« 2009年2月15日 - 2009年2月21日 | トップページ | 2009年3月1日 - 2009年3月7日 »

2009年2月22日 - 2009年2月28日

aboutme:95510

アルゲリッチ&デュトワ『プロコフィエフ&バルトーク:ピアノ協奏曲集』。バルトークの第二楽章、なんと切ないのだろう。壊れて時が流れていく。大地震や戦争で、報道が煽った阿鼻叫喚図のようでなく、悲惨を見つめ抱く自分と同時に、静かな時間が不思議と過ぎていくのを感じる、そのように想像した。

JRF 2009年2月28日 (土)

» 続きを読む

aboutme:95509

ふぅ。意味不明になったが、もう一度考えてみようとしたことをメモしておいた。機会があれば、もっと簡潔に構築的に考え直したい。

JRF 2009年2月28日 (土)

aboutme:95508

憲法に「第二条 天皇は、人が人でしかないことの象徴で…」と書くべきと私がするのは、超人性を求める期待が法の公正さに求められぬように唱える句とも言えよう。

JRF 2009年2月28日 (土)

» 続きを読む

aboutme:95507

上に述べた「宗教」という造形物が憲法の上にある自然ではない。だが、法がコロし切り離したものが「宗教」として残っていることはある。それが相互性に何を期待するかに現れることもあるだろう。

JRF 2009年2月28日 (土)

aboutme:95506

《法を体現させる》でいろいろな意味を含んで>法が人を生かせる野ではなく、人が法をいかすのである<と書いた。憲法には国民の宣言としての性質もあると私はしたいだが、宣言だから受け容れているわけでない部分も当然にあるだろう。しかしそこも「いかす」ようにしていくべきだ。

JRF 2009年2月28日 (土)

» 続きを読む

aboutme:95505

山本七平氏は、憲法の上に自然法を置く態度を批判する。私には自然「法(?)」の下に憲法があるのは当たり前のことだ。憲法もまた造られたものであり、その営為は人々の公正への望み(hoffen)に支えられている。

JRF 2009年2月28日 (土)

» 続きを読む

aboutme:95504

そしてそういった歴史を経たと認識するなら、自分がまだ理解を届かせていないところがあると常に考えなければならない。それを永劫に拡張して、そのような歴史を経なくても宗教は理解を超えていると一般化もする。

JRF 2009年2月28日 (土)

aboutme:95503

攘夷などといわねばならぬ情況は、民族絶滅に近い想像を生む。達成した高い文化というのを、残された少数者だけでどう受けつぐのか。理解が届かない相手を介しても伝えていくというとき、宗教的信条にしたり物語にしたりという契機がありうる。

JRF 2009年2月28日 (土)

aboutme:95502

四十七士が切腹を受け容れるのをよしとするのは、法を超える人為があるとしたいのと同時に、法の執行は多少強引でも公正でなければならないから。現在は、階級が絶対ではなく、罰の相互性を想像できるとして、死まで望まなくなるようにしている(ことになってる)。

JRF 2009年2月28日 (土)

aboutme:95501

「願う自分を見出すことで、それが自分にも願われる」という「神」的相互性。《知り合いの道を語り解く》では人生の中で期待できない相互性を切り離す必然を示唆した。消されたはずの相互性が神などに対する期待として信仰に残っている、といえるのか、相互性自体忌むべきとされてるのか。

JRF 2009年2月28日 (土)

» 続きを読む

aboutme:95430

バックアップしないとなぁ…。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95429

そういった動機付けの機能がなくなっていって社会が成り立つのだろうか。それとも代替物が見出されていってるから、なくなっていってるんだろうか。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95428

礼を失して叱責をうける。何が死んだか。信用が死んだ。それが復活するか転生させる。そうさせたいと願う自分を見出すことで、それが自分にも願われることに確信が持てるようになるのを喜びとする。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95426

儀式で生け贄[にえ]を出しうるというのは、生け贄を出すのと同じ重みがある。生け贄の替わりを用意しておくのとは違う。(当然創世記でアブラハムがイサクをというのを思い浮かべて。)

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95424

大礼の場で失することは、実は今も下々の経済にひびいて間接的に人をコロス。見えるところで高い地位のものが切られたほうが傷が浅い。だが切られるものに連なる者もあり…。どちらをとるかが「価値」が高いとするか。礼の「価値」などというものは測りうるのだろうか。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95423

