aboutme:97534
おいしい。やっぱり私はミルクプリンが好きだな。
JRF 2009年3月30日 (月)
おいしい。やっぱり私はミルクプリンが好きだな。
JRF 2009年3月30日 (月)
あっちゃー、問い合わせをするの、もう一日待てば良かった。今日には問題が解決されていた。手間をとらせた上に厚遇してもらった。来月は少し高いものでも買うか…。
JRF 2009年3月27日 (金)
PC経由での音楽を聴くために静音パソコンが欲しいが、そうすると時間がさらにくわれるようになりそう…。
JRF 2009年3月27日 (金)
もちろん、パソコンは「少し」高いものどころではない。辞書とか高くて手を出してない本を買おうか、何枚か組の CD を買うか、といったところ。給付金の額ぐらいの予算までで。
JRF 2009年3月27日 (金)
気温はそれほど低くないはずだけど、手が冷たい。
JRF 2009年3月27日 (金)
急ぐわけでもないけど、でも、問題がある以上はそれを客の側から告げたほうが良いと思う。一方で、「問題があれば下請の取引が停止されるんだよ」という噂で問題を上げなくさせるやり方は、どこまでどの側の策略なのかわからないけど、この社会にはあるから、どう行動すべきか迷いもする。
JRF 2009年3月26日 (木)
「散文詩:救いの無力さ」というタイトルだけを見て「無力でも救いはあるんだ」と思ってくれるよう期待はできないか、さすがに。少し相対化されるように「散文詩」を前に付けたけど、もっとポジティブな一文にすべきか…。でも、プロの宗教家でもない私の責任ではレトリックの限界があるし…。
JRF 2009年3月23日 (月)
逆に「救いがあるから、つっこんでいいんだ」と思わせないというのも大事な方向だし。
JRF 2009年3月23日 (月)
思ったよりも Google Ads って表示されるんだなぁ。効果が出ることへの自意識の呵責が苦しいが一ヶ月は様子を見よう。
JRF 2009年3月23日 (月)
資本の規制は問題が多いけど、経済犯の引渡条約という形で間接的に「攘夷」的主張を納得させることはできないだろうか。投資先の国でその国内で本社的実体支配のある支社責任者がいれば、本社責任者の引渡の必要はないとする。逆に言えばそうでない支配は罰を外に遡及させるよ、というもの。…どうか?
JRF 2009年3月23日 (月)
政府紙幣の問題は、予算制約が事実上なくなるので政商への期待が昂まり「政治腐敗」がおこらざるを得なくなることにあるのだと思う。長期的に行えば歯止めがない、もしくはおかしなことで歯止めをかけてる状態になるし、短期で終らせることを認めれば選挙対策として使われる日が来るだろう。
JRF 2009年3月23日 (月)
「使われる日が来る」って、もうそうなってるという話もあるんだけど…。
JRF 2009年3月23日 (月)
交差点を渡ったとき、子供に「信号無視」と指摘された。渡り始めたときは親の影に隠れていて、気づいて「しまった」と思った。…子供がいたから「しまった」でいいのか?欺瞞を受け容れることを大人となることとする世界でいいのか?むしろ義しさにおいて子供にさえ「負け」たと私はせねばならない。
JRF 2009年3月21日 (土)
『スピードレーサー』を観る。イカれてるなぁ(ほめ言葉)。お菓子がでてきてハレルヤとか馬鹿じゃないか(爆笑)。しかし、この歪んだ社会理解を2時間でキッチリ見せられて「楽しめるから大人だ」とか言われたらヘコむな(嘆息)。
JRF 2009年3月20日 (金)
>余程の馬鹿が悪魔に魅入られてやる奇特なドブ浚いだ<。ドブ浚い…まではいかないけど道なかの粗相をいくつか脇にやるようなことを私はやらねばならない、私に残されたのはそういうことだ、と想うことがある。それを「悪魔に魅入られ」たからだという疑いを脇において社会に必要と信じて続ける…。
JRF 2009年3月20日 (金)
「社会に必要」というのが本当なら、それはちゃんと金が払われてなされているはずで、そうでないなら思い込みに過ぎないのは一理…というよりかなり確かではある。スピードレーサーみたいに悪者がジャマしてるというわけではないんだし。
