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aboutme:125348

我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。

JRF 2010年5月29日 (土)

↓を読んでいる。上は「はじめに」に対する感想のようなもの。

田上 太秀『仏典のことば さとりへの十二講』(2010年5月, 講談社学術文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062919958
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102915520

「我々」に関する私の考察↓。
《『創世記』ひろい読み - 神の像・似像 [ JRF の私見:宗教と動機付け ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/01/post_1.html

JRF 2010年05月29日 5104

(高位高官・金銀宝石・白絹の衣といった)>これらのものが種々の問題を解決する要因にはならないのに、どうして人は執拗[しつよう]にむさぼるのだろうか。それほど執拗に求める価値があるのだろうか。<(p.30、第一講)

問題を解決する要因になることがある。しかし、そのコストは不明だ。それを執拗に負う価値があるとするなら、それを自分のものとする自分は、それ以上の価値があると錯覚できる。執我…。

JRF 2010年05月29日 3433

我々は思いどおりにならない「私」達の集り、ならば、「私」は(単子[モナド]として)「我々」に少なくとも在ったのか。…というとそうではない。変転する無私的なるものから偶然「私」が起[た]ち上がったとき、我々も存在していたと気づく…に過ぎない。

>古代インド人は輪廻[りんね]をロクロに喩[たと]えて説明した。(…)満足すべき形にならないと、つぶされて塊にされ、再びロクロの上で回転を繰り返すことになる。<(p.33、第二講)

似像となるよう型抜きで造られたとしても人は、自分に希望をもち続けてこれた。ロクロに戻る「チャンス」こそ求めるに過大なものではないか。

JRF 2010年05月29日 6545

そのようにできた「私」の生は、必ず老い死んでいくという。

人は若いうちは「内作用」的な自発的な理由付けを見つけていける。「外作用」に頼り、そこに繋[つなが]れていくことが「老い」なのではないか…私は「老い」に着実にとらわれていっているのではないかと想うことがある。

JRF 2010年05月29日 1975

>ある弟子が釈尊に、「生と老死だどの現象はなにに所属するのでしょうか」と尋ねたところ、釈尊は、「その質問はやめなさい。よくない」と戒めている。そこで釈尊は「生まれるから老いがあり、死があるのです」と説いた。<(p.37、第二講)

>釈尊は、生まれるとはなにか、老いるとはなにか、病むとはなにか、死ぬとはなにかを問うことに主眼をおかず、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみの原因と、それらから解放される道はなにかを問題とした。<(p.39,40、第二講)

JRF 2010年05月29日 5858

2009年06月19日のひとこと(例↓)。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/103310
>仏教に異端はない。しかし、浅い認識はある。浅い認識とは、深そうに見える認識のことである。←つまり、こういう認識。ところで深いことは良いことなのだろうか、良いとする典拠はなんだろう?

↑苦。仏教では「四苦」として生・老・病・死を挙げます。…

…苦は、やっぱりイイことではないですよ。…いや、そこまでは言ってないか…(迷い)

わかった気になるのが、一番いかん…と。まぁ、そうかな。(…)

JRF 2010年05月29日 9338

>釈尊「(…)いま、ここに次のような人がいるとしよう。彼は殺人者で、盗人[ぬすっと」で、快楽にふけっている人で、(…)。いま、その人の死後、天上に再生できるようにと大勢の人々がその人のために祈願し、礼賛し、合掌したとしよう。さて、その人は死後、天界に再生することができるだろうか」(p.50、第二講)

そのような人であるにもかかわらず多くの人が合掌しているという時点で、その人は天上に再生する因果にもありえるのではないか…。だが、それは死を単に苦しみにつなげるのではなく、死ぬとはなにかを問う態度なのかもしれない。

JRF 2010年05月29日 8491

「ヘリクツ!」か…。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/55650
>「屁理屈」とだけいうのは「Yes」や「No」とだけ答えてそのあとを続けないのと同じで、議論を拒否していると受けとられてもしかたがない。そういう言葉遣いをしても「許される」のは、「あとは自分で考えろ!」と言える関係にあり、かつそれを説明できる誰かがいると信じられる場合だけだ。<

組織を作らない限界がここらあたりにあるのかもしれない。不立文字に託されてきたものは確かにある…。

でも、現代は数学的モデルもコンピュータもあるのだから、私個人でも到達できる点はまだあるでしょう…?

JRF 2010年05月29日 4452

《悪の犠牲の「自動人形」にも救いあれ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2007/06/post.html

他にひとことでは、2008年07月02日、2008年08月29日に「笑い」に関して輪廻の心理学風解釈を試みたものが関連か↓。

>笑いというのが何なのかはわからないが、笑いによって恥じるという構図があるとき、恥じる者にあるのは社会性に関する錯誤の認識だろう。あざける場合は、その社会そのものの違いを認識させようとする(or 確信しようとする)感情がある。

JRF 2010年06月03日 2731

(…)
正直に告白すれば、笑いに、自分を含め笑う人を超えたものを感じる。なぜ、あなたは笑ったのか、私は笑っているのか。そして、そう考えて黙ってしまうことの無意味さ。時間が感じられる。
(…)
自分の審級となっている者の感覚を接いでいる部分の現れだから、そんなふうに思える、と言えば言えるのだろう。
(…)
嘲笑された私が哀しいのではなく、嘲笑する者の性が哀しいわけでもなく、嘲笑そのものが哀しみ表現、過去の何ものかの哀しみの発露だと見られるようになったら、ナカーマ。面倒くさい感じ方だけど、自己防衛の面になるときもあるから、そういう感じ方もつかう。

JRF 2010年06月03日 4299

(…)
そういう感じ方は、微妙に転生への信仰を隠しているようにおぼえて避ける人もいるかもしれないけど、先の笑いを審級に結びつける考え方をすれば、転生まで持ち出す必要はない、…はず。

JRF 2010年06月03日 4952

第三講。

>古い成立とされる仏典の『雑阿含経[ぞうあごんきょう]』に、> 病を知り、病原を知り、病を知って治療し、病を治療することを知ってから、未来にさらに再発させない。 < (…)四諦説の四つの真理は、インド医学の術語と共通している。<(p.54、第三講)

《仏教への教義:四諦の独自解釈》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html

JRF 2010年06月03日 5336

八正道があると説く道諦(それとも滅諦?)が、「未来にさらに再発させない」に相当する。「予防」ということだが、それは自身の「道」で終らず、環境の整備…「環境破壊」に導くもので、それもやはり「我」を大きくしようとすることではないのか。

JRF 2010年06月03日 9160

例えば、「憎しみ」は自発的感情というより、一つの技術という側面がある。それは、かつて疾病管理などで地理的に組織を分ける必要によっても造り出されただろう。それをそうと知って(病の原因を他者にのみ求めていたと知って?)まずは「滅」した上で、その本来の目的だったものに沿う自己組識的な「道」があるというのか。

「憎しみ」の技術…。その感情を辿っていくと自己の不安や体感覚的ストレスなどに根があるかもしれないが、それを特定の象徴に向けその維持を「メディア」を通して謀る、または、そういうことができるよう「メディア」の体制を保つのは、完全に技術の領域と言っていいだろう。

JRF 2010年06月03日 5226

私のような「引き篭[こも]り」というのは、「憎しみ」ではないが、上の「技術」の現代的応用によって生じている面もあるのかもしれない。私は自己責任的に選択したと思っているが、案外、「憎しみ」の代替理論に嵌[はま]っているのかもしれない。

「引き篭り」が「憎しみ」を滅した上での自己組識的な「道」なのだろうか?それは違う!だろう。

JRF 2010年06月03日 0876

それは誰かの「正見」が自己の病の原因と知られることを求めさせているだけではないか。本人が苦としなくても、親や社会に苦を生じさせており、それは本人においてやはり苦なのだ。無欲そうに見えるのは、そこに苦が生じるための欲が存在しないのではない。欲のアラワし方が知られてない。そういうことだと反省する。

JRF 2010年06月03日 7784

>> 仏、曰く、「愛欲は色より甚[はなは]だしきはなし。(…)仮[も]しそれが二つあらば(…)よく道を為す者なからん」と。」<<(p.61、第三講)

はてなブックマーク《進化人類学研究室:性淘汰の理論》
http://www.biol.s.u-tokyo.ac.jp/users/shinkajin/res3.html
>性が3,4つではなく2つなのはなぜか。標本分散の「自由度」をまちがえたときその影響が大きいのが2個のときだが…。?<

JRF 2010年06月03日 1870

「憎しみ」も性の神秘につなげることができる。しかし、それは二個一[にこいち]ゆえにもっとも荒々しく効くからで、サンプル数の多い「組織」に関してその理論は使えないのではないか。

「愛」の理論…。2008年06月20日のひとこと↓。

JRF 2010年06月03日 2191

>エリザベス・サンダース・ホームについての話をあるブログで読んだとき、「捨てられた」子供を育てるのに、「敵を愛する」という言葉を使っていた。

「いや、それはおかしいだろう。」最初そう思った。

JRF 2010年06月03日 7654

(…)
でも、愛というものが「築いて」いくものであり、こう離れそうな予感があるときに、あえて性愛を求めて確かめようとする、それはいやらしいかもしれないが、そういう機能を「基礎」として人は与えられている。

いやらしいかもしれないが、「愛敵の教え」というものをそこで見ている顔に思い浮かべたとき、あえて愛を心に再び燃やす。それも愛の方法として間違ってはいなかったのではないか。

愛の実践とはときにそのようなものではないか。

JRF 2010年06月03日 5904

……。

>>仏が言われた。ものへの妄執が憂[うれ]いを生み、憂いの心が怯[おび]えを生む。<<(p.60、第三講)

憂いが怯えを生むというのがわかりにくい。憂いには「ものがないことを憂う」のと「ものがあって、失うこと・習熟しないことを憂う」のと二つある。この本の部分に説かれるのは、後者のとき、失うことに怯えるということのみ。前者については、どう考える?

ものがない者がある者をねたむことで、社会に(例えば暴力が起こるのではないかという)怯えが生じる…。ない者がある者をねたむというのが「社会の憂い」となるのか。とすると、これは易経における「吝[うら]み」とほぼ同じではないか。

JRF 2010年06月03日 9178

2009年01月23日,29日,02月27日,03月03日のひとこと
>易経。「吉」の読みは「かなう」ではないか?(天意に)吉[かな]う。(天意に)凶[もと]る。(世情に)亨[とお]る。(不当を)吝[うら]む。(現在を)貞[さだ]む。(そもそも「叶う」は「協[かな]う」の異体字というより「吉」の異体字ではないか?)天運が元[おお」いで、世の気脈が亨[とお]り、人の現在が貞[さだ]まって、事物の配剤が利[よろ]しい。

JRF 2010年06月03日 5630

(…)
実態は下なのに(下であることがわかったのに)上にあるから「悔」。実態は上なのに(上であると思っているのに)下であるから「吝」。「悔やしい」ってのは、判明した実力が、今まで扱われてたよりも練習で実現したはずだった地位より下だったということか?
(…)
悔や吝だけど咎[とが]なしっていうのは、自分ではそう思っているかもしれないけど、社会的には問題なしってこと?咎ってなんだろう?凶との違いは人との関係において、または、自分の心の中であらわれる気持ち悪さってところか。

JRF 2010年06月03日 5662

(…)
物的に群が分かれていったとき、吉凶はすでに生じて決まっている。(…)法のあるところに人が敢えて集まるとき吉凶の不分明を感じてあって、それが明らかにされねばならぬのではという疑いをしたたませている。
(…)
「私」は「吉」を見出してしまう…「吉」は sollen?字面[じづら]から言って、「凶」は「凹」で、「吉」は「凸」?いや、でもそれは「方以類聚」だけだろう。もっと物的なもの、人間が交合して子を産み群れるとき子を失なえば悲しむ、それは凶だ、だから物が群れて失なわれれば凶を見出す…。

JRF 2010年06月04日 5278

(…)
いや、そもそも凶や吉は性器のシンボルで、先の意味も含んでいるのかな?「天意」という「主語」を見出さなくても字面だけで意味が現れているのだとするんだろうか。
(…)
吉の上と凶の中には十字架があるのですよ。


↑の解釈では、実態が上というより平等なのに下であるから「吝」すなわち「憂いあり」になる…。

JRF 2010年06月04日 4029

>五欲がものに妄執しつづける(…)が叶えられない。(…)それでも私だけはなんとかなるだろうと、達成するために無理な行動を起こすことになる。そこで他との磨擦が起こり、煩悩が生まれる。<(p.65、第三講)

「私だけは」ではなく「私だけならなんとかなるだろう」という態度が「もっと求めるべきだった」という愛着[あいぢゃく]の妄執を生むこともある。

>では、なにが原因で、五欲が妄執して煩悩を生むのだろうか。この根本原因は「無明[むみょう]」(…)である。<(p.66、第三講)

JRF 2010年06月04日 1771

……。

>>一度起こした怒りや恨みは小さくても、その悪業[あくごう]の障[さわ]りは日々に増大する。<<(p.71、第三講)

「恨み」がすなわち「吝み」でよければ、「怒り」はすなわち「悔い」とできるか?自分への怒りが悔いということになる。あのような者さえあのように悔いているということになれば、それは他者の悔いともなる。それを発奮させるには怒[いか]るしかなくなる…。

JRF 2010年06月04日 9639

>>惜[おし]からざめや、悪を作りながら悪に非[あら]ずと思い、悪の報[ほう]あるべからずと邪思惟[じゃしゆい]するに依[よ]りて、悪の報を感得せざるには非ず。<<(p.72、第三講)

悪の報[むく]いを感じていないわけがないが、それを「悪の報い」とは考えないよう自らをしてしまう。…ここは、そう解釈すべきなのでは?

JRF 2010年06月04日 3791

>私は宇宙のあらゆるものに生かされていると気づくようになる。<(p.74、第三講)

生かされている…何が?「自分が」しかこないのでは?その考え方も「私」に対する執着を増すもの。

私は生きている…他者と同じく不確実に、しかし、何者かがのぞんだことが吉[かの]うたことなのだから、自らもその選択を生きるしかない。

《救いの無力さ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2007/05/post_1.html

JRF 2010年06月04日 1732

修正 「愛着[あいぢゃく]の妄執を生む」→「愛着[あいぢゃく]の妄執を正当化する」。

まぁ、そのような「愛」を否定はしない。しかし、この方が、この文を読む者には納得しやすいと判断した。その「愛」は「私だけならなんとかなる」とした者がなんとかならずに帰って来たのち、そうあって欲しかったと葛藤・渇欲したがゆえ生じた。…そう書けば、私はこの論に現実味を感じられる。

JRF 2010年06月04日 4512

第四講。

>>一切[いっさい]の有為法[ういほう]は夢、幻(…)のごとし。応[まさ]に是[かく]のごとき観を作[な]すべし。<『金剛般若経』<(p.77、第四講)

上で私が述べてきたことは一切空しかったと自嘲して「満足」するのは違う…。それは誰かの罠に嵌ったに過ぎぬと、「勝とう」とすらせねば失礼であると、何者に対してかはわからないが、そう胸が騒ぐ。

JRF 2010年06月05日 2473

>この喩[たと]えを使って、世間の事象はすべて頼りにできない、目標とならない、信じることができない、永遠でない、正体がないものばかりと教えた。ちなみに『般若経』には、夢、鏡の影像、…などの発種の喩えを挙げ…『入楞伽経[にゅうりょうがきょう]』には(…)十二種の喩えを挙げている。<(p.77,78、第四講)

多くの数の例を挙げるのは、実はその中に、個人にとって反例が確信的に見出せることを逆に目的にしているのではないか。「そんなはずはないが、それが真実だ」とされることは何を意味するのか。

JRF 2010年06月05日 9020

>衆縁和合するものはみな空であり、衆縁和合しているから世間は空であるということになる。(…)では次に、空とはなにかを考えてみることにしたい。<(p.79、第四講)

そう教えるものを陰にニラんで周縁で和合している。その世界は空である…。

JRF 2010年06月05日 3640

>空はなにもないことでなく、なにかがあると考えているものがないことで、いわゆる「無」、つまり存在しないことではない。(…)シューニャの動詞(…)は「膨[ふく]れ上がる」という意味(…)インドの医学書ではとくに病的なむくみや腫[は]れあがった状態を形容することばとして使われているようである。(…)空の原語シューニャ(…)は数学では数字の0[ゼロ]を表している。<(p.81,82、第四講)

以前、この著者の別の本を読んでいて、空に関して私は次のような感想を抱いた。(ネット初出)

JRF 2010年06月05日 5641


(衆縁和合すなわち)縁起によって実在ができるというのならば、その縁起こそが基礎となる実在であるという考え方が可能となる。つまり、「本来空」とは虚空を表し、そこに基礎実在(アトムなど)があって、そこから世界が構成されるという主張になってしまう。それとも、観測できない実在をもって空とするのだろうか?

