« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

aboutme:129789

「この世にありては、正義は勝つがごとくに見えて勝たない。正義が勝ちしと思うは、つかの間である。正義の背後[うしろ]に不義がいて、正義の勝利は不義を行なう機会として利用される。」(内村 鑑三)

JRF 2010年8月28日 (土)

1918(大正7)年12月の『聖書之研究』の「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」よりの引用で、現在は中央公論社『日本の名著 38 内村鑑三』に所収とのこと。

この文を私が知ったのは、田中 彰『小国主義』(岩波新書)を読んで。

…まぁ、その不義のさらにうしろには大きな正義があると信じたいけど、その正義は「あの世」のものか、または、人間の論理では推[お]しはかれないものなのかもしれない。

JRF 2010年08月28日 8597

中央公論社『日本の名著 38 内村鑑三』(1971)
http://www.amazon.co.jp/dp/B000J9CEKG

田中 彰『小国主義』(岩波新書, 1999)
http://www.amazon.co.jp/dp/4004306094

JRF 2010年08月28日 7090

『小国主義』に小国主義者・石橋湛山の論として次の論が載っている。

>>(米英が)東洋の諸民族ないし世界の弱小国民を虐[しいた]ぐるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、米英を膺懲[ようちょう]すべし。戦法の極意は人の和にある。驕慢なる一、二の国がいかに大なる軍備を擁するとも、自由解放の世界的盟主として、背後に東洋ないし全世界の心からの支持を有する我が国は、断じてその戦に破るることはない。<<(p.137)

JRF 2010年08月30日 2128

「大国主義」より、むしろ、この「小国主義」が対米開戦の理由だったと感じる一文である。「自由解放の世界的盟主として全世界の支持が得られ、それが力となる」と人々が信じていると信じた者はいたかもしれないが、それを本当に人々は信じていたのだろうか。「大国主義」を現実とする人々も、心のどこかでは「正義」と信じていたのかな…。

JRF 2010年08月30日 0108

内村鑑三の上の文は、だから多少の「不義」を押し通して「つかの間の正義」を得るんだ、得つづけるんだ…という倒錯を導いた面はなかったか。

(ここで私は『創世記』のラバンを思い出す。↓)
http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/116249
>ラバンは妹リベカがイサクに嫁ぐ「奇跡」を見ている。ラバンは奇跡を求めたことがあるのではないか。ここからは想像だが、そんな奇跡はあるはずもなく、ラバンはむしろ罪というべきものを負った。ラバンはヤコブにおいて奇跡を構成する者のの一人となった。奇跡は罪を生むことを証明したかったということかもしれない。<

JRF 2010年08月30日 6964

『日本の名著 38 内村鑑三』の上の文の前後は次のようである。

>余の生涯に三度大変化が臨んだ。(…)しかして、その第三回は、過去一年間の事であった。余は、キリストの再臨を確信するを得て余の生涯に大革命の臨みし事を認むる。(…)余はキリストの再臨を信ずる。ゆえに聖書全部を神の言として受け取ることができる。

JRF 2010年08月30日 6842

(…)
余はキリストの再臨がわかって人生がわかった。人生の意味の解決のここにある事がわかった。正義は最後の勝利であると言う。まことにそうである。「我、すみやかに至らん。必ず報いあり。各人の行なう所にしたがいて、これに報ゆべし。」(黙示録 22:12)と主は言いたもうた。この世にありては、正義は勝つがことくに見えて勝たない。正義が勝ちしと思うはつかの間[ま]である。正義の背後[うしろ]に不義がいて、正義の勝利は不義を行う機会として利用される。

JRF 2010年08月30日 4590

(…)
大統領リンカーン、南北戦争を終え(…)歎じて言うた、「南北戦争は終わった。しかし今よりさらに大なる貧富の戦争は始まらんとしつつある。(…)」と。今より四十八年前にドイツが仏国に勝ちし時に、英米両国の民は欣喜[きんき]して言うた、「新教国ついに旧教国に勝てり」と。しかるにその同じドイツが(…)世界の平和を危うせんとせしや、英米二国は前に敗れし仏国に与[くみ]して、勝ちしドイツをつぶして今や万歳を叫びつつあるのである。(…その)米国は世界最大の海軍建造を議決して万国の耳目を驚かしつつある。(…)

JRF 2010年08月30日 7763

(…)
再臨がわかって、余は天然がわかった。(…)余は余の愛するこの地とこの天然と永久に別れて、しかる後に完全なる霊的生命に入るのであると思うた。しかし、これ大なる誤謬[あやまり]である。生命は霊と肉とであり、宇宙は天と地とである。余の救わるるは、余の霊と共に肉の救わるることであって、また余の救いは宇宙の完成と共に行なわるるものである。(…)

