cocolog:82514369
フロイト『夢判断』を読んだ。象徴を押し付けるのかと思ったら違った。夢が全て「願望充足」としてもフロイト自身の分析内ではそれが少しメタ的で、自己保全が裏にあるように感じた。ただ、下巻の途中、明らかな「後代の挿入」があって意味が掴みにくくなるところがあるのは残念だった。 (JRF 3561)
JRF 2015年5月24日 (日)
↓のコメントで、>高校生のときに夢分析(ユングのものではない)のアヤしげな解説書を読んだ<と書いた。もちろん、フロイトの『夢判断』でもなく、『夢判断』という本を書いたのはユングというよりフロイトだとこのコメントのあとで知って赤面した。
《タナトス(Thanatos)》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_12.html
JRF2015/5/245723
ただ、私が読んだのはユング派だった(またはユングに言及があった)ような記憶があり、それが上のコメントになっている。Amazon で探してもあのころ読んだのがどれだったのかは、もうわからない。
JRF2015/5/242441
……。
その本の影響だろうか、『夢判断』として私が読む前に想像したのは、夢の象徴を読み解くという「単純」なものではないだろうとして、先に象徴の意味を教えておき、夢を象徴等を使って語らせることで、自然に夢に装飾するその「嘘」の部分を精神分析するのではないか…というものだった。つまり、「夢で見た」ことにしてオブラートに包んで「本心」を語らせる技法が、「夢分析」なのではないか…というのが「ぼくの考えたイカした夢判断」だった。
JRF2015/5/245920
が、本を読むとそういう行き方はしてなかった。
JRF2015/5/241198
……。
フロイトは、他の文献での夢に関する叙述を参照することからはじめる。いろいろな観点から論じられるが、下巻の最後のほうでフロイトはこう述べる。
>第1章の序論が示したように、このテーマをめぐって学者たちの意見にもっとも鋭い対立が見られたのであった。われわれが夢の諸問題を料理し終った今となっては、それらの矛盾の多くはすでに矛盾ではなくなってしまっている。「夢は意味のない現象である」というのと、「夢は身体的な現象である」という、すでに唱えられている二つの見解に対してのみは、われわれは断乎[だんこ]として反対せざるをえなかった。
JRF2015/5/247566
(…)
しかしわれわれはこれら二つの見解以外の、相互に矛盾しあっていたいっさいの見解に対しては複雑な関連中のどこかの場所にその居るべき位置を指し示して、それらの諸見解もそれぞれに何か正しい事柄をつかみ出しているということを証明してみせたのである。
<(下巻p.473)
JRF2015/5/243968
つまり「止揚」された中には、(上巻p.15で言うような)「未来を示す夢」もある意味含まれているということだろう。ただ、それは、多くの人が未来を願望し、それが充足すると考えるに致るからで、神とか魂などというものをフロイトは持ち出すわけではない。
「夢とは願望充足である」というのが、フロイトの主題である。
JRF2015/5/245882
……。
夢は素早く忘れられ、しかも荒唐無稽[こうとうむけい]である。「夢判断」をするに際しては、あとから論理性を夢に付与される可能性もある。夢の中で何かをこわいと思ったり、情愛を感じたり、何かに対する情動は「空想的」でなく「現実的」な影響を心にもたらす。
そういったことはフロイト以前から指摘されていたし、夢を分析にかけたのもフロイトがはじめではない。
JRF2015/5/245081
……。
フロイトの夢判断の方法は、夢を話してもらった上で、その部分への自由な連想を尋ねることからなるようだ。
JRF2015/5/241469
>まだ精神分析に慣らされていない患者に向って、私が「あなたはこの夢に対してどういうことを思いつきますか」と質問すると、大概の場合患者は、自分の精神的視界の中に、あげ示すべき何ものかを見いださないのがつねである。私が患者の夢を部分々々に砕いて示すと、患者はそれらのどの部分に対しても、それらの部分の「背後の考え」ともいうべき一連の考えを私に告げてくれる。さて、この第一の重要な条件においてすでに早くも、私のやる夢判断の方法は、古くから民間に行われている象徴による夢判断と袂[たもと]を分かつのである。<(上巻p.179-180)
JRF2015/5/241253
では、「象徴」を使わないか、全体を論じないか、というとそうではない。上巻でまず若干の類型夢を認め、下巻になると象徴のよくある性的意味を同定したりするようになる。が、それは先の話として、まず患者がよくそれに協力してくれるかだが…、
