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「願う自分を見出すことで、それが自分にも願われる」という「神」的相互性。《知り合いの道を語り解く》では人生の中で期待できない相互性を切り離す必然を示唆した。消されたはずの相互性が神などに対する期待として信仰に残っている、といえるのか、相互性自体忌むべきとされてるのか。
JRF 2009年2月28日 (土)
「願う自分を見出すことで、それが自分にも願われる」という「神」的相互性。《知り合いの道を語り解く》では人生の中で期待できない相互性を切り離す必然を示唆した。消されたはずの相互性が神などに対する期待として信仰に残っている、といえるのか、相互性自体忌むべきとされてるのか。
JRF 2009年2月28日 (土)
四十七士が切腹を受け容れるのをよしとするのは、法を超える人為があるとしたいのと同時に、法の執行は多少強引でも公正でなければならないから。現在は、階級が絶対ではなく、罰の相互性を想像できるとして、死まで望まなくなるようにしている(ことになってる)。
JRF 2009年2月28日 (土)
攘夷などといわねばならぬ情況は、民族絶滅に近い想像を生む。達成した高い文化というのを、残された少数者だけでどう受けつぐのか。理解が届かない相手を介しても伝えていくというとき、宗教的信条にしたり物語にしたりという契機がありうる。
JRF 2009年2月28日 (土)
そしてそういった歴史を経たと認識するなら、自分がまだ理解を届かせていないところがあると常に考えなければならない。それを永劫に拡張して、そのような歴史を経なくても宗教は理解を超えていると一般化もする。
JRF 2009年2月28日 (土)
山本七平氏は、憲法の上に自然法を置く態度を批判する。私には自然「法(?)」の下に憲法があるのは当たり前のことだ。憲法もまた造られたものであり、その営為は人々の公正への望み(hoffen)に支えられている。
JRF 2009年2月28日 (土)
《法を体現させる》でいろいろな意味を含んで>法が人を生かせる野ではなく、人が法をいかすのである<と書いた。憲法には国民の宣言としての性質もあると私はしたいだが、宣言だから受け容れているわけでない部分も当然にあるだろう。しかしそこも「いかす」ようにしていくべきだ。
JRF 2009年2月28日 (土)
上に述べた「宗教」という造形物が憲法の上にある自然ではない。だが、法がコロし切り離したものが「宗教」として残っていることはある。それが相互性に何を期待するかに現れることもあるだろう。
JRF 2009年2月28日 (土)
憲法に「第二条 天皇は、人が人でしかないことの象徴で…」と書くべきと私がするのは、超人性を求める期待が法の公正さに求められぬように唱える句とも言えよう。
JRF 2009年2月28日 (土)
ふぅ。意味不明になったが、もう一度考えてみようとしたことをメモしておいた。機会があれば、もっと簡潔に構築的に考え直したい。
JRF 2009年2月28日 (土)
アルゲリッチ&デュトワ『プロコフィエフ&バルトーク:ピアノ協奏曲集』。バルトークの第二楽章、なんと切ないのだろう。壊れて時が流れていく。大地震や戦争で、報道が煽った阿鼻叫喚図のようでなく、悲惨を見つめ抱く自分と同時に、静かな時間が不思議と過ぎていくのを感じる、そのように想像した。
JRF 2009年2月28日 (土)
易経 繋辞上伝 >方以類聚、物以群分、吉凶生矣。< 方(方向、法)は類をもって聚[あつ]まり、物は群をもって分かれる、(ここに)吉凶が生ずる。
JRF 2009年2月27日 (金)
群が分かれたことで吉凶が出たように見えるのは、概念を共有する同類を集めてそこで比べてしまうから。類が集まっているはずなのに、持っている物が違ってどうも吉凶があったとわかる。……いや、そうじゃない。吉凶はこんなに相対的なものと思えない。
JRF 2009年2月27日 (金)
物的に群が分かれていったとき、吉凶はすでに生じて決まっている。それは創世記でアブラハムとロトが分かれたときにすでに神意があって、神の計画のうちに物的にわかれることになったというようなもの。
JRF 2009年2月27日 (金)
法のあるところに人が敢えて集まるとき吉凶の不分明を感じてあって、それが明らかにされねばならぬのではという疑いをしたたませている。敢えてバベルの塔が造れるか試すようなもの。
JRF 2009年2月27日 (金)
内匠頭が「殿中」で粗相したとき外国との「大礼」をひかえていて、「大礼ノ場ヲ乱ルの罪」で切腹を賜った。(最近も大礼の場で粗相して辞めた大臣があったが。)大礼が名を重んじてだから、内匠頭の名誉と「比較して」という話にはしてはいけない気がする。それはなぜだ?
