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cocolog:82200204

田島正樹『ニーチェの遠近法』を再読した。前回と同じく「よくわからなかった」が何度も読み返しながら理解しようとしてみた。 (JRF 8680)

JRF 2015年4月 9日 (木)

[cocolog:81611945] で読んだ田島正樹『ニーチェの遠近法』を再読した。[cocolog:82173429] で『ツァラトゥストラ』を読んだので、「約束どおり」、再読してみた。『ツァラトゥストラ』以外のニーチェの著書を読む予定もなく、これ以上の知識の増加はないとみるべきだから、ここで理解できないものはこの先も理解できないと思い、前回より詳しく読んだつもり。

でも、結局、他の哲学に関する知識の少なさもあり、あまり歯が立たなかった。

JRF2015/4/91144

……。

前回部分的に引用したものをもう少し長く引用する。前回、引用した部分の流れをよく読んでから読んで欲しいが…。

JRF2015/4/97343

>高貴な者は、弱者が、自ら力を放棄した強者のように装う姿にだまされ、自分もそれを模倣しようとする。こうして弱者が、瞞着によって自分の弱さから力を引き出すのだ。しかし賎民の説く禁欲的理想が、高貴な精神を出しぬくためだけの陰謀であり、彼らから自己否定を引き出して支配するための口実でしかないことをまざまざと描き出されれば、高貴な者たちも、自分の高貴な自己放棄が賎民の権力しか生み出さなかったことに、気づくことができるのである。

JRF2015/4/90977

(…)
ニーチェの高貴性の教説の意義は、高貴な者たちが自らの高貴性を自覚し、とりわけ自己と卑俗な者たちとの差異を自覚し、かくて実際に位階秩序を際立て、新たにその差異を創り出すように促す点にある。さもないと、高貴な精神は、世に高貴な精神しか存在しないなどと、とんでもない錯覚をしてしまい、手ひどく裏切られるのがおちであろう。
<(p.170-171)

JRF2015/4/94932

これねぇ…、要はエリートコースを歩むと「ほんとのバカ」が見えない…みたいな話にも読める。こう読んじゃうのは賎しい読み方ではあるけど、そういう読み方も含みつつ読むというのがニーチェの文脈っぽいんだよね。

JRF2015/4/90102

私の経験からの理解はむしろ逆(↓)で、まぁ、「ほんとのバカ」は私だったで別にいいんだが…。

《ブラウザからアプリを起動とかイロイロ。Firefox の拡張 JSActions》
http://jrf.cocolog-nifty.com/pr/2012/04/post-5.html

JRF2015/4/93449

> 9.11 テロのあと精神を病んで入院した私は、(…)リハビリを担当する方々と出会った。そこには、私と同じ年齢ぐらいの人が、中堅どころの地位で働いていた。(…)

時間はいくらでもあったので、私より若い患者に人気のある彼の経歴を聞くようなこともあった。彼は、「大学」の授業で資格の勉強をし、資格がないと単位が認められないのがいくつもあるから…と、こともなげに言った。そんな話は私には初耳だった。

JRF2015/4/96112

でも、私の経験は要は「フツー」で、それを若い人に語るよりも自らを「高貴」と考える者がいたほうが世の中うまく回るというのもわかる。で、この物言いが弱者に典型的なものだと言いたいのだと、そこで回帰するのが「私」という人物だと、そういうことなんでしょね。

JRF2015/4/96355

私の精神科医の先生に [cocolog:82173429] の『ツァラトゥストラ』を読んだ感想を見せたら、「永劫回帰ってそういうことでしたか?」と言った感じで問われた。

田島氏のこの本には、永劫回帰の教説が読者を映す鏡みたいなものという主張もあって、はからずも自分の賎しさを暴露してしまったのかもしれない。

JRF2015/4/91813

>今や、"知と真がどこまで相互に体現させうるか"という問いの意味は明らかである。真と偽の体現がそれぞれ劇的上演によって自らの本質をあらわにし、互いの区別を一つの位階秩序として顕現させ認知せしめるように、自らが真理の体現者となることができるか? それとも、自らの真理を隠蔽することによってはからずも虚偽の体現者となる虚弱者として、自ら生の症候をさらすしかないのか? この選別への試練を、この問いは表現しているのである。

JRF2015/4/91859

(…)
しからば、この試練を課し、真偽のアレゴリーを上演して、おのおのの生に対して鏡のような役割を果たすものはなにか? それこそニーチェの教説であり、とりわけ永劫回帰の教説である。
<(p.200)

JRF2015/4/90365

……。

ニーチェの断片集からの引用の引用となるが…、

>そして芸術の表現する多くの醜いもの、苛酷なもの、恐ろしいものにはいかなる意味があるのか? ショーペンハウアーの言うように、それらでもって芸術はわれわれを生から解脱させようとするのか? 諦念へと向かわせようとするのか? -- しかしながら芸術家が何にもまして伝達するものは、生のもつそうした恐ろしい側面と対決するおのれの状態にほかならない。(中略)この状態を体験した者はそれを最高度に尊重し、彼ら伝達を好む人間、すなわち芸術家である場合にはそれを伝達するのである。<(p.183)

JRF2015/4/95229

マンガ的にブッダが何かの像に涙を流すシーンを描いたとして、それで何かが悟られたわけでなく、悟った者なら感じるものが、悟ったわけではない芸術家によって予感的に造型され伝達されうるとは信じたい。それは「偶像崇拝」とは違うものだと私は考えたい。(「偶像崇拝」を後に生んでしまったとしても。)

JRF2015/4/91041

……。

>かくて永劫回帰は、あくまで一つのアレゴリーにとどまらざるをえない。(…)

(…)

我々は、もはや真理をたんに命題や文の性質とは考えてはいない。それを理解する人があろうとあるまいと客観的に定まっている真理、というような実在論的な真理理解は、意味理解の観点やその体現を抑圧するものにすぎない。
<(p.222)

JRF2015/4/98908

コンピュータが「理解」してくれるというのは大きな転換点ではある。これは以前のこの本に関するひとことの観点だった。そう「抑圧」して得られる果実は大きいという確信が私にはある。ただ、それで専門家が一回きりコンピュータ上で証明すればいいという未来にはしてはいけないという思いもある。そこで真理を得る悦びをいかに評価してあげるか、もらえるかというのもこれからは大事な視点かなと思う。でも、それはもう私の「仕事」ではないかな…という思いも強い。

JRF2015/4/94371

(そう考えると関数型プログラミングってのが、そういう役割を担っているのかな?そういや、私が使ってた Isabelle はイギリスとドイツの共同製作で、私はイギリス側の集合論への執着に好感を持っていたが、ドイツ側は関数プログラミングに傾斜してな…。もう 20年(!)前の話だけど。)

JRF2015/4/98846

……。

前回の「感想」からリンクしたが、いちおうこちらからもリンクをしておく。

『ニーチェの遠近法』(田島 正樹 著, 青弓社, 1996年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4787210254
http://www.amazon.co.jp/dp/4787210351 (新装版)
http://www.7netshopping.jp/dgbooks/detail/-/accd/5110143637 (デジタル版)

JRF2015/4/102435

typo 「傾斜してな」→「傾斜してたな」。

JRF2015/4/148127

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