JRF2015/5/240694
>批判を交えぬ自己観察の状態に自分を身を置くことは、決してむずかしいことではない。
私が扱った患者の多くは、一度そういわれただけでこれに成功しているし、私自身も、私の頭の中に浮ぶいろいろの想念を紙に書くということでこれを補うならば、完全にそういう状態に身を置き入れることができる。
<(上巻p.179)
JRF2015/5/245235
……。
「夢は願望充足である」というテーゼに反する夢には二つの原理があるという。その一つは…
>私(分析医)のいうことが間違っていればいいのにという願望である。<(上巻p.272)
それはよく「夢は願望充足である」というのを聞かされたあと最初に見る夢で現われがちだという。(私の場合はそうではなかった。)
JRF2015/5/245048
もう一つの原理は、マゾヒズムによるという。そういう性向を持つ人間が…
>自分に加えられた肉体的苦痛の中にではなしに、卑屈と精神的呵責の中に快感を追求するとき、われわれは彼らを「観念的」マゾキストと呼ぶ。こういう人間は「願望に反する夢」や「不快の夢」をよく見る。<(上巻p.275)
JRF2015/5/246392
また、
>他人にいいたくないような、また、自分自身に対してさえ白状したくないような願望がある。<(上巻p.276)
JRF2015/5/249741
そういうときは、夢歪曲[ゆめわいきょく]が起こって、願望に対する嫌悪や抑圧意図のほうが印象に残ることもあるという。
JRF2015/5/246020
夢歪曲は、二重の検閲官によってなされるという。性的なものなどで忌避したくそういう象徴を使ってはいけない場合や、その願いは不適切だという場合、違う象徴が選ばれたり、迂遠な形で願いが表現されたりするようになる。ただこの「二重」という意味は少しわかりにくい。下巻で「前意識」として描かれる一方の(下方の「欲せられざる物」の)検閲はわかりやすいが、もう一方の(上方の「欲せられたる物」の)検閲の意味は少し掴みづらい。
JRF2015/5/240578
……。
フロイトと言えば性的な象徴と、その幼児期への帰責を私は思い出すが…、
>実例でわかるように、いくつかの願望充足がひとつの夢の中に統一されているばかりでなく、ひとつの意味、ひとつの願望充足が他のものを隠蔽していて、その衣をはいでゆくと、いちばん下のところで非常に早い幼児時代の一願望の充足実現にぶつかることもある。私は「しばしば」といったけれども、これはどうも「必ず」といったほうがよさそうだと考えられるのである。<(上巻p.372)
JRF2015/5/241821
有名な「エディプス・コンプレックス」の原典は実はこの『夢判断』のようだ(上巻p.447-451)。
JRF2015/5/246433
「幼児期」だから、当然、意識的には覚えてないような素材も夢に使われるわけではあるが、>前日の諸体験が夢の内容のいちばん手近かな材料<(上巻p.386) で、少し以前の記憶もよくよく考えると前日に思い出してたものからの連想だったりするというのがフロイトの主張。
JRF2015/5/242039
……。
外的刺激や尿意などが夢に影響することはあるが、そういう刺激があるから夢の内容が変わるというよりも、そういう刺激があっても夢を見ていたいという欲求が、夢の中だけでその願望を変わりに充足させようとする夢の脈絡を作るとフロイトは考える。上巻p.388 あたりにその指摘がある。
JRF2015/5/240937
昨年の入院後の薬のかげんなのか、夢を見るとその後、疲れていることがあった。でも普通はそうじゃない。夢を見ること自体に意味がないということはありえず…、
>われわれはこう推論して差支[さしつか]えあるまい、「いかなる無意味な夢刺激物もない。したがってまたいかなる無邪気な夢もない」と。(…)夢というものは絶対に些細事に関わりあわないのである。われわれは些細事のためにわれわれの睡眠の邪魔はさせないものである。<(上巻p.313)
JRF2015/5/245341
>ある意味で、すべての夢は -- 便宜の夢(安逸の夢)である。夢は起きる代りにねむりつづけようという意図に奉仕する。夢は睡眠の守護者でこそあれ、その妨害者ではない。<(上巻p.396)
>夢はいわばこういう任務を背負わされているといっていい、つまり「現在活動している刺激を通じて、いかなる願望を、実現充足されたものとして表現しうるか」を捜し求めることがそれである。<(上巻p.399)
JRF2015/5/243832
……。
「恐怖不快夢」の説明はこの本で何回か試みられるが、その一例が次にある。
