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科学の追手から魂はどこに隠れているのか?どこにも隠れていない。科学が魂の作用を科学であると信じこませたため、魂からのものと感じなくなっただけで、不完全な科学がそう信じこませているだけなのに「科学」が科学として機能する…それ自体が魂の作用である。…というポジションをとってみる。 (JRF 3880)

JRF 2011年7月 9日 (土)

私はコンピュータ定理証明の研究をしていた。現代では、数学の公理系がコンピュータ上で厳密に検証可能になっているが、実数計算や幾何などの初等的と思われる証明のほうが厳密にコンピュータ上で再現するのが難しいことがある、また、社会科学について、その基礎的な確率統計理論の中にさえ(コクランの定理とか)、コンピュータ上での公理系からの検証まで考えようとすると複雑な条件の「発見」が必要と思われるものがしばしばある。

JRF 2011年7月9日 2785

そういったことの反照として 人間の「定理」の使い方のあいまいさを感じざるを得ない。そこに「魂」や「意思」といったものの居場所がありうる。そして自己にとって他者の物理存在の絶対性は不明暸である以上、自らがどれだけ理を確立していても、それが適わない瞬間を目の前の他者のうちには認めるしかない。↓に書いたように、どれだけ科学が発達しようと魂の不存在を証明できない言い逃れは存在するし、その無影響は個々において常に否認しうる(ゆえに「個々」であるという側面がある)。

《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html

JRF 2011年7月9日 2566

「あなたはそう見える在り方であるというだけのことでしかない。」

もちろん、それは「客観的事実」や「科学」のすべてを否定しうる考えかもしれないが、だから「彼らは否定していなければならない」というのはあまりにも非科学的な考えである。

JRF 2011年7月9日 2577

……。

この「ひとこと」のキッカケは↓。

はてなブックマーク - 《忘却からの帰還: "Spirits and Souls"》
http://transact.seesaa.net/article/213470554.html
jrf:>魂は芸術のように外界から干渉し、臨界現象のように自ら(脳と身体)と相互作用するというとき、魂は何かと魂はどう作用するかのどちらかには常に逃げ道がある。関連→< [aboutme:75920]。

JRF 2011年7月9日 7082

私の「変遷」は↓。

《なぜ記号論理学から社会科学を目指すようになったのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/01/post_4.html

《IT 革命と私――神学の忌避の向こう》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2010/11/post-2.html

JRF 2011年7月9日 9989

typo 「不明暸」→「不明瞭」。

JRF2014/7/252178

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