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2008年2月10日 - 2008年2月16日

aboutme:39828

いや、「まつり」か。でも、まつりというには Personal すぎるか。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39817

用意をしたうえで、判断と記憶を「殺し」、「神」というか無意識に身をまかせる。って「祈り」というよりは「魔術」かな。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39810

認知的不協和をわざとつくりだすというのは、むしろ乱数に頼ったほうが「確率」が高くなることにつき平均への回帰を遮断するという「祈り」の一種なのだろうか。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39703

数学とプログラミングの訓練か。なんというか…いやぁ、道は長いっスよ。とりあえず今月はパスな方向で。メンタル部分の下地をつくるのが先。って何チューショーテキなこと言ってんだか。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39702

いろいろバージョンアップすることを考えると、チェックしなければならないことの多さに鬱になるな。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39701

プログラミングもだいぶ忘れている。再修業にどれだけ時間をかけるか…。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39699

コレコレというパッケージはdefaultにして欲しいなぁ。というのはよくあるダメな要求なんだろうけど、つい、言いたくなる。…はぁ、めんどうくさい。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39689

別に新しい言葉でもないかな。中国語では使われているよう。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39687

もちろんその配剤は、相互作用によるもの…いや、相斥作用とでもいうべきか。平衡状態が「非平衡定常状態」を含まないということが一般的な世の中では、そういった新しい言葉がいるだろう。

JRF 2008年2月16日 (土)

aboutme:39686

アブラハム、サラ、イサクとガネーシャの物語を念頭においている。ただし、後者の物語は進化に関しないということが示唆されているようにも思う。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39681

自らの抑圧して誤解を誘うのも、誤解から嫉妬をおこさせるのもテクニックだ。埋めがたい溝がたとえできても必要な関係は続けることができる。そういう「歴史」の認識をぶつけられる。それが性に関して唱えられるとき、有史以前から動植物の「進化」をコントロールしてきた事実を想う。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39658

そう思わせる気骨と優秀さがある。私はそういったところから脱落してしまって何の協力もできないけれども、応援したい。…こう書いて強制的に自分を落ちつかせないと、我を見失ないかねない。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39657

進化生物学を学んでブログで発言している人はすごいといつも思う。「性選択」について誰か彼らが批判する機会を提供すれば、もっとおもしろい意見がきけることと信じている。彼ら、または彼らをうんだ周りの環境には、きっと彼らが望むような大事業の芽があるに違いない。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39643

進化においても奇跡があったという確信が犠牲の様式を決める、そんなことがあったのではないか…。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39642

眼を様々な種が獲得する過程において、「眼」という(奇跡的な)ものが存在するのかもしれないという「認識」が、その方向に「イメージによる進化」しようと bet する個体を増やしたということはないか。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39641

遺伝は突然変異が消えやすいという特徴がある。しかし何らかの奇跡が確定し、特別に残るようなものがあるという前提を入れると変わってくることも示せそうな気がするが…難しいか?分布の精度をよくすると救われるものがあるというぐらいのことしか言えないか。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39640

良心によって支えられているものには不安がある。モラルの低いものでも子の生活を支えられるなら、何十年というスパンで見た場合、親としてはそのほうが頼りがいがあると思うのは、自然さがある。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39637

その辺は心の弱さなんだろう。…病いに対する弱さというのではなく、つい自己承認を求めてしまうとかいったような弱さ。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39636

告白すると、ときどきそういった「奇跡」を懐かしむことがある。精神的にはあまりよくなさそうだし、なにより、そういう状態になったら親をはじめ周りに迷惑がかかるのだけれど。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39635

私の体験は正しくは強制ではないか。多くの強制連行を「強制」と呼ぶ意味において強制かもしれないが。奇跡が起こっていると認識するのを許可した覚えはある。そういう「病」のとき以外は、許可しても無意味だったのにそのときは…。

JRF 2008年2月15日 (金)

aboutme:39466

誰でも気付くように人は犠牲として生きることを強制される瞬間がある。そして私の体験からすると生を奇跡として認識することも強制されることがある。ただし、それは後から見れば犠牲者となったに過ぎないのだが…現代においては…いや、おそらくいつの時代においても。

JRF 2008年2月14日 (木)

aboutme:39452

耐性を付与した個体とそうでない個体を感染の相関が高い状態におく、そのときの感染の相はどう変わるか、さらにそれが子孫を「自然に」or「人為的に」残す場合に遺伝に与える影響はどうなるか?

JRF 2008年2月14日 (木)

aboutme:39447

そのような利益が出ないように、または、コントロールしやすいようにするために様式を定めるという側面もありうるだろう。

JRF 2008年2月14日 (木)

aboutme:39446

さらに犠牲によってどこかに利益が生じるとき、その上、分配を必要とするような利益であるときはとくに、政治性が生じる。その利益を求めることは犠牲を求めることに等しく、それを避けようと利益を「必要のない芸術」に分配しても結局その利益を求めるものが出てくる。

JRF 2008年2月14日 (木)

aboutme:39445

奇跡に様式はない。あるとすれば奇跡として受け留められやすい形式があるというだけだ。犠牲は様式を必要とされる。犠牲が内心だけのものであったとしても、それは幸福感の否認である。そのようなものまで含めて過度な犠牲があり、社会の信用のためにそれは避けられるべきだからだ。

JRF 2008年2月14日 (木)

aboutme:39289

ある人にとっての自然さには習慣の役割が大きい。習慣は社会との関わりの中で形成される部分が大きい。「奇跡として生きる」ことに対応する能動性はある社会への参与の能動性に還元できるのかもしれない。すると、聖餐や洗礼に致ったということが大事か。…少し飛躍しすぎか。