>すでに述べたように、第一の組織に所属していて、その実現充足に対しては第二の組織が異を唱えるような、抑圧された願望が心の中にはある。
(…)
この抑えつけられた願望が実現されるようなことが起ると、第二の(意識されることの可能な)組織の抑制が排除されて、それが不快感として現われてくる。
<(上巻p.399-400)
JRF2015/5/248038
一方の検閲をくぐるために否定されてできた象徴が、否定的な感情を得て、むしろ「願望充足」に資するというのは、私は↓の「二重否定の除去」「排中律」の Momo を思い出す。
《時間泥棒の夕べ - 排中律と call/cc》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2011/01/post-1.html
JRF2015/5/248562
……。
類型夢については、最初、
>類型的な夢の判断にさいしては、たいていの場合本人がいつものように、いろいろなことを思いつかないのである。<(上巻p.409)
…ような夢のみを対象とし、二つの類型夢、すなわち、「裸で困惑する夢」と「近親者が死ぬ夢」のみがふれられる。
二つとも幼児期の「裸であることの気持ちよさ」と死というものがよくわかってなかったころの「どこかへ行ってしまえ=死んでしまえ」という欲求から説明がなされる。
JRF2015/5/248586
ちなみにその例の中で>突然みんなに翼が生[は]えて、飛び上がって、どこかへ行ってしまう<(上巻p.432) という夢の解釈として、「みな天使になること=みな死ぬこと」が説明されるのだが、ここで私は歌「翼をください」がそういう意味にも読めるのだ、だから、エヴァンゲリオンとかでも使われていたのか、とやっと気付いた。
JRF2015/5/245871
一方で、あからさまな不快感となることについては夢歪曲が使われ、
>検閲は、不安恐怖あるいはその他の形式の苦通感の展開を保護するために行われるのである。<(上巻p.458)
が、これらの類型夢の場合は、それ以上の幼児期の願望に資するため、夢見られるのであろう。
JRF2015/5/248657
……。
あと、追記的な類型夢として「試験の夢」にも言及がある。これは上巻p.470 に説明があるが、成功した試験について、過去に戻ってその心配をする夢である。そのこころは、今、他のことで自信を失っているかもしれないが、同じように心配だった過去の試験では成功したではないかという「慰め」の夢なのだそうである。
JRF2015/5/242583
私は、「試験の夢」はあまり見ないが、このトシにもなって(このトシのまま)まだ中学校や高校・大学に通っている夢を見ることがある。あれも「慰め」の一種なんだろうか…。それとも下巻に出てくる「刑罰夢」に近いんだろうか…。
JRF2015/5/246216
……。
夢検閲をかいくぐるために、夢内容の重心の「移動」や象徴を統合するような「圧縮」が行われる。
潜在内容である「夢思想」があって、それが移動や圧縮という「作業」を経て、顕在内容である「夢内容」となるという言い方がなされる。
『夢判断』の書は、「夢の作業」という章を分かつところで上巻と下巻に分かれる。
JRF2015/5/243440
……。
夢は論理を表わすのにあまり得意ではない。
>夢にとっては「否」ということは存在しないように思われる。夢は奇妙に好んで対立物を統一している物にしてしまうか、あるいはひとつのもので表現するかする。<(下巻p.21)
>夢の中の「何々することができない」は、反対の表明、ひとつの「否」なのであり、したがって「夢は『否』ということを表現しえない」というさきの主張は訂正されなければならないのである。<(下巻p.52)
JRF2015/5/244899
>ある内容が「夢の中の夢」に含まれているということは、そういうふうに夢そのものの中で「これは夢だ」といわれていることは本来起ってもらいたくないことだったのだという願望を意味するのである。<(下巻p.54)
上でリンクした Momo の論理を思い出す。
JRF2015/5/241288
私は、「起きられない夢」とか「寝たきりの夢」、「夢だと思って目覚めるとまた夢」というのを見ることがあり、どういう場面でそうだったかはあまり覚えていないが、その「起きれなかった感」は強く印象に残っている。
ただ、夢にヒントをもらったように思って目覚めてみると、何の役に立つのだろう、何でこれが役に立つと思ったのだろうという夢も見る。(最近も見た。)
これらは、「私はロジックしている、論理的でアイデアマンである」と思いたいという願望の充足に過ぎないんだろうか?
