cocolog:76862796
近況。6月に入って武道交流会の見学に行って、名古屋のおばのところに行って、前から痛かった歯を抜いてきた。「ニート」な私にしては最近動きまくり。 (JRF 3909)
JRF 2013年6月23日 (日)
……。
武術交流会は6月9日に近くの体育館で無料で見れたので気になって行った。これは後述する。
名古屋…正確には豊田市近くなんだけど…のおばのところに母と行ったのが先週。おばに会って簡単に墓参りをしただけなんだけど。あと、近くのホテルで一泊したが、大阪を出る旅行なんて久しぶり。兄の家に行った以外だと、もう何年ぶりだろう…ってぐらい。
JRF2013年6月23日3992
……。
歯は、4月中旬に [cocolog:76169456] で書いた右上の奥歯の親知らず。肩が痛くなったり病[やま]いが脳のほうにも通じてしまったか…とか感じることがあって、ヤバイかな…と思いつつ、まぁ、成り行きにまかせて 6 月になった。旅行でいつものようなブラッシングができなかったこともあり、ここらが潮時かと覚悟を決めて抜いてもらった。私の不摂生でまた健康保険にずいぶんお世話になり、ほんとに父をはじめ働いている方々に申し訳ない。
JRF2013年6月23日4482
最後のほうは、歯間ブラシでそのあたりを探っても血は出ないようになり、痛みもないが、グッと歯を食いしばると、その食いしばり方によっては神経がキリッとする痛みがあるという状態になって、やがて、その痛みも鈍くなり…ということで、[cocolog:76169456]のころと違い、痛くあるべきところが痛んでいて、その感覚がなくなりつつあるのは、まぁ、歯ぐきのスキマが肉で埋ったりするような「自力で治る」という話は今回はないということだろうなと諦めをつけ、歯医者にかかった。
JRF2013年6月23日9053
抜いたあとは良好な経緯で痛みはない。他の場所の(歯間ブラシ等を使ったときの)痛みもこれまでに比べれば無きに等しい。あとは、歯医者が勧めるままの治療にしたがうか、医療費を抑えるために自己責任的に切り上げどきを探るかが悩みどころ…といった感じ。
JRF2013年6月23日5557
……。
ここで、ちょっと音楽鑑賞の話題に振る。
JRF2013年6月23日4797
実は、高音がずっと歯に響いてる感じ…というか、痛い歯のところの歯ぐきから音が直通で抜けてきてんじゃないかという感覚すらあって、そういうのに苦しんだり、余計な気の使い方をして痛みを一時的に無視できるようにしたり…といった感じで聞いていたりした。演奏家にとってはいやなリスナーってことになるだろうが、この先の私は、まぁ、こんな感じの不調を何かしら抱きながら聞くのが普通になるかもしれないし…ということで申し訳ないなと思いつつ聞いていた。
JRF2013年6月23日1464
それと関係してという部分もあるのかな。その、やっぱり今のオーディオがどうも高音が気にいらなくて、人の声の「自然さ」を変に強調した結果、音楽芸術としての高音の柔らかさが死んでるのが、かなりいやになってきて、それで、脳が音を補完しやすいピアノ曲を中心に聴くようになってる面がある…という自己分析。
歯を抜いてみて「高音がいやなのは、歯が痛いせい」というのは、むしろ自分をごまかす方向だったのだという考えに致っている。やはり、この高音の処理はいやだ。別のオーディオはバランスが悪いところもあるけど「いや」という感じはしない。普段聴くオーディオがこれなのはちょっと…という思いが強くなっている。
JRF2013年6月23日8735
といって、買って2年程度の機器を取りかえるわけにもいかず…いや、せめてスピーカーだけでも換えれば…この安物コンポでそんなことやっていいのか…とか迷っている。(悪魔のささやき↓)
《X-HM50に関して(…)どうしてもしっくりこなかった場合、スピーカーを D-212EXに買い換えてつけるというのはどうでしょう? - Yahoo!知恵袋》
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1161666431
JRF2013年6月23日2643
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クラシック CD に関して。
[cocolog:76315725] のアルゲリッチの室内楽を気に入って、ただ、予算をそれほどかけられないということで「安いセット物」ではなく気になった演奏の CD だけを中古で手に入れて聴いた。
JRF2013年6月23日5382
