« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

cocolog:81611945

田島正樹『ニーチェの遠近法』を読んだ。 (JRF 8427)

JRF 2015年1月18日 (日)

『ニーチェの遠近法』(田島 正樹 著, 青弓社, 1996年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4787210254
http://www.amazon.co.jp/dp/4787210351 (新装版)
http://www.7netshopping.jp/dgbooks/detail/-/accd/5110143637 (デジタル版)

私が買ったのは中古の1996年初版。

JRF2015/1/186153

……。

まずは細かいところから…。

>"長い"は長くないが、"短い"は実際短い(…長さの単語である、このように…)自己自身に述語付け不可能(…なものと可能なものに二分できる。不可能なものを…)ヘテロロジカル(…)と呼ぶとすると、"ヘテロロジカル"は果たしてヘテロロジカルか否かをめぐって、いずれも不合理な結果を招くのである。<(p.69)

JRF2015/1/186286

ある種の「自己言及」のパラドックスなわけで、一般に注意を要するものだが、「自己言及」すれば即アウトかというとそうではない。

JRF2015/1/188637

プログラミングなどでリスト構造などに対し、関数の再帰的定義ができるが、集合論でも、同じようなことを構成的に書いて結果として再帰的定義の式を導くような一般的手法が存在する。

構成的に導入した関数や述語にあとから再帰的な命題を証明できることはしばしばある。それでどこまでできるかというほうが工学的・実際的関心としてあるべきで、ここで立ち止まってはいけないというのが私の考え方だった。

JRF2015/1/182689

……。

>(…)我々は「"幽霊が存在する"が真であるのは、幽霊が存在する場合であり、その場合に限る」というかたちっで、当の文の真理条件を記述できたかのように思い込んでしまいがちである。しかし、そもそも"幽霊"という言葉の正しい習得場面がはっきりせず、したがって"幽霊が存在する"という発話がそもそも有意味かどうか自体に信頼が置けない(…)。<(p.67)

JRF2015/1/189030

あいまいな定義からはじめて、その定義を弁証法などによってブラッシュアップするという枠組を欲しいな…と私は考えたものだったが、その実用例をうまく示すことができなかった。今ではそういうのもコンピュータ定理証明の分野にあるのかな?その辺はもう調べてないのでわからない。

JRF2015/1/187941

……。

>実際に問いが生起するときには、我々が問いかけるのか、それとも問いかけられるのかも分からないし、なにをもっって答えられたことになるのか、ある答えが真の答えであるのか、それとも答えの回避でしかないのか、問題のすり替えではないのかも、決して万人に明らなかわけではない(ゴルディウスの結び目のアレクサンダー大王による「解決」は、真の解決であろうか?)。<(p.79)

JRF2015/1/180340

コンピュータ端末で「問い」というのは一つのコマンドで、わけのわからないコマンドでも通じてしまって、何らかの答えは出てくることがある。統計に関するプログラムを書いてそれをコマンド(「問い」)にして、そこから得られた答えを分析して、またプログラムを書き換えるというのは、決して「答え」や「問い」の回避ではない。思いもよらない「答え」…すなわち「バグ」が出れば、それを解明して直そうとする。「万人に明らか」で意味のある「部分」、追及して無駄ではない「部分」は存在するように思う。

JRF2015/1/181109

ちなみに、アレクサンダー大王が結び目を切ったというのは、結び目というのは古代の「記録方法」であり、それに気付いた者は結び目を切ろうとしなかったのをあえて切ったがアレキサンダー大王で、一方で、アレクサンドリア図書館がその後できていき、そしてそれが焼かれるまでが一つの呪いだった。…みたいに妄想したことがある。現代の DRM まわりの事情もちょっとそんな感じだね。

JRF2015/1/182571

……。

>しかしかかる超越論的価値は、観点を創造し主張することがっきない衰弱した生が、観点を自ら創造し主張する強者に対してルサンチマン的復讐を企てて、偽造したものでしかないのである。<(p.85)

>そのとき我々の観点と彼の観点の呼応関係が浮き彫りになり、それが互いに両観点の実在性を保証するのだ。<(p.94)

JRF2015/1/187190

観点というと様相論理を思い出す。様相論理の記号というのは述語にかかるから、述語を取る述語ということで高階論理の一種とも見なせる。でも、単純な高階論理は、根拠が薄弱になりがちで、論理一貫性(無矛盾性)を示すのが難しい。そこで結局は、一階述語論理の集合論に基盤を見出して、その上に「意味論」を展開するのが、無矛盾性を示す戦略になる。逆に言えば、無矛盾性を保証したければ、現状、集合論に基づくのがセオリーなのだから、そもそも集合論を使えばいい、集合論に何らかのシンタックス・シュガーをかけて使えばいいのである。

JRF2015/1/189393

もし、そうでないものが根拠を持ちうるとしたら、それは確率的な何か統計的に知ることができる何かであるだろう。

JRF2015/1/187073

…そんな風に私は考えていた。

でも、私が実際やってこれたのは、そのような根拠付けではなく、預言書風のというか箴言[アフォリズム]風に単純化されたプログラムを作ること…と言えばカッコいいが、要は、「ヤッコー」(やってみたらこーなった)式のプログラムか、「誰も使ってくれない実用」プログラム or フレームワークだけだった。

JRF2015/1/186666

……。

永劫回帰の章で…

過去に散在している意味断片を今ここに取り集めることによって、新しい観点が生まれる。それが今の私という観点である。この観点が成立するとき、意味は回帰するのっである。しかしそっくりそのままではない。それは、まとまって一つの展望をなすものへと結集することによって、まったく新しい創出となるのである。

