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「流れに棹をさす」という言葉。広辞苑によると、「棹を使って流れを下るように、大勢のままに進む。誤って、時流にさからう意に用いることがある。」とのことだが、どうも信じられない。棹をさしたところで舟は止まらないが、少し向きはかえられる。流れを変えなくとも舟の向きで行くところは変わる。 (JRF 6944)

JRF 2011年9月23日 (金)

誰かが「流れに乗っているのだから行きつく先は変わらない。(けれども、個々が転覆をうまく避ける方法はある。)」というのを、否定されていると勘違いしたのではないか。(↓みたいに。)

《「的を射る」?「的を得る」?》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post_4.html
>実は、「的を得る」と「的を射る」の反目は、「射(い)る」と「居(ゐ)る」の違いでクサしたり新入りをイビったりできなくなったことの意趣返しで創られた話題ではないか?<

JRF 2011年9月23日 3966

夏目漱石『草枕』の冒頭の「情に棹させば流される。」は、流れに棹さしてるからどんどん進む…というのではなく、本来さすべきでない水底の岩(たる「情」)にたまたま棹が当たってしまったら、流されると読むほうが自然ではないか。

ググってみる。
《「流れに棹さす」の意味は変わった?! - 言語郎-B級「高等遊民」の妄言》
http://d.hatena.ne.jp/hiiragi-june/20080312
>勢いを加速させることを「流れに棹さす」という。『岩波ことわざ辞典』(時田昌瑞著)によれば、初出用例は古く、「鎌倉時代の説話『十訓抄(じっきんしょう)』に二度ほど見える」とされている。<

JRF 2011年9月23日 0668

…これか↓。

《十訓抄~役立っても役立たなくても…~》
http://www.isshikijuku.co.jp/takamura-blog/2011/mokugan/
>>おほかた、世にある道の煩はしくふるまひにくきこと、薄き氷を踏むよりも危ふく、けはしき流れに棹さすよりもはなはだしきものなり。<<

むしろ「誤用」のほうに近く、流れに「対して」うまく操縦する意味なんですが…?

でも、このページ、十訓抄のどの部分からの出典か書いてないし、ググって引っかかるのはこのページだけ…。

はぁ、図書館か買うかして調べないとだめか…。

JRF 2011年9月23日 5525

……。

関連とはちょっと違うけど、「流れ」で思い出した以前の「ひとこと」…。

[aboutme:125348]
>>> 「修行者たち、もしあの丸太がこの岸にも流れ着かず、かの岸にも流れ着かず、あるいは中流にも沈まず(…)内側が腐ることもなかったら、その丸太はそのようにして海に向かい、海に趣[おもむ]き、海に入るであろう。それはなぜか。修行者たち、それはガンジス川の流れが海に向かい、海に趣き、海に入るからである。
(…)

JRF 2011年9月23日 3812

これと同じく修行者たち、もし君たちがこの岸に着かず(…)内側が腐ることもなかったら、君たちはそのようにして解脱に向かい、解脱に趣き、解脱に入るであろう。それはなぜか。修行者たち、それは *正しく見る者* は解脱に向かい、解脱に趣き、解脱に入るからである」<『相応部経典 第五巻』

(…)
要するに(…欲に振り回される、中道にない…)生活を送れば、仏の海に至ることはできないという趣旨である。
<

著者のいう「趣旨」は間違いというか、簡略化しすぎではないか。

JRF 2011年9月23日 3648


むしろ、世の中が自分から見てどれほど極端に左右しているように見えようと、そのとき極端に見ているのは自分のほうであって、それでも大部分の人が至っていくところに解脱があるのだ…ということではないか。

でも…。多くの「丸太」にも解脱がありえるよう人々を導いていこうとする。そういう「自我」はいかんともしがたくあり、その「自我」がうまくコトを運んだと計算できたことも実際あった。それをまるきり否定するのも中道であるまい。