礼とはまさに、そういうことが起きかねない場を敢えてつくっている側面がある。あれっ?どこかで読んだような気が…忠臣蔵に関して…私のものでなく…。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95420

内匠頭が「殿中」で粗相したとき外国との「大礼」をひかえていて、「大礼ノ場ヲ乱ルの罪」で切腹を賜った。(最近も大礼の場で粗相して辞めた大臣があったが。)大礼が名を重んじてだから、内匠頭の名誉と「比較して」という話にはしてはいけない気がする。それはなぜだ?

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95419

法のあるところに人が敢えて集まるとき吉凶の不分明を感じてあって、それが明らかにされねばならぬのではという疑いをしたたませている。敢えてバベルの塔が造れるか試すようなもの。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95418

物的に群が分かれていったとき、吉凶はすでに生じて決まっている。それは創世記でアブラハムとロトが分かれたときにすでに神意があって、神の計画のうちに物的にわかれることになったというようなもの。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95417

群が分かれたことで吉凶が出たように見えるのは、概念を共有する同類を集めてそこで比べてしまうから。類が集まっているはずなのに、持っている物が違ってどうも吉凶があったとわかる。……いや、そうじゃない。吉凶はこんなに相対的なものと思えない。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95416

易経 繋辞上伝 >方以類聚、物以群分、吉凶生矣。< 方(方向、法)は類をもって聚[あつ]まり、物は群をもって分かれる、(ここに)吉凶が生ずる。

JRF 2009年2月27日 (金)

aboutme:95356

まだ何かが足りない。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95355

だが、「偶然」というだけでは戦前日本のような、《無コピーの占有デジタルコピーの譲渡の自由》の関連リンクで示したような、陥穴があるように思う。

JRF 2009年2月26日 (木)

» 続きを読む

aboutme:95354

先日、もごもごと述べた「必然による偶然」つまり社会操作として下々に現れた貞ならぬもの、それが組識を創っていく(その中に法を造るというプロセスもある)とできないか、と考えている。

JRF 2009年2月26日 (木)

» 続きを読む

aboutme:95353

じゃあ、いじめられて貞ならぬように相手殺しました…で良いのかというともちろんそうではない。私はここに偶然、しかも、8月29日から31日までのコメントに書いた洪水などに対して「きずいて」いた上での偶然として、貞ならぬ人為として現れることを条件としたい。

JRF 2009年2月26日 (木)

» 続きを読む

aboutme:95352

私にとっての「義」は、儒に典拠を求めない。先に述べたようなものなら「義」となりうる。浅野 内匠頭[たくみのかみ]が敢えて死を賭したとき、そこには言われぬ「義」があったはずだと、私は、四十七士は信じて良いとする。そう「苦節」に敢えて「貞」ならぬようにしたのだ。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95351

これは《無コピーの占有デジタルコピーの譲渡の自由》の>難あって集団を守らねばならないとするとき、その習性にかけて自らを集団の中に埋葬し、希望をそこでつなぐことが求められる。その習性と健やかな関係を保ちたいと人は願う。そこに人の責務が成る。<から来ている。

JRF 2009年2月26日 (木)

» 続きを読む

aboutme:95350

私は《知り合いの道を語り解く》で、>義は戦[いく]さを基とする。死に連ならねばならぬとき、自らとともに亡びないもの、すなわち、義が恨みなく希望を継げる。そのためには自身にとって利[よろ]しいというだけのものを超えなければならない。<と書いた。

JRF 2009年2月26日 (木)

» 続きを読む

aboutme:95349

先の山本氏の本は、忠臣蔵の話で結ぶ。四十七士(or 四十六士)の「義」をどう説明するか。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95344

苦節貞凶は上六の爻辞。上外にあって質[ただ」してもらえない、だから敢えて貞[さだ]まらないことを見せる。そういうことだろうか。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95341

さらに陰謀論的にすすめれば、先の外資の商法は、外資の中の「中央」人がわざと反感をもつようにしむけているのではないか。少し陰謀論から離せば、外資ということで人が期待せず客も同業者もそれを改善するようしむけないことがあるのではないか。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95340

パソコンに関する不満もあるはずなのに、「世論」は携帯電話の安全性を攻撃する。あれは攻撃しているように見えて、実は携帯電話は「内」「中央」に連なるもので理想に近づけることができる、夷狄のパソコンはそうじゃないでしょ、というのを暗にすりこんでいるのではないか。穿[うが]ち過ぎ?