JRF 2010年08月30日 4563

(…)
天然もまた神の子らの受くべき栄えの自由に入るべきものである。(…)人と天然の間に切っても切れぬ関係がある。一は他を離れて栄えの自由に入ることができない。地は天に応[かな]い、肉は霊に応い、しかして完成されたる人が完成されたる地を占領して、しかして後に初めて、神が人を造りてこれを地に置きたまいしその目的が達せらるるのであると言う。
(…)

JRF 2010年08月30日 2174

「完成されたる人が完成されたる地を占領する」ことのむなしい反映すなわち「つかの間の正義」が、米軍の日本の占領によって成り、そこで「米人」となって生きることだ…そういうヴィジョンが私に浮かんだ。大日本として戦うことも不正義、米英が日本を占領するのも不正義、しかし、そこに本当の正義の肉としての表れがある…。内村鑑三に表れた無意識がそれを望むに至ったのだろうか…?

妄想が過ぎるかな。

JRF 2010年08月30日 3795

私はどちらかと言えば、この世に偽善以外の善はなく、だから(善に意味がないとするのではなく、)たとえ偽善であると感じようとも、大善をなそうとして小悪を気にしないよりは、小さな善を厭わない道を意識として持つべきだと思うようになった。

その小さな(偽)善を成すことに社会の偏見を感じることがあるのだから、犠牲を厭わない心が「正義」に必要なことは多々あるのかもしれない。でも、「大きな犠牲がなければ大望は実現しない」と考えるのは、まさに「人間の論理」でしかない。

JRF 2010年08月30日 1220

「大きな犠牲」を見て憐みを抱いた人がせめて実現できる「善」は、「つかの間の正義」以外の何ものでもない。「大きな犠牲」が必要であると考える人間を是とした、その一点からも、後の人間にとって「不義」となりうる。(私にとっても、気付けない「不義」が上で感じる「社会の偏見」の正体かもしれない。)だが、その人間と共に生きるのだから、それに小さな(偽)善を意識として積み上げるしか私は方法を知らない。

そうやって訴えるしか方法を知らない。

JRF 2010年08月30日 8616

……。

話題のサンデル教授の正義に関する質問などを伝え聞くと、「正義に大小はなく、偽善だからこそ大小が見える」…とカッコつけて振り払いたくなるけど、実のところ、いっときに大きな影響がある「正義」はあるし、大きく感情を揺さぶる「不義」はある。

一般論として、そういう質問をいなす方法に、シンプルな命題は美しく分析にとって善かもしれないが、現実の状況から導かれる前提は常に多義的であり、そのときその者が最善と思ったならば、それを正義とするしかなく、むしろその状況を受けたすべての人のその後の人生において正義が構成されていくのだ…といった答えができる。(「勝てば官軍」もその虚しい一例かもしれない。)

JRF 2010年08月31日 3819

「正義」が試される状況があって、その後の人生においてあの状況で何を正義とすべきであったかを人が実践しうるシンプルな命題にし、その命題の正義が実現できるよう努力し、支える。これが、どんなに大きな組織に関する命題でも「小さな(偽)善」だろう。同じような状況が再び現れたそのとき、信じたことを正義とできるかはわからないけれども。

…まぁ、これも一つの正義に関する(メタな)命題だから、現実に対してどうなるものかわかったもんじゃないけどね。

JRF 2010年08月31日 8514

(ただし、こういう答え方が教授の質問の解答として「正しい」かはわからない。その質問が与えられたというその機に応じ、具体的に前提の多義性から何を選ぶか示すことが求められていると考えたほうがよい。例えば「このまま進んで5人を轢くか、待避線に進んで1人の労働者を轢くか」と聞かれたら「その労働者が教授の子息であれば、その向こうに1000人以上いるはずだからその1人を轢かない。」と具体的に前提を拡張したり、「私が労働者なら轢かれることを望みます。」と微妙に問題をずらしたり、素直に教授の答えて欲しい答えをして授業をすすみやすくしたり、もちろん、上の一般論でいなしたり、とにかく授業だから選ぶしかない。)

JRF 2010年08月31日 9343

(サンデル教授の質問については、ググって例えば↓を読んで書いた。)

《SAPIO - マイケル・サンデル白熱教室- 人間的成長は自分で考え答えを出す行為から生まれる |★太陽 to 生きとし生けるもの no UTA...》
http://ameblo.jp/pafumrose37stella/entry-10597287699.html

(たまたま見つけた最近の関連記事↓。)

《「利他的な人」は嫌われる:実験結果 | WIRED VISION》
http://wiredvision.jp/news/201008/2010083123.html

