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エリアーデ著『世界宗教史 7・8』を読んだ。1・2巻にないと嘆いた「アニミズム」は、「祖先崇拝」などと共にこの7・8巻でたくさん読めた。 (JRF 6108)

JRF 2015年4月30日 (木)

前回 5・6巻についてのひとことで、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の ED『ハレ晴レユカイ』の歌詞「ナゾナゾみたいに地球儀を解き明かしたら、みんなでどこまでも行けるね」に言及したが、まさにそんな感じで、失われがちな世界の「辺境」の宗教と共に、現代ヨーロッパの理性宗教と化した宗教形態についても言及があり、読みごたえがあった。

地域ごとに分かれた各章は、その地域に赴任する者などが読んでいって損はない手軽な長さの要約となっているという印象を受ける。

JRF2015/4/308444

『世界宗教史 全8巻』(ミルチア・エリアーデ 原案, 奧山 倫明 & 木塚 隆志 & 深澤 英隆 訳, ちくま学芸文庫, 2000年)
http://www.amazon.co.jp/dp/448008567X (7巻)
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101692146 (7巻)
http://www.amazon.co.jp/dp/4480085688 (8巻)
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101694441 (8巻)

JRF2015/4/304588

1巻と2巻については [cocolog:81897781] で、3巻と4巻については [cocolog:82088382]、5巻と6巻については [cocolog:82257257] でひとことしている。そしてこのひとことが7巻と8巻で最終巻となる。

JRF2015/4/309905

……。

エリアーデが『世界宗教史』を最初に構想したときは全3巻の予定だった。それが(高齢による)体調不良も重なって刊行が伸び、1983年の原著3巻の段階では構想どおりに終結せず、他者の力も借りつつ4巻を出す計画となった。しかし、1986年にエリアーデは4巻を出さずに死亡。あとを託されたルーマニア人ヨアン・P・クリアーヌも 1991年にシカゴ大学構内で凶弾に倒れた。原著3巻まではフランス語(パヨー社)で出ていたが、ドイツでは翻訳をヘルダー社が出しており、あとはヘルダー社が仕上げる形でドイツ語で原著4巻が出た。

JRF2015/4/305276

ドイツ語版では、4巻の編者としてクリアーヌの名だけが上がっているが、日本語版ではクリアーヌ+ヘルダー社が編者として記載されている。日本語版では文庫版にする際に、原著各巻を2分冊にし、2×4 = 全8巻の刊行となった。

JRF2015/4/303174

その際、原著4巻の日本の宗教に関する2章のうちの1章が、創価学会と政治との関係に特化した記述になっていたらしい。それは執筆年が古いことやエリアーデの構想に沿わないことなどから、日本語版には収録されず、代わりに荒木美智雄氏の論文が入る形となった。昔、創価学会が若者等にかなり影響力を持った時代があったらしいが、私はそういうのを知らないため、それを読んでみたかったが、「代わり」の荒木氏の論文からも得るところは大きく、不満は少ない。

そういったわけで7・8巻は論文集のように各章で著者が違う。著者名も章題といっしょに提示しながら書いていこうと思う。

JRF2015/4/306066

……。

……。

第40章 メソアメリカの諸宗教 -- 都市と象徴 (ダビッド・カラスコ)

JRF2015/4/300794

……。

〈古典期〉(後300年~900年)に、低地マヤ文化とテオティワカン帝国の威容が目立つが…、

>他地域における重要な展開のひとつは、エル・タヒン遺跡の内外にひろがる中央ベラ・クルスにおいて見られた。球技の祭儀がいちじるしく発達したのは、この地においてである。この種の儀礼と建築の形態はメソアメリカのいたるところで見られるが、エル・タヒンでは〈古典期〉の前期と中期に、それが重要な宇宙創世の象徴と儀式として展開した。アステカ時代の〈聖なる球技〉の中心的要素は、トラチコとよばれる救技場である。<(7巻p.32)

JRF2015/4/307337

アステカの球技は「トラチトリ」というらしい。

日本の将棋盤の裏には斬首した首を置くところがあると言われるが、それと似たようなものなのか、球技の敗者「または」勝利者の斬首が祭儀に含まれていたらしい。

中南米でサッカーが盛んなのはこの祭儀への追憶もあるんだろうか。日本でも蹴鞠[けまり]があったが、サッカーへの関心が今一つだったのは、「斬首」まではしなかったから…その聖性の喚起が中南米ほどではないというのがあるのかな?まぁ、ないほうが「幸せな歴史」ではあるけど。

JRF2015/4/306186

……。

>メソアメリカを征服してから100年後に、キリスト教の宣教師たちがペテン地域にあるマヤ人のイツァの集落に到来し、キリスト教に改宗しスペインによる統治を受けいれるようにと迫った。マヤ人の回答は今年はそうした重大な変更はできないが、二年後のマヤ歴で八アハウのカトゥンの年(…)はマヤの指揮権と政治の変更が暦のうえで許されており、その時期に宣教師たちが戻ってくるのならイツァは改宗するだろうというものだった。<(7巻p.45)

JRF2015/4/300037

ある種の「終末論」みたいなものだろうか。それとも最後の抵抗のシンボリズムということだろうか。その時代から今に続くものを予感させるが、残ったものは大きくないように見受けられる。もちろん、祭儀の残酷性が減るなど良い面もあったのだろうけど。

JRF2015/4/308405

……。

テオティワカンは…

>注意深い都市計画とひろく波及した直線的図像表現に象徴されている過剰性と秩序によって、この都市は世界を有効空間へと組織化する首都に変容したのだった。そのうえ、ここはそうした過程が直接、ケツァルコアトルと関連づけられた最初のセンターでもあったのである。<

「有効空間」とは何か? 自分達の管理・計画が届く範囲ということか。神々への奉仕を経済に組み込むことで、農耕のシステム化…計画化、保険化がなされていたということだろうか。

JRF2015/4/309904

……。

……。

第41章 六朝時代中国人の宗教信仰における道教 (アンリ・マスペロ)

JRF2015/4/301897

……。

>信者に対して身体の不死と死の消滅を目標として与えることは、事実による直接的な反証に晒されることになった。天に昇るのは例外でしかありえず、実際には誰でも、つまりもっとも熱烈な道教徒でさえ、ほかの人々と同じく死ぬことは、容易にわかることだったからである。このような信仰が、死を免れる方法についてなんらかの解釈をせずにひろまることはありえなかった。

JRF2015/4/306810

(…)
認められた解釈では、人間社会では死は正常なできごとであり、そこに混乱をひき起こさないためには、不死になった者も死ぬふりをするのだと考えられた。こうしてこの人物も、普通の儀礼にしたがって埋葬されたのである。しかしそれは偽りの死にすぎず、柩に納められるのは刀か竹で、死体に見せかけるためのあらゆる外見が与えられていた。真の身体は、〈仙人[不死者]たち〉のなかで生きるために旅立っていた。これが「尸解」とよばれていたものである。
<(7巻p.87-88)

JRF2015/4/300753

「実際」には仙人たちはどこかで生きている…と。冷凍保存とか現代にも似たような「ショーバイ」はあるけどね。声さえ残っていればいいという人にはレコードや CD がある。「リアリティ」をどの辺りに求めるかで、まぁ、「死後に生きている人」はいるとは言えるのかもしれない。でも、そういうのは普通人が求める「不死」のイメージではないわな。

JRF2015/4/301335

>不死に導く実践は数多く、複雑で費用もかかり、多くの人々にとってはそれにとり組む手段も関心もなかった。ところが道教は、少なくとも漢代以降は、万人のためのひとつの救済宗教だった。必要なことを行なえない信者や行なおうとしない信者は、肉体が滅び不死を得ることはない。しかし信心深くよい行いをすれば、死者の世界において特権ある位置を得ることになるだろう。善行を積み、自己の罪を悔い改め、道教の宗教儀式に積極的に参加した人は、「冥獄」に落ちた群衆に混じらずに地獄の官吏になる。そのうえ、その子孫はふさわしい儀礼を行うことで死後彼らを地獄から引き上げて救済することができるだろう。<(7巻p.118)

JRF2015/4/304312

地獄でも官吏になるのが良いという発想がなんともすごい。

JRF2015/4/300566

……。

>最初は神々や仙人たちのほうから、功徳を積んだことがあきらかな弟子に会いにやってきて、彼らに手かがりを与えようとする。しかしながらいつも待つだけでは、礼儀に悖るし配慮にかけることになろう。(…)したがって自分のほううから彼らを探しに出かけ、たどり着こうとしなければならない。神や仙人は、熱意のある人間への援助を拒むことはけっしてないのである。<(7巻p.105)

JRF2015/4/304328

散歩中に、私とは「身分」違いに見える老人に声をかけられたことが二度ある。あれが「出会い」だったのだろうか?私は「下の身分」の者と同じ「身分」としてしか対応できなかった…。そして私は今度は探す番なのに何もやってないということなのか?

JRF2015/4/306753

……。

>これらの身体の守護神は、すべて世界の守護神と等しい。<(7巻p.109)

だから、外に求めるのではなく内に神を求めるのが正しいというか「効率的」ということらしい。私が太極拳をはじめたのは正しく探しはじめてることになるんだろうか?でも、この正月に見た太極拳をやっている老人に「見せてください」の一言が言えなかったんだよな。やっぱり私は修行が足りないか…。

JRF2015/4/300807

まぁ、迷信・妄想だな。

ただ、そういうことができる時間を持ててるということには「感謝」というか申し訳なさを持ち続けてないと、私は「道」をあやまるだろう。

JRF2015/4/309893

……。

……。

第42章 多様性と全体性 -- インドネシアの宗教 (ヴァルデマール・シュテーア)

JRF2015/4/300696

……。

>ニアス、フロレス、スンバなどの島々やボルネオの内陸部では、巨石文化は生きたまま残っていた。ニアス島南部ではなお今世紀に入ってからも、さながら生ける先史時代の断片のごとく、ドルメン状の巨石の設置やこれにともなう儀礼と、525人の人間が数トンの石を山間の村まで移送するさまなどが観察され、また写真におさめることさえできた。<(7巻p.150)

ここでいう「今世紀」は20世紀だけど、今はどうなんだろう? 観光化されたりしてるんだろうか?