JRF 2009年3月20日 (金)
ワルター指揮『マーラー:交響曲 第二番 「復活」』。1957年放送用ライブ録音の2007年発売。一枚で収まってるのも私は高評価。先日書いたオーディオを選ぶCDだけど、昔買った他のマーラーのCDが今の環境だとぜんぜん違って聴こえてゲンナリするけど、環境を選べばこのCDは良いです。
JRF 2009年3月20日 (金)
実は「夢のお告げ」で買った。なぜか初夢(?)でワルターがマーラーの交響曲に関しオルガンがどうとか言ってるという夢を見て、その後ググったところこのCDの紹介があった。「復活」が一枚になったCDが欲しかったし、たまにはこういう選び方もいいだろうと思って。
JRF 2009年3月20日 (金)
くしゃみとかが出るようになって、昨日の胸のもやもやはほとんど消えた。
JRF 2009年3月20日 (金)
いましめとして土の剣が置かれ、石の剣(せっけん)の泡から生命が生まれ、肉の剣から失われた骨よりエバを創った。そんなヴィジョンも想ったような…。
JRF 2009年3月19日 (木)
ググった者に見せるだけというでもない。ブログに埋もれさせてもならない。本人が責を負って祈りを「唱える」ようであればよい。無作為にまばらに印象に残るようにしたい。
JRF 2009年3月19日 (木)
チェーンメール?もちろん、そのデメリットを述べた上で、こう、私の「祈り」を受けた上でその人の「祈り」を書きたして、10個たまれば最初のものは消すと言った感じで…。そんなに頻度が高くならないよう一週間の間と区切って、一年に一回ぐらいのイベントとして…。
JRF 2009年3月19日 (木)
クリスマスとかバレンタインデーみたいな慣習にできないか…。…しかし、私から始めるのは新興宗教の勧誘みたいで嫌われるか。
JRF 2009年3月19日 (木)
「新興宗教の勧誘みたい」と言えば、Google Ads でそういうのがあったな。そういったところに置きというか「起き」はじめるのが今の流儀か?…。
JRF 2009年3月19日 (木)
ブログの記事のランダム表示って Javascript 使わないと無理そうだな…。そういや、最初のころもブログシステムだけでやろうとして SSI で演算ができないところで断念したんだよなぁ。
JRF 2009年3月19日 (木)
どうも胸のあたりで咳になりそうなもやもやがあるのに咳が出なくて気持ち悪い。昨日あたりから。熱などないし風邪ではないと思うけど…。
JRF 2009年3月19日 (木)
書いていることは危ういはずだが何も反応がないので不安になる。反応が期待できる公開の仕方ではない。さらに期待できないのは私がネットに友人をつくる努力を怠っているから、というよりは、関わりを避けるあり方を選択しているから、当然である。
JRF 2009年3月18日 (水)
確かに私が選んだことなので、この不安と折り合わねばならないのだけれども、何かの行動で補償もしたくない。
JRF 2009年3月18日 (水)
ネットを介し一人学ぶ在り方に賭けて動けない。もっと多くの他者がそうあり、生活ができるまで自律分散してネットに社会を求めていく修道がなされると、もくろんでいた。
JRF 2009年3月18日 (水)
人生の投入はそれほど急でなく、それを期待したのは間違っていたでよいが、自分でも思い付くような IT システムが実現されていないことに、実現されない正当な理由があったとしても私にそれが伝わらないので、もどかしさを感じる。
JRF 2009年3月18日 (水)
戦いに備えることを個性とすることに人を追いやってはならないが、人の男女の差はかつてそれがあった記念となっている。だが、それを大きくできなかったのではなくしなかった。そういう集団としての選択をしていたのだというところに性愛の神秘を置くことはできないだろうか。
JRF 2009年3月18日 (水)
オーディオが機器の組み合わせで音が変わるのは、まぁ、当然なのだろうが、それが極端にわかる CD がある。相性が最悪なものがあるということだろう。特にオーケストラ系でそういうものが多いのが悲しい。