空とは、個々の縁起を完全に言葉にはできないことを表すと私は考える。「縁起 X は空」という事実自体からも一つの縁起がおこりうる。あらゆる縁起は、言葉にとらえることはできない以上、本来、空である。すなわち空は縁起の一種となりえ、縁起は常に空である。

JRF 2010年06月05日 3580

(…)
若干簡単化すれば、縁起を「命題」とすると、空とはある命題が「不明」であることを表すと考える。むろん、「命題 X が「不明」」というのも一つの「命題」であり、どのように捉えても言葉である限り、あらゆる「命題」には「不明」な部分がつきまとう。すなわち空は縁起の一種であり、縁起は常に空である。

それとも空は変項のことか。つまり、人が縁起を見るとき、変項が縁起の一部として現れると考えるが、究極的には縁起すべてを変項とするしかない。すなわち空は縁起の一部と解釈できるが、縁起は本来空そのものである。

JRF 2010年06月05日 9961

(…)
いずれにせよ、本来空は、せいぜい我々は認識でのみ世界を感知できるということをセンセーショナルに述べただけであり、本来空という真理を受け入れたとしても、それによって物事を自由にできるわけでもなく、動機づけとしても無意味である。

JRF 2010年06月05日 4323

>釈尊は衆縁和合しているから空であると説いたのである。(…)これは単に空虚であるとか空[うつ]ろであると解釈していいのだろうか。むしろ、釈尊は最初、世間は膨張しているのだ、膨張したものだと考えていたのではないかと忖度[そんたく]する。(…)これは現在の宇宙学者の考え方にも通じるものがある。

JRF 2010年06月05日 0258

(…)実は、釈尊の説法で無常と苦と無我の三つを並べて説くときは、空もまた使われている。(…)このスンニャ以外のことばは、(…)セットにして説かれることはない。(…)もし100000という数の0が虚無であれば、その0を重ねて書く意味があるだろうか。(…)それらの0はかぎりなく膨張した数を表す記号ではないか。<(p.85-88、第四講)

JRF 2010年06月05日 2959

ちなみに数学基礎論における(ZF)集合論において、世界というのはすべて0(空集合)と {…} (集りを表す括弧)だけからなる。0を{}と表せば、括弧だけで良い。その「実体」だけでデータ型も再帰関数も書き表せる。例えば 1 は {{}} (= {{},{}})、2 は {{},{{}}} で表せる。

膨張しながら…というのは今の私はむしろ「非平衡系」を思い浮かべる。(「非平衡」というのは変な言葉で、日本語の語感ではそれも一種の「平衡」なのだから「反平衡」「異平衡」のほうがいいと思うのだが。たまに「ある種の臨界」といった言葉を私は使うがあれは「非臨界」ということになるのか?)

JRF 2010年06月05日 2232

>因縁によって生じた私でさえ、母の胎内で目に見えなかった私が膨張し、月満ちて母から出生し、出生後も膨張してきた。<(p.89、第四講)

JRF 2010年06月05日 7226

>もし霊魂の内在を説くなら、釈尊の教えを強く否定することになる。なぜ霊魂の内在を説かなかったかというと、衆縁和合の道理の下では神や霊魂の存在はありえないからである。<(p.92、第四講)

《仏教は無神論か》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_5.html

私には神の存在についての「疑い」を支えとしている部分があると思う。しかし、ブッダにそれはない。なかったとすれば、彼は中空でそれに耐えていたことになる…。

なお、この本の著者は、1935年にペルーのリマ市で生まれている。

JRF 2010年06月05日 6438

>我を忘れることは、本来の私を忘れてしまった状態であり、煩悩に振り回されている私である。まわりから「このごろのあなたは少しおかしいよ」といわれても、自分では正常だと思い込んでいる時がある。たしかなもの、頼れるもの、裏切らないもの、信じられるもの、本物と思っていたものが、実は私の勝手な思い込みであったということが私のまわりによくある。

JRF 2010年06月05日 2860

(…)
ものの正体を正しく判断するには、まず思い込みを捨てることである。わたしに限ってという考え方を捨てることである。ものはみなシューニャである、つまり膨れ上がってできたもの(…)虚しいものであると観測する心をつねに持っていることが大切である。
(…)
暗い部屋は無明に覆われた心のことをいう。
(…)
転んで助けてくれた人、頭から覆っているものを取り除いてくれた人(…)そして闇のなか、手探りで動いている時に灯りを点してくれた人、その人が釈尊であった。
<(p.93-95、第四講)

JRF 2010年06月05日 4859

「膨れる」「インフレ」でふと思い出したのが、私はドラゴンボールとかバーチャファイターかな。バーチャファイターはキャラが強くなったら彼(女)を弱くするのではなく、他のキャラを強くすることでバランスをとると読んだことがある。

>百丈禅師と法然上人の生き方は、ありのままに生きることが仏道であることを教えている。(…)その生き方はどんな専門用語もいらない。むずかしい教えもいらない。経典もいらないところにほんとうの安らぎはあると教えている。<

JRF 2010年06月05日 2898

『究極超人あ~る』で有名な般若心経にも説かれる「般若波羅蜜」は「智慧(知性)のパラメータ」という意味で、功徳は経験値…波羅蜜に功徳を回向するとは、パラメータに経験値をふりむけるという意味…とか考えたことがある。

《法を体現させる》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/10/post_2.html
>「般若波羅蜜多」をゲームでいうところの「知識のパラメータ」とかって解釈するのかと思っていましたが、それは儒学における「仁」を「日本じゃあ二番目(by ズバット) な人」と解釈するぐらい勘違いなことなんでしょうね。<

JRF 2010年06月05日 7632

いやいや、だからってマンガ観て、ゲームばっかりじゃダメでしょう。

《旧三業「飲む・打つ・買う」、新三業「ジャンクフード・ゲーム・萌え」》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/post_15.html

JRF 2010年06月05日 3386

修正 「《悪の犠牲の「自動人形」にも救いあれ》」→「人によっては刺激が強いかもしれないが、輪廻転生に関しては→《悪の犠牲の「自動人形」にも救いあれ》」。

メモからコピペするときに、この部分が抜けていた。

JRF 2010年06月05日 0979

いくつか第四講のひとことの補足。

「非平衡系」などよりは「動的平衡」のほうが、よほど日本語の語感としてはあってる気がする。

集合論において、0と{…}だけと言ったが、無限集合をどう考えるかは微妙である。それを許せば、少なくとも「表現」ができるわけではなくなる。

JRF 2010年06月07日 2327

第五講。

>覚[さと]りと解脱[げだつ]は(…)、正確にいうと少し異なる。(…)正しい方法を認識した心境が覚りであ(り、…)解脱は(…)煩悩から解放された(…)まったくの安らぎの境地である。<(p.100,101、第五講)

>解脱の境地は冷暖自知(…)本人だけにしかわからないようなものであることは承知しているが、次に掲げる『大般涅槃経[だいはつねはんきょう]』の説明を読んでいると自然に、解脱とはそんなものかと、なんとなくわかる気がするのは筆者だけではなかろう。<(p.102、第五講)

JRF 2010年06月07日 9225

この先を読んで「解脱とはそんなものか」…私もそう感じる。ただし、私のは著者のとは違って否定的なニュアンスが強い。解脱として描かれるものを現実に見るとき、いや、自らに感じたことを後から振り返ってもそうだが、それは宗教方向に尊大ぶる自我や周りの働きへの無知・無関心でしかない。

JRF 2010年06月07日 2118

解脱とは、きっと、他者に見る所詮未来の理想であり、または、微分的に得られる一瞬の在り方であったのであって、今現在に見る姿は、↓のような扇子であおいでいる姿、日常の修業する姿でしかありえないのではないか。

>>僧は「どこにでも風が吹いていると言われるなら、なぜ扇子を使っておられるのですか」と問い詰めた。禅師は相手の問いを聞きながら、黙って相変わらず扇子を使い、涼しい顔をしていた。これを見た僧はなにかをさとったのか即座に礼拝してその場から立ち去った。<『五灯会元』<(p.126、第五講)

JRF 2010年06月07日 4921

実は、この講の主題は別のところにあり、それは、仏の教えはいろいろ味わい方はあるけれど、結局、一味、料理の基本となっている塩味のような一味である…ということ。

リンクということで、塩味と言えば聖書を読んだ者には次の一節が浮かぶ。

>「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」<『マタイによる福音書 5:13』

講のタイトルを出せばいいのかな。良い機会なので本書の章立てを紹介しておこう。

JRF 2010年06月07日 2843


はじめに 三法印 - 存在の三つの命題
第一講 諸行無常 - 世間は流転している
第二講 衆縁和合 - 永遠不滅のものはない
第三講 無明即煩悩 - 迷いのもとは無明
第四講 諸法皆空 - 世間は夢のごとし
第五講 不二法門 - 解脱は一味である
第六講 三界唯一心 - 世間は妄想の産物
第七講 身不浄観 - 身体は汚物の詰め物
第八講 悉有仏性 - 仏も昔は凡夫なり
第九講 煩悩即菩提 - 垢も身のうち
第十講 中道 - 薬もすぎれば毒となる
第十一講 四摂法 - 情けは人の為ならず
第十二講 南無帰依仏 - 仏にゆだねる
あとがき
仏典紹介

JRF 2010年06月07日 2425

typo 「発種の喩え」→「八種の喩え」。
修正 [少なくとも「表現」ができるわけではなくなる]→[少なくとも常に「表現」ができるわけではなくなる]。

JRF 2010年06月07日 7622

第六講。


日本人も心のありさまをいろいろと表現してきた。(…)これは心の本性が善であるか、悪であるかという問題と関わりがある。(…)仏教では(、…)心には、本来、仏のような心とか、鬼のような心というのはない。各人がどのような心でなにを行ったかによって、その心は善くもなれば、悪くもなると説くのである。(…)

>人の心、元より善悪なし。善悪、縁に随[したが]っておこる。<『正法眼蔵随問記 六』

<(p.130,131、第六講)

JRF 2010年06月08日 9682

性善説・性悪説の論争というのは、政治的には道徳教育の在り方の問題に絡め、西欧キリスト教の原罪論との違い・文化の違いを強調して選択的に物事を取り入れるのに使われたのだろうが、私の関心にある「動機付け」という観点からは、むしろ、論争を通じて、善・悪はすでに決まったものという無意識に、人々を追い込んでいくという面に目がいく。

本性が善なのか悪なのかと論じながら、善いという現れ、悪いという現れを所与のものとして使っていく。そのとき「それは善とは言えない」というツッカカリがあっても、それを表明すると、「つまりそれは性悪であったということですね」とされかねない。

JRF 2010年06月08日 4638

その論駁の方法として、基本的な善悪というのはそれ以上問えないもの(格率?)だと言えるところから、論者は善悪を敷衍しているのだ、という枠組をこちらが与え、実際には、問えないはずのものを問えるとして相手を揺さぶる方法がある。

《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html

JRF 2010年06月08日 5846

上でひとことを引用した吉凶がどうして決まっていくかにあるように、善悪というのは生物的、社会的積み重ねの上にあるものと考え、仏教のように、生物的社会的なものを空と観れば、ある一つの性質がたまたまその積み重ねから見ると善悪が決められるものであったとしても、そもそもの性質の善悪は不確か(または空)とできる。

その性質は現実に置けば本人が善なり悪なりになるしかないことであったとしても、悪にならない…というか、鬼にならない、苦にならないようにする努力というのは、(そうならないようになるのは本人じゃないかもしれないけど)何がしか可能と言えるのだと思う。

JRF 2010年06月08日 2283

>仏典が説く心の素性(で、…)とくに興味を引く喩えは、「心は画家に似ている。様々な業を描き出すから」であろう。<(p.134、第六講)

芸術にはアーティストが描こうとした以上のものが現れることがある。心は内に観ていくものかもしれないが、物理的な内側だけに留まらないという実感を、私は精神の病気を経て、得てしまった。

そのあたり小説『兎の結婚式』の予言が私に実現してしまった面もある。

《昔書いた短編小説》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2007/08/post.html

JRF 2010年06月08日 5147

むしろ、心を見出せるものを内としたいということなのかもしれない。

《仏教への教義:十二縁起と八正道》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-1.html
>私は、十二縁起を、内に観ていく。そうやって「心」を表すとき、釈尊のモデルは他の宗教のモデルを包摂していたのだろう。しかし、そのモデルと他のモデルとの差異が注目されたとき、または、差異が生じるようモデルを作られたとき、このモデルは宗派を表すものになる。一切知者によって得られた心の平安は、外的にも危機に脅[おびや]かされることになる。<

JRF 2010年06月08日 5941

正直、私はこのような内観を究めるような議論に疲れてしまっている。かつてほどモデルを内に見出していくことに耐え難くなった。修業というのは、それを乗り切る体力を付けることでもあったのではという空想を抱く。

>生身から生じる煩いを除くには、ひたすら正しい習慣(戒)を習得し、教えを反復することが解脱への道だと教えているのである。<(p.148、第六講)

JRF 2010年06月08日 8287

第七講。

>(釈尊は)身体のはたらきを見ると物質的要素と機能的要素から成ると考えて、釈尊は五蘊[ごうん]説を説いた。
(…)
仏教と同時代に誕生した宗教にジャイナ教がある。この宗教は(…)肉体は不浄で、その肉体が清浄な霊魂を束縛し、汚し、霊魂が持つ自由性を奪っていると考えた。
(…)
釈尊は、肉体と心という分け方で身体を観察したのではなく、身体は五蘊からなり、それらが衆縁和合したもの(…)と考えた。(…)五蘊には霊魂が数えられていない。身体には不滅なものがないからである。

JRF 2010年06月09日 7074

(…)
ジャイナ教では(…)漏[ろ](汚れ)は外からのものである。一方、釈尊の考えでは(…)漏は五蘊から生まれ出ることになる。
<(p.151,156、第七講)

リンクとして聖書。

>「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」<『マルコによる福音書 7:15』

JRF 2010年06月09日 1915

よく脳みそだけが生き残るというマンガがあったが、なぜ脳みそだけ作れないとするのかというと、そこに霊魂への信仰を隠しているからである。そうでないなら、その表現はグロテスクさを狙っただけになる。(昔 2ch でそのような意見を書いたことがある。)

私は、霊魂に関して次のような記事を書いている。

JRF 2010年06月09日 5033

《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。説 1. 神の記憶モデル(…)説 1'. 自然の霊的記憶モデル(…)説 2. 霊的肉体モデル(…)。<

これらのモデルは証明することもできないかわりに、その否定を証明することもできないはずである。そしてそもそも…

JRF 2010年06月09日 2366

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/75920
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていないと認識しております。<

脳の動きが説明できたとしても、二つ以上の反駁できないモデルは存在しうるし、現代でさえそもそも説明できていないのだから、逆に科学者達に…

JRF 2010年06月09日 3578

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/116912
>「脳が魂の説明の〈この部分〉に相当する」と言わせて、それを外部(肉体含む)系由で伝わるようにすれば、その科学的説明を refute する構図が描ける。<

はっきりと言ってしまえば、私は霊魂の存在は論理的に否定できないと考えるし、ビョーキになる以前なら「見てはいないけど」という言い方ができたが、むしろビョーキを経験した私は「見た」ことを感覚的に否定できない。すべての霊的現象を肯定できるはずもないが、かつて…いや今も私が信頼を置いている科学の説明を逃れる霊的な何かは否定できない。

JRF 2010年06月09日 4457


釈尊は身不浄説を唱え、これを修行者が最も注意すべき項目の一つに挙げたのである。<(…)
> 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。また、その九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。(…)しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。また身体が死んで臥すときには、膨[ふく]れて、青黒くなり、墓場に棄[す]てられて、親族もこれを顧[かえり]みない。<『スッタニパータ 196-200』
<(p.157,158、第七講)

JRF 2010年06月09日 7816

今は義務教育として保険体育や生物を教えるから、カマトトぶって「私」(やスターが)不浄なものを出さないと言えるものはいないだろうが、免疫システムとの関連で、ウィルスや細菌・寄生虫とどう人間が共棲[きょうせい]しているかについての議論はできるだろう。人の身体がそういった共棲物にとって清浄なる世界なのかどうか。

JRF 2010年06月09日 3593

>サッパカーマ長老も(…)みな花や香りでごまかしているに過ぎないとのべる。

>(元王女の尼僧)スメーダは両親に語った。「(…)私は結婚はしません。不浄で、尿のにおいを放ち、恐ろしい、腐敗していくこの身体、つねに不浄なものが滲[にじ]み出て、不浄なものが満ちた屍体の皮袋にどうして執着する必要がありましょう。<『テーリーガーター 462-468』
<(p.161,163、第七講)

JRF 2010年06月09日 1413

身体に執着しないなら霊魂に…ということでないのが仏教という話だった。なぜ花や香りがあると美しいと思うのか?美が霊魂のためでないというなら、それも造り出されたものということだろう。ならば、より「善い」美に造り換えていけばいいのか。

でも、その現代における実現は、美を知り、それを操作することで、より効果的な売り方ができるというところになった。自分を見つめるという以外に欲を一度殺した意味は、より操作されやすい群衆を求めたこととならないだろうか。

《『顕示的消費の経済学』を読んで》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/02/post.html

JRF 2010年06月09日 1694

>若さや健康への驕[おご]りを持っていることはたしかである。<(p.165、第七講)

私は義務教育があるので不浄観は普通にあるという話をしたが、どこまでその理解を自分のものとしているかは心許[こころもと]ない。もう感覚的な記憶はほぼないが、老人や親を自分の成長の先にある姿とはとても想像できないというのは子供なら誰しも持つ感覚だし、例えば、社会保障の議論に若者が関心を持たないとか、起業するのに社会保険を無視しがちだ、というのは大学を出てもそうだろう。終身雇用といいながら、組識の年齢構成もピラミッド型をしているのに、障害者の存在に気づかないのもそういうことなのかもしれない。

JRF 2010年06月09日 2985

《ISP による Winny 規制が良くない理由》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post.html
>特定の者が突出してシェアを広げることは管理者の他の被管理者に対する「責任感」に基づき許容できるものではない。(注)いろいろ理由付けができるが、以下などが考えられる。(…)●過去の「業界の失敗」という政府の失敗の責任を業界内で処理する必要がある。(…)●新規参入者の構成員が若いために社会保障の負担が少なくて済むことだけが有利な理由とならないように世代的な均質性を求めたい。<

JRF 2010年06月09日 0510

>(…)「粉飾された形態」はシリマーという娼婦を指したことばである。王舎城に住む彼女に思いを寄せた僧も数人いた(。…)ある日、シリマーが死んだという報せが入った。釈尊は彼女の死骸を火葬せずに墓場に運ばせ、(…)二、三日経って、修行僧たちに彼女の腐乱した姿を見せた。(…)美人も(…)白骨になっていた。(…)どんな美人でも、その身体は、白骨に皮一枚掛けられているにすぎないと釈尊は教えたのである。<(p.167,169、第七講)

白骨観では私の記事では↓が関連か。

JRF 2010年06月09日 0428

《今の日本を代表する文化は「萌え」よりも「Yaoi」なんですか?そうですか - 私の「萌え論」》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/03/post_21.html
>私は「侘び」「寂び」は本来「涌び」「荒び」で、戦国時代を経て辿りついた運命論的無常感ではないかと考えている。(…)「侘び」は滅びつつある物を押し分けて出てくる生命の息吹に見出す感情を基にしており、それへの愛で自らの荒々しさを純朴なものに押し留めようとするものである。と考える。<