JRF2015/4/309427

……。

>ヒンドゥー教と仏教の刻印を受けた諸王朝は、互いに競合した。そしてついにヒンドゥー教が、東ジャワの強力なマジャパヒト国の隆盛とともに絶対的優位を獲得した。(…)マジャパヒト国は、14世紀の終わりにはその権力の絶頂に達し、諸島を国家的統一にまでもたらした。しかし当時すでにインド西部の商人たちにより伝えられたイスラームはスマトラ北部に根をおろしていた。15、16世紀になると、イスラームは群島の広範囲な地域にひろがり、ついにヒンドゥー教はバリ島においてのみ存続することとなった。<(7巻p.151)

JRF2015/4/305618

「偶像破壊」がひろがったが…

>もっともイスラームの衣の下で、ことに音楽と劇において、ヒンドゥー・インドネシア文化の諸表現は生きながらえたのである。<(7巻p.151)

JRF2015/4/305908

一方、上の巨石文化などの「古インドネシア」宗教と言えば…、

>イスラームは、まずはヒンドゥー・インドネシア文化の影響圏にとどまった。古インドネシア諸民族・種族は、実際にはなんら制約を受けなかった。19世紀になって初めて、ある意味でキリスト教の伝道と競合するなかで、イスラームはこうした枠を踏みこえたのである。<(7巻p.152)

もっとも、「古インドネシア」は「失われたパラダイス」的な何かではなく、「野蛮」の要素も多く持っていた。(7巻p.158)

JRF2015/4/303865

……。

>「世界の両親の神話」で決定的なのは、性の両極性と、原初の婚因におけるその創造的合一である。(…)クニャー、カヤン、バハウなども原初の婚姻のいくつかのヴァージョンを有している。そこでペアをなすものを挙げるならば、一、巨大な、太陽より降ってきた剣の柄と大地、二、銅の鋏と大地、三、剣の柄と杼[ひ]などがある。<(7巻p.164)

JRF2015/4/306269

私が統合失調症になったとき、男性器に骨をなくし肉の歴史 = 進化論を置いた代わりに石剣を神はいましめとして未来に置いたと妄想した。それはすなわち石鹸となり、その泡が原始の生命(虹色の生命)を表すと同時に人の罪(いわゆるひとつのソープなんとかね。)と救いとをも表わすなどと考えていたように思う。こことは関係ないけど、ちょっと思い出した。

JRF2015/4/304234

……。

>人間にさまざまな能力と文化財をもたらす「文化英雄」や「救済授与者」もまた、神的存在の独自のカテゴリーを形作っている。この分類に属するものとしては、トバ・バタックの女神シデアク・パルジャルがある。この女神は人間にあらゆる能力を教示し、その仕事を終えてのちは、上なる世界に帰還したか、あるいは月に移ったとされる。<(7巻p.174)

おお、竹取物語の「かぐや姫」みたい。

JRF2015/4/303025

……。

>アフリカやメラネシアの大がかりな成年儀礼と異なり、古インドネシア地域のそれは比較的素朴なもので、親族グループの枠のなかで行なわれるものである。「割礼」と「尖歯」[やすりなどで歯を研磨したり加工したりする習慣]は、この本来的なイニシエーションと結びついている。これらの現象の発生は人類史をはるかに遡るものであり、その元来もっていた意味はわれわれにはわからない。<(7巻p.188)

JRF2015/4/308474

以前、旧約聖書の割礼に関して考えたメモがある。いい機会なのでそれを書いてしまおう。すなわち…

JRF2015/4/306769

割礼は、雑菌とかの影響等かと思っていたが、むしろ単純に、改宗防止の「呪い」なのではないかと考えた。

つまり、包皮がないとオナニーがやりにくい。が、決してやれないわけではない。一方、常時刺激が起こって感覚が鈍くなり、性交の際有利ではあろう…ぐらいまでは前から考えてはいた。しかし、包茎でない者はいて、もし、それが有利であるなら、むしろ、皮がない者を自分の首族から淘汰していったほうがいいというのが、本来のヤコブ的考え方という理解が私にはある。

JRF2015/4/305735

ただ、これを、その子の(その母の)改宗問題を考えると様相が変わる。つまり、包皮がない状況を人為的に強制していれば、もし快感が有利ならば、包皮がない状況でも快感が得られるほうに「進化」するはずである。

そして、包皮があるほうが敏感であるとすると、非ユダヤ人となり非割礼となった時点で、オナニーに強い快感を得がちになるのではないか?

JRF2015/4/303631

もし、これが「呪い」だとするなら、「性を大地にまく」ことに何か大きなマイナスがあるということもまた、意味するのではないか?

「オナニー野郎」になった時点で、「改宗」の報いを受け、例えば女性などから嫌われるようになるといった面があったのではないか?

JRF2015/4/306090

…というもの。

JRF2015/4/301038

……。

ガジュ・ダヤク族の埋葬儀礼において…

JRF2015/4/306424

>彼岸への渡航は、サンギアン、すなわち上なる世界の精霊たちの助けによってのみ可能となる。

JRF2015/4/304969

(…)
渡航は華麗な精霊の船によって行なわれるが、この船はしばしば長い木の板に描かれる。精霊のひとり、テンポン・テロンだけが、この危険に満ちた企てを指揮することができる。この精霊は、生まれそこないとしてこの世の光を浴び、血の塊であった彼は母親により海に投げこまれたが、ほかのサンギアンが彼を救い上げた。死と再生を先どりした彼の運命が、彼がヘルメスや大天使ミカエルのような魂の導き手となることを予め定めていたのである。ガジュ族は、テンポン・テロンを、キリスト教との対決に際して、イエスに匹敵する存在としている。
<(7巻p.211)

JRF2015/4/307729

「水子」のようなものが、機械・(マザー)コンピュータにつながれて意志を発揮する、それが大きな力を持つという宇宙的「神格」を、統合失調症になったとき妄想して、それにずいぶん苦しめ(?)られたことを思い出す。

JRF2015/4/308697

……。

……。

第43章 マナとタブー -- オセアニアの宗教 (ヴァルデマール・シュテーア)

JRF2015/4/300905

……。

ポリネシアやメラネシアの「古い」宗教は私がザッと読んで見たところ古でインドネシアのものとよく似た部分を多くもつ。が…

JRF2015/4/308455

>メラネシアの宗教は過去のものである。その前提となっているのは、現代の世界ではもはやどこにも存続すべき場所をもっていない諸民族の孤立化と自閉である。部族宗教の消滅は、よく見られる文化変容の結果であり、これは、工業技術を特徴とするわれわれの西洋文明との遭遇と、植民地経営者の侵害、および、キリスト教の宣教師によってひき起こされたものである。しかしこういったことによって、古来の状況の帰納的推論を可能とするような宗教生活の片鱗が依然としてここかしこに存在しているという事実が否定されるわけではない。<(7巻p.247-248)

JRF2015/4/303143

……。

>ニューギニア島の北島部では、人をむさぼり食う巨人についての神話が多様な形で見られる。この巨人はワシとワニに姿を変えることができ、そして力の強い雄イノシシの姿で地上を荒廃させた。(…)<(7巻p.251-252)

イノシシと巨人はまるで『もののけ姫』の世界だね。『もののけ姫』では護る側だったけど。

JRF2015/4/309103

……。

>カツオの群れのこの接近は壮大な自然劇であり、これを漁師たちは神的な現象と考えた。<(7巻p.264)

つい先日、たまたまテレビで、インドネシアから日本にやってきた「You」が、カツオ漁に出掛けるという場面をチラと見た。

JRF2015/4/307149

……。

>ポリネシア人は、中位の背丈で、淡褐色の皮膚とまっすぐな髪ないしウェーブした髪をもつ、一様のまとまりを見せる種族である。彼らはあきらかに美しい人間であり、18世紀にヨーロッパ人が彼らに熱狂的な感激を示したのは当然のことと思われる。<(7巻p.268)

そういう「美的感覚」があるのか、それは知らなかった。

JRF2015/4/307774

……。

ポリネシア人の…

>先史研究によれば、紀元前1400年頃のトンガ群島と、紀元前1100年頃のサモア群島への定住が最初のものであった。その特徴的な出土品は、発見場所にちなんで「ラピタ」とよばれている陶器のかけらである。(…)「ラピタ文化」の担い手は、ポリネシア人の直接の祖先(…である。)<(7巻p.269)

おしい!『天空の城ラピュタ』「ラピュタ文化」と音が似ているね。

JRF2015/4/308630

……。

>ロンゴ(ないしオノあるいはロノ)は、ニュージーランドにおける耕作の神であった。この神は、トゥーとは反対に、生活の平和な相を具現していた。ターネとともに、この神は多産と生殖の現われであった。ロンゴという名前は「音」を意味しており、マンガイア島では、ホラガイが彼の象徴であった。<(7巻p.281)

法螺貝[ほらがい]を「笛」にするというのは世界的にあったのか。でも、最近は日本(のテレビ)でも見ないね…。

JRF2015/4/303198

……。

ハワイ諸島…

>1819年、この群島の最初の王、カメハメハの死後、「文化革命」が起こった。彼の未亡人は、彼女の子供である新しい王を説得し、男女一緒の祝宴を催させた。これによって、きびしいタブーのひとつが破られたが、神の罰は生じなかった。このために祭司は権力を奪われ、ヘイアウは破壊され、神の像は燃やされた。最初の宣教師がやって来たのは、ようやく1820年になってであり、この古い芸術品の破壊を彼の責任とすることはできない。<(7巻p.287)

