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cocolog:82413218

『世界の名著 40 キルケゴール』を読んだ。哲学というよりも神学で、神学に関心のある私は興味深く読んだが、これまでの哲学書と同じく歯が立たなかった。 (JRF 8056)

JRF 2015年5月 9日 (土)

『世界の名著 40 キルケゴール』(キルケゴール 著, 桝田 啓三郎 編, 中央公論社, 1966年)
http://www.amazon.co.jp/dp/B000JBBMNY
http://www.amazon.co.jp/dp/4124006616 (中公バックス版)

『哲学的断片』『不安の概念』『現代の批判』『死にいたる病』所収。

JRF2015/5/99552

……。

……。

『哲学的断片』について。

JRF2015/5/95307

ソクラテスは、真理を…

>「学びとる」ことや「さがし求める」ことは、すべて「想起する」というこの一事に尽きる。無知なる者は自分が知っている真理を自分自身で思い出せるように注意を呼びさましてもらいさえすればよいのである。したがって真理は、よそからその人のもとにもたらされるのでなくて、もとからその人のうちにあったのである<。(p.58)

…として、ソクラテスは真理の「産婆」になること、「助産術」を心掛けた。

JRF2015/5/96212

しかし、キルケゴールは、宗教的に真理をとらえて、真理を理解する能力も外から神が与えるものだとする。

>かくして教師とは、神ご自身である。彼がみずから「きっかけ」として働きかけて、学ぶ者におのれが非真理であることを、しかもおのれの咎[とが]のゆえに非真理となったことを、自覚させたもうのである。<(p.66)

それには「瞬間」が決定的な意義を帯びるという。おそらくこの「瞬間」という言葉で、イエスの誕生や復活のそのときが想定されていて、その瞬間は永遠に意味のあるものだから、すべての人が「同時代」的に体験し、真理を得るのだという。

JRF2015/5/92903

ただ、じゃあ、異教徒とかソクラテスとかはどうなるのかというと、存在が「非真理」という「残酷」とも言えることになるのか…と考えるとなかなか承服できない論理となる。

さらに「逆説」という言葉でおそらくイエスが人間として死んだことを「つまづき」という言葉でペテロの否認などを意味すると思うのだが、それが、キルケゴールの個人的な体験の中にある「瞬間」「逆説」「つまづき」とどうも対照されているようで、キルケゴールの個人的な体験がわからない私には、理解がとても難しかった。

JRF2015/5/98692

……。

……。

『不安の概念』について。

JRF2015/5/92350

この論文は、ひと口で言うと、「原罪論」。

ただ、キルケゴールは「プロテスタント」のデンマーク国教会下なので、カトリックの「原罪が性交によって遺伝する」との考えはとれず、かと言って「罪が犯せるようになったその自由意志に原罪性を見る」というのは「ペラギウス主義」として排斥したいようだ。

JRF2015/5/92308

どうするかというと、こういう言い方をするとキルケゴールは嫌うだろうが、これは時代が弁証法で哲学と信仰を止揚して作られた「心理学」の言葉として「不安」を持ち出し、「不安」に「自由」の座を見つつ、「不安」が原罪を導いたといったような言い方をする。でも、決定的に「そうだ」と言い切らないところに、難しさがある。

JRF2015/5/96872

「原罪」はイエスによって贖罪されたというふうにもしないといけない。そこから考えると、人が神のようになりたいと思うところに原罪性があって、そこに「自由意志があると思いたい」というものも含まれ、それがイエスの非惨な死によって、「神のように」が否定されたところに「原罪」の贖[あがな]いを見ればいいのかなどと私は思うが、これは「ペラギウス主義」的なのかもしれない。

JRF2015/5/96789

キルケゴールは「責めによって無垢を失った」(p.232)ことを挙げ、

>それにしても彼にはなお責めがある。不安をおそれつつも彼はそれを愛し、その不安のなかに溺[おぼ]れたのだからである。<(p.240)

…と述べる。このあたりまでは私もわかるのだが…。

>罪によって感性は罪性となった。<(p.262)と感性に近いものとして「罪性」という言葉をもってくるのだが、この「罪性」というのがよくわからない。

JRF2015/5/98908

この先は、全体論としてはついていけず、部分に反応するぐらいしかできなかった。

JRF2015/5/90042

……。

>無垢の無知は無についての無知だからである。そこには善悪などについての知識は少しもない。<(p.241)