JRF 2009年2月27日 (金)
礼とはまさに、そういうことが起きかねない場を敢えてつくっている側面がある。あれっ?どこかで読んだような気が…忠臣蔵に関して…私のものでなく…。
JRF 2009年2月27日 (金)
大礼の場で失することは、実は今も下々の経済にひびいて間接的に人をコロス。見えるところで高い地位のものが切られたほうが傷が浅い。だが切られるものに連なる者もあり…。どちらをとるかが「価値」が高いとするか。礼の「価値」などというものは測りうるのだろうか。
JRF 2009年2月27日 (金)
儀式で生け贄[にえ]を出しうるというのは、生け贄を出すのと同じ重みがある。生け贄の替わりを用意しておくのとは違う。(当然創世記でアブラハムがイサクをというのを思い浮かべて。)
JRF 2009年2月27日 (金)
礼を失して叱責をうける。何が死んだか。信用が死んだ。それが復活するか転生させる。そうさせたいと願う自分を見出すことで、それが自分にも願われることに確信が持てるようになるのを喜びとする。
JRF 2009年2月27日 (金)
そういった動機付けの機能がなくなっていって社会が成り立つのだろうか。それとも代替物が見出されていってるから、なくなっていってるんだろうか。
JRF 2009年2月27日 (金)
バックアップしないとなぁ…。
JRF 2009年2月27日 (金)
sein(ある) から sollen(すべき) は出ないというが、hoffen(望む) や wollen(しよう) があるなら、sollen は出る。「凹」があるのを見て、「凹」は「凸」を望んでいると私が見出せば、私は「凹」が「凸」のある方向に行くべきだと言える。
JRF 2009年2月26日 (木)
要するに人以外のものに意志は見出せないという教義にこれは繋るもので、つまり、生物は造れないと暗にいいたいわけだ。これを現代の生物学者(らしき人)が認めるのが驚きで、研究倫理として勉強させられてるのかなぁ。
JRF 2009年2月26日 (木)
……。
JRF 2009年2月26日 (木)
山本七平『現人神の創作者たち』を読む。たまたま易経「節」の辞にある「苦節貞凶」を読む。またたまたま外資の商売の不当を感じる。
JRF 2009年2月26日 (木)
ある外資の商法で、あくどいとまでは言えないけど、それは違うだろうと思うのがあった。あそこがそんなことはないと思うが「不景気」で苦しいとしても、そんなときこそまずは型く客の利便を守るのが、商売の仁義だろう。
JRF 2009年2月26日 (木)
…と思っているところに「苦節貞凶(苦しい時節に、貞[ただ]しいことをとり保とうとするのは天意にかなわない凶だ。)」を読む。でも、多少動揺を見せねば伝わらぬことがあっても、スジだけは通せと言うべきだ。そう思い募[つの]る。
JRF 2009年2月26日 (木)
先の山本氏の本に書かれた「攘夷」に思い致る。「外資だからこんなことをやる」という思いが私にないか?そして「だからしかたがない」と考えていないか?