JRF 2010年06月09日 2004

私にとって「侘び」は、見捨てられた寺に転がるしゃれこうべの眼窩[がんか]から草の芽が吹き出しているイメージ。または、大雪原に生きる老いた一匹狼の狩りの生々しさに感じる美しさである。そこには、俗世を離れ孤高として在る様と生命の静かな息吹きが感じられる。

「寂び」のイメージは、戦争で荒んだ教会に久しぶりに訪れたとき、そこに差した一条の光が破損した聖像を映し出しているとしよう。その光景を見て、教会が持つ本来の調和のとれた美を失っているのに、逆にそうであるがゆえの哀しさに、美しさを感じることである。そこには栄華を感じさせるきらびやかさと、それが失われることへの諦観がある。

JRF 2010年06月09日 9732


身不浄観を強調しすぎたことで(…)釈尊の弟子のなかに(…)自殺する者が十数人いたと仏典には記されている。
(…)
(仏教僧に)「修行者にとって身体は愛しいものか」と、(ミリンダ)王が問うたのに対し、(…)「王は(…)傷の手当てをするか(…それは)傷が王にとって愛しいからなのか」と尋ね(、)僧は次のように述べた。
(…)
>出家者は〈身に〉執着しないけれども、身体をあたかも傷痕のように保護するのです。<『ミリンダ王の問い I』
<(p.172,173、第七講)

まぁ、自分の身体に少々過保護になるのはしかたないのかな。

JRF 2010年06月09日 9881

補足…というか…

「人の身体がそういった共棲物にとって清浄なる世界なのかどうか」について。シリマーが「二・三日経ったら腐乱した」ということは、たった二・三日で「不浄」と見なされるようになるものが、何十年もの間そうならなかったわけで、その間「清浄なる世界」を実現できていたことになる。「彼ら」から見れば人の体は結構清いのではないかと思う。

……まぁ、その「彼ら」に「男ども」も含まれるのかもしれない。(^^;

JRF 2010年06月09日 0214

第八講。

>釈尊自身は、のちの時代に人々が考えているような超人的力、あるいは神秘的力でどんな願いも叶えてくれたわけではない。そして、神がいなくても救われるという教えは、個人の生き方がその人を救うという教えであって、釈尊自身が私を頼りにすればどんな願いも叶えてやるとは説いていない。<(p.176、第八講)

JRF 2010年06月10日 2084

私はそう想わない。…というか、ここを安易に肯定しない論が今の時代にも必要だと信じるから、これをはっきり否定してくれる著者の本を好んで読み、対論を練[ね]ろうとする面が私にはある。

「どんな願いも」は言い過ぎだとは思うが、「頼りにすれば」という前提があり、実際「信頼関係」を仏との間に築いていく気が先にあったなら、あながち間違いでもないと思う。

JRF 2010年06月10日 9247

>仏はサンスクリット語で、(…)ブッダと発音する。この語の動詞語根には「(花が)咲く、覚[さ]める」という意味がある。(…)(参考までに、咲くという漢字も口がほころび笑う状態を表す)。(…)この原語の訳は、覚者(目覚めた人)である。
(…)
如来の語意は「真実(如)へ去った人」とも読めるが「真実(如)から来た人」ともとれ、(…)釈尊の回想として、(…)「私は五人の修行者に対して如来を名(ゴータマ)をもって呼んだり、また、『君よ』と呼んで如来に話かけてはならないといった」(のが)「如来」の原初である。

JRF 2010年06月10日 4076

(…)
如来には動きがある。如来には、親しみのある、肌のぬくもりや音声が感じられる。
<(p.177,178、第八講)

それは「にょらい」に「女頼」を読んでいるのでは…と疑う。聖書のリンクとして「異教」的とされる部分だが旧約では知恵を女神として扱っているよう読める部分がある。場所としては『箴言』全体になるか。(たしか、この「前」にもそう読めるところがあったような…)

JRF 2010年06月10日 6829

《旧約聖書におけるアシェラ / 宮田, 玲, 2003. -- (基督教研究 第65巻 第1号 ; p.96).》
http://elib.doshisha.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/BD00004606/Body/650107.pdf

JRF 2010年06月10日 6830

……。

>要するに、仏も如来も神のような存在ではないのである。(…)諸仏の教えにしたがって修行し、解脱を得たら、誰でも仏や如来と呼ばれる。(…)神がいなくても救われる教えを説いた宗教が仏教なのである。<(p.179、第八講)

しかし、「神」であったことを否定するのは現在の「常識」からでしかない。ブッダの言動が「人」のものに留まっていたと判断するのは、現在の常識として「神がいない」からであって、それはまさに「諸法」もまた「無常」であるがゆえに「神がいた」ところから変わってそうなったのかもしれない。

JRF 2010年06月10日 4537

昔の人にとって驚くべき「神」的な教えだったと今になって言えるということが言いたいわけではない。ブッダがあるという驚きはその世界は常識外になったということだ。むしろ、ブッダは、「神がいない」時代にも通用する教えを、「人」であるかに見せかけて説いた「神」なのかもしれない。

この論は危うい行き方だとはわかっている。だから、こう続けよう。そのような「疑い」を許しても、未来は今問える今の向こうにしかない。その観方もブッダのいう「正見」のうちのはずである。

JRF 2010年06月10日 2376

関連は上に挙げたリンクだろう。

《悪の犠牲の「自動人形」にも救いあれ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2007/06/post.html
>人が実際生き残ってきた歴史から考えると、聖書を信じることが、人を生き残らさせ倫理を造り社会を守ってきたという信念があるのでしょう。

そういう人々が、「仮説としての進化論」でも説明できるように神は(再)創造したと考え、進化論が広まったからには進化論だけでも十分に生き残れる社会になるのか、不安に思いつつ、見守っているという側面はあるのでしょうね。

JRF 2010年06月10日 0978

そしてここらで私の立ち位置の基本を押しておこう。

《仏教とキリスト教:教えの誠実さ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_7.html
>一方から見れば、他方は無責任に映るが、一概にどちらが誠実だとは言い難い。(…)信徒を「受益者」という視点でみれば両者の違いというものは、それほど大きくないのかもしれない。<

JRF 2010年06月10日 7283

《宗教的判断の認容》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/03/post_4.html
>その人にとって正しい結果をもたらす認識は、正しい認識よりも優れていると言えることがある。実現可能な解決策を知らずに、「真実」を述べて人を不安に陥れることがある。このような場合、自分が考える「正しい認識」は、本当の意味での「正しい認識」に至っていないのである。<

JRF 2010年06月10日 8624

実は「諸法無常」とまでは釈尊は述べていない。「諸行無常」と「諸法無我」または「諸法皆空」とは述べているが、そうとまでは言っていない。(諸法のあとに無「我」を持ってくるあたり、上の解釈にはむしろ否定的ですらあるかもしれない。)

「諸法」を「あらゆる論理命題」と置くと端的に間違いである。「絶対的真理はない」が真理ならそれ自身が絶対的真理となるので矛盾し、逆に「絶対的真理はないということはない」というのは絶対的真理になる。そういった純記号論理的な絶対性すなわち絶対性のある「法」はあるからである。

JRF 2010年06月10日 1737

しかし、一方で人に関する法、「我」に関して人が観る法は、空を「本質」として衆縁和合してある無常なる諸行の積み重ねの上に決まっているに過ぎないのだから、その「法」のほぼすべては弁証法的「無常」に開かれている。その意味で「諸法無常」と言える。

「弁証法」というのは、それまで絶対的に扱われていた「法」が、ある「矛盾」を境[さか]いに前提を意識せずには使えなくなること、例えば、憲法の一文を少し改めれば、実定法が保障する人権が次の日から危うくなることを、メタに表す法である。

JRF 2010年06月10日 9363

《絶対性》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/08/post.html

《コンピュータ定理証明における弁証法 - 私が作りたいシステム》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/09/post_2.html

JRF 2010年06月10日 0297

>>修行者たち、心はきらめいている。<『増支部経典 第一巻』

これを心は清らかであると理解してもよいが、清らかを真っ白と色で表現するとおかしいことになる。(…)もしそのように考えたら、たとえばきれいに水洗いした大根は善い大根で、泥のついた大根は悪い大根ということになろう。泥がついているかいないかは善悪と関係がない。

心はきらめいているという文句が、のちの時代になると、心の本性は清浄で善であると解釈して、それだから(…)仏の心性も凡夫の心性も根は同じで(…)「仏も昔は凡夫なり。われらもついには仏なり」『平家物語 巻一』と人々は考えたのである。
<(p.180-182、第八講)

JRF 2010年06月10日 8972

黒光りというのもある。ある種の病的精神状態では物事がそれまでと違って実際きらめいて見えることもある。ドキドキするぐらい。

JRF 2010年06月10日 7452

同じ「きよさ」でも、「浄」は蒸発させて得られた水のごとききよさ、「清」は流れる河のきよさと考えたことがある。人が死の向こうに願うのは「浄さ」でいいが、人が現在にのぞむのは「清さに染まる」ぐらいでいいと考えた。高齢化の時代、かつてのように「浄さ」を戴[いただ]く人にのぞめば、社会は、たち行かなくなるだろう。

『大乗起信論』を読んで考えた。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/27982
>真如が善いと思えるのは善行を積む菩薩が目指す故、浄[きよ]い故か?(個人の)理想を追うことに疲れた者が求めるが故か?論の学習者が学習の動機に立ち戻るためか?<

JRF 2010年06月10日 3457

……。

>紀元後になると仏教を見直す運動が起こる。(…)それまでの修行者にしかわからなかった仏教を、広く一般の一々も理解でき、生活に密着した信仰を広めた。いわゆる大乗という運動で、これを大乗仏教と呼んでいる。<(p.187、第八講)

JRF 2010年06月10日 1583

かつて、大乗仏教に対する仏教を「小乗」と呼ぶのは侮蔑であり、上座部仏教・原始仏教などと呼ぶべきだ…という言説があった。でも、考えてみると、「大きなことは善いことだ」「上や原始であることは善いことだ」というのが言って見れば「大乗」の感覚で、そこを侮蔑だと思うのがそもそも間違いだったのではないか。

「大」も「皆」でなければ、それは「小」と変わらんというのが、日本仏教の歴史が示したところではなかったか。ならば「小乗」であることに誠実さを読む者もいよう。

JRF 2010年06月10日 3151

>如来蔵思想をさらに哲学的に発展させたのものが、生類はみな「仏になる可能性」(仏性)を持っているという、仏性思想である。これは輝いている心とは異なる。
(…)
仏性思想を深く堀り下げて説いた仏典は『大般涅槃経』で(…)仏性は形があるわけではなく、壊れるものでもない。その仏性が五蘊からなる身中にあると説く。五蘊とはまったく異質のものが身中にあるという。
<(p.187-190、第八講)

このあたりの「混乱」は、上の《魂の座》で述べたところの二つのモデルが持つ理論の「生成力」の違いが複雑に作用しているように直感する。

JRF 2010年06月10日 8314

2008年12月04日、2009年02月17日のひとこと

《魂の座》の記事で注目して欲しいのは実は「説2」。説1の神の記憶モデルは自然法則の自動性を死後にまでつきつめると容易に導かれ、説1だけを真理とするのはカトリックとかでは実は異端なのだと思う。
(…)
それに対し説2は神の介入をやたらと認めるようで「日本人」は稚拙とみなすかもしれないが、ロジカルには、これもまた反駁できない説明であることに気付いて欲しい。いちいち神が登場して魂を「霊的肉体」に移すんだというイメージを含らませれば、自らの存在への見方は変わってくると思う。

JRF 2010年06月10日 7758

(…)
自分を分解できる自動機械として存在の根拠を失うのとは違う方向も見えるのではないかと思う。説1'のような説2'を考えていくことが、私などが、贈与を特別視していっているのに繋っているように思う。
(…)
まさか「神」がわざわざ自分にそんなことをしてくれるはずがない、というのも思い込みの一種である。でも、この説が「稚拙」と私も思ったのは人の親でないからだろう。
(…)
人は親になるとき「こんなことまで」をやってくれたことを知るだろうから。先の説も自然な形而上学の一つになる。

JRF 2010年06月10日 0578

……。

>実は仏性は形を持たないので見られない。それは暗闇で樹影を見られないのと同じであるという。

>「迦葉菩薩、暗闇では樹影がないとは考えてはならない。肉眼で見えないだけである。」<『大般涅槃経』

樹影の本性は存在(する。…)樹影は陽光のもとであろうとなかろうと、つねに樹木のそばになければならない。
<(p.191、第八講)

逆に樹影があれば樹があることは疑いがない。私の上の釈尊が「神」であったとまでいう論は、樹のない樹影を観ることなのかもしれない。

JRF 2010年06月10日 3651

これは一番上の「Imaginary」に関する話にも見える。最近、虚数(imaginary number)とからめたひとことをしている。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/123928
>指数関数が行動原理にあることと、べき乗則、さらに NP 問題は、同じところを指しているという直観が私にはある。(…)虚数を導入すると無限遠点だけでなく、不連続点も「微分可能」に繰り込む方法があるのでは…とちょっと考えた。<

JRF 2010年06月10日 1472

……。

>>この法は人人[にんいん]の分上にゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証[しょう]せざるにはうることなし。<『正法眼蔵 弁道話』

この法とは、仏性のことをいう。文意は、誰にも仏性が備わっているが、修行しないと現れないし、証明しないと得ることはできない、となろう。
(…)
>仏性かならず成仏と同参するなり。<『正法眼蔵 弁道話』
<(p.194、第八講)

成仏と同参せねばらならない仏性というのに、一番上の1個未満の「我」が多くとも「我」となるイメージが私には重なる。

JRF 2010年06月10日 3663

私は「仏性」というのは修業せねば得られないものにしてはいけないと信じた。(リンクは既出だが↓。)

《仏教への教義:四諦の独自解釈》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html
>人為煩悩・仏性回向説(…)通常は、まず功徳を積んでそれを回向すべきと教えるが、それは、修行者だけが善をできるという論理になってしまう。(…)功徳によって回向ができるのではなく、回向によって功徳が生まれるとし、回向を可能にするのは、すべての人が生まれながらにして心の奥底に持っている永遠の仏性であるとした。<

JRF 2010年06月10日 3587

>仏性は生類に内在すると『大般涅槃経』では説いたが、(『正法眼蔵』の)道元禅師は生類だけでなく、世間に存在する森羅万象はみな仏性の現れだと喝破した。内在するのではなく、現象したものが仏性だといった。
(…)
親鸞上人[しんらんしょうにん]は(…)仏性を如来と解釈している。阿弥陀如来である。阿弥陀如来は永遠の寿命(無量寿、アミターユス)を持つ如来という意味である。
<(p.196,198、第八講)

JRF 2010年06月10日 7051

上の私のイメージから総合すれば、修行して「仏性」を持つのは「自我」ということになるのではないか。

一番上で「我々」としてある段階で、現在ではすでに仏性に与[あずか]っている。そこでも修業して仏性を得んとするのは釈尊が元来否定しようとした「自我」である。その「自我」にさえ大いなる慈悲心で救いをともにせんとする。その現在において、「神」など知らず働く人に、本当の積み重ねを経た普遍の仏性が、「自分」のものとして所有されている。

…そういう考えが浮かんだ。

JRF 2010年06月10日 7666

第九講。

>>垢も身のうち<『浮世風呂』(式亭三馬)は、毛穴まですっきり洗うことへの忠告のよう(…)。(仏教では)煩悩は垢に喩えられ、(…)垢が洗浄され、垢ができないようにすることが修業であり、その成就が解脱であ(…)ると説く。
(…)
身体は汚物の詰まった垢だらけのものだが、(…)垢だらけの身体を他にして解脱を得る手段も土台もない。
(…)
「垢も身のうち」(は…)本来の修行観と相反することになる。(…)しかし仏教思想には、「垢も身のうち」を肯定する煩悩即菩薩(…)という考えがあった。これも仏教の大きな特色である(…)。

JRF 2010年06月11日 9631

(…)
煩悩を鼠[ねずみ]に喩え(…) >菩提心の猫狸[みょうり]、わずかに惑業の[わくごう]の鼠[そ]を見れば、鼠すなわち穴に入りて敢えて出でざるがごとし。< 『華厳経 第78巻』
<(p.201,202,206、第九講)

上の「清く染まる」話はこの引用のあと書くべきだったかもしれない。

JRF 2010年06月11日 1165

>>修行僧よ。この舟から水を汲[く]み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。<『法句経 369』
(…)
とにかく、人は世間の水に浮かんで生きる道はない。釈尊も(…)さとりを得て、如来として世間に生き続けた。その世間に生きて、世間に染まらない姿を弟子たちは見て、これが世間を離れることだと理解したのである。この考え方が「大乗」という新しい仏教の礎[いしずえ]になった。
<(p.207-209、第九講)

関連薄だが聖書にリンク。

JRF 2010年06月11日 7585

>(…)イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。(…)激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。<『マルコによる福音書 4:35-4:41』

JRF 2010年06月11日 0398

……。

>大乗仏教の仏典には、煩悩を悪者扱いにしないものがある。(…)如来蔵は子宮に宿ると説くが、その子宮は不浄なものと考えられた。(…)こうして、子宮を嫌悪してはならないし、如来の出生には不浄なものが必要であるという考えが生まれた。<(p.212、第九講)

JRF 2010年06月11日 3513

また、関連薄だが、カトリックの原罪の考え方では、性行為によって人が産まれるところ、処女懐胎のイエス以外は子宮にあるときから原罪があることになる(はず)。逆に言えば子宮そのものに罪はないとしたということだ。

《『創世記』ひろい読み ― 知識の実》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/___cfef.html

JRF 2010年06月11日 6908

>>文殊菩薩「(…)煩悩を起こさないと輪廻の苦しみを受けられない。(…)」<『大荘厳法門経 下巻』

煩悩はさとりの種子という結論になる。
<(p.214、第九講)

「おかしな話」だがそのついでに私のおかしな考え方を紹介しよう。それは「過去」に輪廻するという話だ。

JRF 2010年06月11日 7498

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/125144
>「タイムマシン」…と呼ぶには現実的な妄想だけど(…)