この部分は、↓で私が挙げた問題をキルケゴールは言及しているのだと思う。

《『創世記』ひろい読み - 知識の実》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/___cfef.html
>02:16 では「善悪の知識」のないものに対して、神は命令していることになる。つまり、「善悪の知識」がなくても神の命令は守ることができ、そのような存在として、まずアダムとイブを創造したことになる。<

JRF2015/5/94629

……。

>時間も永遠もともにギリシア人によって抽象的に理解されていたのは、彼らには時間性の概念が欠けていたからで、もとをただせば彼らには精神という概念が欠けていたためであった。<(p.289)

キルケゴールは、心と身体の「他に」精神というのがあるというモデルを取っていて、その精神がキリストの「瞬間」によって、もたらされたという理解があるようだ。「無精神」の異教徒(ギリシア人)は、運命の両義性を神託の両義性で補ったと見るようだ。(「無精神」とはやはり残酷な言葉だ。)

JRF2015/5/96815

>運命はかくて不安の無である。それは無である。なぜなら、精神が定立されるやいなや、不安は除かれはするが、それとともにちょうど摂理も定立されるので、運命もまた除かれるからである。<(p.299)

>運命を説き明かすべきものは、運命と同じように両義的でなければならない。神託がそういうものであった。<(p.299)

JRF2015/5/94822

……。

>悪魔的なものは閉じこもるものであり、それはまた善にたいする不安である。<(p.331)

…これは「引きこもり」な私にとっては痛い言葉だった。

JRF2015/5/90823

……。

>不安は自由の可能性であり、この意味での不安だけが信仰の力により絶対に育成的なのである。<(p.361)

…これは今、将来の不安で押しつぶされそうな私には(この論文では珍しく)救いとなる言葉だった。とはいえ「信仰の力」を私はどうすればいいのかは未解決だが…。

JRF2015/5/90688

……。

……。

『現代の批判』について。

JRF2015/5/92916

この論文は、『二つの時代』というギュルレンブルグ夫人の小説の書評として書かれたものだが、ほとんど書評というよりは、「現代」という時代の批判となっている。

>現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立っても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまう時代である。<(p.371)

…という言葉ではじまる。過去「革命の時代」と対比してそういっているのである。

JRF2015/5/98157

……。

>暴動にたいしてなら権力を行使することができるし、故意に量目をごまかしたというなら、刑罰を期待できるのだが、弁証法的な秘密主義というやつは根絶しがたいからである。<(p.387)

…などと「弁証法」の何でも止揚して自分の体系に組み込んでしまう姿勢を批判する。

JRF2015/5/93954

私にとって「弁証法」は、↓で、例えば憲法を改正してそれにつれて民法とかも書き換えていったりするのが、「弁証法」にあたり、「止揚」したあとの手続きがとても大事だと考えていて、そんなに「お手軽」にできるものではない。

《コンピュータ定理証明における弁証法 - 私が作りたいシステム [ JRF の私見:雑記 ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/09/post_2.html

JRF2015/5/94028

>記号論理においては矛盾があれば、それで終りであるが、記号論理において弁証法をムリヤリあてはめるとすると、それは矛盾を解消するための理論の再構築を意味するだろう。

高階論理の立場から私は最も単純に弁証法とは矛盾などの解消のため理論のパラメータを一つ足す行為に相当すると考える。Pure Type System などの高階論理の立場では公理を足すのもパラメータを足すのとほぼ同じことなので、これだけで私の言いたいことは言い得ていると思う。

JRF2015/5/93290

ただ、キルケゴールの時代の時代精神にとっての「弁証法」はそうではなく、「あれもこれも」や「ダブル・ミーニング」を単に意味していたのかもしれない。

JRF2015/5/98226

……。

一方、そういう「現代」は宗教人にとっては好都合だという評価を下しているのは興味深い。

>狡猾にも反省は、これまでに、ありとあらゆる人生観を買い占めてきた。しかし、ほんとうの宗教性の永遠な人生観だけは買いとることができないでいる。<(p.399)

JRF2015/5/94126

……。

そして、「公衆」が一種、抽象物にまでなっているのにある種の危機を見ている。

>近代人を古代から絶対的に区別するものは、このように、全体が具体物でなくて抽象物になっているということであろう。<(p.402)

この辺は、メディアの効果というものが大きいとも見ているようだ。

>公衆は一切であって無である。<(p.403)