JRF2015/5/244220
麻薬というのは、何かができるようになる(感覚等が鋭くなる)のではなく、ごく普通のことをやって何かに到達したような気を起こさせるものに過ぎないのではないかという疑いを私は持っているのだが、こういう夢の機能は、夢の麻薬的機能と言って良いのだろうか?
最近…昨年の入院・退院後から、私は眠り過ぎの状態で過ごしているのだが、この「夢の麻薬的機能」に酔っているということなんだろうか?
JRF2015/5/245423
……。
下巻では「類型夢」というところから進んで「象徴」の利用に足を踏み出す。
>象徴的夢判断においては、象徴化の鍵は夢判断者の恣意によって選択される。言葉の偽装というわれわれの場合においては、これらの鍵は一般に知られており、既定の言語行使によって与えられている。<(下巻p.59-60)
JRF2015/5/240425
しかし、ある女性の夢分析においてフロイトは
>そこで私は、平土間の塔を文字どおりにとる決心をした。<(下巻p.61)
つまり、象徴としては男根象徴であるような塔をあえてそう解釈しない方法がうまくいくことがあることを示す。
JRF2015/5/249333
>夢判断ということは夢における象徴の存在によって容易になってきたばかりではなく、逆に困難になってきたということも否定するわけにはゆかない。夢を見た人間の自由連想に基づく夢判断のやり方では、多くの場合夢内容の象徴的諸要素の解決はつかない。シュテーケルの乱暴な夢判断のうちに復活したかに見えるところの、判断の主観に自由な発言を許すという古い夢判断に逆戻りすることは、学問の立場からいってとうてい容認することができない。<(下巻p.78-79)
JRF2015/5/249641
この点は、私のこのひとことの最初のほうで述べた>先に象徴の意味を教えておき、夢を象徴等を使って語らせることで、自然に夢に装飾するその「嘘」の部分を精神分析する<方法を否定しているのか肯定しているのか掴みがたい。
JRF2015/5/241015
ただ、フロイトは、これ以降、象徴(とそれが示すもの)を実際にいろいろ示していく。そして…
>夢を見た本人の自由連想にこそ決定的な意義を認めようとする技術に優先権があるのであって、象徴翻訳の技術は補助手段なのである。<(下巻p.90)
…と述べ、例をいくつか書いていくのだが、この部分に「後代の挿入」と見られる混乱が出てくるのである。>フロイトの諸研究によって(…)<(下巻p.106) のごとく、明らかに他人が書き加えたことを示すような文章と共に象徴の例が語られる。
JRF2015/5/244886
ちなみに、この『夢判断』はロンドン版の第8版を底本として翻訳されたらしい。
JRF2015/5/241707
>1923年には、G・ロッフェンシュタインが同じような結果を公表している。しかしことに興味深いと思われるのは、ベートルハイムとハルトマンとが行なった、催眠術抜きの実験である<(下巻p.130)
初版は1900年で、↑の引用のような催眠術を使うことの是非みたいなものは他ではあまり論じられない。まぁ、こういう記述が突然に出てきて私は混乱させられたわけだ。
JRF2015/5/240736
……。
……。
「夢は願望充足である」として、しかし、その願望は本当に「自分」のものなのか?夢分析の結果には、自分を越えたところの「拡散」がある気が私はする。フロイトはヒステリー症患者、神経症患者を診ていた。そういった患者との関連でなした夢判断の…
>実例はその未来の関連から抜き放されると、その見事さを失ってしまうのであるし、また、夢判断というものは、ほんのすこしでもつっこんでやってみようとすると、たちまちのうちに、その説明のために奉仕すべきであったところの議論の糸を失ってしまうほどに間口が拡がっていってしまう。<(下巻p.164-165)
JRF2015/5/241091
「拡散」するところのものは「症状」であって、それが未来の「健康」な自分において統合されるがゆえに夢判断は「超自己」(上位自我?)に対し意味を持っていたのではないか。