JRF 2010年08月31日 3228

なぜ「大きな組織に関する命題でも小さな(偽)善」になるのか。

まず、「正義」と信じてなそうとするのは善意とするしかなく、それでも命題をシンプルにする時点で、そこから漏れる現実を察しつつなされるから「偽善」である。

次に「小ささ」であるが、人は周りの状況が自分がやったことを知る者だが、そのとき自分と出会った者の何げない一言で自らの罪を知って改める場合は、その影響が実際に作用した狭さを以って「小さな偽善」。そうでない場合、その背後でなされる悪の大きさに相対して「小さな善」となる。

…これも詭弁かな。

JRF 2010年09月01日 7073

……。

蛇足だが、主に自分の書いたものへのリンク・引用集。

上のリンクで「「利他的な人」は嫌われる」というのは、利己的な部分がなければ信頼の根拠がなくなるということだと考えるが、もちろん生来の感情が根にあるのだろうが、「我思うゆえに我あり」にはじまる近代の「個の確立・自由」の強調の影響が大きいのではないか。それについて以前↓と書いている。そのひとことで近代の超克・解体ができるとは思わないし、意図もしていないが。

JRF 2010年09月02日 2763

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/125348
>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。<

JRF 2010年09月02日 7156

「「正義」が試される状況」について。

http://jrf.aboutme.jp/user_statuses/show/106308
>想定するままの危機は来ないもので、今の状況を延長した訓練をこなす中、そのときあるもので想定外の危機にあたるしかない。<

JRF 2010年09月02日 5388

《時効延長絶対反対》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2010/03/post.html
>「我々の軍」がどこか混乱している地域を「占領」したとする。その地を警護することになるのは、この国のモラルで生きた人々で、言葉も通じにくい中、モラルのギリギリのところが試される。混乱を助長しないようなモラルに日々触れていなければ、統一的で不公平を感じさせない対応をとることが難しくなる。<

JRF 2010年09月02日 1422

『日本の名著 38 内村鑑三』の解説、松沢弘陽「近代日本と内村鑑三」から。


内村の再臨論はまず、人間の歴史を超越する神の働きと人間の歴史とを同一視し、歴史の中における人間の努力によって歴史は進歩しやがて完成にいたると考えるタイプのキリスト教に対する批判として展開された。それに対する内村の主張のアウトラインはこうだった。人類と自然の全てを含む「万物」あるいは「宇宙」の完成は必ず来る、しかしそれは、人間の努力による歴史の漸進的な進歩の結果としてではなく、歴史の終末におけるキリストの再臨と彼の全能の支配によって地上に実現する。

JRF 2010年09月02日 0958

(…)
キリスト教の伝道も社会の改革や平和のための活動も、それだけで人類の進歩と完成が可能だからではなく、再臨のキリストによる審判と完成を待つ準備としてのみ意味があるのだ。
(…)
活発なキリスト再臨の宣教のあと(…)内村のことばをかりれば、「迷信百出し、再臨狂が続出」して、それ以上再臨を説くのが危険になった(。…)彼らは、「むなしき焦燥」にとらわれて日常から浮き上がり、歴史と文化に対する無関心におちた。

JRF 2010年09月02日 0802

(…)
(…それに対し、内村らには、…)キリストの裁きも恩恵も、人間を全くこえるところから来る、しかし、それは純粋に人間の歴史の外から、突然に来るというよりは、人間の歴史の発展の *中を通って* 迫って来るものと考えられていた。(…)キリストがいつ来るかは、全く人間の予測をこえることだった。そして内村はこのことが(…)逆に、「知らざるがゆえに勤[いそし]みて待ち望む」ことをうながし、生活のつらさ無意味さにも耐えさせ、人を救い社会を救う「道徳」を可能にする、と考えたのだった。

JRF 2010年09月02日 9087

keyword: 復活

再臨のキリストが「外」から来るというのに、私は、記号論理学で、Union (無限集合和) や存在記号を扱うのに「外」から束縛変数を持ってくる操作を想起してしまう。

《真理の前には自由者も束縛される》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2007/09/post.html

私は再臨・復活論は書いていないと言うべきだが、あえて神に対する人間の努力の問題と考えると↓が論としては近くなるか。

《自由意思と神の恩寵》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html

JRF 2010年09月02日 9174

keyword: 歴史の終焉

「書いていないと言うべき」というのは、↓のように妄想を書いたり、言及するぐらいならいくつかあるから。今後は、本ひとことをリンクするようになるかな?