JRF2015/1/187876

(…)
バラバラであるがゆえに忘れられていた思い出が、ジグソーパズルが互いに符合するように、また、探偵の推理が証拠を取り集めるように、まとまってくることによって自らを立ち現れさせるのである。そしてそれが、これまで気づかれていなかった観点を、私自身のなかに生み出す。今や一新された展望を与えながら。それが私自身の自己回帰である。
<(p.214)

JRF2015/1/187613

私は2014年4月の統合失調症での入院の際、こんな妄想にとらわれていた。原爆が最初に爆発したとき、世界がある意味一度終ったのではないか。それ以来、私達はイマジナリーな生を部分的に抱いて生きている。原発震災によって、イマジナリーな部分は増し、私自身が生きているかも自信を持てない。互いに魔術みたいなもので支えあっているのが今の我々の生なのだ。実際、私は、2014年4月にPC の画面にうつるブックマークの文がおかしくなったのを覚えているし、つい最近も、コピー本の内容が覚えていたのから書き替わっていたのを経験した…。

JRF2015/1/186692

……。

>ニーチェは、自分のテクストが読者に対する一つの試練として、読者を挑発し選別するものであることを明らかにしている。<(p.30)

>(…)そして、美徳の所有を誇ることはむしろ悪徳そのものであり、美徳を所有しえないことを認めることが唯一可能な美徳とされた。彼らは、かくて、すべての徳の否定のうえに新しい一つの徳を偽造して、それを「慎み」とか「謙遜」と名づけたのである。ちなみに"価値の逆転"を成し遂げたこのルサンチマンの道徳が、ソクラテスの「無知の知」と同型的であることは、注目しておくべきである。<(p.54)

JRF2015/1/182513

>自己を肯定えきない者たちは、ルサンチマン的復讐心によって、他の者を否定せざるをえないから、彼らが超越的原理に訴えるのはむしろこのためだとも言えるだろう。それゆえ、衰弱した生の無力は、かえって厳格なパリサイ主義的攻撃性として現象することになる。<(p.104)

>(…)ヴァレリーはいみじくも指摘している--"それにしてもどれほど多くの弱者が、[ニーチェ]を読んだだけで自分を強者だと思うことでしょう。"<(p.162)

>高貴な者は、弱者が、自ら力を放棄した強者のように装う姿にだまされ、自分もそれを模倣しようとする。<(p.170)

JRF2015/1/185650

私は今「衰弱した生」を自認して生きている。私は誰かに、いや、社会にルサンチマン的復讐をとげようとしているのだろうか?

JRF2015/1/180384

……。

長くいろいろ引用したが、結局、読み切れたという感慨はなく、今回も最近の他の哲学書を読んだときと同じく「よくわからなかった」というのが正直な感想である。

ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』ぐらいは読んでおくべきなのだろうな。(R. シュトラウスの曲の CD は持ってるけど…。)それを読んでから、今回の本をもう一回ぐらい読み直してみたい。でも、『ツァラトゥストラ…』とかその辺の書は『聖書』とかと同じで、若いときに読んどかないと感銘を受け辛いようなものの気もするけどね…。

JRF2015/1/180425

typo 「かたちっで」→「かたちで」。
typo 「がっきない」→「ができない」。
typo 「肯定えきない」→「肯定できない」。

JRF2015/1/206033

typo 「っっ」→「っ」。
typo 「のっで」→「ので」。

JRF2015/4/81788

« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/93568/60993859

トラックバックのポリシー

他サイトなどからこの記事に自薦された関連記事(トラックバック)の一覧です。

» cocolog:81722226 from JRF のひとこと

ウィーナー『サイバネティックス』を読んだ。いつものごとく数学は飛ばしながらだけど…われながら情けない。orz 続きを読む

受信: 2015-03-29 13:34:39 (JST)

» cocolog:81647290 from JRF のひとこと

表現の自由とは情報操作の自由であり、情報の自由市場とは諜報の市場化でもあり、「ハリウッド」とかが莫大な投資を CG 等にかけたものが、すでに日常的にコモディティとなって操作のツールとして売られているというのもありそうなことだとは思う。まぁ、陰謀論になるけど。... 続きを読む

受信: 2015-03-29 13:41:16 (JST)

» cocolog:82200204 from JRF のひとこと

田島正樹『ニーチェの遠近法』を再読した。前回と同じく「よくわからなかった」が何度も読み返しながら理解しようとしてみた。 続きを読む

受信: 2015-06-28 14:29:51 (JST)

» cocolog:82173429 from JRF のひとこと

『世界の名著 46 ニーチェ』を読んだ。ツァラトゥストラの言葉は私の思考にとって空疎なものと読んでいたが、私の心には響くものがあったようだ。 続きを読む

受信: 2015-06-28 14:30:01 (JST)

» cocolog:83347972 from JRF のひとこと

統合失調症のときに妄想した。「真の創造主」の他に自分が創造主だと「勘違い」している者があると考えたとしてもそれはグノーシス的異端ではない。…これは911テロ後の世界で「何か」に対抗する「黙示録」的な言説になるだろうか…。... 続きを読む

受信: 2015-09-28 14:37:16 (JST)

» cocolog:83154639 from JRF のひとこと

『日亜対訳・注解 聖クルアーン』を読んだ。 続きを読む

受信: 2015-09-28 14:38:39 (JST)

このころのニュース