JRF2015/5/243337
(なお、二つの同時に成り立たない願望が一方がもう一方を抑圧することで不快夢を生むという考え方が下巻p.462 の注にある。)
JRF2015/5/249365
……。
>ひとが覚醒後に記憶している夢に対して下す諸批判、その夢の再現(再構成)がわれわれのうちに呼び起す諸感情なども、その大部分は潜在夢内容に属しているのであって、そういうものも夢判断の対象にしなければならないのである。<(下巻p.230)
JRF2015/5/246169
フロイトの初版ではなく第8版ぐらいの状況になれば、フロイトの前に現われる患者は夢象徴に通じていると前提せねばならず、その上での「夢に対して下す諸批判」を考慮に入れれば、私のこのひとことの最初のほうで述べた>先に象徴の意味を教えておき、夢を象徴等を使って語らせることで、自然に夢に装飾するその「嘘」の部分を精神分析する<という状況が自然に生じていて、もうそれに順うしかなかったとも考えられよう。
ただ、それが現代の普通人・普通の精神科医に通用するかはまた別問題で、そういう状況になるべきかどうかの判断まではフロイトはしていないと見るべきだろう。
JRF2015/5/243241
……。
>シュトリッカーの鋭い考察(…)。「夢の中で盗賊に対して恐怖を感ずるとしたら、その盗賊はなるほど空想的存在にすぎないが、しかしその恐怖感は現実のものである」<。(下巻p.256)
夢の中での情動は、しかし、夢思想が表現しようとしていた情動でなければならず、そうでない情動は逆に抑制されるようである。
JRF2015/5/240532
>検閲の抵抗を受けて変化してしまった心的コンプレクス中で、情動こそは検閲の抵抗、その作用に屈服することなき一成分であって、これのみがわれわれに、正しい補足への手がかりを与えうるのである。<(下巻p.258)
夢の…
>顕在内容中に、ある情動が存在する場合は、その情動はまた必ず潜在内容中にも存在する。しかしその逆の事情はない。一般的にいって夢(顕在内容)は、それが加工されて夢ができあがったところの心的材料よりも、情動に乏しいものである。<(下巻p.269)
JRF2015/5/244629
>情動抑制は、ちょうど夢歪曲が夢検閲の第一の成果であったのと同じに、夢検閲の第二の成果だということになるであろう。<(下巻p.271)
>抑制する検問所と抑制される検問所とが協同作業をして、相互に強化しあい、その結果ある病的な現象を生ぜしめるというようないくつかの場合も同様注目に値する。<(下巻p.292)
JRF2015/5/244134
……。
空想と夢の協同作業というようなものもあるようだ。つまり、意識下または無意識化で空想していたものが、夢の中で展開されるというもの。ただ、その空想と展開のタイミングが微妙で、空想は24時間中ずっと行なわれていて、展開は、覚醒時の一瞬にも起こりうる。つまりずっと空想していたから、理路整然とした夢の展開がほんの短い間の睡眠や覚醒移行夢の間に起こるということらしい。
JRF2015/5/247183
ただ、それを記憶しておくことは難しいようだ。
>そういう部分は何か流暢[りゅうちょう]で淀[よど]みがなく、他の部分よりもより関連的で、しかしはるかに慌[あわただ]しくはかないように見える。それがほかのものとのつながりのうえから夢の中へ入りこんできた無意識的な空想であることはよくわかるが、これを定着させることに私はまだ一度も成功していない。<(下巻p.315)
JRF2015/5/246370
……。
>思想や観念はもっぱら、あるいは主として聴覚および視覚の記憶根跡の材料によって再現されなければならず、この必然からして夢作業は表現可能性を顧慮しなければならない。<(p.337)
表現が難しいものも、無意識下の「空想」の長い作業によって「表現可能性」を獲得しうる…「場合がある」…ということだろう。空想にそれだけの作業をいつもさせることができる状態に人はないのではないか?それとも疲れていると感じるときほど、そういう「表現可能性」は煮つまっているのだろうか?
