があるが、イスラムも西欧も理性の現れとして言葉をとらえるため、理性を言葉で証明することが求められる。信仰告白の問題である。西欧では、善悪にかかわらず知識を語ることができるが、イスラムでは語るときには善悪の判断を経ていなければならないことになる。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48423

ここでいう「西洋」と「イスラム」は実際の集団ではなく、そこに私を含む日本人がいだいてきた「主観的」イメージに基づく仮託のための存在である。 …としておこう。このほうが素直にロジックが展開できる。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48420

西欧では理性を「普遍性を知る能力」とするのに対し、イスラムは理性を「善悪を判断する能力」とする。西欧の理解では、すべての人に等しく理性があると考えることは難しいが、イスラムの理解では、すべての人に等しく理性があると考えることもできる。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48419

理性の定義の仕方によって、西洋とイスラムを区別できないかと考えたことがある。問題としては信仰告白について考えていたときだ。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48418

すごいアジだな。そのレトリックにさらされると私なぞは不安になる。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48349

フロイトを読んでいたが、それに対抗する意見というのを考えていると、危険思想を擁護するようなものがまず出てくる。少なくとも自分にはそう思えた。これをもう一段乗り越えないと論説は書けないんだろうな。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48339

審級が「あわれみ」を欲しがっているのではないかという考えが浮かんだ。「あわれみ」と言っても人の同情という意味ではない。「神の真実」が明らかになること、それが審級にとっての「あわれみ」である。…でも、なぜそう思い浮かんだのだろう。

JRF 2008年4月 4日 (金)

aboutme:48322

拡張された自分に若さを求めてはいけない。そして求めるという限りは内面に対しても同じだ。若さと対峙したとき自分の若さも出てしまうことを抑圧しない、それぐらいが許されることではないか。

JRF 2008年4月 3日 (木)

aboutme:48319

めぼしとしては、変数の数を 2 とか 3 にして、独立の定義に沿ってやってみるとか、そういう感じか。

JRF 2008年4月 3日 (木)

aboutme:48318

まぁ、しばらく pending、しお漬けですな。

JRF 2008年4月 3日 (木)

aboutme:48317

ところで、独立な変数の数は m * n 個しかなかったわけだから、m * n * (n-1) + m * n * (m-1) 個の (B_{i}_{j}-B_{i'}_{j'} ) が独立なわけがない。だから、もっと客観的な証明法がない限り、とても独立だとはいえない。

JRF 2008年4月 3日 (木)

aboutme:48316

そこから独立っぽいな。って考えがちなんだけど、しかし、差の場合の数は 0 の部分を抜いたとしても 前者が m * n * (n-1) 後者が m * n * (m-1) みたいになる。

JRF 2008年4月 3日 (木)

aboutme:48315

問題は独立性で、今のところ、(B_i_{j} - B_i_{j'}) の和の平方の和と (B_{i}_j - B_{i'}_j) の和の平方和の独立性に帰着すればいいのではないかとまでは考えられる。前者は j=j' のとき 0 になり、後者は i=i' のとき 0 になる。

JRF 2008年4月 3日 (木)

aboutme:48314

こんなふうに平均 + 分散 * 乱数という形で書けるのは、正規分布に特殊な特徴。こうおいて、力業で計算すると、期待値に関しては素直に出てくる。

JRF 2008年4月 3日 (木)

aboutme:48313

分散分析。x_i_j = μ + σ_A * A_i + σ_B * B_i_j と表すところから導出がはじまる。σ_A が σ^2_Treat の平方根、σ_B が σ^2_Error の平方根、A_i と B_i_j がすべて独立な正規乱数(平均 0、分散 1)。

JRF 2008年4月 3日 (木)

aboutme:48153

他人より優れていることを喜ぶことをナルシズムというのは私の語感と少し違うな。

JRF 2008年4月 2日 (水)

aboutme:48142

なんでこらえきれなくなったんだろう…。最初はそんなにメチャクチャでもなかったのに。演技と見るのはうがちすぎか…。

JRF 2008年4月 2日 (水)

aboutme:48123

あーっ、あそこは「お伝えください」ではなく「お申し付けください」と書くべきだった。今回はダメとまでは言えないが、次回は気を付けよう。

JRF 2008年4月 2日 (水)

aboutme:47979

…しかし、これはただの文句にすぎないな。誰かのためにはなっていない。いや、もちろん、いつも「何かのため」にはなっていない。でも、そうでなくてもそうあろうとした自分が剥がれおちている。