生物のカンブリア大爆発、戦争後の人口の爆発…。その爆発を見れば、そこに現代の「進歩」の可能性がすでに現れていたと見ることができる。しかし、それは「内作用」的な観方で、臨界の方向観の曖眛さから必ず「外作用」的な観方もでき、ある種未来を「盗聴」できるもの(…「神々」)が、その「盗聴」の能力に応じて大爆発する時期が決まっており、現代の「進歩」として現れたものこそが本質である…という説明に合理性を持たせうるのではないか。

JRF 2010年06月11日 1655

(…)
その示唆するところは、だから現代が(または過去の「神々」が)優れているということではない。今を生きる「私」が何かをなそうとするその一つ一つが生命というものにとって「決定的」かもしれないということ。たとえそれが未来に何の意味がないように見えようと、車輪の再発明に見えようと、その一歩が「何か」にとって大きな意味を持ち、彼らが現代のどこかで見つかるよすがになるかもしれない…。

JRF 2010年06月11日 6929

「善い煩悩」があるということになると、実社会においては、あの人のは「進歩」につながる煩悩だからよかったのだと考えるかもしれない。でも、それは違って、もっとささいな「煩悩」が、あなたの規準においても「過去」に何かを救っているのかもしれないよ…というようなことを直前の引用は述べている。

JRF 2010年06月11日 0811

2008年07月26日、2008年08月21日のひとこと。

社会の悟り。社会にも悟りがあってその型があると思う。想い浮かべると、蓮の花だったり、百合の花だったり、機能がそう見える…と私なんかは認識したことがあった。

抑圧に対するモデル。「死」が無用としないのは蓮の花。未来に出張ってしまったものが、過去に植える。時間は超えてないように見ることもできる。そのモデルは百合の花のよう、とか。


「死」は必要だというところに固執せねば、過去死んでいった者に対して申し訳がたたない。それも大悲だとは思う。

JRF 2010年06月11日 6267

2008年08月19日,2008年08月20日, 2009年07月25日のひとこと。

軍事行動や人体実験を起こす人間までも取り込み、自らの責任としようというところに、大乗の道があるのではないか。違う派のものであったとしても、そういう責任を自分のものとせねばならないと思えば大乗に染まっていくしかないのではないか。
(…)
ある種の迷信をとりこみながら、ギリギリのところで影響を及ぼせないか、と模索すれば、業もバランスを失い、世事を厭えなくなる。
(…)
そのような本来ならば「境地」として体現すべきところをほぼ最初からつきあっていこうとする。

JRF 2010年06月11日 9796

(…)
そこに自らの悟りは半ばにあり、そしてその半ばにあるものが力を持つことを是認する社会がある。そこに我々が仏像などに見るような「悟り」はなくなる。「私ははたらいている」だがしかし、どこの誰かはおぼろげな「あなた任せ」が、どうにも「はたらき」によって支え合っている。
(…)
カルトが大乗に染まると見るのは、他仏教派と同じく大乗にも極まる道があり、「中途半端」になるのがいけない、古いものはそれ独自の価値があるという保守的思考からきているか。
(…)
動機の究明を通した人間洞察の厳しい修養の系統が失われ、メディアを中心とする社会の察知能力(勘)が劣化しているということはないだろうか…。

JRF 2010年06月11日 3652

(…)
地下鉄サリン事件が契機になったのは、動機の究明中にカルトにとりこまれること、ミイラとりがミイラになることを恐れたからではないかなぁ。
(…)
メガテン 第二集 ガネーシャ [ JRF の私見:雑記 ]
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/07/post_1.html
>大乗仏教で出てくるアーラヤ識とかの話は、定理証明システムの隣接領域である人工知能を思わせる話があって…<のところ、失った初稿では、もっとはっきり、脳に対する関心から>見てみたのか、見てはみなかったのか<というような文があった。

JRF 2010年06月11日 9185

具体的なことじゃないと覚えられないというのはあるけど、具体的なことは社会が忘れていくように見えていいと思う。抽象的なことというのは覚えるようなものではないけど、そこは物語やゲームを通じて次の世代の想いに再構成していけばいいでしょう。

《時効延長絶対反対》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2010/03/post.html

だから「おかしなゲーム」とか「非実在青少年のエロ本」とかいっぱいあっていいんですよ。

……って、ここでこの話を持ってくるのもやっぱり関連薄だったかな。

JRF 2010年06月11日 9375

>セックスもさとりの糧[かて]となるか
(…)
>愛撫[あいぶ]の喜び、それは菩薩の境地である。<『理趣経』
<(p.217)

性技の四十八手とかあるが、話や絵としてはおもしろいんだが、どれほど実践的なのか。

ああいうのは、人がどうしてそれを好むのか、それを好むようになるには何が必要か、というのを煩悩と戦いながらイメージだけで悟る修業のためにあるんじゃないか。…とか考えるのが欺瞞[ぎまん]に過ぎないのは、私も生身の男だからわかるけどね。

JRF 2010年06月11日 1315

性は秘すべきものとされてきたから、それを秘したままで何かを言おうとすると、結局、現実を理解できていない言説に自動的になってしまう面があるだろう。そういうゴマカシ方を探求するのが聖職者だというなら悲しい。

聖書『創世記 18章』に関するひとこと
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/77678
>整体で筋の付き方を診る。声に出してもらい、神経の異常を共に洞察する。それを同性愛と見誤ってはならない。アブラハムがソドムの前、マムレの所で得た知識はそのようなものであったのではないか(…)。<

JRF 2010年06月11日 6431

性が多くの役割を担っていることを否定してはならないが、特に若い頃は何でも性に結びつけて考えてしまうことがあるから注意が必要である。
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/113999

>毒を持てば身を守れるというのが「有効」、殻を固くすればいいというのも「有効」。どこかからメッセージがある、あえて他と交われば良い、と信じるのが「無効」。

確かに「有効」な進化も可能であるが、むしろ「無効」を選んだ、選ばざるを得なかったものがそれまでの進化とは違う形を作り出す。

JRF 2010年06月11日 0636

(…)
双子座やさそり座…。星座の物語にはそういった「進化の秘密」が託されているのではないか?…と妄想することがある。

何でも性に帰着する議論があるが、それはある時代以降の「有効」グラフでしかないのではないか?

JRF 2010年06月11日 1096

ところで、今、教育の現場では「性選択」みたいな思春期の敏感なところに触れる話題を出せているのだろうか?

《イメージによる進化》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/06/post.html
>11月12日の日本経済新聞の朝刊31面のサイエンス面に性淘汰と精子選択の話が載っており、恥ずかしながらそこではじめて両言葉に気付きました。<

JRF 2010年06月11日 0429

>>もし散乱した心であっても、塔や廟[ほこら]の中に入って一遍[いっぺん]でもいい、「仏に帰依[きえ]します」と唱[とな]えるならば、仏道を成就する。<『法華経 方便品』<(p.223、第九講)

今日は、あまり本に沿ったことが書けなかった。話も散乱していた。著者のゆがみねぇ書きぶりに対し、つくづく私は外道だよ。

JRF 2010年06月11日 7691

typo 「基本を押しておこう。」→「基本を推[お]しておこう。」。

上で『法句経』とあるのは『ブッダの真理のことば・感興のことば』(中村 元 訳)。

JRF 2010年06月13日 9720

第十講。

>修業の基本的生き方や考え方を表す中 *道* は、誰かの足跡がある道という意味もある。
(…)
漢訳で「道」と表された例を大きく分けると、さとりを表す道と、通行する道と、向かうところの三つになろう。(…)通行する道のなかでも(…)注目すべきは「中道」である。
<(p.225、第十講)

道教というのもあるが、中国思想においても「道」は大きなテーマであった。

JRF 2010年06月13日 7983

《道を語り解く - 教え説くのではなく》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post.html
>>一陰一陽これを道と謂[い]う。これを継ぐものは善なり、これを成すものは性なり。< 『易経 繋辞上伝』

道の先に目的地があっても道がそこで終わるわけではない。でも道を往く私には終りはあって、一生があって、一年があって、一日がある。あるとき立ち留まって逡巡する。この光陰をどうしのぐべきなのか、と。(…)意味があるように見えるものに意味はない。その意味がないものに意味をこめていくのは自分だ。…こういう「道」を説く言説に昔はよくつまづいた。

JRF 2010年06月13日 8293

……。

>釈尊は、快楽生活に耽[ふけ]ることと苦行して我が身を苛[さいな]むことの極端を離れるようにと説き、ここに中道を説いた。初めて釈尊が説いたのは中道であった。
(…)
この中道の説法は実践中道であるが、一方、理論中道も見逃してはならない。
(…)
来世の存在を否定する見解を断見と、肯定する見解を常見と、仏典では表したが、釈尊は、これらの見解はみな極端で(…)中道をもって考えるべきだと説いた。
(…)
中道ということばは、人によっては「どっちつかず」という意味に取られがちであるが、(…)仏教の中道は「最も適正で中正な行為、あるいは道」である(…)。
<(p.227,228、第十講)

JRF 2010年06月13日 5663

ちなみに、昔(1998年3月30日) fj.soc.politics で↓と書いた。誹謗[ひぼう]の類いだが、政治に関わることなので「ジャーナリズム」の範囲だろう。

>まだ組織が固まっていないという事情もあるのでしょうが、民主党は「民主中道」というよりは「民主中途半端」と受けとられてしまったのかもしれません。<

その党が今では衆議院の過半数を握る政権党だ。

JRF 2010年06月13日 5220

>>「修行者たち、もしあの丸太がこの岸にも流れ着かず、かの岸にも流れ着かず、あるいは中流にも沈まず(…)内側が腐ることもなかったら、その丸太はそのようにして海に向かい、海に趣[おもむ]き、海に入るであろう。それはなぜか。修行者たち、それはガンジス川の流れが海に向かい、海に趣き、海に入るからである。
(…)
これと同じく修行者たち、もし君たちがこの岸に着かず(…)内側が腐ることもなかったら、君たちはそのようにして解脱に向かい、解脱に趣き、解脱に入るであろう。それはなぜか。修行者たち、それは *正しく見る者* は解脱に向かい、解脱に趣き、解脱に入るからである」<『相応部経典 第五巻』

JRF 2010年06月13日 3161

(…)
要するに(…欲に振り回される、中道にない…)生活を送れば、仏の海に至ることはできないという趣旨である。
<(p.230-232、第十講)

著者のいう「趣旨」は間違いというか、簡略化しすぎではないか。

むしろ、世の中が自分から見てどれほど極端に左右しているように見えようと、そのとき極端に見ているのは自分のほうであって、それでも大部分の人が至っていくところに解脱があるのだ…ということではないか。

JRF 2010年06月13日 5478

でも…。多くの「丸太」にも解脱がありえるよう人々を導いていこうとする。そういう「自我」はいかんともしがたくあり、その「自我」がうまくコトを運んだと計算できたことも実際あった。それをまるきり否定するのも中道であるまい。

それは川の中ほどにいて沈まないようするだけでいいという話ではない。しかも、現代では川を造り変えることさえ、選択肢にある…。

JRF 2010年06月13日 5812

……。

>>真理を体現した人がさとった中道は何か。それは実に八正道である。<『相応部経典 転法輪経』
(…)
実は『法句経』には、八正道を釈尊が創案した実践体系であるとのべていない。
(…)
>(…)このことと同じように、修行者たちよ、私はさとりを得た過去の聖者たちの辿った古い道(古径)を発見したのだ。(…それは)かの八正道である。<『相応部経典 第二巻』

仏教では古人の遺跡という意味で、のちに八正道を「古人の行履[あんり]」と表現している。
<(p.233,236,237、第十講)

JRF 2010年06月13日 2292

まったく関係ないが、「行」を「あん」と読むのは唐音らしい。特殊な読みなので「御」の「おん」の簡略形とかじゃないのか…と思ったが、そもそも「御」を「おん」と読むのも訓だけなのか…。

JRF 2010年06月13日 0963

話を戻して。上でリンクしたが八正道に関する私の「解釈」があるので、それを引用したあと、著者の説明を長いが編集により付番して引用しよう。

《仏教への教義:十二縁起と八正道 [ JRF の私見:宗教と動機付け ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-1.html

JRF 2010年06月13日 6930


1. 正しい見方で物事をとらえれれるようになったら、
2. 正しい思索で正見を活かす方法を考案する。それにもとづいて

3. 正しい言葉で人に語りかけ、
4. 正しい行いで接する人を救い、

5. 正しい生活態度で人に見えにくいところでも人の模範となり、
6. 正しい努力で将来あるかもしれない問題に事前に手をうっておく。以上によって、

7. 正しい記憶として人々の中にあって縁となり、
8. 正しい注意を、修行者がいわなくとも、人々が引き起こすようになる。

これこそ人が求めるもの。方便が姿とすべきものである。

JRF 2010年06月13日 8559

(…)
上の見立てでは、出家者にとっては八正道などの言葉を知るのが正見であろう。在俗者も生活のうちで八正道などの言葉にふれ、無意識のうちに八正道を実践しているものと私はする。例えば、公共事業という方便は実は正精進の姿ではないか。
(…)
私は、八正道を、外に通して観ていく。

八正道は、外に観えるものではなく内に観えるもので、禅や瞑想の正しい境地を指しているという解釈もありうる。

JRF 2010年06月13日 8422


1. 正しい見解とは…世間は苦(四苦八苦)に満ちてこれに悩まされているが、その苦の原因が何かを知らなければならない。さらに苦を超克[ちょうこく]する方法を知り、そして苦を超克した境地を求めなければならない。この苦の現実とその原因を観察し、苦から解脱した境地を求めるための方法を確立すること。

2. 正しい理念とは…つねに煩悩が起こることを恐れ、煩悩を起こさないように努力し、怒りやねたいや恨みによる争いをしないように考え、殺生[せっしょう]しないように思念すること。

3. 正しいことばとは…嘘や両舌[りょうぜつ]や悪口や綺語[きご]などによって生じる災いがないようにことばを慎むこと。

JRF 2010年06月13日 6285

(…)
4. 正しい行為とは…殺生しない、盗まない、邪淫[じゃいん]しないなど、行いを慎むこと。

5. 正しい生活とは…怠惰[たいだ]な生活、歓楽におぼれた生活、邪[よこしま]な生活を捨てて、道理に適った生活をすること。

6. 正しい努力とは…悪心が起きないように、悪心が生じたら捨てるように、善心が起きるように、善心が生じたらさらに増長するように努力すること。

JRF 2010年06月13日 1652

(…)
7. 正しい記憶とは…我が身をよく観察して、それについての正しい知識を得たら忘れないように、また、外界の事象をよく観察して、それについての正しい知識を得たら忘れないようにすること、そしてむさぼりや怒りを鎮[しず]め、正しい智慧[ちえ]を得るようにすること。

8. 正しい注意とは…まったく平静な心になるまで内面に一切の感情的起伏をなくすように心を制御すること。
<(p.233,234、第十講)

JRF 2010年06月13日 4518

……。

>ほどよい加減に事を行うのが中道だが、これを琴の弦に喩えて教えている例がある。<(p.238)

関連薄もいいところだが2010年1月16日,18日(2010年04月22日)あたりのひとこと。ハイチ地震が起きたころであり、M-1 グランプリで舞楽『萬歳楽』を思わせる「笑い飯」のネタ「鳥人」が話題になったあとでもあった。


『日本の呪い』という本を読んでいる。
(…)
人形祈祷に近いものは、最近、それに近いように遊んだ。弓祈祷については、本と違って、2001年の精神分裂症時に二つのハンガーを使って動物を模して踊ったことを思い出す。

JRF 2010年06月13日 3774

(…)
これらは「天使」に関係する。(…)大事なのは、踊ったときの二つの弓も二つの羽に相当できる。そしてそれで踊ることの意味は、羽をどこに生やせば、何になるかということである。(失われたはずの魚のうろこにでも相当するのだろうか。)私の最近の結論を解釈すると、すなわち、他者に生やして心臓に迎えろということになっていた。「心臓に毛を生やす」?

JRF 2010年06月13日 9577

(…)
本によると、弓祈祷の「蟇目法」は、>弓矢で太陽を射る恐ろしい法(。…)それにはトリックがある。たらいに水をはり、そこに映った太陽を射る<。月を射るなら、性交を表すとしていいのだろうが…。まぁ、しかし、精子が矢とすれば、弓は何になるのだろう…睾丸こそ二つの羽とするので良いのか?
(…)
楽譜に書くのはオタマジャクシ。弓を使う「蟇目法」の蟇[ひき]は蛙。…両生類に秘密が?
(…)
どんな名手でも一張りの弓で一里先の心臓を射抜くことはできないが、二張りの弓なら、永遠をへだてた心を射ぬくことができる。


シルクロードのイメージか…。

JRF 2010年06月13日 9923

……。

>中道は、物差しの真ん中と同じ意味に考えられがちだが、そうではない。(…)物差し自体の「中」とは目盛りの中ではなく、物差し自体が平衡を保つところである。(…)中道とはバランスが保たれた歩み、あるいは行為を意味する。
<(p.240,241、第十講)

↓は宣伝みたいなもの。

《balance_mail_redirect:ランダムだが確実にメールが誰かに届くよう振り分けたい》
http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2010/05/post-2.html

JRF 2010年06月13日 2334

上でリンクしたが…

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/125144
>balance_mail_redirect のアルゴリズムの示唆するところは、税のようなスコアを強制的に決めることができるなら、ある種の「臨界」をどこでも作り出すことができるということ。しかし、1 アドレスに複数エントリを許す「縮合」はそれを崩す可能性を示しているのでは?その「縮合」に「自己」の誕生の根拠の一つがあるように妄想する…。<

JRF 2010年06月13日 1388

……。

>修行者も、十分な修行もしていないのに修行が成就しているかのようにふるまったり、反対に修行を十分に積んでいるのにわざと自分を卑下して未熟なものであると謙遜[けんそん]したりするのは中道のふるまいではない。<(p.242、第十講)

…私は修行者になるのかな。それについては↓のコメント欄か。ただし↓の記事自体は今さらだが「一部の人には刺激が強い」類い。ただ、ここまで、この「ひとこと」を読んでこれた方には「必修」の知識だろう。

《シミュレーション・アーギュメントを論駁する》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/10/post.html

JRF 2010年06月13日 2606


私は統合失調症になり、自らが神ではない造物主になったと想ったり、または神ではない超人に列せられたと想うという病的妄想に陥ったことがあります。それはいろいろなことを悟らせようとする体験に思えましたが、それは「悟り」というよりは禅でいう「魔境」に近いものだったのでしょう。

私は「悟り」を覚えません。他の人が「俗」にいて「悟る」と言われると何かおかしなものを見るような目で見てしまいます。

JRF 2010年06月13日 7888

(…)
ただし、私も帰納的に学ぶことはよくあります。これも広い意味では悟ることなのでしょうね。

帰納的にわかったと思ったことを演驛的に、または「必然的」に何かを導けるだろうとして、よくわかっていなかったことに気付くこともあります。これも広い意味では悟ることなのでしょうね。

帰納すらできないこともあります。相手は自分にわかる言葉を話し自分はわかったつもりになっているのに、何一つそこから言葉をつむげないことにもどかしさを感じることがあります。これも広い意味では悟ることなのでしょうか?