JRF2015/5/248032
……。
他の「学者たち」と違って、フロイトは、夢の分析中に…
>無意味な、不十分な言語表現にぶつかると、われわれはそのような言語表現の不手際をもまた大いに尊重した。要するに学者たちが我儘勝手な、狼狽した挙句急いででっちあげた即興だと見なしているようなものを、われわれは聖書の文句のように取扱ってきた。この矛盾は説明を要する。<(下巻p.348-349)
JRF2015/5/247523
他の「学者たち」…
>彼らは心的なるものの制約作用を過小評価している。われわれの心的生活の中には自由勝手な、どうでもいいようなものはひとつもありはしないのである。<(下巻p.350)
JRF2015/5/244703
患者のわかりにく夢の報告をもう一度繰り返し「表現」させる。…
>二度目の報告にさいして文句の変更された箇所こそは、夢の偽装の成功しなかった箇所なのである。(…)そういう箇所から夢判断を開始すればいい(…)。夢の解釈を阻止しようとするその努力から、その夢の本音を包み隠す着物を織りあげたさいの慎重さも推知されるのである。<(下巻p.351)
JRF2015/5/244096
……。
さて、下巻p.389以降、フロイトは、知覚末端から運動末端へと致る間に記憶組織がいくつかと無意識がいくつかあって前意識があり、そこから運動末端へ致るという図を描く。図を描くぐらいだから、説明が込み入ってくるのであり、このあたりから私の理解はかなり脱落していく。
JRF2015/5/242067
>幻覚的な夢の中において起る過程は、つぎのごとく記述されるよりほかはないと思う。つまり「興奮は逆行的な途を採る」のである。興奮は、心の運動末端のほうへ向って移動してゆく代りに、知覚末端のほうへ向って移動してゆく。(…)われわれは夢について「夢は退行的性格を持つ」といって差支えない。<(下巻p.398)
この「退行」という言葉は心理学用語では、「幼児期への退行」とかその年齢の前の段階の心理に戻ってしまうような現象をさしていう。それと混同しそうになるが、どうもフロイトにおいては混同的に解釈しても正しそうである。
JRF2015/5/249193
>すなわち夢を見るということは、大づかみにいえば、その本人のもっとも早い諸事情への部分的退行であり、その本人の幼児時代の再生、その幼児時代に支配的だった衝動の動きや幼児時代に駆使しえた表出方法の再生ではあるまいかという印象がそれである。<(下巻p.409)
さらに
>しかしこの個人的幼年時代の背後には、系統発生的な幼年期、つまり人類の発展が顔を覗かせているのである。<(下巻p.409)
…とまで言う。
JRF2015/5/241021
……。
そういう幼児時代の願望から「エネルギー」を供給を受けなければ、意識下の願望は、夢を見させるような願望とすらならないのではないかとすらいう。
>意識的な願望は、それが、同内容の無意識的願望を喚び起し、この無意識的願望によって自己強化を計りうる場合にのみ夢刺激者となる、と私は想定している。<(下巻p.415)
JRF2015/5/245995
>無意識は好んで、些細であるがために注意されずにいるか、あるいはそこに向けられていた注意が非難のためにふたたび引っこめられてしまったか、そのいずれかであるような前意識印象や前意識表象にわたりをつける。<(下巻p.432)
…「目立たないもの」がないと無意識は検閲をパスする「枝」を付けれない。
JRF2015/5/241483
前意識内にあった思考活動が、自分から消え失せてしまうとき、いつも動いている願望という源泉から出てきた目標表象があって…、
>これらの目標表象は、自己自身に委ねられた思想圏内にある興奮をわがものとし、この思想圏と無意識的願望とのあいだに結合関係を作り出し、無意識的願望が保持していたエネルギーをこの思想圏に転移し、そのときからはこのなおざりにされていた、ないしは抑制されていた思考活動は、たといこのような自己強化があってもやはり意識の中へは入れてもらえないのであるけれども、みずからを維持してゆくことができるようになる。<(下巻p.483)
JRF2015/5/242204
>この回り道は結局のところ自由な運動力を経て、満足対象の現実知覚が現われうるように外界を変化させる道なのである。<(下巻p.490)
JRF2015/5/242540
>われわれが Ubw (無意識)と呼んでいるほうは意識化されることのないものであるが、もう一方の、われわれが Vbw (前意識)と呼んでいるほうの諸興奮は、なるほどある種の条件下において、おそらくある新しい検閲を通過してはじめて、しかし Ubw 組織を顧慮することなく意識の中に入ってくることのできるものなのである。<(下巻p.515)