JRF 2008年2月13日 (水)

aboutme:39275

自然であることを選択しようとすることは自然ではないし、自然でないようにするのはもちろん自然でないことが多い。禅かよ。ここから能動性はでない。

JRF 2008年2月13日 (水)

aboutme:39272

新しい奇跡に参与する。子を産むことであったり、育てることであったりするのかなぁ。それを自然に行ってしまうこと。うーん。

JRF 2008年2月13日 (水)

aboutme:39271

見出さないもののために、自分が犠牲を引き受けているこということか。…うーん、それをそうだとしておいて、奇跡についてはどう考えればいいんだろう。

JRF 2008年2月13日 (水)

aboutme:39270

神の痛みを私が見出す、というのは確かに能動的なのかもしれない。でも見出さないものには犠牲の十分性を認めないのか?

JRF 2008年2月13日 (水)

aboutme:39260

でも、この作業は面倒だ。他のLDでもやるべきか迷う。

JRF 2008年2月13日 (水)

aboutme:39259

LDのモンテヴェルディ: 聖母マリアの夕べの祈り(ガーディナー指揮)をDVDに移す作業をした。取り扱いが面倒なLDで、さらに合唱に今ほど感じないころに手に入れたものだったので、聴く機会がなかったが、ふと思い出して聴くと実に良かった。昔はこの良さがわからなかった。

JRF 2008年2月13日 (水)

aboutme:39255

受動的に生きることの「選択」は能動なのだろうか。では能動的原理とは何だろう。「肉による思考」だろうか、でもそれは分裂症的に感じる。

JRF 2008年2月13日 (水)

aboutme:39100

が、そういうキーワードを使ったところで、何の指針になるのか。

JRF 2008年2月12日 (火)

aboutme:39096

犠牲として生きることに対するのは、奇跡として生きるということだろう。とるにたらない自分を奇跡として感じることだろう。

JRF 2008年2月12日 (火)

aboutme:39088

また私は知識のなさを露呈している。顔を最初につけることを推奨するブログのシステムってそこかしこにあったのか。

JRF 2008年2月12日 (火)

aboutme:38927

辛い。セルフリミッター発動中でAmazonが使えないのが辛い。このままだと、Amazon にはいかないけど、わざわざ街に買い物にいっちゃいそうだ。交通費を考えると Amazon 使ったほうが安いのに。

JRF 2008年2月11日 (月)

aboutme:38922

永遠の火に相当する罪なんて、人ごときにありえるのか?自分にもその可能性が開かれているというのは、いったい何を望んでいるのか。

JRF 2008年2月11日 (月)

aboutme:38771

私の働かない言い訳は破綻しており、犠牲の理論は自己に適応できない。それでもまだこんな状態を続けている。どこか国の経済にも思いあたるが、それは妄想が過ぎるだろう。

JRF 2008年2月11日 (月)

aboutme:38770

だが、きり返るまでにはタイムラグがあり、その間も生活を支えねばならない。もし、その間生活を支えれるなら、その前からも生活を支えられるはずなのだ。

JRF 2008年2月11日 (月)

aboutme:38768

大きく私を支えているのは自己に対する「社会資本」の整備の理論だ。機会なく余剰があるなら投資にまわせば良いというものだ。もし「国が物価高」、具体的には親の収入がなくなる事態になれば、必要な労働にきり返れば良いというものだ。

JRF 2008年2月11日 (月)

aboutme:38765

では結局、私のモチベーションの問題であるのか。ある意味そうだ。なりたい自分があるのだ。だが、それはあるべき社会につながっていたはずだった。だが、実際は社会につながっているとはとうてい思えない。それでも自己の完成を求めるのは矛盾していないか。

JRF 2008年2月10日 (日)

aboutme:38764

他人にあたれる人は抑圧がないと思う。では、私にある抑圧とは何で、なぜ必要なのか。恥ではない。もっと社会「学」的な理由を見つけたがゆえに設定したのだ。それは他人があたっている自分をどうみるかだけではない。それが他人の「眼」を通して自分をかえていってしまうからだ。

JRF 2008年2月10日 (日)

aboutme:38763

宗教的なものを探す弱い自分がいる。しかし、動いてまでは探さない。それがまちがいだとわかっていても、もう一つのバイアスに抑圧されている。

JRF 2008年2月10日 (日)

aboutme:38762

そしてそれを自己に適用するとき、それは「逃げ」であることが明白にも思える。それ自体がワナなのか。それがシステムなのか。

JRF 2008年2月10日 (日)

aboutme:38760

何によってこの感覚がつくられたのか。たくまずしてできたことに意味を見出す。今という時代にあっては危ういことが、この感覚を支えているのではないか。その模範を形にすることにどれだけ実物の支えをしているか。それは必要ないのか。犠牲である以上、そういう支えをたくんではいけないか。

JRF 2008年2月10日 (日)

aboutme:38757

犠牲としていきることを選ぶこと。それをなぜ尊いと思ってしまうのか。

JRF 2008年2月10日 (日)

aboutme:38756

犠牲を求める心理とは何なのだろう。人身御供さえ意味する自己犠牲がなければ足りないと感じる、その由来は何なのか。罪があればわかりやすい、やまぬ不幸があればわかりやすい。罪も不幸もそれほどないとすれば、何が残るのだろう。

JRF 2008年2月10日 (日)

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