チャイコフスキーの三重奏曲は、最後「どうしたんだ!アルゲリッチ」と聞きたくなるような演奏だった。ところどころのフレーズは三人の才気あふれるところを認めるのだけど、最後のアルゲリッチの「おざなりさ」にも近い「咆哮[ほうこう]」になぜ致るのかが私にはわからなかった。彼女はまるでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番でも求めているかのようで、でも、他の二人は必ずしもそこを目指していないように思った。他の演奏でこの曲を聴いたときに感じた、美しい曲がなんとなく終ってしまった…というのとは違い、確かに、ある種のクライマックスの感覚はあったとはいえるが…。
JRF2013年6月23日3213
ショスタコーヴィチの CD は、五重奏曲はすでに上のセット物で聴いていて、残りに関心があったのだが、気のせいのはずだが、どうもセット物のほうが録音が良い気がして、変にそれが引っかかって、うまく他の部分への感想がつむげない感じ。
JRF2013年6月23日7230
アルゲリッチ、クレーメル、マイスキー『チャイコフスキー:ある偉大な芸術家の思い出のために』(録音:グラモフォン 1998年 東京ライブ)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2652755
http://www.amazon.co.jp/dp/B000YY66KA
http://www.amazon.co.jp/dp/B003W16TBS (セット物)
JRF2013年6月23日1618
アルゲリッチ他『ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番、ピアノ五重奏曲、他』(録音:EMI 2006年、発売:2007年)
ショスタコーヴィチ
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2617420
http://www.amazon.co.jp/dp/B000VJ2710
私が聴いたのはいずれも海外版の中古。
JRF2013年6月23日8672
……。
あと、メニューインとグラッペリのジャズ名曲集もザッと聴いた。歌とダンスが娯楽の中心である時代があって、それがトーキー映画を黙って観るような時代になり…そういった背景からジーン・ケリーが出てきて、こういう曲の演奏は、船の上の高級クラブみたいなところでしか聴けなくなる…とかあったのかな…なんて思った。
JRF2013年6月23日7693
何ていうか、オーディオの不満はここに極まれりの感があって、オーディオのイコライザーを Pops にしたり Classical にしたり Jazz にしたり、いろいろ試して CD ごと、場合によっては曲ごとにピッタリするのが変わって、それで、バイオリンの高音が耳に痛いのだけは変わらない。小さな音で聴いたら、他のニュアンスが消えちゃうし…。で、いやになった。
JRF2013年6月23日8244
いや、録音が多少悪かろうと、アステアの声が、ナット・キング・コールの声が、サラ・ヴォーンの声が、あの時代のジャズシンガーの声が、やっぱり私には心地いいというのを確認することになってしまったということなのかもしれない。
この CD 集は人気があるようで、すばらしい演奏、録音再現技術に間違いはないんだろうけど…。
JRF2013年6月23日2231
『Icon: Menuhin & Grappelli』(CD 4枚組、録音:1972年-1985年、発売:EMI 2009年)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3646424
http://www.amazon.co.jp/dp/B002HIEIUG
JRF2013年6月23日3022
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《ひとこと》には書かず、医療哲学や歴史を考えてる流れで、今は、体術…健康法または医学的護身術といった位相での格闘技やダンスというものに関心を向けている。
JRF2013年6月23日1427
私は、子供のころは合気道を少しだけ習ったことがあるし、中二病としては自己流拳法の練習みたいなことを大学生になってもやってたことがある。体育ではいつも落伍者的だったが、柔道やラグビーの体でぶつかる系だと少し通用したような覚えがある。
JRF2013年6月23日0174
そういう私がこの年になって何か体を鍛える必要があるのだとすれば、関心として向くのは拳法あたり、で、上のような関心だと太極拳が「ズバリ」だよな…。
「太極拳は健康体操」という言説があるようだが、他の格闘技もだいたいそういう側面を持っていて、これは、全部、体育だからということではなく、それぞれにある種の生命的な「奥義」を一般に伝えているんじゃないか…。
気功の本も軽く読んでみたが、私はあんまりその方向へは行きたくないが、知識を得るためには、その基礎的な方法ぐらいは取り入れながらも、強さを求める拳法に留まって、でも、強さを得るほどの功夫[くんふう]は得られない…ぐらいの関わりは持てたらな…。