JRF2015/5/242276
このあたりはパーセプトロンとか脳生理学をイメージしながら読んで欲しい…といったところなんだろうが、私の力不足で議論をうまく追えなかった。
JRF2015/5/244221
……。
「夢の機能」を極言すると次のようになるようだ。
>個々の無意識的興奮過程にとって二つの出口がある。自分で自分の始末をつけなければならないか、あるいは前意識の影響下に入るかのいずれかである。第一の場合には無意識的興奮過程はどこかに突破口を作って、自分の興奮にそのつど運動力への放出の道を作り出すし、第二の場合には、その興奮は前意識によって放出される代りに束縛される。夢過程はしかしこの第二の場合なのである。
JRF2015/5/243489
(…)
無意識を全睡眠時間中縛りつけておくよりは、無意識的願望を放任し、退行への途を自由に辿らせ、そうして夢を形成させ、それからこの夢を前意識的労力のわずかな消費によって拘束し、片づけてしまうほうが実際に合理的であり、安価であったということに気がつくのである。(…)夢は、無意識の自由に放任されている興奮をふたたび前意識の支配下に置くという任務を引受けているのである。
(…)
これが夢に認めうる唯一の機能なのであろうか。私はそうだと思う。
<(下巻p.457-458)
JRF2015/5/249284
……。
……。
以上で、読了とする。
ただ、下巻で少し目についたところだけメモしておく。
JRF2015/5/247578
……。
>古い絵では、描かれた人物の口から紙片が出ていて、その上には、画家が絵では表現しかねた文句を示す文字が書いてある。<(下巻p.11)
「マンガ的表現」は「古いやり方」という考え方があるんだね。
JRF2015/5/241872
……。
>ある夢の意味がどうしてもわからないような場合には、その夢の顕在内容の特定の諸部分を試みに逆にしてみるといい。そうすると一挙に解決のつくことがよくある。<(下巻p.36)
JRF2015/5/245831
……。
>一夜のうちに見るいくつかの夢はすべて、その内容上からは、ひとつの夢と見なすべきである。(…)聖書中にでてくるパラオの「穂と牝牛」の夢、ヨゼフがその夢判断をしたあの夢はこの種のものである。<(下巻p.47)
JRF2015/5/249035
……。
>この事実(成人の夢が性的材料を取扱う云々)は決してわれわれを訝[いぶか]らしめはせず、逆に夢解明におけるわれわれの根本原則と完全に一致するということをはっきり今いっておこう。(…)性的コンプレクスのこういう意義を絶対に忘れてはならないが、そうかといっていつもそれだけしか考えないというのでもいけない。<(下巻p.150)
JRF2015/5/246124
……。
>口にすべからざる事柄に関しては、真実はいけないが真実でないことならあえていって差支えないというのは、検閲の本領のしからしむるところである。<(下巻p.215)
JRF2015/5/243603
……。
>しかし「何といっても夢にすぎないのだから」、そのままねむりつづけて、夢を我慢するほうが、眼を覚ますよりも楽なのである。<(下巻p.308)
JRF2015/5/242266
……。
>自分の夢が何の努力をも払うことなしに判断できるなどと考えたら大間違いである。<(下巻p.365)
JRF2015/5/244173
……。
>もし抵抗が日中と同程度に夜間も支配していたならば、夢というものはそもそも成立しなかっただろうといわざるをえない。そこでわれわれは、抵抗は夜のあいだはその力の一部を失っていると推定するのである。<(下巻p.370)
JRF2015/5/240927
……。
>私はなんらかの願望の出所として三つのものを考えてみることができると思う。願望は第一に、日中時にかきたてられることがある。そして外的事情のために充足させられないでいる。すると夜のために、承認されたけれども、しかし充足されなかった願望が残ることになる。第二に、ある願望が日中すでに浮んでいたのだが、われわれの意識から非難を浴びせかけられる。すると夜のためには、充足されていず、かつ抑圧された願望が残される。第三に、願望は覚醒時生活と無関係のものでありうる。そして夜になってはじめて抑制されているものの中から動きだすような、かの諸願望のひとつでありうる。<(下巻p.412)
JRF2015/5/242927
……。
>「夢を見る」ということは、今や克服されてしまった子供の心の営みの一部なのである。<(下巻p.438)