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95339

それは実際にない理想上の「中央」に私が属し、根拠もないのに「攘夷」すれば「中央」は理想に近づきうる、そういう思想があるのではないか。「中央」は私の感に応じていくはずなのに、そうならないのは「夷」(外のもの)が脅[おびや]かしているからだ、と。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95338

その商売はパソコンに関するもので、ふと、携帯電話がパソコンに「進化」すればいいのではないかとも考えてしまったのだが、なぜそれなら信用できるとするのか。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95337

先の山本氏の本に書かれた「攘夷」に思い致る。「外資だからこんなことをやる」という思いが私にないか?そして「だからしかたがない」と考えていないか?

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95336

…と思っているところに「苦節貞凶(苦しい時節に、貞[ただ]しいことをとり保とうとするのは天意にかなわない凶だ。)」を読む。でも、多少動揺を見せねば伝わらぬことがあっても、スジだけは通せと言うべきだ。そう思い募[つの]る。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95335

ある外資の商法で、あくどいとまでは言えないけど、それは違うだろうと思うのがあった。あそこがそんなことはないと思うが「不景気」で苦しいとしても、そんなときこそまずは型く客の利便を守るのが、商売の仁義だろう。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95334

山本七平『現人神の創作者たち』を読む。たまたま易経「節」の辞にある「苦節貞凶」を読む。またたまたま外資の商売の不当を感じる。

JRF 2009年2月26日 (木)

» 続きを読む

aboutme:95333

……。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95331

要するに人以外のものに意志は見出せないという教義にこれは繋るもので、つまり、生物は造れないと暗にいいたいわけだ。これを現代の生物学者(らしき人)が認めるのが驚きで、研究倫理として勉強させられてるのかなぁ。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95330

sein(ある) から sollen(すべき) は出ないというが、hoffen(望む) や wollen(しよう) があるなら、sollen は出る。「凹」があるのを見て、「凹」は「凸」を望んでいると私が見出せば、私は「凹」が「凸」のある方向に行くべきだと言える。

JRF 2009年2月26日 (木)

aboutme:95249

バーンスタイン&ツィマーマン『ブラームス:ピアノ協奏曲第2番』。荘重華麗。クラシック入門として買って今でも好きな一枚。最近、既存のオーディオの組み合わせを変えることで、かつて聴いていたのに近い音が鳴ることを発見し、昔買ったCDをよく聴いている。

JRF 2009年2月25日 (水)

» 続きを読む

aboutme:95248

読書だけで一日が終るのがもったいない、何か残ることをせねば、とか思う。欲が出てきた。だが、他のこととなるとかなり気合いを入れないと形にならない。ただ、それはきっと読書も同じことだろう。ふんばりどころか。

JRF 2009年2月25日 (水)

aboutme:95244

蒲団の中、雨が強くなったところ、登校する児童らの声を聴く。 ぬるきおと 私と雨の 無関係

JRF 2009年2月25日 (水)

» 続きを読む

aboutme:95198

最近頭に吹出物がよくできる。

JRF 2009年2月24日 (火)

aboutme:95197

関係がないとはいえないトラックバックスパムの対処に惱む。ネットを通じて金もうけをしたいというのは応援したい。一方、あそこでは私に益があるようには望まない。ニフティを通すぐらいはするのが商売の仁義のような気がするが、そこをシステムとしてどう実現していくのか。

JRF 2009年2月24日 (火)

» 続きを読む

aboutme:95194

組識を作るというとき、共同幻想とか共同主観とかいう。それは結局、誤解のような偶然とか妙契とかがあり、奇跡があれば知りたいという愛が生じるからではないか。細胞にそのモデルを見てる?必然による偶然を見分けることこそ知識で、必然が忘我を生むところに愛を繋ぐ…。不明。

JRF 2009年2月24日 (火)

» 続きを読む

«前のひとこと

« 2009年2月15日 - 2009年2月21日 | トップページ | 2009年3月1日 - 2009年3月7日 »

このころのニュース