JRF2013年6月23日7889
…とかそういうことを考えているとき、たまたま、私の住んでる地域でここ数年毎年やってるらしい「武道交流祭」というのがあるのを知り、当日まで行くかどうか迷って行かないでおこうと傾いていたが、たまたま眠れなかったので出かけてみた。
JRF2013年6月23日3514
……。
私にとって生の武術を見るのははじめて。
とても刺激的で、13時からはじまって15時に休憩があったのだが、疲れていうか気分が昂じすぎたので、そこで切り上げ帰った。私の感想は完全に素人なもので、表相的に留まるのはもちろんだが、私個人にとっては初見という大切なもので、この後の武術解釈のベースをなすものを得たと思う。
JRF2013年6月23日7864
「天女の舞」という二人の女性の和華折衷というか、不思議な舞があり、その後、杖道、集団での太極拳、拳法、居合、空手と続いた。
JRF2013年6月23日9535
杖道は、つまり、座禅の警策なのだと思う。向い合っての杖の打ち合い、打つ力とその位置により虚実はあるのだろうが、その型の伝達においては、体を打つより邪念…攻撃しようという意志…または変に譲ってしまう心の弱さを打つことに習いの意味があると見えた。
JRF2013年6月23日0604
スフィンクスの謎([aboutme:114757])のように、老人は杖をつくもので、それは3点でとるバランスなのだが、道具を使い安定しすぎてしまうことそのものが種としての老いではないかという問題意識が私にはある。
JRF2013年6月23日2320
居合は、刀という道具を使った、光と音、すなわち波。技法としては、波をフェイントとして使って相手の虚を突くといったあたりになるのだろうが、その奧義的なところは、臨界や共振といった本来ありえないはずの爆発的な力の利用にあるのかもしれない。…とちょっと妄想した。
JRF2013年6月23日2202
……。
太極拳は、「群舞」の最後、まるでこちらに向けたかのように華やいだ気というかはっきり風のようなものが、私に向かって吹いたのが不思議だった。
個人演武の拳法は私が想っていたのとは全々違った。震脚を強く踏むものものもあったが、バーチャファイターのアキラのように動作が止まるようでなく、力強いがしなやかなものだった。
JRF2013年6月23日6373
何かうまく言えないが、彼らの動きは、とても不思議で、以前棒馬のところで書いた「血みどろの連関」が洗練されたものという印象と言えば近いか。
《漢字の「馬」の象形文字はむしろ「棒馬(hobby horse)」では?》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2012/09/post.html
JRF2013年6月23日7934
あと「組手」みたいなのがあったのだが、男女の中年風の先生による合気道のような組手と「達人」ふうの二人の男性の「ガキのケンカ」のような組手を同時にしていた。おそらく、あれは、太極拳の太極図と同じものということになるのだろうか。
JRF2013年6月23日5802
「ガキのケンカ」とは何とも表現しずらくてこう書いたが、もっと不可思議というか禍々しいと言えば語弊があるが、向かいあって両手を手首で接し、そこで体をくねらせる…言葉ではこうとしか書けない。小さな子供がけんかするとき、両手をむすんで相手をなぐろうとしながら、たがいの両手があたりあって、ほとんどあたらないでジタバタやってる…あの本質を「気」の動きにつなげるということなのだろうか。
JRF2013年6月23日7413
こういったところから政治のヒントを得るものがあれば、それは社会に影響し、男女に影響を及ぼすという経路は少なくともありえる。しかし、もっといろんな経路、精妙な経路というのがあるということなのではないかと感じた。
このあたり私にできるとすれば、数理モデルを作るかゲームを作るかという話になるが…まぁ、ただそこに反発しながら、となるのか。
JRF2013年6月23日2135
そういう中国拳法に対し、日本の武道は、よくも悪くも道具との一体性を持つものなのだろう。武術特に中国拳法は、人を知る…ということなのだろう。人は自然を中[うち]に含むもので、私は、病[やまい]の体[たい]に打ち勝とうとするところまであると見たい。
JRF2013年6月23日9841
薬とは毒…阻害薬であるなら、それは拳法によっても可能で、それで治せるなら、気功でも治せるという理屈はあるのかもしれないが、しかし、西洋医学の「勝利」は、道具とともに生きる物を切り捨てなかったところにあるのではないか。むしろ西洋が切り捨てていて、東洋は自分達は害を出さない方向をさぐっているというつもりもあったのかもしれないが、でも、結局は真剣に向き合ってこなかったとなったのではないか?