それは川の中ほどにいて沈まないようするだけでいいという話ではない。しかも、現代では川を造り変えることさえ、選択肢にある…。

JRF 2011年9月23日 5476

修正 「たまたま棹が当たってしまったら、」→「たまたま棹が当たってしまったら、棹がすべって」。

keyword: 日本語論

JRF 2011年9月24日 4183

……。

で、図書館で『十訓抄』を調べてきた。結果、上の出典は上巻の二ノ二。もう一つは『岩波ことわざ辞典』に例として出ていて、中巻の七ノ序。下記引用の原文と訳は↓から。

『十訓抄』(浅見 和彦 校丁・注, 小学館 新編日本古典文学全集51, 1997年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4096580511

JRF 2011年9月24日 8192

(二ノ二より)>おほかた、世にある道のわづらはしく、振舞[ふるま]ひにくきこと、薄氷を踏むよりもあやふく、けはしき流れに棹さすよりも、はなはだしきものなり。
(…)
(訳) 大体において、世の中で生きていくということには、いろいろ面倒でやりにくいことが多い。それは薄氷の上を歩いて行くよりもあやういことだし、荒々しい流れに棹[さを]さすよりも、厳しいことである。

JRF 2011年9月24日 5964

(七ノ序より)>(…)したる所作もなくて、そらに果報を期[ご]せむこと、おほきに不定[ふぢやう]のはからいなり。かようのことをいふものは、心のいたりてものくさく、性のきはめて不覚なるが、いたすところなり。まづ、あるべからむ振舞を用意して、そのうへ果報を待つは、流れに棹ささむごとし。

JRF 2011年9月24日 5235

(訳)大した働きもしないのに、何となく好運を心に期待するというのは、あまりにも浅はかな考えである。そういうことを言うものは、極めつけの面倒くさがり屋でいたって愚かな性格の持主だからであるのだ。まずは、するべき事をきちんとして、そのうえで運の到来を待つのは、水の流れに棹さして進むようなもので、その実現はきっと早いに違いない。


私は、いずれも単に「勢いに乗る」というよりは、「勢いがある中でうまく立ち回ろうとする」という意味があるように思う。

JRF 2011年9月24日 1343

……。

現代では「会議の流れに棹さす」という表現があるが、これは会議でエラい人が決めた流れに沿って議題という舟が進んでいるけれども、担当者が、流れを変えるほどのつもりはなけれども、僭越[せんえつ]にも自分にとってうまい具合に舟(議題)の行くところを変えようとしてみます…という謙譲的な宣言として使われはじめたのではないか。

つまり、実質は流れに逆らうような意見なわけで、転じて、流れに逆らうこと一般に「流れに棹さす」という誤用が使われるようになったのではないか。

JRF 2011年9月24日 3782

そもそも「正しい使い方」なら「勢いに乗る」と言えばいいのであって、「流れに棹さす」と言葉を濁す必要もあまりないだろう。はっきり申しあげれば、広辞苑などの「正しい意味」は淡白[たんぱく]にすぎる。

もちろん、エラい人にしてみれば、私のような若造の浮わついた解釈に、水を注[さ]そうと、いろいろな機会をとらえて訓[おし]えに導こうとしてくださっているのだとは思う。

ただ、「面倒なこと」も技術の進歩とともに変わるわけで、ネットがあるのに古典の原文が検索できないような状態を放置しているのは、あまりに時代の流れに逆行しているのではないか。

JRF 2011年9月24日 8663

……。

ところで、私は『十訓抄』に「日本語論」的な話題をたまたまみつけた。

(上巻四ノ十三より)>良暹が歌に、「まくりで」といふことをよめりけるに、住吉神主国基、「まくりで、といういことやはある」と難じければ、(…)<

これは「捲くり手」と「罷[まか]り出」のかけことばだが、「罷り出」は「はばかり」に似た僻言[ひがごと]…差別的用語 or 卑猥な表現…今でいう放送禁止用語…であったため、咎[とが]めてみたのではないだろうか。

JRF 2011年9月24日 6587

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