JRF2015/5/249058
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>ヒステリー症の症状は、二つの対立的願望充足が、それぞれ異なった心的組織の源泉から、ひとつの表現において出会うことが可能になる場合にのみ生ずる(…)。<(下巻p.442)
JRF2015/5/241510
……。
>私自身は若干の個人的経験によって、夢作業というものはその所産を提出するためにはしばしば二十四時間以上の時間を必要とすると信じたい。<(下巻p.453)
つまり前日の夢(の間の無意識の活動)もまた夢作業に組み入れられるということか。
JRF2015/5/244642
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>無意識の中では何ものも終結させられず、何ものも消滅せず、あるいは何ものも忘れられない。神経症、ことにヒステリー症を研究すると、なるほど無意識とはそういうものかととっくりと合点がゆく。<(下巻p.456)
>そして、精神療法は、無意識を前意識の支配下に屈服せしめる以外の道を進みえないのである。<(下巻p.457)
JRF2015/5/242373
……。
>われわれはヒステリー理論からつぎのような命題を借用する、ある正常な思想系列の、こういう異常な心的加工は、それが幼児的なものに由来し、また、抑圧裡に存するところの、ある無意識的願望の転移のために用いられている場合にのみ現われる。<(下巻p.489)
JRF2015/5/248242
……。
>最後に、これら第一次経過方式の阻止にさいして必要となる作業増加の一証明は、われわれが思考のこれらの経過方式を意識にまで進ませるとき、われわれは滑稽効果、笑いによって放出せられるべき過剰エネルギーを目ざすという事実によって与えられるであろう。<(下巻p.500)
JRF2015/5/240043
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『夢判断』は総じて、これまで歯が立たなかった「哲学書」と違い、例が多く読みやすい…いや、読むのに時間はかかるけれども理解はしやすいものだった。ただ、最後の一章はとても難しくフロイトのアイデアを理解したとは言い難い。
JRF2015/5/249685
最近、[cocolog:82413218] で、ある条件下で>自殺のための薬を処方して欲しいな…と夢見ることもある。<と書いたあと、「夢」という言葉が気になりはじめた。それもあって、この時期に読んだという面もある。また、↓に加筆した部分に>だからといって夢を見ることを拒んではならない。それは神の業かどうかわからないが、自分の身体が必要と思って見せるものかもしれないからだ。<と書いてそれがどれほど真実なのか自分で疑っていたという面もある。
JRF2015/5/247177
《「ヨブ記」を読む》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html
JRF2015/5/248423
全編、興味深くはあったが、今夢について知られていることとどれぐらい関係があるかよく知らず、こういう「科学書」をどう受け取っていいかよくわからない。「α波」とか「レム睡眠」とか、心理学で習ったか、テレビで観たかして覚えているけど、そことフロイトの理論の関係は今、どうなっているんだろうという疑問は持った。
JRF2015/5/241486
《夢は「レム睡眠」のときに見るのウソ:日本経済新聞》
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO83023620Q5A210C1000000/
《夢 - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2
JRF2015/5/243039
『夢判断 上・下』(フロイト 著, 高橋 義孝 訳, 新潮文庫, 1969年 2005年改版)
http://www.amazon.co.jp/dp/4102038035 (上巻)
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102206349 (上巻)
http://www.amazon.co.jp/dp/4102038043 (下巻)
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102206350 (下巻)
JRF2015/5/241026