といっても、先遣隊みたいなのはもう到着していたかもしれず、その影響もあったのではないか、とは思う。

JRF2015/4/301798

……。

……。

第44章 トーテム・夢の時・チュリンガ -- オーストラリアの宗教 (ヴァルデマール・シュテーア)

JRF2015/4/302682

……。

1697年に公刊された探検家ウィリアム・ダンピアの日誌について…

>この多くの読者を得た彼の報告書がヨーロッパにおけるオーストラリア人像を形作ったのであるが、承認しがたいのは、そこにはいかなる宗教的崇拝も見られなかった、という彼の観察である。これによって、オーストラリア人は、長きにわたって「神無き人々」と呼ばれることとなった。<(7巻p.305)

JRF2015/4/306096

……。

30人単位の「ホルド」、500人単位の「部族」があり、「ホルド」内での結婚は禁じられていたが、一方、「部族」の中から結婚しなければならなかったらしい。

JRF2015/4/308487

>見ようによっては、ホルドと部族は非常にわかりやすい社会集団であるが、しかし、氏族や、四つあるいは八つもの部分に分けられる婚姻クラスがあり、こういった集団の存在によって、オーストラリア人の社会は、高度に複雑な、そして概観の困難なものとなっている。さらに、これらの集団は「トーテミズム的」性格を持っているのである。「トーテミズム」は、一般に、ある人間集団の、あるひとつの動物の種類ないし植物の種類、また場合によっては、自然現象の中のひとつへの神秘的なつながりを表現する言葉として理解されている。<(7巻p.311)

JRF2015/4/303365

トーテムとタブー…フロイトのテーマだね。この本のここの続きでも言及してるけど。

JRF2015/4/302422

……。

>トーテミズムに基づく氏族は、自らの出自を、父系(父方のみ)、あるいは母系(母方のみ)のいずれかにおいて、ともにある特定の始源のトーテム = 存在に求め、それを根拠にお互いを親類と考える人々の集団である。(…)氏族は個々の部族の枠をはるかに越えたものであり、したがって原住民は、一度も聞いたことのない言葉を話す見知らぬ部族の中にも、身ぶりの言語を使って自分の氏族を見つけだすことができたし、また、彼を兄弟として扱わねばならなかったのである。<(7巻p.312)

JRF2015/4/305312

↓を思い出す。

《『創世記』ひろい読み --- バベルの塔》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_13.html
>説 0'. 昔は離れた人同志が出会うことはまれで、すべての人が身内で話す言葉はそれぞれほぼ完全にバラバラであったため、身内以外の者と話すための言葉はシンプルな表現に限られていた。「言語」といえるようなものは、実質的に「なかった」のであるが、話されている言葉がある以上、それはあたかも「一つの言葉」と言わざるを得なかった。<

JRF2015/4/306361

……。

>「夢の時」は、オーストラリア大陸中央のアランダ諸部族のアルチェリンガという語を任意に訳した語である。<(7巻p.315)

キンバレイの諸部属においての「虹蛇」から生まれたウォンドジナスと呼ばれる霊的存在…

JRF2015/4/303995

>夢の時の間の彼らの働きは、ほぼアランダ族のトーテムの祖先の働きに匹敵する。彼らは大地に形を与え、人間、動物、植物に生命と豊饒を与える。(…)その生命力の一部は地上に残っており、これは雨雲の中に現われることができ、また、「霊的子供」となって身ごもった女性の胎児へと入り込むのである。「霊的子供」の理念は、その明確さに差こそあれ、オーストラリアの諸部族のほとんどすべてに見られる。こういった類の生まれ変わりは夢の中で直接の父親に啓示される。<(7巻p.321)

JRF2015/4/302685

守護霊と転生が絡みあった概念に思えるが、詳しく見れば輪廻とは微妙に違う考え方ということなのだろう。

JRF2015/4/301555

……。

>オーストラリアの原住民にとって、死は決して自然現象ではない。死はむしろ殺人と考えられ、呪医は即座に復讐できるように、死の呪術をかけた者をすばやく突き止めねばならなかった。<(7巻p.335)

後の章のアフリカでも似たような「呪術」があった。その後、呪った者がどうなるかが気になるが、そこにこそ宗教体系ができる素地があるということか?

JRF2015/4/303364

……。

>すでに数十年前に、数々の救済待望運動が起こり、これらの運動の結果として新しい理念や新しい祭儀が生み出された。これによって、おそらく、オーストラリアの原住民の歴史の新しい章が始まるのだが、しかし、「オーストラリアの諸宗教」について語るときには、やはり、文法的に過去形が付け加えられるのである。<(7巻p.337)

JRF2015/4/304011

……。

……。

7巻の解説に…

>やがて刊行されはじめた著作集の月報には、1958年の国際宗教学宗教史会議で訪日のさい、人間としては丁重に学説としては冷淡に遇されたエリアーデ像が載っている(…)。<(7巻p.360)

この『世界宗教史』の学会での位置付けは今はどんな感じなのだろう?

JRF2015/4/302311

……。

……。

第45章 家族共同体と宇宙の諸力 -- 西アフリカの宗教における宗教的根本思想 (ハンス・A・ヴィッテ)

JRF2015/4/304782

……。

>祖先は、西アフリカの多くの人々が確言するように、どこか「川の対岸にある」他界に住んでいる。<(8巻p.31)

まるで「三途の川」だね。

JRF2015/4/307587

>他界に住んでいながら、祖先は人間に「化身」する。その名前をまだ人々が覚えているようなある祖先が、一人ないし幾人かの子供の中に再来したという話がしばしば聞かれるが、それにもかかわらず、この祖先は祖先たちのところで生き続けているのである。(…)祖先たちは個々人の安寧を通じて共同体の繁栄を見守るのである。<(8巻p.31)<(8巻p.31)

「祖先崇拝」は日本のもの(私が「自然に」身に付けたもの)と似ているね。

JRF2015/4/307209

……。

>影は、見たところ非物質的な現象でありながら、しかし直接に身体と関係する現象である。人間の影はしばしば霊的な要素の可視的な形態と考えられている。(…)例えばフォン族では、影[イエ]は祖先の証である。<(8巻p.32)

影ふみとかやったね。『カゲマン』とか思い出す。影は子供心に不思議な存在。宗教的に何かの解釈があって当然とも思える。でも、『世界宗教史』では、ここでやっとはじめての言及(のはず)。

JRF2015/4/307359

……。

>人間は、創造神と協力して自分の身体をつくりだした自分の身体上の両親によってのみ存在しているのではない。身体的な次元においてすでに天空神、あるいは、人間の身体を形作った天空神の使者の一人、そして祖先の化身である身体上の両親といった、人間の霊的な構成要素が見いだされるのである。<(8巻p.33)

平田篤胤をちょっと思い出す。霊に関する考え方のいろんなレイヤーが矛盾を含みながら重なっている…というのとは違うのかな?変に考え方を矛盾なく統合・止揚しようとしすぎているのではないかと疑う。

JRF2015/4/308071

……。

>新たな祖先は、家族の祭壇あるいは祖先の聖域に招かれ、ないし編入され、そこで家族の成員は、祈りと犠牲を捧げ、愛顧と保護を乞うことがある。他に祖先は、夢の中や託宣あるいは特定の儀礼行為を通じて、あまり制度化されていない仕方で人々に接触し、彼らを導くことがある。<(8巻p.37)

JRF2015/4/302548

ああ、なんかわかるわー。テレビの『あなたの知らない世界』を思い出す。でも、この論文の著者は「幽霊」とは言わないね。西洋の文脈では、なんか微妙に違和感があるのかな?

《『怪奇特集!!あなたの知らない世界』 - NAVER まとめ》
http://matome.naver.jp/odai/2140298713056699201

JRF2015/4/300483

……。

>妖術師と邪術師の相違に関して、エヴァンス=プリチャードは、妖術師はただ内的諸力の使用を通じてのみ悪行を働くと説明している。妖術師は儀式を行わず、呪文を唱えもしない、そして邪悪に満ちた力を秘めた物質を使うこともないのである。これに対して、邪術師は、儀式や呪文を使い物質的手法に頼ることで、悪行を意識的に行なうのである。<(8巻p.44)

妖術師は、夜、生き霊のようにさまよって、人を襲ったり、夜行動物や鳥に変身したり、秘密結社に参加したりする。そして、

JRF2015/4/305858

>西アフリカの若干の民族では、妖術師の生まれつきの素質が、とりわけ -- それほど限定的ではないにせよ -- 女性に帰される。<(8巻p.46)

…といったあたりで、「怪奇コミック」がどちらかと言えば少女向けだったことを思い出す。さらに…

JRF2015/4/309933

>呪医は、こういった邪術師が利用するのと同様の諸力を取り扱うが、呪医は共同体の福祉のために活動するのである。妖術師は、自分自身、多かれ少なかれ、自分の能力の犠牲者であり、この能力の存在について自分は何も知らない。しかし不可解なのは、妖術師に見られる利己的な感情ないし希望が、他の人間ではこの恐ろしい能力を呼び起こさないということである。ただ、この能力を使う手法とこの能力の邪悪に満ちた影響は、あまりにもよく知られている。<(8巻p.47)

JRF2015/4/309141

「霊感が強い」とか「霊障」とか「生き霊」とか、いうよね。なんていうか「ナカーマ」という感じだね。(^^;

そういったのをかたくるしくいうと、こうなるのか…といったところ。

JRF2015/4/300331

……。

>しかしながら、創造者たる天空神は、人が神学的な考慮に基づいて期待するような位置を宗教的世界観の中で占めてはいない。また、大部分の場合、祭司も、規則的に行なわれる祭儀も存在しないし、物が犠牲として直接天空神に捧げられることもない。しかし、例外的に、天空神に捧げられる特定の儀礼が、付随的であるにせよ、言及されることがある。<(8巻p.50)