《フルタ製菓 バビル2世 ポセイドン》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2009/11/post.html
>(怪鳥)ロプロスには、V号という「ニセモノ」が出てきますね。それは「不可能」ではない。(…)復活ということが本当に可能なら複雑になりすぎるということは逆にマイナスになります。バビルが現代において2世になるということの意味は、V号のようにあることで良いのでしょうか?<

JRF 2010年09月02日 4428

……。

補足のリンク。

「「正義」が試される状況」において「前提は常に多義的」でもその多義性を判断しているひまはない。…というところから、次のような corollary が出る(と私は考えている)。

《宗教的判断の認容》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/03/post_4.html
>認識が正しいからといって、時宜を得るまで行動を先伸ばしにできるとは限らないし、必要なときに適切な判断が下せるとも限らない。(…)その人にとって正しい結果をもたらす認識は、正しい認識よりも優れていると言えることがある。<

JRF 2010年09月04日 4559

その後、たまたま関連するエントリを読んだ。

《愚かさは罪なのか - reponの日記 ないわ~ 404 NotFound(暫定)》
http://d.hatena.ne.jp/repon/20100905/p2

>「自分は人びとに対してなんと恐ろしいことをしてしまったのか!」と言う代わりに、殺害者たちはこう言うことができたのだ-自分は職務遂行の過程でなんとういう恐ろしいことを見なければならなかったことか。その任務はなんと重く私にのしかかってきたことか。<(「エルサレムのアイヒマン」ハンナ・アーレント)

JRF 2010年09月10日 5622

(…)
自分たちの行為は汚く、呪われた仕事だ。

しかし、だからこそ誰かがやらねばならないのだ。
(…)
サディストがもっともサディスティックな行為を行えるのは、「私以外の誰かのために行動する」ときです。
(…)
この人達は、「裁かれる」べきでしょうか?
(…)
私がこんなことをいうのは、糾弾できる立場になどいないからです。
(…)
ワケも分からないままに「仕事」をし、その「仕事」が同僚や関係業者を苦しめ、結局納品に間に合わずお客さんにも迷惑を掛けるとき、わたしたちは

「裁かれる」

のでしょうか。

愚かだという罪で。

私にはよくわかりません。

JRF 2010年09月10日 6026

よく知られるように(特に)旧約聖書の神は残酷で、「虐殺」を命じることもある。(↓)

《聖絶 - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E7%B5%B6

それに従うことは罪ではなく、従わないことが罪とされる。上で私が正義の議論をするときこの「狂信」とどう向き合うかが頭の隅に常にあった。

私の結論は、それを正義とした結論に逆らうことはできないというものである。

JRF 2010年09月10日 4207

「「「利他的な人」は嫌われる」というのは、利己的な部分がなければ信頼の根拠がなくなるということだと考える」と書いたが、それは直前の引用>サディスティックな行為を行えるのは、「私以外の誰かのために行動する」とき<という「現実」が支持しているのかもしれない。

JRF 2010年09月10日 7323

これを「我思うゆえに我あり」を「更新」した「我思うゆえにありうるのは我々まで…」というフレームワークにのっとって考えてみよう。

「私以外の誰かのために行動する」というのは、まずまったくの他者のためではなく「我々」という枠にいる。次に、罪人が非道な人物でないという背景を証明するためには、「絶望的に孤独」ではありえない。そして、それが「我」を確立してしまうため、逆に「私を我々」と思うことへの強制力が働いてしまう。

JRF 2010年09月10日 7346

よって、問題は「絶望的な孤独」への理解の欠如にあり、それはおそらく時間を個性化に十分費やしていないことが原因と思われる。本人が正しいまたは善いと思いつつ、理解されえない何か、すなわち、「趣味」と呼ばれるものの処遇に、社会の問題があるのではなかろうか。

……おっと、自分の出したい結論に急ぎすぎたかな?(^^;

JRF 2010年09月10日 6519

typo 「憐み」→「憐れみ」。

JRF2014/7/258621

« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

トラックバック


トラックバックのポリシー

他サイトなどからこの記事に自薦された関連記事(トラックバック)の一覧です。

» cocolog:73267390 from JRF のひとこと

「哲学は神学の婢女[はしため]」なんて言葉を聞いたことがあるかもしれない。日本だと人を疑うことすら憚[はばか]られることがあり、まして神様を疑うなど…といった面もあるが、「欧米では」というかキリスト教神学は疑ってナンボなところがあって、知性・理性から神に近付く道が伝統的にある。... 続きを読む

受信: 2013-06-30 04:30:13 (JST)

» cocolog:81148806 from JRF のひとこと

『日本の名著 38 内村 鑑三』を読んだ。 続きを読む

受信: 2014-12-28 17:22:46 (JST)

» cocolog:84773813 from JRF のひとこと

小林 勝人 訳注『孟子』を読んだ。性善説は「性が善でも不善でもない」説の否定の上に成り立っているようで今一つ納得できなかった。易姓革命は、その論理を神様にまで適用しているのは徹底してるなと思った。... 続きを読む

受信: 2016-03-29 17:04:58 (JST)