JRF 2009年3月18日 (水)
宗教において霊肉二元論的な見方を完全に否定するのは難しく、霊を持ち出すと、霊がなぜ人という肉なって生まれる必要があるのかという問題が出てくる。一つの答えは「苦しむため」、罰を受けるためと答える方向がある。《仏教への教義:四諦の独自解釈》はその方向を発展させたもの。
JRF 2009年3月17日 (火)
別の一つの答えは、発展形というか逆転形に、「許しのため」、霊ならば永遠の罰に相当するはずのものを新たにされうる体によって一時的なものとしたとするもの。《『創世記』ひろい読み ― 知識の実》の中に書いている。
JRF 2009年3月17日 (火)
これらには人の生に常に(しばしば悦びがあっても)苦しみを見出す考え方がある。
JRF 2009年3月17日 (火)
もちろん、人が苦しんでいるのは、この教義に表れるような「根元的苦しみ」ではなく、もっと現実的なものだが、それを根元的なものに結び付けることで、そこから抜け出る方法に希望を持たせながら、いつも苦があることに納得を見出せるようにする。
JRF 2009年3月17日 (火)
《四諦の独自解釈》の浅薄なところを挙げれば、苦しみから抜け出る方法がわりと具体的で、「現実的利益」が現れうるため逆に利益のない人との落差をつくってしまうということがあるかもしれない。
JRF 2009年3月17日 (火)
《知識の実》のほうは、苦しみを「パン」すなわち労働に結びつけていく。飢餓を知る人々は、経済と分配が苦しみの本当の「根元」を解決するのだという認識があるのかもしれない。
JRF 2009年3月17日 (火)
穀物酒は、実体はどうであったかわからないが、これは穀物(すなわちパン)の余剰を醸造したものと考えることができる。穀物が労働につながるなら酒も労働につながる。「根元的苦しみ」を酒で解決するのだ、というのは東洋の「アニミズム」の側面もあったのかもしれない。
JRF 2009年3月17日 (火)
おっと、結論があんまりモラルな話じゃなくなっちゃった。(^^)
JRF 2009年3月17日 (火)
ネット通販。ありがたいんだけど、不思議な配送のされ方をしてる。配送をまとめるほうが手間がかかるのかなぁ。そのあたり IT 的に解決できそうなのに。滞りがあったとき、メールでフォームに誘導して客にどのオプションがいいか選択してもらったりとか。
JRF 2009年3月17日 (火)
奇蹟が起きたように、予言が適合したように見える。…それは実際には「ない」のだから、そう見えたのは「私」に所属する、はずである。だから逆に「私」はあるのだとできるかというと、別に「我々」でもよく、その「迷妄」の位置を「私」に定められない。
JRF 2009年3月16日 (月)
《知り合いの道を語り解く》で、「厳父のモデル」の一つとして「苦は物的な支えによってわかちあうべきだが、楽は恵みが在りえたという知識を共に喜ぶべきだ。」と書いた。しかし、苦しみにこそ知識をわかちあうことを必要としている。人は自分だけの苦しみだと考えがちだからである。…本当か?
JRF 2009年3月16日 (月)
よくある苦しみがあって、それでも例えば家族のためにそれを見せない。2008年09月11日から15日あたりのコメントで盗聴後の人道的介入を考えた。もしかすれば、そこに社会的発展の余地はあるかもしれないが、結局、それを知って何もできないことに悩むのがせいぜいのところではないのか。
JRF 2009年3月16日 (月)
このツールだと、アニメーションが自動的に補完されるので絵が安定した個人作成のほうが有利なんですよぉ…と説明される夢を見た。なんで私にそんな説明が!(^^)
JRF 2009年3月16日 (月)
先に「民主的神道の実験」と書いた。宗教「が」実験するとなるとオドロオドロしい想像をしてしまうが、宗教を興したり神学を発展させたりといったことが一つの社会実験であるという見方が私にはある。
JRF 2009年3月14日 (土)