エリアーデの文脈で、著者は「原始一神教」への関心が強いということなんだろうね。

JRF2015/4/301477

……。

ヨルバ族の妖術師に関して…

>つまり、妖術師たちは単に人間の生命のエネルギーに抗して必死で戦う邪悪な女性たちではなく、まず第一に、共同体にとって根本的な重要性を持つ多産の諸力を代表しているというものである。<(8巻p.62)

この辺りになると概念としてはわかるけど「共感」からは離れるね。(私の場合。)

JRF2015/4/302063

……。

>ヨルバ族の宗教的世界観についてのこういた考察から、結局のところ、さまざまの対照的なものの価値と意味を強調しないことの必要性が示される。<(8巻p.64)

あんまり自分達に引き付けて考えすぎて相対化してしまうのも良くない…と。まぁ、そういうことだろうね。

JRF2015/4/308230

……。

……。

第46章 中央アフリカ東部における宗教的概念の諸相 (ジョン・ムビティ)

JRF2015/4/304053

……。

>神の名称と諸霊を表わす語彙も、共通の語源をもつ最古の言葉のなかに含まれる。言語自体が枝分かれしたあとも、長期にわたり神の名称が変わらずに用いられている場合もある。おそらくもっとも明らかな例は、東アフリカと中央アフリカの広大な領域で見出されるムルング(ムング)という名称であろう。<(8巻p.77)

ちなみに絵画「ムンクの叫び」のムンクは画家の名で関係ない(はず)。

JRF2015/4/305936

……。

>神を描いた絵画表現、あるいはその他の芸術的な表象が、アフリカのどの地域においても見られないことはたいへん意義深い。人々は木工や石造の工芸品や他の絵画表現によって表現できる物質的な形態として、神を想像することはない。神は不可視であり、しかもあまりに偉大であるために人間の業によって表象されることはないのである。<(8巻p.78)

これは神道との絡みでどうなんだろう? 仏教の影響を抜きにするとそういう感覚が日本にもあるような気もするし、それは「偶像崇拝」を禁ずる宗教的言説の影響という気もするし…。

JRF2015/4/300050

……。

>神の諸側面を直接表現したり、その存在と活動を擬人化して表現するために、自然界の事物が用いられる場合もある。それについては、神の「眼」としての太陽、神の「声」としての雷鳴、世界のある場所から別の場所へ瞬く間に「移動してる」神としての稲妻、大地に恵みを与える神の「唾液」としての雨といった例が挙げられる。キリマンジャロ山(6993メートル)やケニア山(5194メートル)といった山岳は神が住まう特別な場所であったり、神と特別な関係をもっていたりする。<(8巻p.79)

JRF2015/4/300046

山岳信仰は「わかる」けど、他は微妙なところだね。私は統合失調症になったとき、木星の大赤斑を地球を監視する「眼」だと妄想したものだった。テレビ時代、「アニミズム」を延長すると、そういう信仰が成り立ってくるのかもね。

JRF2015/4/302670

……。

>おおまかに言って、霊には二種類のカテゴリーがある。自然に結びついている霊と人間に結びついている霊とである。<(8巻p.81)

ああ、これ、ファンタジー系RPGの概念が行きわたった今だと、「自然に結びついている霊」は「精霊」と言いたくなるけど、そういや「河童[かっぱ]」とかの以前に「自然霊」みたいな感覚は昭和のころ(子供のころ)はあったね…。

JRF2015/4/308028

……。

>アフリカ宗教において、親族のなかの個人の記憶と依然として結びついているこれらの死霊を、われわれは"生きている死者"とよんでいる(1962年の私の造語による。発表は1969年)。生きている死者は人間の家族にとりいまだに欠かせない一員であり、生前彼らを知っていた人々はその名を記憶している。親族の者は少量の飲食物を与えることで故人と接触を保ち、親睦を深め、敬意を表しさえする。<(8巻p.82)

JRF2015/4/309633

似たような概念は古インドネシアの宗教にもあった(7巻p.189)。そこでは「生きている死者」は食物の霊を食べると言った説明もあった。このあたりはここまで、なまなましくはないけど、仏壇・神棚へのお供えとか、少し「わかる」ね。

JRF2015/4/301666

……。

>ヨーロッパでは墓地は花で飾られ、蝋燭と死者の写真を供えたものもある。そこでは命日を記念して、(ほとんどは年配の)人々が大いに苦労しながら、今は亡き親戚の墓地を訪れては手いれをしている。(…)アフリカというコンテクストにおいて、これを「祖先崇拝」や「先祖崇拝」であると説くのは誤りである。そうした間違った用語はアフリカ宗教について言及する外国の宣教師や人類学者によってひろめられたのであったが、欧米の国々においても死や死者への対処がなされているにもかかわらず、彼らは自分自身の国で起こっていることにはまったく注目していないのである。<(8巻p.83)

JRF2015/4/305951

言いたいことはわかるが、一方で薄れいく「感覚」が自分にあるのも事実。それを留めているのがアフリカだ、人類の祖先の地であるアフリカであって欲しい…という思い・「信仰」もわかる気がする。

JRF2015/4/301823

……。

何か事が起こると「呪い」のせいにされ、その物理的な原因の他に、「誰がやったか」が問題になるという。

JRF2015/4/305200

1985年にこの論文の著者が行ったインタビューからの引用、ある夫婦について…

>話はこうです。その夫は、長いあいだ、街で知り合ったある女性と暮らしていましたが、結婚はしていませんでした。彼にも結婚する時期が来て、そこを離れ、ほかの女性と知り合って結婚したんです。最初の女性は、長いあいだ一緒に暮らしていて、彼が自分と結婚してくれると思っていたので、怒り狂いました。彼女は彼を脅して、「誰が誰なのか、きっとわかるでしょうよ!気をつけることね!」と言って立ち去りました。<(8巻p.88)

JRF2015/4/300519

その後、その夫とその妻に不幸が続いたとのこと。

JRF2015/4/307330

……。

>アフリカ大陸の他の地域と同様に、中央アフリカ東部は神話の宝庫である。この点は、口頭伝承に基本を置く文化には予想されることである。これらの神話の集成や研究は、依然としてなされていない。<(8巻p.92)

もちろん、集められたものもある。その点、日本は『まんが日本昔ばなし』が大きな貢献をしたのかな、今から考えると。

JRF2015/4/307805

……。

ケニアのメルー族によって語られているムブワからの移住の経緯…、

>ムブワにいた頃、メルー族は迫害者たちからいくつかの試練を与えられた……(彼らはそれらを克服したが、あるひとつの試練を乗り越えることはできなかった)。たいへん善良で知恵のあるコメンジュエという男がいた……。そこで彼は私たちに、その国から出るようにと助言した。私たちは大きな水辺に達した。コメンジュエが彼の杖で水を叩くと、水が二つに分かれた。私たちはそのあいだを通っていった。<(8巻p.94)

JRF2015/4/300380

まるで『出エジプト記』だね。なお、この本によると(後代の)聖書の影響ではないそうだ。

JRF2015/4/300165

……。

……。

第47章 シャーマニズムと死者の国への旅 -- 南米インディオの宗教的表象 (マリア・S・チポレッティ)

JRF2015/4/307919

……。

>インディオの神話には、彼らの先駆者がいかに天体へと変容を遂げたか、あるいは天体によっていかに表現されているかが記されていることが稀ではない。インディオはしばしば、天空をひとつの神話テクストのように「読解」するのである。<(8巻p.107-108)

死んで「お星様になる」の発展形かな。

JRF2015/4/308510

……。

>ウィトート族(コロンビア)では、世界とあらゆる存在は、創造神モマ = 月に始まる。モマは、言葉により生成する。(…)創造神モマはまた、ラフエマともよばれるが、このラフエマは「物語をもつ」かあるいは「物語である」。<(8巻p.110)

「ラフエマ」は「ナイヌエマ」ともよばれる。その創世物語の中で「父なるナイヌエマ」は幻(ナイノ)を支配下に置き、地から天を取りだした。…

JRF2015/4/302864

>それからラフエマは天の基層、つまり下なる世界に、長い省察のあとにこの物語を創りだした。<(8巻p.111)

自己言及する「神話」! すごい発想。

JRF2015/4/304355

……。

>低地の宇宙論全体の要となる原理は、人間だけが意識的に行為する宇宙の住人とは見なしえない、という観点である。上なる世界と下なる世界、さらには人間の世界と同じ宇宙の層にあって、遠く離れた -- 人間の達しうる、あるいは達しえない -- 領域(「世界の周縁」)には、ほかの(神話的な)存在が住んでいると考えられている。<(8巻p.113-114)

JRF2015/4/304383

そうだよね。地球が丸いとはフツー思わないよね。ということは世界が有限で、その向こうはファンタジーの領域となる。でも、もうそれがフツーじゃない時代になっているので、その「信仰」を「新大陸」に求めたいという気持ちがあるということではないのかな?そう求めてるのは私?