JRF 2010年06月13日 7128

……。

>中道の姿勢を端的にいいきったことばがある。

>応[まさ]に住する所無くして、而[しか]も其[そ]の心を生ずべし<『金剛般若経』

禅の語録にも「平常心、是れ道[どう]なり」と表現している。
<(p.243、第十講)

JRF 2010年06月13日 1056

「平常心」についてはスポーツに関し、2008年06月19日にひとことしている。

自信とかプライドという言葉を使うのに違和感がある。じゃあ、それはどういうか、というと、私は外から見るときは、「平常心」と言えばいいのではないか、と思う。
(…)
いや、本人の中で、メンタルなモデルを自信とかプライドで捉えている、そういうコトバを使って説明するというのはいいのですよ。でも、それを見て驚嘆するワレワレは兵常心、じゃなかった平常心しか辛うじて見出せない、という態度を取るべきではないか。

JRF 2010年06月13日 9938

(…)
何か突出した心象によって構成される部分というものを人は決して共有しえないんだ。共有できると思ってしまっては、なんというか、「失礼」ですらあるというか、失礼なのは自分の出自に対してというか、そういう感覚。
(…)
もちろん、こういう感覚が、「それわかります」とは言えない人もいる、と、それが自然である。自然であることがイイとかワルイとかいろいろあるが、自然である。と。

JRF 2010年06月13日 3410

(…)
私は争う者というのは働かないことそのものを責めたりはしないのではないかと思うのですよ。旧約聖書サムエル記上30章でダビデがとどまっていた兵士にも同じ報奨を与えた、それを良いことだと思うような感覚は、ワレワレにもあるでしょう、と。もちろん、それに甘えてしまってはいけないが…。


とはいえ、本のこの部分でイメージしたのは↓だった。

《不完全性定理: 「真」「偽」「わからない」》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/__33e0.html

JRF 2010年06月13日 8109

>ある程度議論が複雑になれば、「わからない」という値は意味のないものになる。

なぜなら、「真」「偽」がわからないときに「わからない」という値を割り振ろうとしても、「「真」「偽」がわかるのか「わからない」のか」がわからないという状況が必ずでてくるというのが、不完全性定理の教えるところだからである。

真偽を探究する者の前には自然にわからない部分が現れる。それは「わからない」という真理に辿り着いたのではなく、その人の状態がそうなったに過ぎないのだ。


「そうなった状態」が中道でしかないのではないか。

JRF 2010年06月13日 9774

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/119891
>社会の反応エネルギー…。
(…)
すでにある制度というのは、化学反応におけるポテンシャルエネルギーの安定な状態にあるようなもので、複数の制度をとってその「中をとる」ことがかならずしも安定な状態にはならない。「中庸」や「中道」であるからこそダメな場合がある。そして目指す制度が、実際、効率のよい安定なものであったとしても、そこに致るまでの反応エネルギー(活性化エネルギー)がたくさん必要な場合もある。

JRF 2010年06月13日 8968

(…)
「中をとる」ことが安定な制度を部分的に実現するものであったとしても、活性化エネルギーが足りず安定な状態に変わり切らないため、「中をとる」部分的な実現だけでも維持するために、いつまでもエネルギーを投入し続けなければならない状態になっているかもしれない。
(…)
「じゃあ、とにかく活性化エネルギーを高くしよう」とすることが、すべてを破壊することもありうる。逆に、全々関係なさそうなところから、うまい「触媒」が見つかることが、安定な状態を導くこともあるかもしれない。
(…)
そういった社会理解が私にはある。

JRF 2010年06月13日 2207

いや、まぁ、なんというか、次講と少し関連して、私は、社会を「中道」に保とうとしていた努力を「自由」のために崩すほうが良い部分があると考えている人間なのですよ。

《「結果」の平等、「機会」の平等》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/02/post_2.html

JRF 2010年06月13日 6589

>「結果」の平等は、一見、「結果」重視に思えるかもしれないがそうではない。これは、同じ「努力」をしたのならば同じ「結果」になるよう、「結果」のほうを操作すべきだという「努力」重視の考え方である。
(…)
「機会」の平等は、ある時点において、それまで努力をしていようがいまいが、平等なスタートラインに立てることを保証し、それ以降はたとえ運が悪かったとしても、それを受け入れなければならないという思想である。

JRF 2010年06月13日 8508

(…)
機会の平等の実現においては、結果の判断が難しいため、てっとり早く指標に現れる成果だけを重視することになる。よって、指標の外に大きな被害をもたらしていても、なかなか気づかないようになるのが問題となる。
(…)
新しい技術の登場なので、どういう「努力」が結果に結び付くのかわからない場合は、機会の平等を重視しようという風潮が強くなるのは当然ともいえる。

JRF 2010年06月13日 6750

typo 「新しい技術の登場なので」→「新しい技術の登場などで」。

引用内の typo。元記事もそこだけ修正した。

JRF 2010年06月16日 0541

第十一講。

この講は四摂法[ししょうぼう]に関する話だが、それを中心に説かれた『六方礼経』(の一部)について、私は以前記事を書いている。特に私と同じ「ニート」「引きこもり」に該当する方、そうなりそうな方には読んで欲しい。

《『六方礼経』にちなみ、友ならぬ知り合いの道を語り解く》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-3.html

そこでは最後にネットと経済の話をした。この講の話とは関係が薄いが、今回はそういった話も折りまぜようと思う。

余計な話が多くなるので、残り二講はだいぶ長く書くかもしれない。

JRF 2010年06月16日 3109

ところで、この本ではいきなり四摂法を説く前に、「自分を愛すること」を説いていく。

>>(…)世尊は詩偈[しげ]をもって次のようにのべた。「どの方向に心で探し求めても、自分よりさらに愛しいものをどこにも見つけだすことはできなかった。そのように他人にとっても各々の自分が愛しいのである。だから自分を愛する人は他人を害してはならない」と。<『相応部経典 第三巻』<(p.252、第十一講)

JRF 2010年06月16日 9518

「どの方向に心で探し求めても」という部分に、私は、阿片の品質管理をしていた官吏を父親に持つジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「自己愛」を想い出した。

「自白」が強要される拷問において、他者への「愛」は、自分が助かるための代償でしかない。その「愛」を失うということは「自分」を失うことという言い方もできるが、そうではない。自分が思っている「自分」こそ不必要であり、そうであるがゆえに「自分」は自分を愛している。それが他者への「愛」に反映している。

そういう精神構造を自力で見つけてしまうこともあるということだと思う。

JRF 2010年06月16日 3921

『1984年』に関するひとこと。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/123256
>「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」だと監視に抵抗したくもなるが、「ビッグ・ブラザーがそっと応援している」だと同じことを結局はやっているはずなのに頼もしい感じ。(…)ニュースピークの辞書に「impossible」の文字はない。<

JRF 2010年06月16日 9357

アイン・ランドの『利己主義という気概』も思い出す。2009年01月10日のひとこと。


Ayn Rand (著) 藤森かよこ (訳) 『利己主義という気概』を読んだ。
(…)
帯に引用のある>アイン・ランドが本書で弾劾してやまない悪とは、「生きているのに死んでいること」である。祝福してやまない善は、「とことん生き延びること」である。<と書かれた訳者解説が《救いの無力さ》を書いた私にとても刺激的だった。

JRF 2010年06月16日 8116

(…)
アイン・ランドの主張を読んで少し倫理について考えた。ランドの生きることこそが目的で、それ以外はすべてそこから出るというのはツッコミどころ満載であっても、人が青春を過ごす上での真実がある。
(…)
私が「危機」を乗り越える上で、何かを付け加えれるとすれば、なぜ死があるのか、という疑問を生じたときにランドの嫌う「集団」を持ち出すことで、やり過ごす、というリロン的導出があることを語ることだろうか。

JRF 2010年06月16日 5673

(…)
私の倫理の核は今のところ《なぜ人を殺してはいけないのか》の記事になる。最初に書かれた三つの「原理」を分業原理、信用原理、保険原理と呼ぼう。(信用原理は連帯原理と呼んでもよかろう。)それぞれに死の契機を含む。しかし、それは残り二つで否定しうる。
(…)
分業原理には、非生産的存在に死を欲する側面がある。信用原理には、死の危機の共有を欲する側面がある。保険原理には、死を賭して試すことを欲する側面がある。

JRF 2010年06月16日 5742

(…)
まず、保険原理はどんな存在であってもいつか生産に役立つことがありうること、危機から逃れる者も必要であり、逃れた者もいたことを示唆する。次に、分業原理は、他者の必要を受ける可能性があること、死を賭してるような余裕はないことを示唆する。
(…)
最後に、信用原理は、全体として生への欲求があれば一人だけ死ぬような勝手は許さないことを示唆する。

JRF 2010年06月16日 6115

(…)
自己啓発本は疎んじてきた…。私はまだ生活費も稼げてない。自分を肯定したいというところまでいっていない。社会が私にどうアファーマティブに接することができるかも考えれていない。違うのかな…。自分をアファーマティブに見ることから、社会の視線を変えようとしていくべきなのかな…。

JRF 2010年06月16日 1448

そういう私にとって「自他互融[じたごゆう]」は欺瞞だし、必要のない考えに思える。

>自他互融、つまり私と相手が融けあって、あなたは私、私はあなたという、互いにいずれが私であなたであるかの区別がなくなるのである。この関係になると相手を愛するのは私を愛することで、私を愛するのは相手を愛することになる。<(p.253、第十一講)

利他は自分のためにも大事である。しかし、利他を優先させるというのは、相手を自分に依存させようとすることでもあり、その上に立っていなければ不安になる自分を許すことでもある。私は人を信じる、しかし、これを読むあなたを疑う。

JRF 2010年06月16日 5730

……。

>釈尊は愛護の心に四つあると説いた。仏教用語で「四摂法(四摂事[ししょうじ])」といい、(…)与えること(…を…)布施[ふせ]といい、親愛なることば(…を…)愛語といい、人の為に尽す(…ことを…)利行[りぎょう]といい、協力する(…ことを…)同事[どうじ]という。<(p.254、第十一講)

ここで第九講の「過去へ輪廻」することを「補講」しよう。

JRF 2010年06月16日 3206

2008年07月30日のひとこと。


未来が過去に影響する、というのを「正常」な範囲で述べるなら、今なら投資に関する話がうってつけ。つまり、未来の期待のもとに現在の価格が決まっているわけだが、じゃあ、その期待を形成するものを「私」がすべて知りうるかというとそうではない。

「私」がその未来の期待にコミットするようになったとき、すでにその未来の期待は、経済という形で過去の私にコミットしていて、ときどきそのことに気付かされることもある。

JRF 2010年06月16日 9357

(…)
当然、期待が大きくはずれて、しっちゃかめっちゃかになることもしばしばなんだけど、それは過去の認識の誤りを訂正を求めることもある。…誤りを訂正しなくてもなんとかなることもあるし、なんとかはなっているけど、経済では影響をうける。

この辺、(…)《時間の貨弊価値:金で買えないモノはないか?》を思い出す。なんだかわからないけど価格に表されると、それを加味していたと解釈するほかない。未来など私達は予想してないといくらいっても、価格にはそれが現れていると見るほかない。

JRF 2010年06月16日 4261

(…)
《時間の貨弊価値:「金で買えないモノはない」か?》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/post_27.html

釈尊の時代、中国でも諸子百家の時代、移動の時代だった。釈尊が悟った後の最初の弟子は、商人だった。経済というのは、社会の悟りという場合は当然、個人の悟りに関しても多くの宗教者が思っているより大きな要素なのかもしれない。

JRF 2010年06月16日 0254

仏教の成立と当時の経済に関し、この著者の別書『仏陀のいいたかったこと』に関するメモに↓のようなことが書いている。(ネット初出)


* なぜ、権力をもった王は、自ら教祖になろうとせず、宗教家に従ったのだろうか。

「戦争が起きたときに勝てるもの(王)」と「戦争をおこさないようにするもの(宗教家)」は別々でなければ信用されない。武器をたくさん蓄えて、戦争を望んでいないと唱えても説得力はないからである。

JRF 2010年06月16日 6037

(…)
「戦争をおこさないようにする」宗教も、ひとたび長い安定が訪れたあと、「他人のせいで」不況となったり、民族の威信を保つ必要があったりして、人々が戦争を求めるようになると、または、王の権威がないなかで戦争を求めるようにしたくなると、「戦争が起きたときに勝てる」宗教が必要となる。このときカエザロ・パピズムの問題が起きる。
(…)
ただし、「戦争が起きたときに勝てる」宗教は、王を「敵」とする「真の王」を中心とした宗教組織の存在も結果的に許すことになる。そうなると、国内の安定を妨げ、戦争に勝てなくなることも多い。

JRF 2010年06月16日 8704

* なぜ、王は新たな宗教を求めていたか。

諸子百家の時代は、「農業と身分」(自前主義)の宗教から「商業と貨幣」(国際分業)の宗教に脱皮する始まりの時期であった。通商から税を得るために下のものにだけ強く国際情勢に疎い貴族とは別の管理者を王は必要としていた。
(…)
また、市民は、王の商業基盤の獲得など自分達には差し迫った理由のない戦争に疲れ、問題を戦争ではなく合理的な交渉で解決できるようにする枠組みを求めていた。新しい宗教には、単に伝統を守るだけでなく、商業的付加価値を産み出す動機づけも求められていた。

JRF 2010年06月16日 3908

(…)
洪水伝説は、「採集と狩猟」に結び付いたシャーマニズムが、「農業と身分」に結び付いた多神教に変わるときに、自然破壊を食い止める動機付けをなくしたために起こった災害を記録したものだろう。
(…)
なお、宗教改革は、「商業と貨幣」の時代から「軽工業と紙幣(銀行)」の時代への変化が背景にある。現在は「重工業と債券(公開市場)」の時代から「環境制御と電子マネー」の時代への過渡期なのかもしれない。

JRF 2010年06月16日 7166

(…)
生産力の拡大と都市の発達によって、治安のための人口調節が必要となり、避妊技術の少ない当時には、宗教のみがその役割を担うことができた。多すぎる貴族を直接減らすために僧院が必要とされた面もあった。

JRF 2010年06月16日 6299

(…)
* 「無尽蔵」などの金融業まがいの事業が、釈尊の死後の教団では公然と相当広汎に行われたことについて。

僧院の金融業化は、この当時むしろ普通であり、ひょっとすると、それが盛んなフェニキアなどから仏教にも伝わったのかもしれない。金融には信用が必要であり、高利貸しの暴力的取立てよりは、宗教家による柔和な取立てのほうがマシだという判断もあっただろう。

JRF 2010年06月16日 9751

(…)
* 大乗部は十カ条からなる改革案を提示したが、退けられた。その中には「酒とならないヤシ汁は飲んで良い」や「金銀の貯蔵を認める」という問題が多いものがあった。なお、王族は上座部を支持し、彼らの中から(…)伝道者を送った。…ことについて。

JRF 2010年06月16日 9089

(…)

著者は、大乗部の改革案を、怠惰なものとして一蹴しているが、ヤシ汁は牛乳などがないところでは、その代わりとなっただろうし、布施の伝統のない場所で布教を行うためには、金銀の携帯も必要であっただろう。改革案に共通しているのは、「自力で」遠くに布教するのには必要なものという点である。逆に改革案を認めないことで、王と仏教の結び付きがなくてはならないものになってしまったのではないだろうか。

JRF 2010年06月16日 4564

金融と宗教の関係に関して↓が関連。紙幣(匿名債権)を機能させるには、集団から強制的に取り立てる手段が必要になる。インスラムのクルアーンがゲリラを容認するようなところを残しているのは、紙幣制度の成立に向けた長い試行錯誤が背景にあるのではないかとも、私は邪推している。

《『新約聖書』ひろい読み - 神殿とハト》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/08/post.html

JRF 2010年06月16日 0447

これからの時代は「環境制御と電子マネー」とあるが、電子マネーについては「消費税還付」「匿名支払い」「電子著作権」を柱に、かなりたくさん「ひとこと」している。それぞれ、ほぼ最新のもの、代表的なもの、リンク集にリンクしよう。

《案外、これから消費者庁をどうするの?という問いがあるのかな。》
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/119666
《「日銀カード(仮称)」構想》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/09/post.html

JRF 2010年06月16日 0836

《P2Pファイル共有がある社会の著作権法に向けて》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/06/post_2.html

JRF 2010年06月16日 4471

いわゆる「環境問題」についてはあまり「ひとこと」していないが、妄想的なものはある。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/105879
>>間接侵害の和解と「三位一体」説<は、神学に繋ったから真実に近い…のではなく、(…)「終末」の喜ばしい予兆ではなく社会の「死亡フラグ」で、おかしな方向に行きかけてると考えたほうがよい。(…)ただ、日本は、開発者の逮捕に踏み切っているため、それを不思議な圧力で「なかったこと」にでもしない限り、三位一体の方向を模索するしかないのではないか?<