JRF 2009年2月26日 (木)
その商売はパソコンに関するもので、ふと、携帯電話がパソコンに「進化」すればいいのではないかとも考えてしまったのだが、なぜそれなら信用できるとするのか。
JRF 2009年2月26日 (木)
それは実際にない理想上の「中央」に私が属し、根拠もないのに「攘夷」すれば「中央」は理想に近づきうる、そういう思想があるのではないか。「中央」は私の感に応じていくはずなのに、そうならないのは「夷」(外のもの)が脅[おびや]かしているからだ、と。
JRF 2009年2月26日 (木)
パソコンに関する不満もあるはずなのに、「世論」は携帯電話の安全性を攻撃する。あれは攻撃しているように見えて、実は携帯電話は「内」「中央」に連なるもので理想に近づけることができる、夷狄のパソコンはそうじゃないでしょ、というのを暗にすりこんでいるのではないか。穿[うが]ち過ぎ?
JRF 2009年2月26日 (木)
さらに陰謀論的にすすめれば、先の外資の商法は、外資の中の「中央」人がわざと反感をもつようにしむけているのではないか。少し陰謀論から離せば、外資ということで人が期待せず客も同業者もそれを改善するようしむけないことがあるのではないか。
JRF 2009年2月26日 (木)
苦節貞凶は上六の爻辞。上外にあって質[ただ」してもらえない、だから敢えて貞[さだ]まらないことを見せる。そういうことだろうか。
JRF 2009年2月26日 (木)
先の山本氏の本は、忠臣蔵の話で結ぶ。四十七士(or 四十六士)の「義」をどう説明するか。
JRF 2009年2月26日 (木)
私は《知り合いの道を語り解く》で、>義は戦[いく]さを基とする。死に連ならねばならぬとき、自らとともに亡びないもの、すなわち、義が恨みなく希望を継げる。そのためには自身にとって利[よろ]しいというだけのものを超えなければならない。<と書いた。
JRF 2009年2月26日 (木)
これは《無コピーの占有デジタルコピーの譲渡の自由》の>難あって集団を守らねばならないとするとき、その習性にかけて自らを集団の中に埋葬し、希望をそこでつなぐことが求められる。その習性と健やかな関係を保ちたいと人は願う。そこに人の責務が成る。<から来ている。
JRF 2009年2月26日 (木)
私にとっての「義」は、儒に典拠を求めない。先に述べたようなものなら「義」となりうる。浅野 内匠頭[たくみのかみ]が敢えて死を賭したとき、そこには言われぬ「義」があったはずだと、私は、四十七士は信じて良いとする。そう「苦節」に敢えて「貞」ならぬようにしたのだ。
JRF 2009年2月26日 (木)
じゃあ、いじめられて貞ならぬように相手殺しました…で良いのかというともちろんそうではない。私はここに偶然、しかも、8月29日から31日までのコメントに書いた洪水などに対して「きずいて」いた上での偶然として、貞ならぬ人為として現れることを条件としたい。
JRF 2009年2月26日 (木)
先日、もごもごと述べた「必然による偶然」つまり社会操作として下々に現れた貞ならぬもの、それが組識を創っていく(その中に法を造るというプロセスもある)とできないか、と考えている。
JRF 2009年2月26日 (木)
だが、「偶然」というだけでは戦前日本のような、《無コピーの占有デジタルコピーの譲渡の自由》の関連リンクで示したような、陥穴があるように思う。
JRF 2009年2月26日 (木)
まだ何かが足りない。
JRF 2009年2月26日 (木)
読書だけで一日が終るのがもったいない、何か残ることをせねば、とか思う。欲が出てきた。だが、他のこととなるとかなり気合いを入れないと形にならない。ただ、それはきっと読書も同じことだろう。ふんばりどころか。