JRF2015/4/304565

……。

>世界軸はもはや存在しないというこの言明は、諸民族の共通の伝承であるが、この世界軸は、隠れたる個的なレベルでは、なお存在している。トバ族(アルゼンチンのチャコ地方)のシャーマンは夢のなかで「黒い木」をよじ登り、上なる世界へ行く。こうしたことは低地の多くの社会に特徴的なものである。すなわち、大多数の人間に閉ざされていることが、シャーマンにはなお開かれているのである。シャーマンには、原初の時間に「踏み入る」ことが可能なのである。<(8巻p.115-116)

『ジャックと豆の木』を思い出す。

JRF2015/4/306820

……。

>ウィトート族の高神モマは、宇宙を創造したが、宗教儀礼において崇拝を受けることはない。モマの働きは、より深いところに根づいている。すなわち、モマは有用植物の多産をもたらすのであり、彼の存在なくしてすべての儀礼や歌は効力をもたないわけである。モマの意義は、したがって儀礼に見てとることはできない。その意義はいわば存在論的レベルに存するとでも言えるであろう。<(8巻p.120)

汎神論的にも感じるけど、すごい神学。

JRF2015/4/306793

……。

人間の起源ないし生成において…

>いくつかの神話は、「幾度かの試み」というモチーフを含んでいる。(…)こうした完成のプロセスは、南米の宗教の多くに特徴的である。これは世界の生成についても、人間の生成についてもあてはまる。創造神は、旧大陸の諸宗教におけるのとは異なり、しばしば全智でも全能でもないのである。宇宙と人間の生成には、しばしば「失敗」がつきまとっている。この失敗を克服して初めて、宇宙と人間は神が望んだ姿になるのである。<(8巻p.122)

JRF2015/4/304995

日本のイザナミとイザナギの国産みでも、水蛭子[ひるこ]が出てくるね。

《国産み - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%94%A3%E3%81%BF

JRF2015/4/307924

……。

インディオは「白人」の到達のショックも神話に組み入れた。…

>このようにしてたとえば、インディオが白人のアメリカ征服以前には知らなかったもの -- たとえば鉄 -- が、野生の動植物の起源の神話に「組みこまれる」。また別の神話は、なぜ白人が「金持ち」で、なぜインディオがそうでないか、という問いに答えようとしている。

これらの例に表われているのは、新たな状況を、古い既知の範型を用いて消化・加工しうるがゆえに存続しうるという、神話という現象の一特徴である。このように見るならば、神話は「歴史を処理・加工する機関」にほかならない。
<(8巻p.126)

JRF2015/4/306693

アフリカ奥地の民族の祭りを取材して、何年かして次の機会に行くと、祭りを取材する役というのができていたとかいう笑い話というか笑えない話をネットで読んだことがある。観測はそれ自体が不可避的に影響を及ぼすという「不確定性原理」を思い出すね。

JRF2015/4/306951

……。

この地域には「宇宙大異変」の表象があって、洪水や大火で世界が「更新」される。近年にトゥピー・グアラニー族が、その表象を見すえて、大移住を試みることがあった。

JRF2015/4/301829

>移住を実行するにあたって決定的な役割を果たしたのが、世界の終末の近きを預言した呪術師たちである。滅びの運命を避けるには、病と死なき国を探し求めなければならなかった。そうした国は、あるときはブラジル奥地に求められたり、また別のときには到達しえない海の彼方に求められたりした。グアラニー族の修行のなかには、断食と舞踏が含まれていたが、これは憧れの国に到達する前提条件を満たすべき、「軽く」なることを求めてのことであった。<(8巻p.129)

JRF2015/4/306593

私も統合失調時に宇宙の終りが何度かあったと妄想したものだった。

「踊って軽くなる」というのは、ゲーム『ストリートファイター』シリーズの T・ホークを思い出す。

《サンダー・ホーク - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%AF

JRF2015/4/305567

……。

ブラジルのシングー地方に住むカマユラー族の死者儀礼…

>この儀礼では、神話と儀式のあいだに際だった並行性が見られる。カマユラー族の伝承によると、創造神マブツィネーは、人間に再生の能力を与えようとした。神はクワルプの木材から三つの人間の像を削り出し、夜のあいだに肉に変わり、手足を動かすようにした。この生命をもった像は、性交渉をもったことのない者によってのみ見られてよいものであった。この条件を満たさないひとりの男が、しかし自分の好奇心を抑えがたく、それらの像を一瞥した。これによって、不死性の願いはついえた。三つの像は再び材木に戻ってしまい、人間は死すべき存在にとどまることになった。

JRF2015/4/306768

(…)
カマユラー族は、毎年クワルプ儀礼を催す。(…)この瞬間に、以前から互いに隔離されて過ごしていた少年・少女が近づいて、分離が撤廃され、再び社会生活に参加するようになる。またこれ以降、彼らは結婚可能な身となる。
<(8巻p.134)

JRF2015/4/304787

ユニコーンを思い出す。でも↑はどっちなんだ?結局、材木の像を見るわけだから、隔離されてたはずなんだけど、実際には性交渉をもった者がいることが予定されている…そういう疑いを持つことが予定されているということなのだろうか?

《ユニコーン - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3
>しかし、もし自分と関わった処女が偽物であることがわかった場合は、激しく怒り狂い、自分を騙した女性を殺してしまうという。<

JRF2015/4/309150

……。

……。

第48章 サン・ダンス -- 北アメリアのオグララ・スー族における宗教的世界像と儀礼 (ペーター・ボルツ)

JRF2015/4/309762

……。

オグララ族を支族とするラコタ族では、〈白いバッファローの子牛の女〉の聖なるパイプが崇拝の中心であった(8巻p.153-154)そうだが、その創造の物語は、8巻p.121の類型では、(3)の人間の別世界からの到来にあたる。

JRF2015/4/309176

>彼らは、いかにして人間が地上にやって来たのかということに関して特定の考えをもっている。それによれば、人間たちは、はじめ、バイソンやほかの狩猟動物とともに地下の洞窟に住んでいた。トカヘという若者が道案内をひき受け、多くの困難を告服して人間たちを地表へと導いたのだが、彼らはそこではじめて、動物の狩猟をし、テントや衣服をつくって、暮らしを立てることを覚えなければならなくなったのである。<(8巻p.155)

JRF2015/4/304870

アニメ『天元突破グレンラガン』を思い出す。あと人間は「洞窟猿」だったんじゃないかという↓も思い出す。

はてなブックマーク - 《「親指はなぜ太いのか」・「はだかの起原」をお書きになった島泰… - 人力検索はてな》
http://q.hatena.ne.jp/1176195712
jrf:>骨髄食スカベンジャー説とハダカ洞窟住説が同時に起きたなら、古人類は屍肉が捨てられる洞窟に住んでた。→進化があるほど長期、捨てる別の何かがいたというおかしなことになる。人類は家畜?人類は皆、幼年期?< 2013/05/29

JRF2015/4/307968

……。

>ラコタ族の人々にとってワカン・タンカ、すなわち「神秘に満ちた偉大なるもの」は、不可解なものすべての総体を意味した。<(8巻p.156)

JRF2015/4/308892

>新生児はすべて、邪悪な霊から身を守ってくれる守護霊(シチュン)を獲得した。シチュンは、人間存在に現われるワカン・タンカの力能を表わしていた。さらに人間は誰でも出生の際に、星から来た霊(ニヤ)を受けとった。また、誰もが、これ以外に、身体の非物質的な不死の鏡像としての霊(ナギ)をもっていた。オグララ族の人々は、守護霊(シチュン)が人の死後にその霊(ナギ)を、銀河の向こう側にある霊の世界へと連れて行くと考えていた。シチュンとニヤは最終的には子供の出生の前にそれらがいた場所へと帰って行った。死者の身体は、しかし朽ちて無へと帰るわけである。<(8巻p.158)

JRF2015/4/306970

占星術がバラエティー的なニュース番組の一コーナーであることがあるが、ニヤはそういうのを無理に具体化しただけではないか?それを霊と見れば運命を担う霊とも見える…と。

JRF2015/4/309992

……。

>サン・ダンスは、過去においても現在においても変わることなく、オグララ族の年中行事における中心的儀礼である。<(8巻p.164)

>自らの身体を困窮させ、苦しめることで、サン・ダンサーは、ワカン・タンカの哀れみの情をひき起こし、これによって部族の存続をたしかなものにしようとする。<(8巻p.164)

>シャーマンが、乳首の上方の皮膚に切り込みを二つずつ入れ、そこに二本の木製の串を刺し通すのである。<(8巻p.166)

JRF2015/4/307210

この「ピアシング」を受けて縄で「聖なる木」につながれる。その状態で踊りがあり…

>四度目に聖なる木から戻ってきたとき、彼らは縄に反して全体重をかけて後ろへ身を投げる。その結果、胸の皮膚は引き裂かれ、彼らは聖なる木から離れるのである。<(8巻p.167)

JRF2015/4/307218

この「流血の犠牲」のせいで、合衆国政府が(1881年に)サン・ダンスを禁止しようとしたりしたが、密かに続けられ、

>70年代の初めに、北アメリカのインディアンのなかに新しい自己意識が現われた。レッド・パワー運動(…)は、大きな話題を巻き起こし、とくに若い人々が再び自分たちの伝統に対する関心を強めたのであった。<(8巻p.168)

JRF2015/4/309765

結果として、

>ラコタ族のサン・ダンスは、保留地の境界をはるかに越えて、「同化に対する抵抗」のための共通の象徴となり、また、積極的な倫理アイデンティティを成立させる文化的な指標となったのである。<(8巻p.169)

…とのこと。

JRF2015/4/306485

……。

……。

第49章 神道と民俗宗教 -- 日本の宗教の歴史的展開 (ネリー・ナウマン)

JRF2015/4/305375

……。

中世の末期以来文献学的基盤に立って古代の文献を研究していた学者たち…

>彼らは、神道の本質を最古の記念的文献のなかにもっとも純粋な形で現われていると考えたのであり、まずもってそれは、仏教に一言も触れていない『古事記』のなかに見られるような神話や始源の物語であった。<(8巻p.178)

「仏教に一言も触れていない」という視点はなかった。言われて見れば「不自然」とすら思える。

JRF2015/4/307801

……。

>また、近年には、神道の礼式にしたがって結婚式を行なうための建物 -- これは、おそらく、キリスト教の結婚式を模倣してできたまったく新しいもので、非常な人気を博している -- のある場合も多く見られる。<(8巻p.186)

これはそうなんだってね。いわゆる「近代以降の伝統」というやつ。

JRF2015/4/307524

……。

>月経中の女性は、自明のこととして、神社を訪れることが禁じられていたのであり、また、その家族を不浄にしないように、少なくとも、ある特別の火で家族の食事をつくることが必要であった。というのも、火は、あらゆる汚れを引き寄せるのみでなく、その火で調理した食事をも汚れたものとしてしまうからである。<(8巻p.189)

こっちは知らなかった。日本人として恥ずかしい。

JRF2015/4/303411

……。

>死とあの世は、完全に仏教の領分なのである。ただ神主の家族と仏教を軽視する人だけが、同様に新しく作られた神道の儀礼による葬儀で葬られるが、こういった人々が人口に占める割合は非常に小さい。<(8巻p.192-193)

JRF2015/4/302478

散骨とかは手続きが難しいらしく、それをキリスト教とかに頼むのはスジ違いで、「墓はいらない」とかが「ちょっと変わったことを頼む」ことになって、「ちょっと変わったこと」にまで対応してるのは、仏教のみがデフォルトといった感じらしいね。この先、超高齢化社会で状況が変わるのかな?

