cocolog:82173429
『世界の名著 46 ニーチェ』を読んだ。ツァラトゥストラの言葉は私の思考にとって空疎なものと読んでいたが、私の心には響くものがあったようだ。 (JRF 0964)
JRF 2015年4月 5日 (日)
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まず問題の『ツァラトゥストラ』から。
JRF2015/4/56090
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信仰者にとって「超人」の言葉は躓[つまづ]きの石なのかもしれないが、狂人となって「信仰」を得た私にはツァラトゥストラの言葉は空疎に思える。「玩具」と言えども、作ってその「おもしろさ」を維持するのは難しい。社会の構造は美しくはないかもしれないが、その構成者への尊敬を持つべきものだ。
JRF2015/4/56632
私はてっきり「賎民」なのかと思ってたら、超人にとってはむしろ普通の社会人がそう見えるらしい。私は彼から見れば「僧侶」あたりになるのか?それにしては賎[いや]し過ぎる気がするが。
JRF2015/4/58742
道徳を「神」を持ち出さず導くという「題」は↓で、私もやったことがある。私自身は、「心情的」不十分さがあるのを認めつつも、この答えに割と自信を持っている。だから、「神は死んだ」と言って徳を攻撃するのを読んでも、特に「痛み」は感じない。
《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html
JRF2015/4/53981
まぁ、多くの人(私が個人的に尊敬している著者 [cocolog:81611945] とか)がニーチェを高く評価しているのだから、単に私がもう感受性を失っているだけだという疑いのほうが強いのだが、読むのが苦痛…痛いところを突かれたというのではなく、空しく過ぎる時間が重荷でしかなかった。
JRF2015/4/54851
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思想的「綱渡り」をしているのはわかる。第一部で、戦士であることを称揚する「戦争と戦士」のすぐあとの節が国家を否定的に描く「新しい偶像」という節であったり。これによって戦士の称揚が、時代的要請というより、(エリアーデ [cocolog:81897781] [cocolog:82088382] のいう)アーリア=ゲルマン宗教的な伝統から来ているかのように読める。
JRF2015/4/55673
「ツァラトゥストラ」は「ゾロアスター」だから、ゾロアスター教にヒントを得ているのだろうと思っていたら、アフラ・マズダやアフリマンすら出て来ない。わずかに拝火教的、火というより灰のモチーフと、善と悪を等間隔に置いた対比という面にその影響が感じられるぐらいだ。ブッダでもイエスでもなくニーチェが考えるアーリア(アリアン)的なものが「これ」だったのだろうか。
JRF2015/4/58761
詩のような形式…箴言・アフォリズム形式というらしいが、私も以前↓でやってたことががある。でも、これを「物語」が成り立つように長く、論理性を持ってここまで続け完成させるのはすごい精神力だとは思った。(私は長編小説を仕上げたこともないほどの精神力なので比べる以前の問題だが。)
《JRF の私見:雑記: 箴言・辛言・戯れ言》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/cat5477553/index.html?mode=long
JRF2015/4/55423
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この「思想」が危険だとわかったのは、ちょうど第三部「後の舞踏の歌」を読んだころだった。その思想の跳躍に、生への意欲に、きっとほだされてだと思う、普段は考えないような危険思想に私が染まったからだ。
JRF2015/4/56236
ある Tweet に「生活保護のミーンズ・テストで PC はもっともはじめに捨てられるべきとされる贅沢品だ」という旨があった。私は PC がなければ何もできない。書くことも主な情報源も封じられる。「最低限文化的な生活」ができないなら、今までの自分なら死ねばいいと考えるところ、むしろ生への意欲から、「彼ら」が死ぬべきだ。PC を捨てさせた者は死の制裁を受けるべきだ。もしどういう形でかデマなら、生への意欲を奪おうとしたその者が死の制裁を受けるべきだ。…と思った。
JRF2015/4/53710
また、別の Tweet に「修学旅行費を子供がバイトで貯めたら生活保護費から引かれた」という旨を見て、アウシュビッツの官僚と同じだ。その公務員から首相に致るまで死の制裁を受けるべきだ。いや、もっと言えば、彼らを支持した私以外の国民が制裁を受けるべきだ。革命だ。…と思った。
JRF2015/4/58194
しかし、そこで気付いた。こう「思った」と書くことそれ自体が禁じられようとしている「ヘイトスピーチ」ではないか…と。「ヘイトスピーチ」で問題になってるのは排外主義や差別だが、その自由が奪われるとき本当に鉾先が向くのは上のような言説なのだ!