JRF 2009年2月25日 (水)
バーンスタイン&ツィマーマン『ブラームス:ピアノ協奏曲第2番』。荘重華麗。クラシック入門として買って今でも好きな一枚。最近、既存のオーディオの組み合わせを変えることで、かつて聴いていたのに近い音が鳴ることを発見し、昔買ったCDをよく聴いている。
JRF 2009年2月25日 (水)
組識を作るというとき、共同幻想とか共同主観とかいう。それは結局、誤解のような偶然とか妙契とかがあり、奇跡があれば知りたいという愛が生じるからではないか。細胞にそのモデルを見てる?必然による偶然を見分けることこそ知識で、必然が忘我を生むところに愛を繋ぐ…。不明。
JRF 2009年2月24日 (火)
関係がないとはいえないトラックバックスパムの対処に惱む。ネットを通じて金もうけをしたいというのは応援したい。一方、あそこでは私に益があるようには望まない。ニフティを通すぐらいはするのが商売の仁義のような気がするが、そこをシステムとしてどう実現していくのか。
JRF 2009年2月24日 (火)
最近頭に吹出物がよくできる。
JRF 2009年2月24日 (火)
ううむ。腹の調子がよくない。反芻してしまう。極端に油ものに弱くなってる私。
JRF 2009年2月21日 (土)
やはりアクセス数のない私のサイトでトラックバックを一つもしないで読んでもらうことを期待するのは狂気に近いか。それに今回の記事はGoogleにひっかかりにくいだろうし、まぁ、さみしいが、もう最初からそうだろうという「諦め」もあった。次書く機会には、時流に乗せた記事も交ぜようか…。
JRF 2009年2月21日 (土)
《ヤコブの一神教》で使っている言葉を《イメージによる進化》で作った言葉にあわせようかと思ったが思いとどまった。「自然淘汰」を「適者選択」にしなかったのはまぁいいとして、「突然変異」は「遺伝子変異」にしないとダメかと迷った。
JRF 2009年2月20日 (金)
「自然変異」を主張する私にとって、「突然変異」が当初考えられていたほど「突然」ではなく、かといってそこを「自然」と書くのも誤解をうむ。「自然変異」の一タイプとしての「遺伝子変異」なら、普通に通じるようにできるか、と考えた。
JRF 2009年2月20日 (金)
が、まぁ、そこの言葉はそれほど精確である必要はなく、ググって来るような読者には今のままの言葉のほうがわかりやすいかと思って、そのままにすることにした。
JRF 2009年2月20日 (金)
いくらニートが消費だけをやってると言っても、そういう立場ではなかなか子供はつくれない。子供つくって家を構えてという人々の出費にはかなわない。
JRF 2009年2月20日 (金)
嫉妬をさせてやる気にさせる。そのために強さを文[かざ]るという行き方もあるのかも。私はむしろ埋没し合うことで社会不安を鎮めるという幻想に加担しがち。そのほうがラクだからか、ラクな自分になったのか。
JRF 2009年2月20日 (金)
「資格給」と述べたのは短絡的だった。与えられた仕事の外で、上司を含めた他の者から認められるための何かをする。作品をつくるとかいうのもそうだろう。これは例えば残業税とかをとるなら当然「仕事」に含めるべきだが、先のイリイチの「失業」を利用してのことにあたる。
JRF 2009年2月19日 (木)
もちろん、ニートだと定義から離れそうだが、普通に無職だけれど資格のために勉強しているという者はある。でも、職に就きながら経営者の理解の下、資格をとるように勉強している者もある。
JRF 2009年2月19日 (木)
私は病気で入院して、そこの人と身の上話をするまで知らなかったのだが、専門学校やそれに近い大学では、雑多(失礼!)な資格をとることを奨励され、それが単位の要件になってたりもするそうだ。「資格給」の話というのは、「一流大学」を出た人の頭にはない、そういうシステムなのかもしれない。