JRF2015/4/305701

……。

「神道」(伊勢神道)の成立は13世紀後半で…

>その約400年のあいだに進んだのは、たんに本地垂迹説 -- この教説によれば、カミは、本来の状態から降りてきた姿、すなわち、仏あるいは菩薩の現われである -- に見られるような習合の過程のみではなかった。むしろ、仏教から教えられたイメージ力のために、人々は、もはや、仏や菩薩を見たり、理解するのと異なる仕方で自分たちの神々を見ることができなかったのである。(…)9世紀に初めて登場した木製のカミの祭祀用の像には、これが明白に示されている。<(8巻p.204)

JRF2015/4/301446

でも、「土偶」みたいなものはもっと昔にはあったわけで、一度(仏教による?)「偶像破壊」の時代を経ているのではないか?という気もする。

JRF2015/4/304833

……。

この論文の結論として…、

>「神々を崇敬せよ。清浄の掟を守れ」<と>「正直で、率直であれ」<という要求が>その付属物をとり去った神道宗教のすべてである。<(8巻p.209)

…とのこと。

JRF2015/4/308765

……。

……。

第50章 日本の民衆宗教 -- 日本宗教の統合的理解のために (荒木 美智雄)

JRF2015/4/300263

……。

>この蚕と天照大神の生糸紬ぎや機織りの行為の伝承は、たんに養蚕の起源を宗教的に語っているだけでない。天照大神の行為は、新しい世界創造を象徴する行為としての機織りであり、布のなかでもっとも貴重とされる絹の文化の起源に触れることで、『記紀』編纂当時の大陸の新しい文明の日本文化への歴史的な導入とその衝撃を、したがって大陸の文明とそれを受容しようとした日本の文化との間の落差をも同時に反映する宗教的再解釈を含んでいると考えられる。

JRF2015/4/306897

(…)

このことは(…)大化改新直前の「大生部多[おおうべのおおし]の常世神の運動」とよばれる民衆の道教的な千年王国論的新宗教運動の中心のシンボルが、富士の山に降りてくる「蚕」のような虫であったことや、この常世神が財産を捨ててこの神をまつる人々に、健康や若さや富を約束したこと、養蚕にかかわる渡来人がこの運動を担う人・抑圧する人の双方にかかわっているということにもうかがえるのである。
<(8巻p.224)

私は「常世神の運動」は知らなかった。

JRF2015/4/307236

……。

>日本の宗教史には、一方で、危機や変革の時代に社会の周縁や底辺から民衆の苦悩とかかわって生み出された民衆宗教が、安定した時代に入って、国家の宗教に組み込まれ民衆宗教の本来の生命を失って体制維持の宗教になってしまうことが繰り返しみられた。

JRF2015/4/305299

(…)
しかしまた他方では、やはり危機の時代に国家やエリートの宗教の周縁部から制度や組織を突き破り、民衆にわかりやすい素朴な教義と、救済や直接的な癒しの具体的な技術とによって、構造の周縁や底辺で民衆の苦悩とかかわっていく運動、たとえば山伏、陰陽師、念仏聖、法華経の行者、巫女や市子、その他多くのタイプの民間の宗教者の活動も見られた。いずれにしても、社会の周縁や底辺は危機の時代の新しい宗教の創造の源泉であった。<(8巻p.227)

JRF2015/4/309406

これは日本に限らないものに思う。「歴史」としては残りにくいものが日本ではよく記録(・記憶・活動)に残っているということなんだろうか?

JRF2015/4/308493

……。

>民俗・民衆宗教においては、宗教文化の基層領域から地下水脈の噴出のように宗教運動が出現した。それらの運動には、たとえば奈良時代の大生部多を中心とする常世神の運動、行基を中心とする優婆塞・優婆夷の運動、役小角など聖や行者による修験道の運動、平安時代の志多羅神の運動や民間の御霊信仰の流行と念仏・地蔵信仰の流行、鎌倉の新しい民衆仏教、江戸のきびしい管理下で固定化した仏教諸宗の寺院や神社神道で行なわれた多様な民俗宗教儀礼、伊勢参りと「ええじゃないか踊り」の運動、幕末・明治初期・第二次大戦後の新宗教などがある。

JRF2015/4/305482

(…)
多くの場合、これらの運動は聖、行者、陰陽師、巫女など、さまざまなタイプのシャーマニスティックなカリスマ的宗教者を核に、単純・素朴で生命的な救済技術を軸にして、民衆に理解しやすい言葉と儀礼的表現の統合によって、社会の変革期や危機的状況に直面した民衆のニーズに応えた。
<(8巻p.233-234)

知ってるものもあれば知らないものもある。私の高校での選択科目は日本史じゃなく世界史。このトシになって言い訳はできないけど。

JRF2015/4/306700

……。

>たとえば、優婆塞の運動は行基の活動に代表される。行基とその追従者たちは民衆のために貯水池の建設など多くの土木事業 -- それはおそらく律令国家が独占しようとした陰陽道の技術・知識にもとづいたものであろう -- を行ない、繰り返し禁じられ抑圧されたが、民衆のあいだでの行基に対する支持が政府に彼を僧侶として認めさせたばかりでなく、さらには大仏造営の勧進役として起用させ、ついには彼は国家仏教の中心、大僧正にまで登用されたのである。<(8巻p.240-241)

JRF2015/4/300717

行基は我が街にゆかり深い人。抑圧されたことがあるとは知らなかった。

JRF2015/4/304450

……。

>エリート宗教の研究は、従来教義や哲学的側面に集中する傾向があまりに強い。たしかに、平安時代の天台と真言というエリート宗教は深遠な学問的意義をもつ教義や精緻な儀式を発展させたが、彼らも基本的な日本の宗教的エートス、たとえば自然の聖性の信仰を肯定したのである。天台の「本覚思想」はすべての存在が仏であることを説き、真言の基本的思想は一切の現象が大日如来の表われであるとみなした。<(8巻p.241)

JRF2015/4/300845

その一方で、

>真言密教は特別の修行によって大日如来の三密(身・語・心)と一体になることによって人間は「即身成仏」という究極の境地に達すると説いた。天台も密教を含むようになって、天台も真言も加持祈祷という密教的・呪術宗教的救済技術によって貴族のあいだに流行した。<(8巻p.241)

JRF2015/4/302880

やがて

>これらの天台・真言の宗教実践形式、とりわけ加持祈祷、阿弥陀三昧や法華経三昧は、その高尚な哲学の極端な単純化・民衆化とともに、山伏、阿弥陀聖や持経者たちによって底辺・基層に伝えられた。<(8巻p.241-242)

JRF2015/4/305198

そして、

>そのような伝承はけっして単純なプロセスではなかった。<(8巻p.242)

…とのこと。

JRF2015/4/305891

……。

仏教だけでなく道教の流れもくむ陰陽道も似たようなプロセスがある。

>律令体制が解体過程に入る頃から陰陽思想は陰陽寮の外、民衆のあいだに出て、牛頭大王の信仰や北極星など星の信仰の流行をもたらした。<(8巻p.242-243)

JRF2015/4/308967

陰陽道は宗派などではない「道」として便利に受け入れられ…

>現代の多くの地域共同体の民俗宗教においても、暦をはじめ儀礼の体系の核心に陰陽道の強い影響があり、新宗教においても黒住の「御陽気」、易、天理の「陽気ぐらし」「天の将軍」、金光教や大本教ならびに大本教から流れ出た多くのグループのなかで中心的な位置を占める神にその影響が見られる「金神」などはその一部である。<(8巻p.243)

このあたり、結構、身近に名前を聞くものもあるけど、教理は知らない…。

JRF2015/4/309683

……。

鎌倉時代、山伏は組織化された。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗は、(時宗を除き)鎌倉室町時代は未公認でしばしば迫害を受けたが…

JRF2015/4/309498

>これらの新仏教は、国家と宗教、仏教と貴族社会を同一視する考えを突破した。その宗祖たちもエリートの伝統のなかから出てきて、自分の地位などを捨てて民衆のニーズに応えた。いずれも天台宗の多面的伝統のなかから、特殊な一要素を選びとり、民衆の古い神話を自分の宗教体験とレトリックによって再構成し新しい意味世界を創造した。<(8巻p.245)

JRF2015/4/306898

……。

>また、室町時代には商業経済と商人階級の台頭によってエビス(恵比寿)やダイコク(大黒)などの富貴の神を中心とする、新しい類型の民俗宗教運動が流行し、江戸時代の無数の機能神の先駆となり、宮座や座や講のような、民衆の自発的な宗教共同体、任意宗教集団が現われた。<(8巻p.246)

これらはまた一揆の地盤を用意することとなったともいう。意味深長だと思うが。

JRF2015/4/303884

……。

>体制のなかで飼い馴らされないもので、整合的な宗教的世界観をもった民俗・民衆運動はすべて「邪宗門」あるいは「新義異宗」の名のもとに禁じられ、地下に隠れねばならなかった。そのような運動に「隠れキリシタン」「隠れ念仏」「不受不施派」「隠れ題目」「富士講」「不二道」があり、そのなかには完全に弾圧されたものもあった。<(8巻p.247)