JRF 2010年06月16日 9617

《はてなブックマーク - Winny事件高裁判決: 壇弁護士の事務室》
http://b.hatena.ne.jp/entry/danblog.cocolog-nifty.com/index/2009/10/winny-0ca7.html
>台風が過ぎた大阪。「神風」だったのかな。<

JRF 2010年06月16日 7765

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/117811
>(ハイチ地震のあとを受け…)古代アメリカ文明では、心臓に関する祭儀があったと我々は聞かされたものだ。(…)「台風」の回転をなんとか制御しようとすることが、筒として働く惑星に負荷を貯め、それがあるとき「ベコン」と鳴動するということはないか…。<

JRF 2010年06月16日 2469

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/119506
>ジョン・アダムズ:歌劇「ドクター・アトミック」(のBS録画)を観る。原爆実験直前のドキュメンタリー風オペラ。私的には気象予報官と将軍とのやりとりが興味深かった。<

JRF 2010年06月16日 1337

現代の環境のメインテーマ「温暖化」に関し、もう少し「現実的な妄想」をさきほど↓に書いた。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/126548
>「温度」の定義はいろいろ可能性があったが、二酸化炭素の排出がひとつの「温度」の指標となりえ、それと平均気温との間に「裁定機会」を生じうる。そこに利を求めれば、「環境破壊」は止まるだろう…というモデルがあったのだろうか。<

JRF 2010年06月16日 4556

経済が活発になる…例えば、結済指標である GDP が大きくなると、人々がより幸せになる理路は、2009年05月12日のひとこと。


なんで GDP が重視されるか、というと、物の交換があるときは、相方に効用の上昇があるはずだから。食い物が余ってる人がいて、食い物を買えたなら、買えなかったより良いことだよね、その積み重ねが GDP なんだよってことだと思っている。外部経済とかの話は本を読んで判断のこと。

JRF 2010年06月16日 9896

(…)

でも、『人工社会』を読んでると、確かに交換があれば厚生は上がるけど、個人の消費の構造が効率的であったり、情報をしっかり手に入れられること、「内部」的で GDP に現われないことも重要なんだなぁ、と思う。


もっと単純には、経済が悪くなるとき、物が手に入りにくくなり栄養状態・健康状態・治安の悪化があって、さらに医療や司法へのアクセスに困難が生じたりして、間接的に多くの人が「殺される」ことになると言える。

JRF 2010年06月16日 2278

《盗びとに頼ろうとする者を見たならば》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post_15.html
>金のために盗みをする者は、成功することがない。本当に貧しい者からは奪うものがなく、本当に富める者から奪うのは至難の業である。奪うためにはまず与えよ。
(…)
もし、あなたに与える方法がないことに絶望したなら幸いである。それでも希望を持ち続けようとしてこのような言葉を憎む者を本当に理解できるようになるから。

JRF 2010年06月16日 2833

宗教者が「知識階級」として、「現実」に向き合うことを求められる歴史があった。今は他の専門職が発達し、そういった面では昔ほどの緊張感はない。それでも、ボランティアの中心として宗教団体がよくも悪くも力を発揮せねば、行政のスキマが埋まらないというのは今もある。

JRF 2010年06月16日 5095

……。

>布施には物の布施だけでなく、教えの布施もあるという。出家者は一切の生産活動をせず、ひたすら修行に明け暮れるので、(…)物を持っていない。したがって飲食物をはじめとする数々の物は信者が施[ほどこ]すことになる。<(p.257、第十一講)

現代は、土地の有効活用の促進といった側面もあるだろうが、上のリンクで書いたような「機会の平等」の主張がある程度力を持ち、税率としては高い相続税や贈与税がある。布施の現金的なものに「寄付」があるわけだが、この「寄付」を無節操に認めるなら、それらの税に意味がなくなる。

JRF 2010年06月16日 4985

現代はあらゆる場所が都市の性格を持ち、現金がないと生活ができない。よって、現金を「教え」に対して得たいとなるが、「教え」すなわち情報は、そのままでは、非競合性と非排除性を持つ典型的な公共財であるため、その反対給付としての現金を特定人に支払う根拠がなくなる。それは「贈与」とみなさざるを得ない。

これを解決するには二つの方法があって、すなわち、反対給付を「対価」として扱うため、独占的な強い権利であるところの著作権を認める方法と、宗教法人として「教え」の公共性を宣言させ税の例外を認める方法である。

JRF 2010年06月16日 9570

しかし、現代、著作権については独占を可能としていた印刷技能の希少性が薄れ、さらに、独占を自然に制限していた情報メディアの遠隔管理の不能性が危機にある。上に書いたように私は「デジタル著作権」の問題についても頻繁にひとことを書いていた。

また、一方でインターネットは少額決済と「公共的な宣言」のやりやすさを飛躍的に実現している。これは贈与税の新たな例外の可能性を示しているように私は思う。この方向での考えの一端として、はてな社のサービスに関しいくつかアイデアを出している。

JRF 2010年06月16日 8660

《はてなブックマーク「投げ銭予約」のアイデアまとめ - 金本位制のメタファより》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post_7.html
>このアイデアは、ほんの少し責任のあるレーティングとして、はてなブックマークポイント(投げ銭)を使い、そのレーティングの信頼性を「送ポイント総額」「予約総額」「予約総額のうち送ポイント可能額」を開示することで判断してもらおうというものです。<

JRF 2010年06月16日 9330

《はてなブックマークについての私のポリシー》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post_1.html
>はてなブックマーク経由で送ったはてなポイントは自己満足のため、自分の中では寄付というよりは Amazon のレーティングと同じような扱いです。<

JRF 2010年06月16日 8012

ここで「レーティング」であることを強調しているのは、ひとえにその「贈与性」が税の観点から問題になるからである。「自己愛」を満足させるための「対価」という理路、または、公開性・無差別性による税務当局等の(相手の所得の)監視可能性を増すという理路を主張している。

元をたどれば人が「平等」を求めたことへの応えであるためか、要請に応えるための「無差別性」は、宗教者の態度に求められるものに一致する。

一方、「自己愛」を肯定することは特に日本では嫌われる傾向があるが、むしろその反面の有責性の強調が意味する上で書いた「利他」の問題が意識されるようになることで、いずれ理解されると考えている。

JRF 2010年06月16日 6213

《はてなアイデア - ポイントバック予約付き空スター。読んで欲しい人が読んでスターを付けてくれたらポイントを渡すよう、はてなに予約する機能。》
http://i.hatena.ne.jp/idea/24534
>社会人の弟子が師匠の指導を受けるとき、契約等にもとづきこの機能「空[から]スター」を使うことなどを想定しています。<

これは行事ごとの謝礼にでも相当しようか。公開でやるのを憚[はばか]りたいというのはわかるが、電子マネーの匿名性が必要という私の立場で、税の観点まで考慮すると、あまり秘密にばかりもしてられないという判断がある。

JRF 2010年06月16日 7648

《はてなアイデア - はてな定期休眠ポイント。保管手数料を取り、解約手続きをしなければ通常のポイント支払いに使えないかわりに、最終利用日から1年を経過した場合にも無効にしない制度をつくる。》
http://i.hatena.ne.jp/idea/26294
>はてな社が金融機関とならないために、はてな利用規約第7条7項の「最終利用日から1年を経過した場合に無効にする」規制がつくられたと私は認識したことを思い出しました。また、かつてデフレに対応するための減価する貨幣制度が必要でないかという議論も思い出しました。 <

JRF 2010年06月16日 0149

もちろん、そういったシステムを支える側への配慮も必要であり、経済として目指す方向、そういう方向を目指せる経済にたまたまある国が世界に対して持つ責任というのも考えていかなければならない。

《シリアルナンバーや ID、ポイントの譲渡を可能とする場合の考察(違法取引や資金洗浄の防止方法等)》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/09/post_1.html

JRF 2010年06月16日 8159

そうやって「財」が得られる方向を私は願っている。

>「(…)教えも願うと財宝となる。また財宝も願うと教えとなる。」と道元禅師は(…『正法眼蔵』の中で…)説いている。(…)道元禅師は、自然界の営みはすべて布施の利他行と受け取っている。<(p.261,263、第十一講)

JRF 2010年06月16日 0771

……。

>>愛語とは相手が喜ぶことば、味わいのあることば、(…)先に「元気?」とか「どうした?」と声をかけることば、愛されることば、「ようこそ」のことばなどである。<『阿毘達磨集異門足論 第九巻四法品』
(…)
わが国でも、はじめて出会った相手に「ようこそ」と挨拶[あいさつ]されると、誰でも好感を持つ。(…)愛語は「ようこそ」のことばで代表されるといえよう。

JRF 2010年06月16日 6363

(…)
これに類する言葉は(…)現在も禅宗寺院で使われている「珍重[ちんちょう]」と「不審[ふしん]である。珍重とは別れるときに自重自愛を祈ることばで、俗にいう「お大事に」に当たる。不審とは「ご機嫌いかがですか」ということばに当たる。
<(p.263-265、第十一講)

著者の別書『禅語散策』にもあったが、「挨拶」という言葉が、禅家では相手の悟りの「レベル」を探り合うことを意味する。

JRF 2010年06月16日 5565

最近、↓ということがあった。カンバンをある地に撒[ま]くのも、「ご機嫌いかがですか」の挨拶なのだろうか?ちなみに『広辞苑』によると「機嫌」には、仏教語として「人々がそしりきらい、不愉快に思うこと」という意味がある。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/125921
>町内会が「みんな見てるでー不審者を」というカンバンを貼るようポストに配っていた。しかも、今日歩くと割と貼っている家があって、ものスゴくショックを受けた。こういうカンバンは、かなりある意味「逆効果」だし、将来、ファシズムや外国人排斥の証拠として挙げられてもしかたのないものだ。 <

JRF 2010年06月16日 3292

……。

>>利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。<『正法眼蔵 菩提薩[compo:土垂:スイ]四摂法』

利他の行為には、返礼や果報を期待する気持ちがあってはならない。それを道元禅師は、泳げなくなった亀や飛べなくなった雀を介抱する気持ちが利行の心なのだとのべている。傷ついた動物を介抱し、治療してやるときに(…)返礼を期待している人はいない。<(p.269、第十一講)

JRF 2010年06月16日 3229

「対価」を期待しない。じゃあ、何を望んでいるのか…といわれれば、「彼」が「我々」の生を紡いでいくこととでも答えるしかない。

また、経済の話になるが、価値を表すために使われる貨幣というのは罪深いもので、便利ではあるがそれが自分に対しても使われることから誰も逃れられない。

JRF 2010年06月16日 4828

2008年11月22日,25日の「地域通貨」のアイデアなどに対し「贈与と望みの積算開示のための交換簿」なら、別の様相があるとするひとこと。

貨弊を使わずになんとかならないか、というのは未来の社会を夢想する人なら誰でも考えたことがあると思う。自分にとって必要な物や労働をネットやコミュニティ誌等を使って直接取引する。ここで証券を介するようになったらほとんど貨幣と代わらないというより不便になるだけになる。

JRF 2010年06月16日 5841

(…)
むしろ、自分の必要やそれ以外の欲求を正しく開示し、それを信頼できるものにもっていく…という方向を先に進めるべきではないか。買うよりもむしろ見て与える。与えられ「望み」がかなったときに、満たされたことを(積立てて)開示して、自分より以下のものが「与えられるべき」ことを示す。これも効用会計。
(…)
ウィッシュリストを ID を隠して公開する、みたいなものがあるといいのかな?地域や年齢層にひも付けされて公開する。とくに自分がよく使う店のある地域をタグとして指定して、そこで見て買いたいというのを公開する。

JRF 2010年06月16日 9380

一方で、そのような贈与を貪[むさぼ]り取られないために「監視」が必要とされかねない。匿名性を持った貨幣は便利というだけでなく、それに対する切実な願いがこめられている。

↓は宗教の歴史を知る者ならばわかるだろう。2008年08月28日,2008年10月14日,2008年10月31日,2009年07月02日,2009年07月21日のひとこと。


プライバシーは私生児の生命を意味することがありうる。本当にプライバシーが必要な状況というのは確かにあるが、人はときに無意識的にそのような状況を擬したダミー行動を行う。その自由としてプライバシーを主張できるべきだ。

JRF 2010年06月16日 9733

(…)
それはある種の自尊心、自分だけしかわからないことがある、自分がかかえなければならないことがある、といった心として表現される。それが事実である必要はない。プライバシーとは自尊心の領域とほぼ同義であると私は言ってしまう。しかし、それは社会が事実を知るべきでないことを意味しない。

買い物袋の中身を調べたり、冷蔵庫の中身を調べたり、というのは信じている宗教を知らせてしまうという点で、(ところによっては)重大なプライバシー侵害になり得る。だから、(税)還付(や給付)の受け取りを民間にやらせるんだ、と飛んではいけない。

JRF 2010年06月16日 4377

(…)
国がプライバシーに介入しないのは、「理解」を拒絶する(他者の可能性を望む)のと、「理解」されない(そもそも他者である者で構成される)のを多とするため。国が他者を求めるため。
(…)
金さえ出せば手に入ることが自由だ。断圧などがあるとき、互いに知り合わずに物資を手に入れられるのがそもそもの自由だ。違法物を手にして逃げ隠れできる法理の穴は堅持せねばならない。もっとも、今、違法物を扱う者が「そのとき」売る者とは限らないけれども。

JRF 2010年06月16日 5712

(…)
長期に互いに知り合わずに物資を手に入れられる前提として、物資を手に入れるための仕事をどこで見つけるかという問題がある。働き口の「親方」が仔細を問わない可能性があるのは、商品を誰が作ったか消費者が気にしないことが担保となる。

もちろん、そこには搾取の構図がありえるわけだが、同時に「匿名者」に働くチャンスを提供しているという側面がある。この構図がうまく作用すれば本来なら人々は匿名の貧困者をなくそうという方向に動くはずである。

JRF 2010年06月16日 9188

(…)
搾取から利益を得ている者が、「匿名者」を生み出す構図を温存しようとしているという見立てを語ることは常に可能だろうが、むしろ社会が「匿名者」を追いやっていることのほうが多く、それから守るためにむしろ「搾取」者ががんばらなければならないのが実像ではないか?

フェアトレードで中間搾取があるからダメだとかいう議論には私は与[くみ]さないが、誰が作ったかを特定できるというのは、それ以外の「匿名者」のチャンスを奪ってないかというのは気にかかる。

JRF 2010年06月16日 3401

……。

>第四の愛護心は「同事」である。同事は平等という意味である。つまり私と他人との区別を立てないこと、あるいは差別しないことをいう。
(…)
私が私を愛し保護するように、他人を愛し保護することは簡単にできることではない。(…)同じ境遇で私と他人がともに苦しんでいる時、苦しみをともにしているから平等であるとは理解できても、その平等観から他を救う行為がすぐには生まれてはこないだろう。頭のなかで考えた平等観に終わる。
<(p.270、274、第十一講)

JRF 2010年06月17日 8860

命の重みの「平等」について考えたことがある。

2008年06月20日,2008年12月12日のひとこと。

以前、日本人ならわかってくれるだろうという文脈において「人の価値は違う。先進国の住人と途上国の住人とでは命の重みが違うのだ。」ということをある外国人が語っているインタビューを観たことがある。
(…)
「命の重みに違いがある」ということを平気で言っていないとは言わない。(…)でも、そこには人の深い悲しみがある。その人のものでは今、ないかもしれないが、悲しみがある。

JRF 2010年06月17日 3988

(…)
その悲しみを前にして、平等とは本当にありえるのだろうかと思う。敵に直面する国と、穏やかな国、その軍、軍人ではない市民達、そこに平等というのもがあるか。
(…)
私にとっては答えは決まっている。

平等とは「割り切り」である。

これも悲しい答えの一例なのかもしれない。でも、愛敵があるなら、ありえるなら、それでも救いはあるのではないか。

そこには「愛敵」となってしまったものが許されてなければならないだろう。

JRF 2010年06月17日 5079

(…)
私はね。実は最近、「差別」という言葉を使って何かを求める者が嫌いなんだ。だから、あえて言ってしまおう。

救いに前提を求めるなら、私は「表現の自由」と述べよう。それは現代の立派な「表現の自由」ではない。敵味方となった者が集って、あえて抑圧の中、最後に未来のために「何か」を表現する。「それだけ」の自由、現代ではむしろ難しくなった自由である。

効率性を追求していけば、差別というものはしだいになくなっていくはずなんですよ。人というのは元来平等なんだから、差別なんてなくしたほうが効率的だ、例えば統計的に、そうでないように見えたとしても、それは平等の割り切り方が間違っているだけなんだ。

JRF 2010年06月17日 5322

(…)
効率性というものを重視している社会でなくなっていないものがあるとすれば、それは必要だったものなのですよ。何かの「たたり」のような強烈な意志かもしれませんし、悲しみに適応した結果かもしれませんし、そういう物は残っていっていいのですよ。愛敵で社会がつながれるならね。

いやいや、つながれるんですよ。私に関してはそう信じます。
(…)
平等があったとすれば解決したとみなすしかない問題がある。人は意味のある偶然を違った生き方で過ごす。不幸も幸運も、引き受ける孤独があって、分かち合う社会がある。

JRF 2010年06月17日 5685

平等に関する私の記事。

《神の前での平等》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_3.html

JRF 2010年06月17日 0999

>「神の前での平等」とは、「人の判断には限界があり、いかに優秀な人であろうと、そうでない人であろうと、神の全能さの前では平等であるから、人は人に対して謙虚でなければならない」という考えと解釈できる。(…)もちろん、このような人間の無力さを唱えることはどのような宗教でも共通してあり、仏教であれば「人である限りの世の無常」や「縁起を知ることはできない」といい、多神教であれば「神といえども自由ではない」という。(…)そもそも「平等」という概念が必要なのは、人が何でも自由になすことができないがゆえに、分配の問題が生じるからである。よって、人の限界を示す「神の下の平等」がすべての平等概念の基礎になる。<

JRF 2010年06月17日 6965

《「自由と平等」のレトリック》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/11/post.html
>入札や輸入の条件を緩和し自由にすることで、これまで除外されていた者が機会を得て参入が可能となり、より平等に近づくことがある。教育の機会を平等にすることで、はじめて、貧しさから脱却する自由を得られる場合がある。「自由」と「平等」は対立する概念ではない。<

JRF 2010年06月17日 2484

第十一講終り。

さて、今回は思いっきり関係ない話をしたわけだが、案外こういう別方面へのリンクのほうが読者の将来に関わるのかも…?

