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aboutme:112535

金谷治『易の話』を読む。p.201以降。対待[たいじ]するものを総合したところに変化しない一定の理法があって、そこに道をみるのは私の感覚では違う。XとYが対立していてそれを仮に喧嘩仲間Cと名付けたところで総合したことにはならない。

JRF 2009年11月 5日 (木)

また、並び立つ二つの国があって、x王とY王が争っているが、X王がZ王に代「変」わりして…というところに、総合があるだろうか。統一されればそれは確かに総合だが、双方が代を経るごとに散りぢりになり、違う者がそこに興っていて…というところに X と Y の総合などあっただろうか。

それは男女のような対待ではないというかもしれないが、完全に同じ力で並び立つことはそもそもなく、そこに陰陽的なものは必ずあり、翻って上のようなことは男女の間にもあるだろう。

JRF 2009年11月05日 4011

aがbに変化し、cがdに変化するというとき、組としては <a,c>, <a,d>, <b,c>, <b,d> しかない。aが必ずbに変化し、cが必ずdに変化するということを守っても、例えば <a,c>,<a,d>,<a,c>,<b,c>,<a,c>,<b,c>,<a,c>,<a,d>… という中に <b,d> が現れないという列を作ることができる。その途中、どこかに一度だけ <b,d> が現れるようにもできるが、それを2番目にしたり10番目にしたり、任意のn番目にすることもできる。つまり、a,b,c,d の決まったことの繰り返しのはずなのに、決して有限に「総合」できないことになる。

JRF 2009年11月05日 8143

あたかもどこまで伸びているかわからない無限列という「道」は総合を常に逸脱するとでもいうかのように。道は有限列としての器とは違う。

参↓
道を語り解く - 教え説くのではなく [ JRF の私見:宗教と動機付け ]
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post.html
>道の先に目的地があっても道がそこで終わるわけではない。でも道を往く私には終りはあって、一生があって、一年があって、一日がある。あるとき立ち留まって逡巡する。この光陰をどうしのぐべきなのか、と。<

JRF 2009年11月05日 7808

器の利点はなんだろう?もちろん、器の中を無限に分割できるというのは地球という器に道を無限にとれるという話と同じで、それは道に対する器の利点ではない。

複数の器にあるものはそれぞれ純化し、比較しやすいものとなる。しかし、器どうしが影響しあうことがある…、空気や放射線の影響が…。本当に個々に分かれた有限の器というのは「理」想にしかないということか?

道というのは自然に現「実」にあり、そこからとって「道」と抽象化する。しかし、器というのは「理想」であって、それを意を持って実現しようとしなければ決し成[な]らないもので、その「器」性を維持するには意志の投入を随時必要とする。…ということか…?

JRF 2009年11月05日 0331

金谷治『易の話』 (講談社学術文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/4061596160

↑は決めつけがなく現実的で安心して読めるのかもしれませんが、私は以前読んだとアバウトミーに書いた↓のほうがおもしろくて好きです。でも、普通、両方読むべきなのかな。

高田 淳『易のはなし』 (岩波新書)
http://www.amazon.co.jp/dp/4004300258

JRF 2009年11月05日 2282

typo 「なければ決し成[な]」→「なければ決して成[な]」。

その上の「決して有限に「総合」できない」は、<b,d>のようなことも「起こり得る」という可能性でしかいえず、変化の法則を記述できるとは言いがたいということ…。(あんまり説明になっってないか。)(^^:

JRF 2009年11月05日 1293

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