なるほど、世の中、うまくできている。
JRF2015/4/50467
私には似合わない思想だった。私はこれまでどおり自死を見つめる考え方に引き込もるべく、そういう思想を築くなり学ぶなりすべきなのだと思い致った。
JRF2015/4/50681
むしろ「そこに不満を持つ者は、私を殺せ。犠牲に差し出す。」と言うべきなのだ。だから、永劫回帰的に、私は犠牲にふさわしくなるよう生活保護へと続く道・そして自死する道に下っていっているのだろう。
JRF2015/4/50865
いや、さらにむしろ私よりも私の周りに被害がある(ように妄想してしまう)ことに憤るべきなのか。私の周りというこの共同体=ウンマが問題なのか。私のウンマを犠牲に差し出すべきなのか。
つまり、あるウンマに属さない者を殺せと命じたことがあるその瞬間を呪い、そこの敵として殺されることを望むべきなのか。殺そうとすることを放っておくウンマにウンマとしての罪がある。同じウンマに属するものがそれを止めるためにジハードすべきなのだ…。
とするなら、私の属するウンマが私を殺すのを正当化しようとする私を殺そうとするのは正しいことではないか?
JRF2015/4/54212
…昨年の今ごろ、[cocolog:79382994]で私は自分に「死刑」を宣告した。しかし、下された罰は、「死」ではなく、もっと恥ずかしくもふさわしいものだった。それは、通常の精神状態なら、犯罪とされるべきもの。もっとも、いずれ「死ぬ必要」があるのは人間である以上、当り前だが。
JRF2015/4/59427
[cocolog:73267390] で「死に値しない罪はない」とも書いた。私のような者が「死に値い」する罪と思って声を上げる瞬間があったとしても、より高いところから見れば、そうではない場合がほとんどなのだろう。ウンマに生への意欲というか生へのとりなしが常に必要なのだと思う。
JRF2015/4/57505
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『ツァラトゥストラ』の感想からはずいぶん遠くに来てしまった。他の人はこんなふうには感じないだろう。ただ、こんなふうにも何か頭を沸騰させる、そういう「詩」ではあるのだと思う。最初空しく過ぎた時間と思っていたが、最後のほうを思い返せば「熱中」して一気に読んでいた。もう一度冷静に読む機会を持ちたい。
JRF2015/4/55964
(…いや、これは修辞だな。最近何回か「読みたい」という表現を使ったけど、それはちゃんと読めてないことを認めたということ。私の人生でもう一度読むことはないかもしれない。)
JRF2015/4/51703
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『悲劇の誕生』は、ニーチェの処女作であるらしい。ギリシア古典に疎い私には、「空疎」とか言う以前に、意味不明な部分が多かった。
JRF2015/4/55738
>抒情詩人はアポロ的天才として、音楽を意志という形象によって解釈する。<(p.484)という主張にはじまり、言いたいことは>リヒャルト・ワーグナーが次のように言っている。文明とは、ランプの光が日光によってかき消されるように、音楽によって打ち消されるものである。<というところに結論を導きたかったのだと思う。若きニーチェの音楽への「過剰な期待」つまり熱情があるように思う。
JRF2015/4/53944
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「ギリシア悲劇の誕生」として、>ディオニュソスの苦悩のみを対象とし、かつまた、あなり長期にわたってディオニュソスこそが唯一の舞台上の主人公であ<り、>ギリシア演劇の有名な人物、プロメテウスやオイディプスなどは、いずれみな、あの本来の主人公ディオニュソスの仮面にすぎな<かった(p.507)。ディオニュソスといってもギリシアにおいては、「放縦」というよりは、プロメテウスが火を奪って人に進歩をもたらしたかのような「逸脱性」を、ニーチェは主に見ていた。
JRF2015/4/53096
その仮面を被ったディオニュソスの「狂宴」は、彼の兄弟でもある>夢解きの神アポロの作用<で悲劇として現象するのである。(p.508)
JRF2015/4/58687
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そうして誕生したギリシア悲劇を終らせたのが、エウリピデスで、彼は、ディオニュソスを追い出してソクラテスを招き入れたのだという。>エウリピデスの悲劇の主人公は、理由や反対理由などをあげつらって自分の行動を弁護しなければならないし、ために、しばしば、われわれの悲劇的同情を失う危険がある。ソクラテスはこういう主人公に似ている。なぜならば、弁証法の中には楽天主義的要素があるからである。誰がこれを見誤るものがあろう?<(p.533-534)
JRF2015/4/53024
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理論的人間・科学的人間の嚆矢であるソクラテスが死に望んで音楽の必要性を受け入れた(p.535)。一方で、>悲劇芸術は音楽の精神の消滅によって滅亡する<(p.542)。その対立がニーチェの時代に起こっていることだという認識がある。