言葉として「実験」と言うことは一般には適切でなかったかもしれないが、2008年11月06日に書いたように易を今の科学に通ずることを受け容れている私にはそのようなことに「実験」という言葉を充てるのも適当だ。
JRF 2009年3月14日 (土)
そして、そのようなことは天与のものとして受動的に行われるよりも実験をするという意識に似た主体性を持ってなされるべきだという思いもある。
JRF 2009年3月14日 (土)
人工的なものを接いではじまった制度になんとか芽を吹かせ、それを「めでたい」「ありがたい」と少しのわだかまりを残しても受け容れていっしょに生きていく。それが我という人の業だと思う。…かつてそうあったものに私はどう接しているだろうか…。
JRF 2009年3月14日 (土)
消えていって土にしかならない。土からはゆかりもないものが生える。私はいます。私はどこから生じたかまで覚えてはいません。いつが消えるときなのか知りはしません。
JRF 2009年3月14日 (土)
《イメージによる進化》において「適者選択」は適者が選択するのかされるのか、それは極[きわ]めがたい。凹があったから凸が選ばれたのか凸があったから凹が選ばれたのか、凹が進むべきか凸が進むべきか。進ませた威圧は何なのか。
JRF 2009年3月14日 (土)
「ありがたい」が人を苛立たせうるのは、sollen(すべき)が満たされないからというよりも、相互性が破られるということを経由しているように思う。それを有り難いとまで言われると対価を払えば要求できるという構造が崩れるように見えるのが、認め難い焦燥感を募らせる…そのように私は観た。
JRF 2009年3月14日 (土)
「認め難い焦燥感」というのは、それを焦りと認めて、焦るままに求めては「インフレ」を呼んで、本当に対価を払って要求できるようなものでなくなるから、焦っているのとは違う感覚と思い込もうとするがゆえの感情。そういうものがあったように私は思う。
JRF 2009年3月14日 (土)
対価として求めるような原理に乗せるというのがおかしいんだという主張が、格差を容認している自分を曝[さら]け出させて、情けない気持ちにさせるというのもないかな…。
JRF 2009年3月14日 (土)
今日は風が強くて私は片目をつむりながら歩いていた。
JRF 2009年3月14日 (土)
昨日街に出て風邪か何かもらってきたようだ。ぼーっとして頭が少しこわばる。あと昨夜は外で食べた油ものなどの累積で腹痛をくらっていた。田舎に閉じ込もっているほうが健康というのを現代に地で行くのもなかなか情けない。 なぁ >> 私。
JRF 2009年3月13日 (金)
ありがたい、ありがたい、でやり過ごす。卑賤であるというのは「まりあ†ほりっく」のかなこさんバリに受け容れてしまって、ありがたいとは実際思えるのだが、それが私の、または、周りの気を立たせるようにも思えて…。
JRF 2009年3月12日 (木)
今の自分、論文というかエッセイよりも小説を読むほうが、なんか気合いがいる…。功を焦っているというよりもエッセイを読むのに慣れてきたからだろう、今の私の場合、まぁ、そう考えよう。エッセイ脳が発達してきておるのですよ!
JRF 2009年3月10日 (火)
今必要な記事ではないが、最近読んだ本を契機として靖國神社について考えた。たぶん、ブログで記事として公開することはないと思うので、ここに書いておく。
JRF 2009年3月 9日 (月)
他の宗教について書くときと同じでよくわかっていないだけでなく、普段はわりと避けている批判的内容を含むので公開しずらいが、もしかすると、批判からインスピレーションを得る人もいるかもしれないので、私のコメントをたまたま読むような人に有用であるようほんの少し願いを込めて書いておく。
JRF 2009年3月 9日 (月)
靖国神社の軍神はたたり神か (01/08/13 作成)↑はじまり↑
JRF 2009年3月 9日 (月)
靖国神社が軍人をまつるのは、まつらなければ再び戦争をさせようと人々を先導するからだろうか?
JRF 2009年3月 9日 (月)
儒教の新しい中心のつもりで、あくまでも日本的な宗教観でしかまつれない。アジアと日本の誤解の象徴ということか?