JRF2015/4/308023

『邪宗門』は芥川龍之介の小説の名としてしか知らないなぁ、「下人の行方[ゆくえ]は、誰も知らない。」のやつ…と思ったらそれは『羅生門』。他は「隠れキリシタン」を知ってたぐらい。

JRF2015/4/301632

……。

村落では、共同体の神 -- 氏神や産土神 -- の祭祀を中心とした年中行事があり…

>この年中行事の周期は宇宙の季節のリズムと一体であり、村落共同体のもっとも基本的でもっとも重要なリズムである。宇宙のエネルギー(ケ)の枯渇、すなわちケガレ(気枯れ・穢れ)が、祓いという儀礼的所作(ハレ)によって克服され、再び生命に満たされるとされる。そのような祭りの時間・空間は非日常的なもの、ハレ(聖なるもの)であり、ケ(俗なるもの)の時間・空間、生産と日常生活のそれとは聖別される。<(8巻p.249)

JRF2015/4/302826

「ハレ」と「ケ」、有名な概念だが…「腫[は]れ」や「(ものの)怪[け]」とかいろんな語呂合わせの俗習と共にあり、それらは民衆信仰という点では本来、この論文の射程にあってもよいものだが、あっさりとした記述になっている。

JRF2015/4/306697

……。

>徳川時代の民衆にはまた多くの象徴的儀礼行為があった。(…)ヴィクター・ターナーが「民衆の神秘主義」とよぶ巡礼が、この時代、多様な形式で民衆のあいだに流行して全国的にひろがる大きな運動となった。<(8巻p.251)

なぜか子供のころ『東海道中膝栗毛』に関心を持って読もうとしていた。でも、読み切れなかった。今だとどうだろう…。

JRF2015/4/307313

……。

「エリート」対「民衆」という構図において、現代は「西洋」が「エリート」の側に来て、それ以外が「民衆」宗教を発達させているという構図があるとし…

>現代世界の危機の状況からすれば、とりわけ過去500年にわたる西洋の世界支配や文化剥奪の苦悩をとおして世界各地に生まれてきた新しい宗教から、多くを学ぶことが重要である。<(8巻p.257)

JRF2015/4/303310

…と結論づけるわけだが、地下鉄サリン事件から今の過激派組織ISにまで、その課題が「西洋」に対して開かれていると主張するのか、それとも「民衆」の側がもっと対応する動きを見せねばならないのかはわからないまま。

JRF2015/4/307617

……。

……。

最終章 啓蒙主義以降のヨーロッパにおける宗教的創造性と世俗化 (リヒャルト・シェフラー)

JRF2015/4/303871

……。

この章は、ドイツを中心に、哲学を介し「理性宗教」となり「聖」が「俗」の中に「止揚」していく「西洋」の宗教を描くのだが、哲学の理解が十分でない私には、意味不明の部分が多く、読むのに難儀した。引用もたいてい未理解のまま行っていると告白しておく。

JRF2015/4/301776

……。

近代自然科学の根は中世後期…

>そこにおいて、事物の起源と本質と目的への問いは断念したうえで、純粋な因果論的探求へと注意を集中するということが、神学的に基礎づけられたのである。つまり、(…)神の意図や(…)目的などは(…)神の自由に属する事柄であって、人間の探求では捉えられず、神の自由な自己啓示によってのみ知られうるものである。人間の探求には(…)ただ被造物の法則的秩序を記述することができるだけである。これによってまさに(…)科学は純粋に世俗的な活動となった(…)のである。<(8巻p.274)

JRF2015/4/309284

>デカルトは、この考え方になお二つの思想をつけ加えた。(…)ただ「神の誠実」をひき合いに出すならば(…)実際にはそうでないことを必然的にそうであるなどと思いこんだり、あるいは実際にそうであることを不可能であると考えるように強いられたりする存在たらしめるなどということは、想像できない(…)。理性への信頼 -- より厳密に言えば思惟法則と事象の法則との一致への信頼 -- は、このように神とその誠実への信頼においてのみ、正当化可能なものである。<(8巻p.274-275)

JRF2015/4/305676

>さらに、実験の過程ではいかなる新たな物質もエネルギー(デカルトは「エネルギー」ではなく、漠然と「ある量の運動」といった言い方をしている)も発生しないという、あらゆる科学的経験の前提は、神の永遠性にあっては神の創造の業はあらゆる経験的時間点と同時的である、との考えにその正当化を見いだしている。<(8巻p.275)

科学の神学的基礎…、ここに致るまでには宗教改革があり三十年戦争があった。カトリックの側ではバロック様式の芸術が花開いたりした。

JRF2015/4/300711

……。

ホッブスは、宗教を国家権力による厳密なコントロール下に置くことを考えた(8巻p.276)が…、

>競合している「経験的諸宗教」を、あるひとつの、全宗教を包括する「理性宗教」へと改変し、<(8巻p.277)

JRF2015/4/307573

…宗教間の平和を模索する知識層もいた。しかし、

>有名となったパスカルによる区別、彼の「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者や学者の神ではない」との言葉(…)は、理性宗教に欠けているものを言い表わしている。つまり具体的な人間や、その生涯や、ヒエロファニーの宗教的経験などとの結びつきが、そこには欠けていたのである。<(8巻p.277)

JRF2015/4/300379

……。

>啓蒙そのものに内在的な宗教的動力は、(…)驚くべきことにフランス革命においてはじめて現われ出てきた。フランス革命において、新約聖書の告知の根本概念が政治的実践の理念を表わす語となったことは、偶然ではない。

JRF2015/4/300252

(…)
それらの語とは「自由」であり(「この自由をえさせるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」『ガラテヤ信徒への手紙』5:1)、平等であり(「そこでは……奴隷も自由な身分の者もなく……あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」同 3:28)、友愛である(「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」『マタイによる福音書』23:8)。
<(8巻p.280)

JRF2015/4/300105

ただ、革命陣営は、テロを政治手段として導入したりもした。それが新たな「殉教」を生みだすこともあった。

JRF2015/4/304568

……。

>1809年のチロルにおける民衆蜂起に至るまで、十字架上で兵士の槍に突かれたイエスの心臓が崇敬を受けた。これは、みずからを偶像化する革命権力に対する闘争においては死をも辞さぬ、との覚悟を象徴するものであった(…)。<(8巻p.281)

なぜか私はバッハの『ヨハネ受難曲』を思い出した。血が虹を出したというシーンは槍で突くところではなく、拷問のシーンのようだが…。

JRF2015/4/302263

……。

>カントの確信するところによると、われわれは実践理性の命令への服従を宗教的に解釈する動機をもつ。そしてその解釈それ自身が宗教だというのである。<(8巻p.283)

>宗教は「われわれの義務を神の命令なりと認識」することである、そして立法者の神性は立法者が人間を回心可能な存在たらしめたことにおいて証明されている、との考え方は、とりわけユダヤ人のカント読者の注意を引きつけた。<(8巻p.284)

JRF2015/4/308210

『ソフィーの世界』を読んだとき([cocolog:81052114])、そのカントの解説にうなったものだったが、この論文でのカントの説明は正直よくわからない。

>神と自分とを対象的に認識したと思いこむ理性の「独断的」確実性がまず解体され<、「懐疑主義」となり、そこからさらに「批判主義」へと致らねばならないらしい。そうすると、宗教は、なんらかの超越論的な希望の内容として把握できるようになるらしい。それが自己解体から理性を守ってくれる…とのことだが…。(8巻p.285)

JRF2015/4/305294

……。

ヘーゲル、スピノザ、ルソーに言及した上で、革命がテロに堕さないために…

JRF2015/4/309076

>道徳的根拠から政治的に行動する人間は、たしかに道徳的世界秩序に奉仕するわけではあるが、そうした秩序をみずからの努力の結果として造りだすことはできない。そうした秩序はただ、道徳的観点から欠くことのできない希望の内容であるほかはない。(…)なぜなら、個々の善き行為を行なうというのみでなく、道徳的世界秩序をも造りだすのだという主張は、政敵とのかかわりにおいてあらゆる暴力を正当化するからである。これに対し、(…)希望というものは、政敵とすら共有しうるものである。政敵とは、別の道をたどって、この同じ目的に達することを欲する(…)からである。<(8巻p.288)

JRF2015/4/306419

……。

還元主義の時代を通過し、(一方にロマン主義を生みながらも)科学は世俗的となって宗教を省りみることが少なくなった。フォイエルバッハを経て、出てきたフロイトにとってみれば、

JRF2015/4/300557

>宗教とは人間が成熟の過程で被らざるをえない心的損傷の、フィクションにもとづく補償にほかならない。したがって人間が、場合によっては心理療法の力を借りて、みずからが成年に達したという事実だけを受けいれるならば、宗教は克服されるはずのものなのである。<(8巻p.300)

…というところが公言されるにいたる。

JRF2015/4/308116

……。

>そしてフォイエルバッハが普遍妥当的・客観的認識作用、倫理的行為、無私の愛の志向を見いだした「種の個体に対する勝利」は、マルクスによれば、社会の経済的事象を統御している規則に従わなければならないという、個体に課せられた強制の表現にほかならないのである。<(8巻p.300)

この部分を読んだとき、ちょうど↓のツイートを見て「種の個体に対する勝利」にちょっと似てるなと思った。

JRF2015/4/302895

《Twitter - finalvent - 2015-04-23》
https://twitter.com/finalvent/status/591387910873567232
>幸・不幸の一般論は、たぶん、人間種、という次元で成立すると思う。個人幻想じゃない次元。たとえば、食べて幸せ、性交で快楽、育児に意義を感じる、など。で、じゃあそれがなぜ、個人幻想で転倒しえるのかは難しいけど、考えかた順ではそうか、と。人は自分のなかに類人猿を飼ってるようなもの。<>飼育条件は考えよう、と。<

