aboutme:126822
田上 太秀『仏典のことば さとりへの十二講』の「ひとこと」。最終講の最後の最後でコメントが300件を超えて書けなくなった。ここに続きを書く。
JRF 2010年6月21日 (月)
……。
さて、こんな無責任なところで終るのか、という気が私もしないではないが、最終講は本文のラストの引用で締めよう。
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この最終講では、救いようもない衆生をなんとしても救ってやろうと、諸仏は大悲の心をもってさまざまな方便をつかい、手を差し伸べていることがわかった。わが国の宗祖たち(…は…)ひたすら諸仏のふところに抱かれ、ゆだねるだけでよいと教えた。つまり、生まれたばかりの赤子が母のふところに抱かれるようにゆだねることを説いたのである。
しかし、ここに忘れてはならないことが隠されている。まったくゆだねている赤子は、生きるために母乳を飲む。母が教えたのではない。
JRF 2010年06月21日 5984
(…)
ひたすら唱えれば諸物に会える、浄土に往[ゆ]けると仏典は説いたが、だからといって、悪行をしてもよいとはどこにも説いていない。それは赤子が母のふところにゆだねてやすらいでいながら、母乳は自らの力で飲むことをもって知るべきである。解毒剤を持っているからといって、毒をがぶ飲みする人はいないだろう。
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JRF 2010年06月21日 7469
……。
蛇足。
>読者諸賢のご教示[きょうじ]とご叱正[しっせい]を乞[こ]うものである。<(p.308、あとがき)
禅語を知る人の「ご教示」の遣い方に違和感は少ないが、「ご教示いただく」は誤用ではないかと私は推測している。
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/122364
JRF 2010年06月21日 6381
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「ご教授いただいた」には伝授のニュアンスがあって「ご教示いただいた」のほうが、一時に教えてもらった情報に対するにはふさわしいという論が常識のようだ。しかし、私は「ご教示」には「啓示」「黙示」「開示」といった「示す」の宗教的ニュアンスを感じて、逆に好きになれないのだが…。
もちろん、「示す」そのものが宗教的とは限らない。しかし、「教え」のような重いものが一時に「示され」てわかっているというのは、それは瞬時の「悟り」のようなものを本来必要とすべきように感じる。
JRF 2010年06月21日 2039
(…)
「教え」を「授かり」、まだ十分自分の中で育っていないけれども、何かを言っておかねばならないと思う。人に教えられるというのは、本来そういった「重さ」があるのであって、たとえ儀礼として丁寧に「教えられた」ことを認めるときも、「教え」は「伝授」が理想であるという姿勢を維持したほうがいいのではないか?
(…)
「教えを享受する」という言葉がありうるが「教えをご享受いただくというのはおかしい」と誰かが言ったのを、「ご教授いただくはおかしい」という誤解になったのではないか、と私は邪推するようになった。
JRF 2010年06月21日 8682
(…)
だったら「ご教示」ならいいだろう…という「ご教示」は後知恵の言葉のように思う。または禅あたりで「ご経辞[きょうじ]をいただく」という表現でもあったのだろうか。(「教辞」ならググるとある…。)
では、先生に(地理の)道順を教わったとき、「ご教授いただいた」は仰々しいというのはもっともだが、それが「ご教示」なら適切かというと、そうではないだろう。この場合は、「道順を伺[うかが]った」と言えばいいのである。
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JRF 2010年06月21日 6979
謝辞。
私のひとことは、普段でさえ読み辛いのに、今回は引用が多くまた特に検索から読みにくいものは長々と引用したものだから、他者にはほとんど読めたものではなくなっていると思います。
それを最初から最後まで読み切ってくださった読者にはもちろん、一部でも読もうとしてくださった方にも、讃歎して感謝せざるを得ません。
ご一読ありがとうございました。
JRF 2010年06月21日 5433
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我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。... 続きを読む
受信: 2012-01-05 19:16:27 (JST)
田上 太秀『仏典のことば さとりへの十二講』に関して Part. 1/2。
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/125348
>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。<
この「ひとこと」が Part. 2/2。
JRF 2010年06月21日 1972