JRF2013年6月23日8081
……。
空手は、板を割るところから伝統なんだというのは、つまり、集団を作るというところから観ているということなのだろう。そこには、薬物という「兵器」もいずれ使えば、どうなるかと思わせる部分もあると感じた。ただ、空手の基本は、倭寇の船上拳法といったあたりを記念する面があるのかな…とも思った。
JRF2013年6月23日9727
強さに憧れた子供が大きくなって、こんな時代にどう生きていけばいいのか。鍛えたことの意味を何に見出すのか。例えば、合気道で倒しているのは「気(功)」ではないというとき、社会的な弱みでも握られているのではないかという「卑しい」観方ができる。でも、派手に倒れることが逆に安全につながるという「真理」はその「卑しさ」も一部取り込んで成り立っているということではないのか…。
JRF2013年6月23日1872
働いている者に対し、「遊んでいる」物だけが健康になるのはよろしくない。「気功法」なるものが本当に健康法なら、それは働いている者に健康を還元する道をもたねばならないだろう。象徴的にだけ持つのか、具体的に、新しい労働を産み出したりする(このあたりひとことがあったかな?)かは別として。
JRF2013年6月23日9747
……。
家に帰って、なぜか、アングロサクソン体格というか、東洋人から見て巨人的な体格の理想的イメージはどう生じるのだろう?…といったことを考えた。
JRF2013年6月23日4835
決して重量上げの選手のように太っているのは理想ではなく、東洋人的短足さも、しなやかさも重要としない。肩の筋肉の付き方とかを考えると、滑車を引き上げる鍛え方が原点的に感じるが、それってどういう状況だ?
JRF2013年6月23日8496
そこで星座のオリオンの姿を想い浮かべた。でも、その絵の棍棒だと、引き上げの肩にはならない。むしろ、持つべきは石ころなのではないか?投石ではなく、握った石を武器として使うこと。そして、右手に石があれば、左手には毛皮…毛皮で牙や刃物をいなすイメージ。
JRF2013年6月23日1158
このスタイルにおいて、足はどういう意味があるのか、成熟があるのか。蹴りはどういうイメージとしてもわかない。足場を作る…むしろ、足を器用に使い、例えばわざとぬかるみやすくしておいて、敵をそこに誘い込むような、知力とあわさった器用さとそのような「術」を使いながらも崩れを見せない安定感が思い浮かぶ。
JRF2013年6月23日8882
どこにでもある道具(石)、つねに持っているもの(皮)、その地勢・状況をうまく使うこと。自分だけで完結することもまたよしとしない。それが(私の考える)「巨人」の条件ということか?
JRF2013年6月23日3475
アングロサクソン体格は、強弓が現れたとき、それを有利に扱えただろうが、その利用に適するには、足の長さや手の長さは必ずしも必要なく、そこで陶汰がすすんだと見るには強弓はマイナーか後代過ぎる発明なのではないか。(アフリカなどの弓を使った狩りの映像の記憶からすると、森の狩りなどで強弓が使われたとしても、それはもう狩りがスポーツになってからという面が強いのではないか。)…
JRF2013年6月23日4947
……。
そんな「たわいもない」ことを考えながら、ネットの方では、[cocolog:76692463] の No Ad URL 関連を作ってた。これは結構、自信作なんだけどなぁ…っていうか、むしろ、先行者がいて他者の技術情報を調べない私が知らないだけの可能性が強い気がする。それならそうと教えて欲しいけど、まぁ、引きこもりニートな身にはそういうチャンネルもない。…悲スィーね。(^^;
しばらく少し活動的にやってみたけど、この先はどうなるのかな…。どうしようかな…。
JRF2013年6月23日6747
typo [「遊んでいる」物]→[「遊んでいる」者]。
JRF2013年6月23日6363
typo 「奧」→「奥」。
typo 「陶汰」→「淘汰」。
JRF2014/7/253396
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受信: 2013-09-29 21:24:50 (JST)
精神薬がちょっと減ったというのもあるが、前後関係を考えると、40代になって心境の変化や体調の変化がある中で、精神薬が減ったのであって、精神薬を減らした影響で活動的になっているのではないという認識。まぁ、減った薬の作用からするとシンクロニシティ的な面も感じちゃうけど、それは「科学的な観方」ではないだろう。
JRF2013年6月23日6816