JRF 2009年2月19日 (木)
私は資格をとるのに失敗したことなどから、そこにコンプレックスがあり、ついその方向を重視してしまう。しかし、レベル高かったなぁ、あれだけのレベルの高い人がどこにいたんだろうとか思ったよ。
JRF 2009年2月19日 (木)
まぁ、私も貧乏ゆすりをせずに座れないというどうも神経的な症状が残っていたから、実力が落ちていた可能性がゼロではないけど。
JRF 2009年2月19日 (木)
人口構成からみて、受験者にも山があったはずで、それにつれて合格者が変わってないとすれば驚異的というより「脅威」的だが、
JRF 2009年2月19日 (木)
この先、不況で働こうとする者が増えたために「失業」し、資格をとろうとする者が増えるかもしれないのに、人口減などを理由として合格者数を減らすとすれば、それはちょっとヒドいんじゃないか。
JRF 2009年2月19日 (木)
もちろん、変に合格者数を増やしてモチベーションに傷がついたり長期的におかしなことになったりというのはあるかもしれない。ブームで特定の資格の受験者が増えているだけなら、対応の必要はないだろう。
JRF 2009年2月19日 (木)
でも、資格をとることの失敗者としては、しばらくは合格者数を減らさないよう推すなぁ。
JRF 2009年2月19日 (木)
「便利すぎる観方」とは、違うな。よくわかってないだけだ。モデルを通した観方を洗練するという方向で私はいかないと。…そういきたい。が、まだしばらくは読書だ。
JRF 2009年2月19日 (木)
《魂の座》の説2「霊的肉体モデル」に注目して欲しいと2008年12月04日に書いた。まさか「神」がわざわざ自分にそんなことをしてくれるはずがない、というのも思い込みの一種である。でも、この説が「稚拙」と私も思ったのは人の親でないからだろう。
JRF 2009年2月17日 (火)
人は親になるとき「こんなことまで」をやってくれたことを知るだろうから。先の説も自然な形而上学の一つになる。
JRF 2009年2月17日 (火)
ニートの「言い訳」として労働市場に参入しないことによって他者の賃金上昇に貢献している、というパターンがある。これは実際には、こういう機序で他者の賃金が上がることはない。
JRF 2009年2月16日 (月)
上がるのはむしろ、安い賃金で雇われた人がいることで、「正社員」等に社内失業を発生させることができ、その失業を利用して正社員が資格などをとって資格給が発生するという機序による。
JRF 2009年2月16日 (月)
先のイリイチの本にも、現代の失業は社内で発生したものだという示唆があった。
JRF 2009年2月16日 (月)
ただ、その機序は非正規雇用という形態では想像しにくい。ハケンが派遣先がなくなったとき「社内失業」という形で何らかの昇給につながる活動を支援するというのは、かなり難しいだろう。ある程度先のニートの論理を取り入れる方策も考えるべきではないだろうか?具体案はまだないが…。
JRF 2009年2月16日 (月)
昨日は、頭の奥が緊張しているというかぼうっとした圧迫感のようなものがあった。ずっと以前薬をやめようとしていたとき副作用としてメニエル氏病のような症状があったのだが、それをかなり軽くしためまいのようなものがあった。寝てるよりも起きてるほうがラクだった。今はほとんど治っている。
JRF 2009年2月16日 (月)
もちろん下のものと別の方法をとることになってよいし、別の方法をとる場合のほうが多いと思う。言い訳は後から考えればいいけど、「何人かに当」るというのは、大人に通じる言い訳をいっしょに考えてもらう側面もある。