JRF 2009年3月 9日 (月)
通常、日本の神社では氏神信仰やたたり神の鎮魂の信仰が行われ、まつられるものは、個人であったり、何らかの象徴であったりするが、靖国は、血縁でもない人間の特定の集団をまつるという点で、非常に特殊な施設であり、新興宗教といっても差し支えないほどの改革神道である。
JRF 2009年3月 9日 (月)
そこに墓があるわけではないのだから、様々な部分をもったある人間をまつるわけではなく、まつる人間の集団によって、まつる内容が変わることになる。
JRF 2009年3月 9日 (月)
人間をまつる場合は、その人間の一部が強調されることになるが、集団をまつる場合、集団の共通項が強調されるのではなく、集団の一部が強調されるようになってしまう可能性がある。
JRF 2009年3月 9日 (月)
国を戦争に導いたとされ、しかも戦死したわけでもない戦犯を殉死としてまつることは、上記のような非常に特殊な宗教観を生むことになるだろう。
JRF 2009年3月 9日 (月)
だからといって、一度、合祀したものはそう簡単に分祀などできまい。合祀をした宮司は、かつて受けた屈辱感という穢れを宗教感情と勘違いしていたのではないかと疑念がわく。血縁から離れた民主的神道の実験をこのような形にしてしまった宮司の責任は重い。
JRF 2009年3月 9日 (月)
分祀するならば、国が関与する形にならないよう、神社の側で物語をつくるか「奇跡」を起こさなければならない。
JRF 2009年3月 9日 (月)
↓おわり↓
JRF 2009年3月 9日 (月)
靖国神社を国営に戻すべきか (2009-03-09 作成) ↑はじまり↑
JRF 2009年3月 9日 (月)
ビル・エモット『アジア三国志』(p.344)>靖国神社を国営に戻す特別法を制定する。これは日本国憲法が定める政教分離の例外とする。そうなれば、遊就館は公共の博物館となるし、「昭和殉難者」の身分という問題も、神社の手を離れ、国民の議論や政策として取り扱われるようになる。<
JRF 2009年3月 9日 (月)
周辺国や他宗教を刺激しない形をとるとすると、あくまで、その土地と財産を対価を払って接収し、その施設を「有効活用」して、「新たな」戦没者慰霊施設とする、名前も特定の宗教としないため靖国「神社」という名は使わないようにする、といったところだろうか。
JRF 2009年3月 9日 (月)
神社でなくなることに反発があるかもしれないが、国営になることを喜ぶ人はいるかもしれない。しかし、国が宗教を「接収」するのは、かなり危ういことではないか。
JRF 2009年3月 9日 (月)
例えば、新しい宗教政党が興って第一党になったとき、敵対する宗教の本拠地を接収し、その後、民営化して自分のものとするといったことを許してしまうのではないか。それは混乱を導く。
JRF 2009年3月 9日 (月)
現在の比較的穏健な宗教政党が国営化を提案して実現し、今、非難を一身に受けてもらい、次をやりにくくする。…というのはどうだろう?どうしてその政党が提案をし、受け容れることができるのか、ドグマ構築が技術的に難しいだろう。結局その政党の宗教に特別な地位を与えることを求めかねない。
JRF 2009年3月 9日 (月)
または、「個人」に期待するのは酷ではあるが、天皇家の方の「私有」にしてしまう。その過程で正すべきところを正してもらう。…というのはどうだろう?これは政治が天皇家にしかできないことを認め、期待をするということで、象徴天皇制という政体を崩し将来の革命をしたたませることになりかねない。
JRF 2009年3月 9日 (月)
また、現在この問題に関心のあるある他国の政府にすれば、国が宗教に介入することは自然であるから、この方策もあり得るのかもしれないが、国民のレベルでは、この方法では日本の国家主義の復活への警戒を呼び起こさせ、警戒心を固定することになるだろう。
JRF 2009年3月 9日 (月)
代替案があるわけではないが、この方法もあまり良い方法とは思えない。
JRF 2009年3月 9日 (月)
今の段階でやっかいなほどのコメントもなくネットを疎ましがる必要はないし、ネットに私がどう思われることになっても私だけのことならかまわない。ただ、私が過度の期待を受けているということはもうないと思うが、薄い穏当な期待までも裏切っているとすれば申し訳ない。
JRF 2009年3月 9日 (月)
はっきりしない天気が続きますね。
JRF 2009年3月 9日 (月)
米国の在庫は日本の Amazon には何の関係もないのか…?