JRF 2008年4月 1日 (火)

aboutme:47967

まぁ、普通はリロードすれば他のものに変わるもので、広告主もそれを前提にたまにハデなものがあってもいいだろうってことで出しているんじゃないかと推察するけど、ここのシステムはどうもそうではないらしいから。

JRF 2008年4月 1日 (火)

aboutme:47932

[アイデア]アバウトミーの右に出る広告。普段は(ニフティの方には申し訳ないことに)特に気にしないけど、ときどきハデというか眼にやさしくなさそうなものがあって、気分をそがれる。「この広告は見たくありません」というのをニフティに通知し、別の広告に切り換える機能が欲しいなぁ。

JRF 2008年4月 1日 (火)

aboutme:47931

ブログには書くの忘れたけど、ここ最近の大きな変化としてブログへのスパムが極端に少なくなったってのがあるな。

JRF 2008年4月 1日 (火)

aboutme:47789

敵を敵として愛する、のは、優越感にむりに浸ろうとする倒錯だろうか、殺し合いを競争とむりやり誤認し矮少化しているだけなのだろうか、そういう状況になったという運命を受け容れる自分を愛するナルシシズムなのだろうか。

JRF 2008年3月31日 (月)

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aboutme:47742

最近ベートーヴェンをよく聴いている。そういう気分だ(ってどういう気分だ?)ってわけではないのだが…。

JRF 2008年3月31日 (月)

aboutme:47729

CDの検索は Yahoo のほうがダンゼン、いいんだよな。

JRF 2008年3月31日 (月)

aboutme:47605

ググると今回のJavaの更新はいろいろ問題になっているみたいだ。でも、私の場合、プロキシとかはないはずなのになぁ?今回のアップデートは入れないことにしよう。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47602

要注意。今回の Java Update を入れたらブラウザが動かなくなった。自分のところだけの症状かもしれないけど、それだけが更新される前にシステムを複元したら動くようになったので「犯人」であることは確実。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47480

0.999…1000… と 1.000…1000… を違う表現と考えるからこそ、実数に対応しなくなるんじゃないか?

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47478

「同じであるとする表現の集合は実数の集合とは違うのは明らか」と書いたが、同じであるとする同値類の集合であれば、実数と1対1ではないか?

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47477

同値類を一つの表現とするからこその問題に思えてきた。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47476

…という考え方であってるんだろうか。自分がわかってなかったことが、だんだんわかってきた。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47475

しかし、0.999…1000… と 1.000…1000… と 1.000…0999… と 0.999…0999…(すべて…は無限個)が同じであるとする表現の集合は実数の集合とは違うのは明らかだろう。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47474

なお、こういう複雑な表現になるのは、「あと」ではなく「前」につけるのは実数に入るから。前に1を付けた10.999… と 11.000… を同じとするのは元の実数の集合でいい。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47471

さらに下は特別な場合として[0-9]の部分を0と考えてしまえばわかりやすいか。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47468

無限個、[0-9]の列が並び、一つ1があって、無限個また[0-9]が続く、という表現は実数に対してはいえない。最初の「無限個」はせいぜい「任意の有限個」にしなければならない。…ということを言えば想像しやすいか。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47467

一方、実数全体を含み、かつ無限個の長さの[0-9]列の「あと」に一つの数値がつづくという表現を許す集合は実数の集合よりも真に大きな集合となる。その要素である1.0…1は1どころか実数ではない。

JRF 2008年3月30日 (日)

aboutme:47466

1.00…1 を数列とみなすか「表現」とみなすかで考え方が違う。a_1=(2-0.9), a_2=2-(0.9+0.09),...,a_n=2-(0.9+0.09+…),...という数列とみなせば、当然、1 に収束する。

JRF 2008年3月30日 (日)

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