JRF 2010年06月17日 2826

補足。

私は中古ゲームや古本をはじめ、よく考えれば日々の食事にいたるまで、そのかけられた努力にくらべれば随分安く物を手に入れている。それは、すなわち、私は(まともな修行者でもないのに)布施をたくさんいただいているということだろう。でも、あなたがやっぱりそれは布施と言えないと感じるなら、きっと、布施は信頼を布施するものだからだろう。

「公共財」に関する「贈与」について。もらう側にとって相続税・贈与税が問題となるとき、渡す側は、バラバラの「価格」で提供するということで、不正競争または端的に詐欺、相手に権力があれば贈賄に問われうる。渡す側の自制として明暸な基準が求められるだろう。

JRF 2010年06月21日 9096

第十二講。

「はじめに」で説明されていた三法印(諸行無常印, 諸法無我, 涅槃寂静)について、↓によると三法印は小乗のもので、大乗ではそれを説かず一実相印を説くという。

《三法印 - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%95%E5%8D%B0

JRF 2010年06月21日 0132

しかし、現在、一実相印へのリンクはなく、「小乗では生死と涅槃とを別にみるから」三法印というヒントがあるのみだ。だとすれば、逆に、一実相印というのは、世界を一つの「実相」のみと考えたということなのだろう。つまり、大乗は「小乗」の三法印を、いってみれば「行相」と「法相」と「涅槃相」の三つの世界に分ける考え方としていたのではないか?

JRF 2010年06月21日 8707

「行相」が形而下、「法相」が形而上、「涅槃相」が神秘という考え方もできるが、さらにそれを俗世の人々がいる「行相」と修行者のいる「法相」は違い、さらに仏陀のいる「涅槃相」がその上にあるという上下関係のある世界観と解釈し、そうではなく皆が一つの「実相」に平等にいるとせねばらないというのが「大乗」の理解だった…と私は推測する。

ただ、その推測があたっていたとしても、「三法印ではなく一実相印だ」という言説には、その裏に「三法印と一実相印が実は同じことを言っている」という「疑い」を抱かせる効果があることに私は驚く。それはキリスト教の「神秘」三位一体と同じところを指しているのではないか、と。

JRF 2010年06月21日 7851

キリスト教の三位一体は、父なる神と子なるイエス・キリストそして内なる聖霊は、唯一の神の三つの位格[ペルソナ]であるという教理である。無理に上にあてはめれば、父なる神が「法相」に、残り二つは難しいが、復活を重視すればイエス・キリストが「涅槃相」に聖霊が「行相」に相当するだろうか。(もちろん、「相」を神の現れとするある種汎神論的なこの解釈がキリスト教的に受け容れる余地がないのは疑いないが。)

JRF 2010年06月21日 0282

「三位一体」はキリスト教の最も基礎的なしかし最も説明が困難な「神秘」で、神学に関して私見をバラ撒く私も、まだ記事にしていない。本としては↓を私は参考にしている。

棚村 重行『現代人のための教理史ガイド』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4764265524

アリスター・E・マクグラス 『キリスト教神学入門』(神代 真砂実 訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4764272032

JRF 2010年06月21日 2253

ただ、冒涜[ぼうとく]的にその議論を応用して、著作権に関する和解にその関係を見出そうとしたもの(ひとこと)がある。

《間接侵害の和解と「三位一体」説。》
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/104131

ただし、上にもリンクした↓。
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/105879

JRF 2010年06月21日 4261

>>間接侵害の和解と「三位一体」説<は、神学に繋ったから真実に近い…のではなく、むしろ、「一度通った道」臭がすると考えたほうがよい。「聖霊的責任」が「聖霊の時代」を想起させることも、「終末」の喜ばしい予兆ではなく社会の「死亡フラグ」で、おかしな方向に行きかけてると考えたほうがよい。 <

(なお、四法印(三法印 + 一切皆苦印)というのもあるそうだが、それは天国・地獄・地上に煉獄を足したものに実は相当するのだろうか?)

JRF 2010年06月21日 4547

もちろん、三つを一セットで使った教えは、仏教だけでもいろいろあり、本には載ってるが紹介しなかった三毒(貪欲[どんよく]・瞋恚[しんい]・愚痴[ぐち])や、三業[さんごう](身・口[く]・意)などがある。

私が書いたものでは、一番上のものが三つの命題で構成されていると読めるし、上の「なぜ人を殺してはいけないか」の分業原理・信用原理・保険原理がそうだ。さらに、《魂の座》に関しては「神の記憶モデル」「霊的肉体モデル」そして「意志の働きを脳の動きに完全還元することへの無限反駁可能性」がある種「非平衡的」三位一体を構成している。

JRF 2010年06月21日 3103

……。

>(…)教団は分裂したが(…)釈尊への思慕は強かった。それは、弟子たちが釈尊を超人的に思っていたからである。釈尊の死後さらに神のように信仰する傾向が強まるとともに釈尊を生前の肉体を持つ姿と、死後の教えの姿とに二分して、弟子たちは考えるようになった。(…)弟子たちは生前の釈尊の姿を色身[しきしん]、つまり物質的要作が集まった肉体と考え、死後の釈尊を法身[ほっしん]、つまり教えが集ったもの(身)と考えた。<(p.276,277、第十二講)

JRF 2010年06月21日 2545

キリスト教神学において、キリストは神であり人であると説くが、その「二つ」がイエスにどうあったか(またはどうあるか)を論じるキリスト論という分野がある。上では法身と色身がどう「同じ釈尊」であるかという議論として応用できるか。

JRF 2010年06月21日 7099

まず、新約聖書のキリストの生涯を書いた複数の福音書の間において、すでにキリストの復活の観方に違いがある。『マルコによる福音書』では、後代の者により第16章に復活に関する部分を書きたされたが、当初それをまとめた者は、復活を示唆するに留め、復活後のイエスを描くことすらしなかったと言われている。

中世までにも様々な考え方が異端とされた。イエスは単にヨセフとマリアの子で後に神の霊を受けたに過ぎないとしたとされるエピオン主義。イエスはただ神であって人として見えるように現れたという仮現論。イエスは人ではあるが人性は持たず神性のみ本性として持つという単性論。…などである。

JRF 2010年06月21日 6884

動機付けという観点から見れば、これらの「異端」が示すのは、人が権威者としての神になって今の権威から独立して教えができるとするのか、宗教活動の模範として始祖(の理想化された生活)を到達可能な目標と見るのか、人類の「代表」として、しかし一回きりで贖罪できたかという議論を通じて、原罪の意識を共有し委託のない代償に恩を求めるのを善いこととするのか…といった問題になる。

JRF 2010年06月21日 3626

どんな(新興)宗教でも、始祖の「神性」というのは、外から揺るがせられるものではないが、それまでの宗教との「継続性」の問題は必ずある。

《教義の内発性と外部の影響》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_1.html
>教義に目覚め、それを迫害の可能性がある中で強く主張しようとする人間は、やはりその人生から内発的にその教義をつくり出したという自負があるからこそ、迫害と戦えるのである。しかし、一方、それが今日まで教義として受け継がれるためには、その教義が受け入れられる基盤というものがなければ、難しい。<

JRF 2010年06月21日 3815

いくつかの公会義を経て、基本的にイエスが神であり、イエスですら「神に成[な]った」ということはないというところが正統として落ちついたわけだが、中世以降も、東西に分かれたキリスト教の東側には、修業者の「神化」という概念があった。

《正教とロシア革命前夜:『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』を読んで》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/03/post_1.html

JRF 2010年06月21日 7401

>(ギリシャ)正教では、人が自らを罰して屈辱的状態になることは、何の意味もないとするが、神が人を罰していることに気づき苦しむことと、神のイコンを信仰生活によってとりもどして、そのような「死」に似た苦しみから人が「復活」することは、求める。その過程を「神化」と呼ぶが、これも誤解を招きがちな表現である。<

JRF 2010年06月21日 2144

これは修業者の人生が人の聖的な模範となることを重視するためと私は解釈する。

キリスト教ではギリシャ哲学を経てロゴス=ことばを重視し、『ヨハネによる福音書 1:14』にはイエスこそ「言が肉となった」者という信仰すらあった。でも、それでは「不立文字」のような教えがないのかというと、やはり何かはある、というのを体現しようとしたのが「神化」を求める修業者だったのではないか。

JRF 2010年06月21日 0511

イスラムにも近代化を経る過程で下火にはなったそうだが、スーフィズムの流れがあり、スーフィーという(神秘主義的・民衆派的)修業者が「われは神なり」「われに栄光あれ!」という言葉を修行時に用いることがあったという。(↓はネット初出。)

>スーフィーにとって、預言者の信仰と体験はまさにその理想であり、原体験であった。しかし、境地において大きな差があり、聖者の終わるところから預言者が始まるのである。聖者の体験は、ムハンマドの体験の証しである。スーフィーが「我は神なり」というとき、それは神と並ぶ者になったことを意味しない、神の手足であることの体得を意味する。<

JRF 2010年06月21日 4793

↑のメモは、↓を読んで自分なりにスーフィズムを要約したものである。

中村 廣治郎『イスラム 思想と歴史』
http://www.amazon.co.jp/dp/4130060708

JRF 2010年06月21日 0150

では、仏教の法身と色身の議論に、これらの議論をどう結びつけられるだろう?

おそらく、釈尊の未来への「輪廻」をどう考えるかという問題に相当させられるのではないか。法身が実体をもった輪廻なのか、少なくとも人とは言えない何かになるのか、別名を得ているに過ぎないのか。実体を持つとした場合、修行者が釈尊の輪廻としての地位を「獲得」するといった「神化」に近い概念も出てこよう。

JRF 2010年06月21日 9278

……。

>現に見たことはないから阿弥陀仏や毘盧遮那[びるしゃな]仏が実在しないいわれはないといい、さらにナーガセーナ僧は(…ミリンダ王に…)次のようにも答えている。

>王は問う、「尊者ナーガセーナよ、ブッダは無上者ですか?」「大王よ、そうです。尊き師〈ブッダ〉は無上者です」(…)<『ミリンダ王の問い 1』

ブッダと呼ばれた釈尊を現に見たことはないが、釈尊の教えにしたがって修行した結果、多くの弟子が解脱している事実を見れば、釈尊が無上の教師であることは推測できるのだという。
<(p.280、第十二講)

「無上者」という言葉を読んで、私は、アンセルムスの「神の存在の証明」を思い出した。

JRF 2010年06月21日 5100

八木 雄二『中世哲学への招待』(平凡社新書, 2000年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4582850693

↑を参考に次のようなメモがある。(ネット初出)

JRF 2010年06月21日 2289


>「z が考えただけの x よりも実在する x のほうがより大いなるものである」とする。「x より大いなるものが考えられない x」は実在する。なぜなら、もしも「x より大いなるものが考えられない x」が実在しないとすれば、「そのような x が実在する」と考えた実在 z の方が、単なる考えである「x より大いなるものが考えられない x」より大いなるものとなり、これは z の考えに矛盾する。<(p. 89)

JRF 2010年06月21日 1877

(…)
この証明の問題は z の考えには矛盾しているかもしれないが、別に「x より大いなるものが考えられない x」は実在しないという命題には矛盾していないことにある。つまり z の考えが間違っていることしか示していないのである。

>この証明を概念から実在への「飛躍」と見るかどうかは「存在と論理の一致」をどこまで認めるかにかかっている。<(p.90)

この証明の「大いなる」には、別に「優れている」という意味はなく、ただの順序を表すだけであり、「飛躍」というほどのものではないのではないか?

JRF 2010年06月21日 2159

集合論で(半)順序を考えるとき、最大値は常に存在するとは考えない。ある集合に順序を(文や関数を使って複雑にでも)定義したとき、何かを複数取って、そのどれより大きいものが存在するからといって、集合の要素すべてよりも大きい要素が *必ず* あると考えると矛盾が導かれる。

「神の存在証明」といって、大小を論じていくタイプのものには、私は、神の証明になっていないのはもちろん、論理的にも怪しさを感じてしまう。

JRF 2010年06月21日 4789

ところで、集合論の(半)順序に関する定理に、ツォルンの補題「任意の空でない帰納的順序集合は、極大元を持つ」というものがあるが、これは選択公理と同値であると知られている。これがなぜ重要かというと、選択公理は「デフォルト」の集合論と「独立」の公理として知られ、その公理を仮定しても、その否定を仮定しても矛盾を導くことができないのだ。

つまり、この枠組なら、神をその「極大限」と見なしたとき、その「極大限」がないという議論と、あるという議論が同時に並び立ちうるのである。これは《魂の座》における無限反駁可能性を私に想起させる。ここに帰着すれば、反証不能であることは厳密に証明可能なのかもしれない。

JRF 2010年06月21日 1582

《神の存在証明 - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E

《ツォルンの補題 - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%A3%9C%E9%A1%8C

JRF 2010年06月21日 5617

もう一点、無上者という考え方について、それを個々人にとって無上とすると、↓という記事を私は書いている。

《神は至善か、暴君か》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_8.html

JRF 2010年06月21日 3723

>神はどのような人間にも平等に接し、自由に選択する人間一人一人に最良の結果をもたらすよう努力して下さるのか、はたまた、神は己れの栄光のみのために、または、人間全体として最良の結果になるように、人を動かすのであって、人はその予定に従うだけであるのか。

前者に対する一般的な疑問は、なぜ生まれながらにして差がついているのかであり、その解答は、差がついたのは先祖などの自由な選択の結果であるとする。この考え方では、神は全能なはずなのに自由な選択に介入しないのはなぜかという疑義が生じる(。…)

JRF 2010年06月21日 2767

これは《悪の犠牲の「自動人形」にも救いあれ》に連なる神義論「なぜ神がいるのに悪があるのか」の話でもある。イスラムの神義論としては上の解説書(p.164)にあった例に「アシュアリーの三人兄弟についての問答」がある。

>「長男は正しい信仰者として、次男は不信仰者として、三男は幼くして死んだ場合、長男は天国の最上位に、次男は地獄に、三男は天国の最下位に行く。三男が早く死んだのはそれ以上生かしておけば、不信仰者になったからである」という師の言葉に、アシュアリーは「神が次男をそうと知りつつ生き延びさせたのはなぜか」と問うたが、師は黙して答えなかった。そこでアシュアリーは回心をした。<

JRF 2010年06月21日 7360

これに関する2008年01月20日のひとこと。

それは、三男が死んだのは、他の人の自由意思の結果により、三男が不信仰者として一生を終わるしかなかったのに対し、次男にはもっとマシな選択肢があったのだが、それを選択しなかったのである。と答えることができる。

だが、私もこの答えに違和感を持っている。

もちろん、自由意志論だからどうとかいう理由づけもできるのだろうが、そういうことじゃない。この違和感はE.キューブラー=ロス『子どもと死について』を読んできるときにも感じたものだ。

誰かの死によって「私」が生きることになる。その考えが辛いのだ。

JRF 2010年06月21日 6903

(…)
いや、きっとそう考えることで、強くなる人もいるだろう。だが、あえてそこに冷静さを求めれば、その人はそうでなくても強く生きれただろうということだ。

何かキッカケが必要で、それが誰かの「死」だったということはあるかもしれない。でも「死」だけしかキッカケにならないなんて悲しすぎるし、きっとそうでない方法があるはずだと思う。

もちろん、それを受けいれることで強く生きている人はゆらぐかもしれない。でも、誰かの死によって外面的には弱くなったからと言って死が活かされていないということはない。(何が「強」くなったかは、内なる「魂」の問題というやつかもしれない。)

JRF 2010年06月21日 7373

……。

>とくに真理としての仏は、のちに大日如来で表された。大日如来はサンスクリット語でヴァイローチャナといい、あまねく照らすものという意味である。音訳して毘盧遮那[びるしゃな]となる。太陽がモデルとなっている。<(p.277,278、第十二講)

JRF 2010年06月21日 3018

>『宝王行正論[ほうおうぎょうしょうろん]』という仏典では法身の仏を月に喩えている。(…)映しとる物体の器量にしたがって月は大とも小ともなることを喩えにして、仏の対機説法や応病与薬[おうびょうよやく]なの教化を説明している。また、水なくして月影は映らない喩えを凡夫なくして仏法はその意義を持たないという説明に当てる。

『大般涅槃経』は(…)月の喩えで、仏は偏在であり、永遠不滅であることを教えている。<(p.283,285、第十二講)

JRF 2010年06月21日 4113

少しずれるが、万有引力の法則のように天体のルールと同じものが我々の体に作用しているのは考えてみれば神秘的である。仏教の話をやっていると内に内に観ていくことが多く、ともすれば細かいところで精密な議論ができるのを善しとしてしまう。しかし、例えば拡大鏡を使ったり、微生物を培養し「大きく」することで物事の一面が見えやすくなるのは普通にあることだし、天体の動きのように気づきにくい単純なルールの適用が大きなところにこそ現れていることがある。(関連薄だが↓)

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/123928

JRF 2010年06月21日 6741

>ニュートンの時代、惑星の描く楕円が関心を持たれていた。楕円を Twist して一方を無限遠に飛ばしたもの、それがフェルマーの最終定理の証明で使われ公開鍵暗号にも使われている楕円曲線になる…。<

他のサイトの最近の関連記事へのリンク。
《忘却からの帰還: 宇宙版ID理論の反証》
http://transact.seesaa.net/article/153955284.html

JRF 2010年06月21日 8736

>生物が存在可能となるような条件は、科学的発見をするのに全面的に最良なセッティングとなっている。居住可能性は観測可能性と相関する。たとえば、月の大きさと位置は完璧な皆既日食を観測可能とし、1919年の皆既日食は一般相対論の検証にとって重要な役割を果たした。(…その反論として…)大半の科学者が自分たちが可能な観測を行うが、それは宇宙がそするようにデザインされているからではない。(…)<