JRF2015/4/50633
>古代人の証言によれば、悲劇が実際にみせていたにちがいない効果よりもわれわれは皮相浅薄な効果を想定することになりかねない。<(p.550)が、それを取り戻そうとしてルネサンスになされた「オペラ」の試みは>牧歌的傾向<(p.565)をもつものでしかなかった。
JRF2015/4/55027
それがドイツにおいて、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナーへいたる>力づよい日論の歩みの中<(p.568)にディオニュソス的精神が蘇えってきた。これは科学万能の時代が限界を迎えて「音楽をするソクラテス」(p.551)へと回帰してきているのだ。
JRF2015/4/50949
…ということらしい。
JRF2015/4/52973
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以上がだいたいの論旨と思う。以下は目についたところ。
JRF2015/4/54647
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>プラトンの対話篇は、統一的な言語形式という在来の厳格な法則を打破したともいえるのである。この同じ方向をさらに徹底したのが犬儒派の著作者たちであった。彼らは千々に乱れた文体で、散文とも韻文ともつかぬ不安定な形式で、「狂乱のソクラテス」という文学的画像を達成したが、これこそ、彼らが実生活において演ずるのをつねとした画像にほかならない。<(p.532)
…この部分は私の《ひとこと》のあり様を言われているかのようだ。私は犬儒派的なのだろうか?
JRF2015/4/58391
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>その結果、自殺が常習化し、もしも個人がわずかに残された最後の義務感を感ずることがあるとしたら、おそらくそれは(…)子として自分の両親を、友として自分の友人を絞め殺すにちがいない。これが実践された厭世主義というべきものである。これは同情からの民族殺戮という戦慄すべき倫理すらも産み出しかねない。<(p.540)
これは上のように書いた私はキモに銘じておかねばなるまい。これに続く文で、
JRF2015/4/59275
>この実践された厭世主義からみれば、ソクラテスは理論的楽天家の原像である。前にも述べたとおり、彼は事物の本性をきわめることは可能であるという信念をいだいて、知識と認識とに万能薬の効力をみとめ、誤謬を悪そのものと考える理論的楽天家なのである。<(p.540)
この楽天性には私は学ぶべきことがあるのかもしれない。ソクラテスは刑によって「自死」した。「狂人」ニーチェの代表作『ツァラトゥストラ』に併録するものとして編者が、この「処女作」を選んだ理由は案外、この本の読者が戻るべき地点がこのあたりにあるということを言いたかったのかもしれない。
JRF2015/4/51927
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ソクラテス的文化=アレクサンドリア的文化という見建ての中で、
JRF2015/4/56167
>諸君、よく心にとどめておいてもらいたい。長期間にわたってアレクッサンドリア的文化が存在できるためには、奴隷階級が必要である。にもかかわらず、この文化は楽天主義的人生観のゆえに、奴隷階級の必然性を否定し、ために、「人間の尊厳」だとか「労働の神聖」だとか、美しい殺し文句と気休めの言葉とをふりまわすばかりである。(…)自分の存在が不当に遇されているという見方を習いおぼえた野蛮な奴隷階級ほど、恐るべきものはない。彼らは自分のためばかりではなく、万代の人々のために復讐しようとたくらむからである。<(p.557-558)
JRF2015/4/52530
この本を読む時間のある階級というのは、このころはプロレタリアではなかったし、ツァラトゥストラのような有名作以外にも時間を費やそうとする(私のような)者は、まぁ、こういうところに共感する者も多かったのかもしれない。…私はこの先どうなるのかな…。
JRF2015/4/54690
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追記。
ツァラトゥストラは踊るが、私も統合失調症になったとき、>二つのハンガーを使って動物を模して踊った<([aboutme:117655])ことを思い出す。
JRF2015/4/53232
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『世界の名著 46 ニーチェ』(ニーチェ 著, 手塚 富雄 編, 手塚 富雄 & 西尾 幹二 訳, 中央公論社, 1966年)
http://www.amazon.co.jp/dp/B000JBBMN4
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1100398910 (中公バックス版)
本書は『ツァラトゥストラ』と『悲劇の誕生』を所収。『ツァラトゥストラ』は『ツァラトゥストラはかく語りき』『ツァラトゥストラはこう言った』などと同じもの。
JRF2015/4/55949