JRF2015/4/303286

……。

>マルクスは、すでにフォイエルバッハ以来、宗教のフィクションとしての性格は終極的に証明されたと確信していた。マルクスによればしかし、もし宗教が現実において克服されるとするならば、(…)現実の悲惨さからの現実の解放によるほかないのであり、そうした悲惨さがあるかぎり、宗教は繰り返し再生産されるのである。(…)そうした欲求の虚妄の充足であるがゆえに、宗教は「民衆の阿片」、すなわちよりよき世界を垣間見るかのごとき幻覚をもたらす麻薬なのである。<(8巻p.301)

JRF2015/4/309190

……。

>マルクシズムはまた、長い目で見るとロマン主義にも勝っていたことがあきらかとなった。(…)ロマン主義はつねに、よりよき過去(それが諸民族の神話的過去であれ、あるいはキリスト教中世であれ)への郷愁に満ちた回顧のゆえに、政治的未来の形成からみずからを閉め出さざるをえない、との批判にさらされていた。これに対しマルクス主義は、より実践に近いことや、何よりも未来を志向する希望のもたらす熱狂的力により、まずは労働者を代表する者たちに、さらにはますます多くのインテリたちに、好印象を与えたのであった。<(8巻p.302-303)

JRF2015/4/300954

ニーチェ([cocolog:82173429])を思い出す。彼は芸術に傾倒したのち、孤独な著述活動に入り、のちに発狂するのだった。私は、起業を夢見つつも、経済貢献のための消費を重視して、「発狂」後もアニメ・ゲームを続け、原発震災後にはソフトウェア作りに注力しつつも消費を続けたのだが、しかし再「発狂」してしまい、改心して、読書中心の生活にいたった。それが私の「主義」の末路(!)だった。

JRF2015/4/300047

……。

「ロマン主義」的なカトリックを中心に「典礼運動」が起きた。

>「教会は『すべてを包括する救いの秘蹟』であり、神の愛の秘義を人間に告げ知らせると同時に、現実のものとする」(…)。こうした教会の自己規定は、秘蹟の働きをキリスト者の世俗内での奉仕の際のモデルともしている。これによりこの自己規定は、大戦間時代における「典礼運動」に連続するものである。<(8巻p.308)

JRF2015/4/302925

《新しいミサ - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E3%83%9F%E3%82%B5
>典礼運動は次のような改革を求めた。すなわちラテン語の代わりに各国語を使用すること、ことばの典礼を強調すること、司式司祭が会衆の方に向くこと、プロテスタントが受け入れることが出来ないようなカトリックのドグマを、典礼において強調しないこと、である。<

JRF2015/4/301426

……。

>そしてブルジョア文化が宗教をみずからのうちに止揚しようと試みたと同様に、階級なき社会は、ブルジョア的な自由の観念を止揚するであろうとも言われた。すなわち市場および交換の自由に向けて中心化されたブルジョア社会の固有形態を無用のものとすることによって、階級なき社会は実現されるだろう。<(8巻p.310)

JRF2015/4/301133

>「レーニン主義」への移行は、「万国の労働者」が革命に連なるわけでもなければ、自国民が革命に無条件に奉仕するわけでもない、という経験に規定されていた。(…)反革命的な試みの有効な拠点になりうるものと見なされたことから、宗教は迫害を受けた。<(8巻p.310-311)

>このことがまた、ソヴィエト連邦以外の地域でも、マルクス主義政党は宗教の迫害をすくなくとも許容するのではないか、場合によっては権力を握るや他の国でも迫害を行なうのではないか、との疑念に結びついた。<(8巻p.311)

JRF2015/4/307215

>宗教史はここに、マルクス主義・革命主義的暴力と反マルクス主義・独裁主義的暴力との抗争の影に入った。<(8巻p.311)

JRF2015/4/300067

……。

>古代ゲルマンの神話や儀礼に新たな生命を吹き込もうとするこうした試みは、ナチ運動においてすらごく狭い範囲の支持者を得たにすぎなかった。とはいえこれにより、宗教の自己認識にいくつかの原則的問いが投げかけられた。すなわち第一の問いは、預言者や哲学者による神話批判の諸世紀のあと、また世俗文化の時代において、自然神話はそもそも個人の生や、とりわけ共同体的生を形作る力を持ちうるのか、また持ちうるとすればどれほど持ちうるのか、との問いである。<(8巻p.312-313)

JRF2015/4/303779

日本では明治期の「国家神道」がその実験をしたといったところか。キリスト教圏やイスラム教圏が、それをどう見ているか…。一神教と違って仏教はいろいろなところで「捨て」られていってたのもあるからね。

JRF2015/4/306663

>ナチ的な宗教理解との関連で生じたさらなる問いは、宗教の由来と真理請求に関する問いである。マルクス主義者は宗教をイデオロギーと理解した(…)。一方、「祖先の遺産」の信者のみならず、ナチ信者にとって宗教とは、遺伝質により規定されたある人種の固有性が表現をえる場である「世界観」の一部にほかならない。かくして宗教の「真理」の問いは、その宗教の担い手の人種的特性にかなっているか否かという「種適合性」への問いに還元された。<(8巻p.313)

JRF2015/4/308773

「種にかなった信仰」というのは、遺伝子組み換えテクノロジーと絡んで未来の問題として出てくる可能性はある。

JRF2015/4/300552

……。

ナチスとの対決は、旧約聖書との関係、キリスト教が「セム的」たることを確認させた。ベルリンの壁崩壊後の東ドイツでの宣教の困難は、福音理解がそもそも難しいことを示した。諸文化の出合が対話を要請する時代にあっては、文化の聖性はヨーロッパに特徴的であったことが自覚された。キリスト教以外の宗教的なるものを悪しきものとすることは不適切で、宗教とその誤れる疑似形成との批判的区別を試みることが対話の前提となった。(8巻p.317-319)

JRF2015/4/309873

>第二ヴァチカン公会議(…)がとろうとしたのも、この方向であった。非キリスト教諸宗教についての教令には、そのことが読みとれる。 -- 「カトリック教会は、これらの諸宗教において真かつ聖なるものすべてを何ひとつ拒否しない。誠意ある真剣さで、教会は、それら諸宗教の行為形式と生活形式、生規定と教説とを考察する。これらは確かにしばしば、カトリック教会が真理であると考え、教えている事柄から逸脱しているが、しかしすべての人間を照らす真理の光線がそこに認識されることも稀ではない。

JRF2015/4/300552

(…)

とはいえカトリック教会は、止むことなくキリストを告知するのであり、またしなければならない。キリストこそは、我々が溢れる宗教的生命を見いだし、またそこにおいて神がすべてと宥和されるに至った『道であり、真理であり、光』なのである」(…)。
<(8巻p.319-320)

JRF2015/4/300416

……。

……。

今回は、前回よりもさらに長く引用してしまった。興味のあるアニミズムに関していろいろ書いてあったからだと思う。

他者にはあまり役に立たない引用集になってしまったのは前回と変わらないと思うが、自分が知らないことが多かったので、それなりに内容につながりがあるようになっているかもしれない。

JRF2015/4/307966

これで『世界宗教史 全8巻』を読了したことになる。達成感はあまりない。私の理解は十分でないことは否めず、また、いつか読み直す日が来るかもしれない。でも、こういう贅沢な時間の使い方をそのときもできるかは「神のみぞ知る」と言ったところ。

JRF2015/4/305674

もし、この「ひとこと」を読んで「役に立たねぇなぁ」と思った方、お目汚しすみませんでした。1・2巻の感想から読んでいただけた方、どうもありがとうございました。

私事ですが、本を買う金と時間をもらった両親・社会への感謝の言葉も述べさせてください。ありがとうございました。

「ひとこと」はまだ続くと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

では、また。

JRF2015/4/308647

typo 「救技場」→「球技場」。
typo 「古でインドネシア」→「古インドネシア」。
typo 「こういた考察」→「こういった考察」。
typo 「出合が」→「出合いが」。

JRF2015/4/306236

……。

……。

追記。

第49章 神道と民俗宗教 -- 日本の宗教の歴史的展開 (ネリー・ナウマン)

…において、

JRF2015/7/154402

>中国の考え方では皇帝は「天子」とされ、「聖人」とよばれる。『易経』のなかに、皇帝の影響力を特徴づけるのに好都合な文章が見られる。「聖人は、天にある神の道を見させる。そのため、四季はその規則から外れることはない。聖人は、指示を与えるために神の道を利用し、全世界が彼に従う[ここでは、ドイツ語原文から現代語に訳した]。いまや、日本の支配者は、これに替えて、自分を太陽の女神の子孫と考えるのだが、論理的な帰結としては、これによって、「聖人」に類似した形で、統治する天皇が「現人神」と見られることになる。<(8巻p.199)

JRF2015/7/158100

…とある。この『易経』からの引用が正確にはどこからなのか気になったので、『易経』をザッと読んで調べてみた。

『易経 (全2巻)』(高田 真治 & 後藤 基巳 訳, 岩波文庫, 1969年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003320115 (上巻)
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1100350744 (上巻)

JRF2015/7/157946

一番ピタッとくるのは「観」卦の彖伝、口語訳では次の部分

>神聖なる天道を仰ぎ観れば、四時の循環にはいささかのくるいもない。聖人もこれにのっとり神聖な道理に従って政教を設けるから、天下の人々がこれに信服するのである。<(上巻p.205)

JRF2015/7/152514

他に似た部分では「乾」卦の彖伝、「恒」卦の彖伝、繋辞上伝 第6章を無理に言えば挙げることができるが、言葉が足りなかったり多かったり、訳のほうだけが充実してるだけだったり…と「観」卦の彖伝ほどにはふさわしくない。

ただ、なんで「観」卦という特定の卦から引用がなされたかはよくわからない。繋辞上伝からの引用とかだったら、ふさわしい場所から取ったと言えるが…。

JRF2015/7/151831

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