JRF 2010年06月21日 5051

ところで、「仏は偏在である」という言い方は、三位一体神の発出であるところの「聖霊」を想い起こさせる。聖霊論はキリスト教神学でも(常に)現代的なテーマで、伝統的にある種「異教的」解釈を許すところがある。上に挙げたが↓で、聖霊論の応用を試みている。

《間接侵害の和解と「三位一体」説。》

JRF 2010年06月21日 4182


著作者、同人作家、間接侵害者の三者が作る法的関係のモデルをキリスト教神学の三位一体の教義に擬えて私は考えようとした。著作者を「父」、同人作家を「子」、間接侵害プログラマーまたはプログラムを「聖霊」に擬える。

訴えのはじめ、「父」著作者に対し「聖霊」間接侵害者は間接侵害という罪にあり、「父」著作者に対し「子」同人作家は同一性侵害などの罪にあり、「子」は「聖霊」を介し「父」が識る権利侵害の不当にある、…のを見る。あたかも「聖霊」は「子」を堕としめるサタンでしかなく、「子」は「父」を僭称する不届き者であり、「父」は人が大事にしたいものを顧りみない暴君のように見えている。

JRF 2010年06月21日 9681

(…)
プログラマは父子と本質的に異なる表現を追及している。「聖霊」には独自の文化的系譜がバックグラウンドとしてある。急迫がなければ間接侵害者は戦わない。それが何の意図だったからか不分明だが父子と関わることで、彼らの文化性との関わりを和解の果実として自が身に引き受けることになる。

和解は常に完全なものではない。和解の契機が失われていないことが創造力につながるべきである。

JRF 2010年06月21日 9435

(…)
「父」「子」「聖霊」に部分和解がもたらされるとき、「父」は「子」を高挙し、「父」は「聖霊」に人文性付与をし、「子」は他の同人作家達の人的模範になるといおう。
(…)
(神学にすりよせて考えるのは、悪趣味で冒涜的なカリカチュアかもしれない。(…)ただ、三位一体を参考にした部分はあり、それが翻って(反面教師的にでも)理解の一助となったり、新しい解釈を示唆したり、それらの可能性を導くようなら私はうれしい。)

JRF 2010年06月21日 4691

(…)
フィリオクェ論争というのがある。聖霊は父から発出するが、子からも発出するとするか、という論争である。このモデルの場合、「聖霊」は父子とは違う文化的系譜を持っているという点で、独自の「父」性の発出であるが、「子」がもたらす関わりによる文化的本質の変容が人々を発出にあずからせる(よう予定されていた)と言えるだろう。

JRF 2010年06月21日 7766

(…)
「聖霊」は「父」と「子」の絆[きずな]である。間接侵害のないところに絆をつくる契機は生じにくい。「父」と「子」が見つめあうとき、眼 (アイ)から「視力線」が出て見れるようになるのではなく、光があってそれが「子」に反射して眼に届く。そのように間接侵害があって「父」と「子」は互いを見る。ただし、光はそもそも「父」性から出たものである。

JRF 2010年06月21日 4997

(…)
間接侵害がないと想定できた時代、同人活動の契機はエロスによって導かれた。そのいかがわしさに苦しんでも、性愛が「聖霊」の法理を先取りしていたのかもしれない。
(…)
出版者こそ力強い。彼は元間接侵害者でもありえた。現代は間接侵害のかたちが多様化してきている。彼らこそが「主神」とみなされ、著作者達はこのまま閑神化してしまうのだろうか?間接侵害者としての著作者の「聖霊的責任」が強調されるようになるのだろうか?

JRF 2010年06月21日 6257

……。

>三世[さんぜ]の諸仏とは因果の道理をいう。神も仏もあるもんかと啖呵[たんか]をきる人がいるが、因果の道理をごまかすことはできない。この道理が私たちを見ている。<(p.288、第十二講)

良心の問題と考えると↓が関連か。

《自由意思と神の恩寵》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html

ここでいう自由意思とは、「自らの良心に従った自由な判断とそれに基づく行為」を意味する。それに対する神の恩寵とは、「神がその慈愛によって、人の前に示した良い結果」を意味する。

JRF 2010年06月21日 1782

(…)
自由意思を評価しないものは、人という存在がその努力によって何か絶対的に良いことができるというのは傲慢にすぎないと考える。もし、良い結果が得られないならば、それは、人が伺い知ることのできない神の深遠な意図によるものと考える。自由意思を認めることで、良心を勝手に解釈した者が、必ずしも神の意に沿わないことから利益を上げて、それを善行の現れだと慢心することを憂慮する。また、避けられない災害を特定の人の悪意に帰し、報復が報復を呼ぶ危険があると考える。
(…)
この論争は、極端に単純化していえば、主観的「努力」と客観的「結果」のどちらを重視するかの論争であると言えよう。

JRF 2010年06月21日 3707

人には良心ってぇもんがあって、それを活かしゃあ道理はとおるものよ…とはならない現実がそこかしこにある。それを、それをひっくるめて「神様が決めたこと」ってんじゃあ、神も仏もねぇ…と思いたくもなるが、世の中には、決めたことだと断言する「予定説」を信じる者がいるのだから驚きである。

《義認説と予定説》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_4.html

予定説は、「ある人が救われるかどうかは、人からみれば非合理的かもしれない神の永遠の営みの中に予定されている」というカルヴァンの説である。

JRF 2010年06月21日 1787

(…)
予定説は信者に「自分は救われる人間であるはずだ」という一種の選民思想を抱かせる効果がある。ただの選民思想にない特徴は、民族に基盤をおかず、行為によっても選ばれているか否かが、(ある程度はわかっても、人間には必ずしも)わかるわけではないという点にある。これにより、選民思想が内包しがちな排他性をやわらげている。
(…)
また、この説は一種の運命論としての特徴をもっているため、信者が、悪事をなしたのも運命であると開き直ったり、悪事を働いてしまったことで自分の運命を悲観し、自暴自棄となってしまう危険がある。この危険は、キリスト教独特の罪に対する救いの概念でやわらげられている。

JRF 2010年06月21日 3539

この運命論のあたりは、親覧の悪人正機説を想い起こさせる。「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」『歎異鈔[たんにしょう]』である。救済は神仏に頼ることによってしか得られそうにないという現実が背景にあったのかもしれない。

社会運動というのは、ほとんど常に、小さなしかしインパクトのあるフレーズを連呼することでなされる。念仏・題目もそうかもしれない。大衆はそんな複雑な言葉でまとまれないという側面もあろうが、短いが強い真理を主張しあうことが、その内で複雑な真理を構成する縁[よすが]となるという洞察もあるのだと思う。

JRF 2010年06月21日 2272

でも、そのリクツは↓にある「悪」と「悪」の競い合いと何が違うのだろう。
《『新約聖書』ひろい読み --- イエスはサタンか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/01/post_4.html
>本当にサタンとサタンが争っているならば、サタンは滅びるのかもしれない。しかし、サタンによって人と人が争っているならば、争い続けられるだけの余裕が、サタンの繁栄の余地を提供することになる。<

JRF 2010年06月21日 3524

私には、自由であることが常に良いことかどうかはわからない。しかし、私は複雑な理を極めることは自由につながると信じている。

>「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」<『ヨハネによる福音書 8:31-8:32』

《真理の前には自由者も束縛される》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2007/09/post.html

JRF 2010年06月21日 8338

>最初の式において x は Y を束縛しているわけではない。あえていえば、式が真でなければならないという条件が、Y を束縛するわけだ。しかし(…)。
(…)
目に見える束縛(x)からの自由者(Y)であっても自由でないことは多い。だが希望を捨てるべきではない。目に見える束縛(x)を「読める」ような高階の自由者(Y(x))は真理という「束縛」にも、より自由となる。<

JRF 2010年06月21日 4121

……。


(…『八千頌般若経[はっせんじゅはんにゃきょう]』によると…)仏に威神力[いじんりき]と加持力[かじりき]の二つの力があるという。威神力は不思議な、すなわち想像をはるかに超えた自在力であり、加持力は救済したい慈悲心から現れた、生類を加護する自在力のことである。

JRF 2010年06月21日 5094

(…)
十大弟子の一人スプーティ尊者が(…)神々に説法(…したことについて、いぶかしんだ帝釈天に対し…)シャーリプトラは(…)答えた。いずれの力も仏の自在な力、すなわち融通無碍[ゆうずうむげ]の力であり、凡夫よりはるかにすぐれた聖者たちの言動も、みな仏の威神力や加持力の助けによるものである。
<(p.291,292、第十二講)

JRF 2010年06月21日 7047

上に挙げた《道を語り解く - 教え説くのではなく》。
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post.html

自分には知識も、努力によって身につく能力もないことをときに感じる。私が人に伝えられる価値があることを何か言っているとすれば天賦の才からのものだ。ただし、ここでの「天賦の才」とは一般人とは優れているということをまったく意味しない。ただ時と場所を得て論を継いだだけのことだ。それが善かったとなるならありがたい。

JRF 2010年06月21日 7966

(…)
私は到底[とうてい]「普通の人」でありえないが、普通のあり方の一つとして affirmative (肯定されうるよう)にならなければならない。そしてそれは特別な成功がこの先あるからという形ではもうありえまい。そんな私に社会がどう affirmative に接することができるかを考えていかねばならない。私の道をまず私が肯定しうるように書き下せれば、と願った。

JRF 2010年06月21日 8500

(…)
肯定され「うる」ということは、肯定されがたくあるということ。むしろ、降[くだ]ってきた人を「反射」すべきと期待されるだろう。そのような人がなぜか私に、私の書いたものに、遭う場面があるとして、私は「地道さ」を身につけておかねばならない。それは普通の地道さであるわけがない以上、憎むべき地道さでなければならない。

JRF 2010年06月21日 5695

……。

>わが国でも過去に多くの聖者が輩出した。彼らが残した仏道は日常生活に密着した生き方であり考え方であった点が特徴的である。それは易しい実践であった。さらに彼らの実践・信仰は人間釈尊への信仰ではなく、永遠のいのちと無限の智慧を持って世間に遍在し、あらゆる願いをかなえる仏への絶対的[]帰依[きえ]を説き、さらにその帰依によって諸仏から無量の利益を得ることを強調した点がもう一つの特徴である。(…)彼らに共通する教えは「ゆだねる心」を持つことであった。<p.293,294、第十二講)

JRF 2010年06月21日 3432

真言・題目・念仏は↓にいう象徴にあたろう。

《象徴の利用形態》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_14.html
>何がしかの象徴(物・行為)を用いる方法には次のものが考えられる。(1)「真理」の一部としての象徴の刷り込み。(2)知的好奇心を刺激するための象徴。(3)「自発的」信仰表現としての象徴。(4)強制的信仰の許しまたは免罪符としての象徴。<

JRF 2010年06月21日 6889

主にアメリカの思想を念頭に置いているのだが、易行道と難行道の対比というのは、反知性主義とその対極にあるものとしての「グノーシス主義」の対比に相当するかもしれない。

2009年05月25日からしばらくのひとこと。

法・契約において、知識があることが不利にならないようにする。しかし、知識があるところに責任を認めたい。グノーシス主義と反知性主義の対立の法的側面。知識を代替するサービスに課税してでも課金し、そこから逃れて知識に頼ったことを約因とみなして特別な責任を求めてよいのだろうか?

JRF 2010年06月21日 2212

(…)
意思と知識は何が違うのだろう。過失責任の原則の裏側にある無過失無責任の原則に立ち、企業は無過失が立証できる知識を持ち悪意を忘れていく。それで良いのは、人も組織も知識が完璧ではありえず数をこなせば過失が生じる事例にぶちあたるはずで、そうでないのは喜ぶべき奇跡、神の意思だから、か。
(…)
意思と知識はあたかも、電場と磁場のような関係に想える。電場と磁場は確かに違うものなのだが、究極的にはそれを一つの電磁波といったもので設明したほうが、実体をうまく設明する…といった関係にあるのではないか。

JRF 2010年06月21日 0017

(…)
だまされることに責任がなく、知識がなくてもだまされない社会が良いならば、なぜ知識をもつことが良いことなのだろう。…社会としてだまされないためには個人が知識をもちあう必要があるからだ。社会のため?社会主義?責任がないようにするためだから出発点は個人のため、とも言える。

でも、そこには「社会」がすべての知識を含んでいく、そして適切に扶け合うことができるという前提があるのではないか。本当の個人の危機において必要なのは、ハッタリに似た確信で切り抜けれる体系を知識としてもつことだ、というのがグノーシスあたりになるのか。

JRF 2010年06月21日 0980

(…)
客観的な正しい知識を積み上げることではなく、主観的な正しい認識を洗練する、むしろ反知性の極になることが「宗教」の理想なのだという態度もあるか。つまり、反知性も責任を負いうる。そうやって生じる責任と、マイナスの負担を約因として生じる責任がバランスする。そこに(神の)意思がある…。…つまり、グノーシスは本来反知正主義の対極ではないのかもしれない。

JRF 2010年06月21日 0278

(…)
なぜ霊肉二元論になったか。先の文脈からだと、個人の危機において、死を受け容れて、または、乗り越えて、何をなすべきかの判断を求める、ということは、その判断は肉体を超えているはずだ、というところから霊を肉の上に置く考えと整合性を持ったということではないか。
(…)
結局グノーシスは廃れた。それは、実際の死に際しては、「霊」が肉を超えたという平常時の「洗練された認識」は、恐怖などにより「現実」性があまりにもなくなるということがあるからではないか。じゃあ、そうでない信仰がかのときに安寧をもたらしているか、というとそれもわからないけど。

JRF 2010年06月21日 5777

(…)
救いを求め続けて得られなかった人は大抵死んでる。だから、救いは得られるという期待がだいたい残っている。危機を自分で解決しようとしたものは大抵残ってない。そういう信仰はどんどん数が減る。…とか。…もちろん、聖書の時代でも、現実はそんな甘いものではないというのはわかってるのだけど。

JRF 2010年06月21日 0320

(…)
日本仏教で考えてみると、他力が庶民で、むしろ死と向き合うはずの武士が自力救済を重視する教えをいただく。エリート階級がグノーシス的なものに惹かれるというのは、世界的なことだけど。自分で解決することを洗練していってもそれは自分の道で終るしかない。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」(『葉隠』) ということに繋るか…。
(…)
信じる者は救われる。…と思って救いを探し続けないと見つかるはずないだろ?救いがあるとでも思わないと探す気力もわかないだろ?

JRF 2010年06月21日 6915

(…)
約因は記念。記念はなくとも人々の行為はなりたつが、記念を通すことで人は未だ子として得ていない知恵を先取りする。記念により知恵を築くことを知識を得る難しさで置き換えるとき、挑戦に打ち勝った気になるものと誠実を諦めたものが増え、国から力が失われる。

知識の裏打ちがどこかになければ、記念は偶像に堕する。記念は自由のもとで建てられねば、ゴミになるか、魔術導具=反抗のしるしに利用されるだけとなる。
(…)
ただ、辺境は必ず存在するので、記念とも思わないものが記念として行為の中に残っているというのが理想なのだろう。

JRF 2010年06月21日 5147

(…)
消費者身分に求められた責任って何だったんだろう。知識から切り離され苦しんでも、親切な愚かさを保ち、その子の優しさに失われた知恵を先取りさせる。それは仕返しというものではなく、知に優しさを付与するための魔法のようなもの。
(…)
親切な愚かさは誠実に替わらなければならない。社会が替えねばならない。民主主義社会の理想がきっと達成すること…自分を社会を構成する一員として確信し、学ぶことに求めた責任を自分が負うことを選ぶとき、誠実を現せる。

JRF 2010年06月21日 8140

ここでの「魔法」に関しては「失われた世代」を思って『マルコによる福音書 4:01-4:20』に対して書いた↓を想い起こす。

《悪地になった魔法の実、冬を守る者のためのたとえ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post_14.html

端に落ちた種が実をつけたなら、それは幸運な実である。
旅する者にやすらぎを与えるだろう。

砂利に落ちた種が実をつけたなら、それは強い実である。
迫害された者に耐える力を与えるだろう。

茨の中に落ちた種が実をつけたなら、それは気高い実である。
傷付いた者に希望を与えるだろう。

JRF 2010年06月21日 7162

では、「反知性」でいいとした「修行者」の責任はなんなのだろう…。私なりの答えは↓になるのか。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/119893

これまでやってきた仕事を機械にまかせる。機械はいつでも代替でき、機械を使うのはコストの問題でしかないように保つ。…その考えは私とは立場が違う。

機械を必要とすることを受け容れたがゆえにできる革新こそ望ましく、しかし、それを望むがゆえに、人間を(人間が機械に依るように)機械に必要とせしめたい。

(超意識体的な)機械が思ったわけでない「人間」を自分は表現できるようでいたい。

JRF 2010年06月21日 0276

>道元禅師が、むずかしい修行をするかどうかを論じることはない、ひたすら坐禅することが仏になる唯一の道であるとのべたのは、坐禅に身をゆだねる、それは仏に身をゆだねるという意味であった。<(p.298,299、第十二講)

ルターの「聖書のみ」を思い出す。それができそうでできないことであり、それがやりとおせる時代となったなら、きっと皆「成仏」できると信じた…ということかもしれない。それがわりと普通にできることになってありがたみがなくなった時代、もちろん、すべての責任をその頃の修行者に帰すべきではない。

JRF 2010年06月21日 9105

《「すべての責任は私がとる」の無責任》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/post_28.html
>「すべての責任は私がとる」という人に責任を負わせるのは至難の業。かの人は、「責任は私がとる」と言えば部下が喜ぶと思う人間であるから、そもそも自分も責任をとりたくない人間なのだ。<

JRF 2010年06月21日 5308

typo 「貨弊」→「貨幣」。
typo 「含ら」→「膨ら」。
typo 「組識」→「組織」。
typo 「曖眛」→「曖昧」。
typo 「設明」→「説明」。

……。

最終講の最後の最後でコメントが300件を超えて書けなくなった。↓に続きを書く。
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/126822

(なお、typo や修正は、できるだけ、この 300 件目のコメントを消して書き直すことで対応したいが、↑に書くこともあるかもしれない。)

JRF2014/7/254182

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