JRF 2009年2月14日 (土)
……。
JRF 2009年2月14日 (土)
「春一番。」 耳す「道路に 狸逝きぬ。」
JRF 2009年2月14日 (土)
I. イリイチ『シャドウ・ワーク』を読む。今の自分の在り方に参考になるものを求めて。それは内容としては書かれてなかったが、著者の態度には読みとれた。「ともに歓[よろこ]ぶ」というキーワードがたまたま私の書いてるものと重なった。むしろ《錬金術》の発展に関する書としておもしろかった。
JRF 2009年2月14日 (土)
いくらなんでも、ほんとの、寄せ集め。お手軽だ。記事を書くのにアバウトミーのひとこととセルフGoogleが役に立ってる。
JRF 2009年2月13日 (金)
この時期に、というのもあるし、私のような人間が、というのもあるけど、留年・浪人したりしてもいいんだよ。危機に対してそういう方法もある。私の時代は二留・二浪までは就職に関係ないと言われた。強く願ってちゃんと何人かに当たれば留年を認めてもらえることもできるはず(これは後から知った)。
JRF 2009年2月13日 (金)
久々にお腹がいたいな。あぶらっこいものを食べすぎたからかな。
JRF 2009年2月12日 (木)
注文まとめたりするんじゃなかった。どれかの入荷予定が延びたのか、発送予定が3月になっている。いやなパターン。まとめたものの組み戻しが簡単にできたらいいのに。はぁ。
JRF 2009年2月12日 (木)
昨日、とりあえず(私にしては)大きな記事を書き上げた。あとは手直しするだけ。もう一本寄せ集めの記事を用意する予定。それも書き終えて投稿するまでに、今日買ってきた関連書一冊を読み終えられるか。
JRF 2009年2月12日 (木)
本を読むより、PCを触るほうが、お腹の痛みがラク。神経的なものか、姿勢の問題か。
JRF 2009年2月12日 (木)
IE6 で UTF-8 のときフォントがおかしい問題の弥縫策[びほうさく]がわかった。lang='ja' の指定を html の body または html 要素でやればいい。<body lang='ja'> または <html lang='ja'> などと指定する。
JRF 2009年2月11日 (水)
コンピュータ相手に囲碁を習おうとしている。とてもゆっくりとしたペース。やっと最もレベルを低くしたとき九路盤では勝てる場合も出てきた。…といっても、一子を犠牲にすればコンピュータがそれにかかずらうという性質を使って勝ってるだけだけど。でも、一歩前進した感はある。
JRF 2009年2月10日 (火)
久々に自分のブログを IE6 で見るとフォントがおかしい。MS PMincho が変。情報の「情」の字の「青」が「睛」の右のようになってる。中国語?。幅も変になってる。他のPCのIE7だとまとも。でも、他のPCのIE6だと今度はスタイルがうまくいってない。orz
JRF 2009年2月10日 (火)
よくないことを無意識に望んでいるのではないかという疑いをしたたませるようになったときどうすればいいのだろう。抑圧せず、ズラして望みを実現する…非現実的信仰を持つ、とか、そういう信仰に向かって確かな「努力」して疲れるようにすればいいのだろうか。
JRF 2009年2月 9日 (月)
でも努力したんだから、それが報われなきゃおかしいという思いも募[つの]るかもしれない。「よくないこと」が副作用として起きうる非現実的「よきこと」を選択して努力し、やがて、「よきこと」の報われなさにだけ目が向いて、副作用がどうでもよくなるというのがいいとか?
JRF 2009年2月 9日 (月)
副作用を意識的に望んでいたなら、それでいいのだろうが…。象徴とか物語を使ってまず意識化するところからはじめるべきなのか…?