JRF 2009年3月 7日 (土)
知らないことを罪とする。知らなかったんだとしか言えないことはあるだろうけれども、本当にそうだったのか、知ろうという努力を怠っていたと考えたほうが、今後の自分(達)にとってよくないか、そして究極的には人は知るべきことは知り得ていてそうでなければ死ぬべきなだけなのではないか。
JRF 2009年3月 7日 (土)
最近の私は本を読んでばかりだ。それは知るべきことを知ろうとしているのではなく、知識欲を刺激することで気持ちよくなっているだけではないか。この方法で学べ占[し]めているだろうか。
JRF 2009年3月 7日 (土)
目標がいまひとつ定まってないので、私は迷っているのかもしれない。
JRF 2009年3月 7日 (土)
一罰百戒は、一罰を厳しくせなばならず、それが恣意的なら不公正だ。厳罰主義じゃなく全罰主義ということで、百罰百戒。それはちょっと理想的すぎるかな。百罰七十戒か百罰八十戒かが目標とすべきところではないか。全罰ということなら戒められる普通の人が増えるからあながち不可能ではないのでは?
JRF 2009年3月 5日 (木)
そこから省[かえ]りみれば、一罰百戒というのは、悔いるべきでない人まで戒[いまし]めて、悔いるべき人が百一とか百二とか外に出るという面もある。まぁ、でも、百罰80戒も、国の「目標」にまですれば官警に再犯をカウントしないよう圧力をかけることになるかもしれないけど。
JRF 2009年3月 5日 (木)
まったくなっとらん、ネット企業は、システムのほうばかり向いていて、融通がきかん。…って、いや、便宜をはかってもらおうと苦情を書いたら、「すでに規約に書いてるでしょ」パターンであしらわれてしまった(^^;。
JRF 2009年3月 5日 (木)
『石橋湛山 評論集』(岩波文庫)「綱紀粛正論者の認識不足、我が政治の良化をかえって妨げん」(昭和九年(1934年)三月三日号 東洋経済新報 社説)。>思い切って社会組織の根本から改め、一部の人々が唱える如きファッショの真似<って何だろう。案外、百罰百戒のことか?
JRF 2009年3月 5日 (木)
そもそもの「一罰百戒」は、>一人を罰して、多くの人の戒めとすること。<(広辞苑)というよりも、一個人の一つの罪を責め、もってその者が百の罪を犯さないよう自分を戒める、という意味といった感覚が私にはあるな。典拠はなんだろう?
JRF 2009年3月 5日 (木)
学者だけが批判してりゃあいいというのは、一理ぐらいはあるかな。いわゆる「プロ市民」も学者に含めれば、…その、あまり学ばずに意見を書く(私のような)ものは時間を無駄にして、自意識をふくらませてるだけで益がないから。金をもらう方法が権力に独占されてる時代でもないんだし。
JRF 2009年3月 4日 (水)
年金一元化がよくないことに理由付け…。まず、企業年金というものが、企業に退職者の生活費を意識させもってインフレを抑制させることにもある。公務員は国に借金させてでも年金を増やす傾向にあり、そこを抑えるには企業に属する者の不公平感を刺激する以外あまり方法がない。
JRF 2009年3月 4日 (水)
一元化すれば、まず国に借金をさせることが自由になり、それで補填されるからということで企業がインフレに気を配らなくなる。労働側から見たときのインフレ抑止が、一元化しない理由では?
