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「侮[あなど]り」とは何だろう。侮りにほぼメリットはない。その者と同じ理想を追いたかった「自分」を否定したい…否定した今に続く自分を肯定したい…ということだろうか?今の自分をおろそかにしてでも、「自分」の残滓はその実現を未だ望んでいて、無意識を通じ侮りという「心構え」を造るのか?

JRF 2010年11月20日 (土)

もちろん、人を尊重する心理的負担はある。(つきあいなどの経済的負担も少しはあるかな。)でも、友愛の喜びとかもあるわけで、それが「侮り」から来るイラダチ等と差引して、それでも侮りにメリットがあるだろうか?

それを自分に生じさせている私は、どういう「自分」に失望しているのか?(それともこの見建てははずしているのか?)

JRF 2010年11月20日 7893

「ネトウヨ」の侮りに、私は上のような「自分を疎[おろそ]か」にするものを見ていたように思うが、集団心理というのは個人の心理とはまた違うもの。個人に対する侮りは、発達と継承の中で、善いものともなりえたかもしれないが、それを「集団心理」へ適用する私の侮りは、構えとして危うい。「侮り」を見せている裏で、そことは違う原理で働く「意思」が潜んでいるかもしれない。

JRF 2010年11月20日 0512

2009年05月29日のひとこと。
>(…)
親切な愚かさは誠実に替わらなければならない。社会が替えねばならない。民主主義社会の理想がきっと達成すること…自分を社会を構成する一員として確信し、学ぶことに求めた責任を自分が負うことを選ぶとき、誠実を現せる。

その社会の理想において、好奇心をもった侮[あなど]りは正義に、過去を生きる無関心は聡明さ…または律儀さ…に替わる。正義は(義務)教育がまともであることが導くのだろう。律儀さ…といっていいかわからないが、それは徴兵制が導くとされていたのではないか…。


裁判員制度はほんの少しだけ徴兵制の代わりになるだろう。この先どういう変化があるか…。

JRF 2010年11月20日 1184

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