JRF 2009年2月 9日 (月)
実際には泡沫ネットユーザーが無意識を持ったぐらいでは影響がないはず、というところから出発すれば、むしろ、それを望んでしまうと考えてしまった自分のコンプレックスの問題なのだろうと、枠にはめていくべきか。
JRF 2009年2月 9日 (月)
ネットへの抑圧が危機を生んでいるのだとして、あくまで自由を求め、ドン・キホーテばりに戦おうとする。とりあえず、そのスタンスをとり続けるぐらいしか、実際にできることはないかな。
JRF 2009年2月 9日 (月)
難典を 開いて黙して ヤナーチェク。 弦に響いて カラスがカカァー。
JRF 2009年2月 6日 (金)
書こうとしているものが書き進まないので、読書のほうも止まっている。もう少し「長期戦」をにらんだほうがいいのかな。(嘆息)
JRF 2009年2月 5日 (木)
「集[あつま]る」を「あつまらせる」の形にしても「あつませる」の形には決してしない。が、「一個のアメーバが体をあつませる」ならギリギリありえるのではないか。
JRF 2009年2月 4日 (水)
スメタナ四重奏団『ヤナーチェク:弦楽四重奏曲第1番・第2番』ライブ録音の新盤。おもしろい。なんだこれは、歌舞伎の伴奏と錯覚しちゃいそうになる。シェーンベルク?いや、まったく違う。演奏によればシェーンベルクも…とは思えない。次はプッチーニを聴くかフォーレを聴くか…。
JRF 2009年2月 4日 (水)
「したためらせる」が文法的におかしいのはわかったが、正しいはずの「したためさせる」には私は違和感がある。私の中では「したたませる」が合うようにおぼえる。「したたませる」をどう文法的に説明するか。
JRF 2009年2月 3日 (火)
「したためる」のもとの「したたむ」が文語他動詞下二段活用であるが、「したたませる」を成立させるには「したたむ」が自動詞四段活用にできねばならない。
JRF 2009年2月 3日 (火)
似ているのは「あらためる」。これの自動詞に「あらたまる」がある。では、「あらたませる」というかというとまずはおかしいと感じる。「元号があらたまる」が「某[なにがし]が元号をあらたませる」とは言わない。
JRF 2009年2月 3日 (火)
しかし、「婿があらたまった態度で」というとき「婿の態度があらたまる」となるが、これを使役形にして「老父の存在は婿の態度をあらたませる」というのはありそうだ。ただし、これの正しい形は「婿の態度をあらたまらせる」になるはず。が、「ら」が入っていると微妙に意味が違う、と私は感じる。
JRF 2009年2月 3日 (火)
「ら」があるほうは老父が意志をもってそうさせ、ないほうは無意識的な圧力でそうなったようなニュアンスの差を感じる。この辺は「ら抜き言葉」=「れ足し言葉」を受け容れた私だから感じるのか?
JRF 2009年2月 3日 (火)
それをふまえて「元号をあらたませる」はどうか。元号を疑人化して「元号様をあらたませる」だとありそうに思える。どうも使役の対象への自己投影の可能性が、この表現ができるかどうかの違いを生んでいるように思う。
JRF 2009年2月 3日 (火)
私は「X をしたたませる」は X の擬人化を重要な契機とする使役表現としてありえると主張して、それを使うことにしよう。
JRF 2009年2月 3日 (火)
「あらためさせる」と「あらたまらせる」の違いは、さらに後者のほうが、相手の意志の部分にまで踏み込んでかえさせたというニュアンスがあると感じる。
JRF 2009年2月 3日 (火)
あれ?でもそれは「あらたま」を「荒ら魂」と読んでしまっている自分がいるからか?
JRF 2009年2月 3日 (火)
これはゲシュタルトじゃないが、何が崩壊してるんだろう?
JRF 2009年2月 3日 (火)
「疑い」として生じたものが「信仰」のようなものにやがてなり、でも「疑い」はそれほど疑いと意識されてなくて…といったことがいいたくて、表現を考えてる。「疑い」がまだ結晶が生じる前の核とかクラスターといった感じにしたい。「疑いの種が生じる」と最初して、
JRF 2009年2月 2日 (月)
「疑いをしたためる」とすればどうかと今は考えてる。でも、文脈では「疑いをしたためらせる」の形にすべきなのだが、「したためる」がこなれてないから、どうもしっくりこない。「疑いをしたためるようにさせる」だと長いし…。
JRF 2009年2月 2日 (月)
まいどのことながら読めない字を書くなよ >> オレ。うーん、そのときは読めてるんだけどなぁ。
JRF 2009年2月 2日 (月)
おお、なんとか思い出したぞ。「大家」に似た字だけど、そんなの書いた覚えがないぞ、と思っていたら、「交易」だった。
JRF 2009年2月 2日 (月)
ゲシュタルト再生!…そんな言葉はない。でもググると使っている人がほんの少しだけいた。
JRF 2009年2月 2日 (月)