JRF 2009年3月 4日 (水)
「方以類聚、物以群分、吉凶生矣」の先の解釈は人の社会を想定して書いたが、もとの意味はもっと即物的というか、なぜ、易の卦に吉凶が現れるかの「物理」を含むものだ。「天意」を「人格神」的に描きすぎたきらいもある。
JRF 2009年3月 3日 (火)
でも、じゃあ吉凶というのは、「天意」みたいなものを想定せず定義できるかというと難しい。例えば歴史として残った上での評価の問題といったとき、記録に残らない行為に吉凶がないと言えるかというと、まぁ、そうではないだろう。
JRF 2009年3月 3日 (火)
「私」は「吉」を見出してしまう…「吉」は sollen?字面[じづら]から言って、「凶」は「凹」で、「吉」は「凸」?いや、でもそれは「方以類聚」だけだろう。もっと物的なもの、人間が交合して子を産み群れるとき子を失なえば悲しむ、それは凶だ、だから物が群れて失なわれれば凶を見出す…。
JRF 2009年3月 3日 (火)
いや、そもそも凶や吉は性器のシンボルで、先の意味も含んでいるのかな?「天意」という「主語」を見出さなくても字面だけで意味が現れているのだとするんだろうか。
JRF 2009年3月 3日 (火)
吉の上と凶の中には十字架があるのですよ → 私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉 - finalventの日記 http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090303/1236042614
JRF 2009年3月 3日 (火)
吉凶すなわたい目的論を見出す…それはドット絵に連続を見出すのと何が違うのだろう。→忘却からの帰還: やっぱり人間の心は創造論を信じるような実装になっている http://transact.seesaa.net/article/115060396.html
JRF 2009年3月 3日 (火)
雨だけなら傘をさせばいいけど、風も強いと傘が飛ばされて、歩き辛い。濡れて、すっかり体が冷えた。ストーブはありがたいものだ。
JRF 2009年3月 3日 (火)
下の案としての「第二条」。メモとして書いているものには、次のように書いてある。---↑はじまり↑---
JRF 2009年3月 2日 (月)
第二条 天皇は、人が人でしかないことの象徴であると同時に、儀礼においては国民の象徴であって、この地位と公の行為は、国民の総意に基づかなければならない。
JRF 2009年3月 2日 (月)
なお、現憲法の第一条の部分は、意味を明確にするために、この私案では、前文の一部、第一条、第二条に分割されている。
JRF 2009年3月 2日 (月)
第二条はいってみれば妥協の産物である。天皇制を存続したいのならば、宗教として存続するべきであると私は考えるが、そのようにすれば、いらぬ混乱が起きることも予想できる。そのような混乱の可能性には、法ですべてを解決することは不可能であるという、我々の限界が現れている。
JRF 2009年3月 2日 (月)
そこに、法の限界を表す機能という、積極的な意味を見いだしたから、あえて天皇制を残したのだ、という強弁が、この条項である。この条項には、「問題があるもの」をいきなり破壊せず、まずは、それに新しい意義を見つける努力をするべきだというメッセージも含まれている。
JRF 2009年3月 2日 (月)
天皇家の政治性をいくら否定したところで、日本社会において現実的に特別な地位にあることを認めざるを得ない。その監視の必要性を重視して、罪を犯していないものを法の特別な管理下におき、権利を侵害することは人権侵害になり、
JRF 2009年3月 2日 (月)
また逆に生まれに基づいて個人に警護などの特別な保護をすることは、法の下の平等に反する。天皇を法の例外とするならば、天皇に関する規定は憲法の中にあるべきであるともいえる。
JRF 2009年3月 2日 (月)
記紀の神話にあるように、日本の神はあらゆるものを擬人化した象徴であると解釈できる余地がある。そういった神々のなかで、人間性という抽象的概念の擬人化が天皇であるという解釈にも、この条項は矛盾しないようになってしまっているかもしれない。
JRF 2009年3月 2日 (月)
私の考えとは逆に宗教の側は、宗教間の問題で共存のための納得を築くプロセスのために方便としてこの憲法をつくったとでも考えれば良い。
JRF 2009年3月 2日 (月)
↓おわり↓。まぁ、途中、あたりさわりがないと今の自分も判断できるところを抜きだした。
JRF 2009年3月 2日 (月)
ちなみに「私案」は前文と第一条、第二条だけしか考えていない。ちなみに、第一条は「主権在民」。>第一条 日本国の主権は、この憲法に依らずとも国民にあり、あらゆる公の機関は、国民が定めたこの憲法に依ることなしには、人々に対する権利を有しえない。<
JRF 2009年3月 2日 (月)
うーん。いつか前文案も含めて公開する日が来るのかなぁ。
JRF 2009年3月 2日 (月)
死によって義を規定していっているとするのはよろしくなく、接いだ生木に芽が出るように、生きていく中に法[のり]を見出していく。私が神道に寄す思考は今のところ《呪術的オブジェクト指向用語訳》など《雑記》の記事にいくつか現れている。
JRF 2009年3月 2日 (月)
まだ読者のいない段階で少し自意識過剰だが、その辺りを自分のメインストリームにもって来ずにすめばと思っている。ちょっと危険思想度が高いかなと思うから。
JRF 2009年3月 2日 (月)
今日一日ネットショッピングで結構散財してしまった。額は大したことないけど、いつもの使い方よりも思い切って使った。フィギュアも久々に買った。
JRF 2009年3月 2日 (月)