…とその虚妄を批判している。

JRF2015/5/96381

「平和ボケ」への批判とひとくちに言ってしまうと、誤解を生みそうだが、我々の現代に通じる部分はあるとは思う。

JRF2015/5/96214

……。

……。

『死にいたる病』について。

JRF2015/5/91026

この論文において、「死にいたる病」とはすなわち「絶望」のこと。「絶望」を様々に場合分けして…まるで腑分けして診断を下すかのように…論じていく。キルケゴールにとって本来「弁証法」とはこのような論じ方であるという思いもあったのかもしれない。

キリスト教においては「復活」があるから>死でさえも「死にいたる病」ではない。<(p.433)と述べ、また、>絶望していることの反対は、信仰していることである。<(p.481)とも述べるが、キリスト者だからと言って「絶望」と無縁ではなく、むしろ信仰にありながらの絶望は「罪」であると論じていく。

JRF2015/5/97775

……。

一番上で、キルケゴールの全作を「哲学というよりも神学」と書いたが、この論文の序にはその点について言及があった。

>多くの人々には、おそらく、この「論述」の形式は奇妙に思われることであろう。それは多くの人々にとっては、教化的でありうるためにはあまりに厳密すぎ、また、厳密に学問的でありうるためにはあまりに教化的にすぎる、と思われることだろう。<(p.429)

JRF2015/5/92924

……。

「絶望」と「死」との関係が気になる。読み進めていく。

>ソクラテスは、魂の病[罪]は、肉体の病が肉体を食い尽くすのとは違って、魂を食い尽くすものではないということから、魂の不死性を証明した。それと同じように、絶望は絶望者の自己を食い尽くすことはできないということから、そのことがやがて絶望における矛盾の苦悩であるということから、人間のうちにある永遠なものが証明されることができる。<(p.445-446)

JRF2015/5/97258

>死によってこの病から救われるのは不可能なことである。なぜなら、この病とその苦悩は -- そして死は、死ぬことができないというそのことなのだからである。<(p.446)

>絶望は、まったく弁証法的なものなのであるから、病ではあるけれども、それにかかったことがないというのは最大の不幸であり -- それにかかるのが真の神の恵みであるといえるような病なのである。<(p.452)

>有限性の絶望とは、まさにこのようなものである。こういうふうに絶望していればこそ、人間はけっこう、実を言えば絶望していればいるだけそれだけけっこう時間性[このよ]でのんびりと暮らしてゆけるのだ。<(p.463)

JRF2015/5/94108

…どうもよくわからない。

JRF2015/5/99526

……。

「絶望」と「死」との関係…つまり「自殺」をどう考えているのだろう…と探すと、

JRF2015/5/99776

ストア哲学者たちを「異教徒」として…、

>昔の教父たちが、異教徒の徳は輝かしい悪徳と言ったのは、それをさしていたのである。教父たちは、異教徒の内奧が絶望であり、異教徒は神の前で自己を精神として意識していなかったことをさしていたのである。<(p.477)

>異教徒が自殺というものについてきわめて軽率な判断をくだすことにもなった、いな自殺を賞讃しさえすることにもなったのであるが、実は、自殺によって人生を脱出するということは、精神にとっては最も決定的な罪であり、神にたいする反逆なのである。<(p.478)

JRF2015/5/92780

もう「時効」だと思うけど、私は、中学か高校時代に、作文で、人には「死ぬ権利」があると書いたことがある。今は↓のブログ等も読んで、それが微妙な問題であることは知っているし、「医学の祖」ヒッポクラテスの誓いに「依頼されても人を殺す薬を与えない。」というのがあるのも知っている。

《海やアシュリーのいる風景 - Yahoo!ブログ》
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2

JRF2015/5/96574

でも、自分の「この先」と日本経済の未来を考えたら、例えば介護保険料を払うようなトシになったあと、精神に著しい発作的な障害があり、保助者もいなくなる等、将来の自分に相当すれば、自殺のための薬を処方して欲しいな…と夢見ることもある。

JRF2015/5/98235

……。

キルケゴールは、罪を絶望を用いて一般に「定義」する。

>罪とは、神の前で、あるいは神の観念をいだきながら、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは、絶望して自己自身であろうと欲することである。<(p.514)

JRF2015/5/98563

この「神の前で」という部分でキルケゴールは「審判」について次のように書く。

>神にとっては、単独者は概念以下にあるものではないのである。<(p.571) >めいめいの単独者が裁かれるのである。<(p.574)

つまり、人間が裁くときは公衆だとか人民といった「総体」はせいぜいその代表者を裁くぐらいのことしかできない。でも、神は違う。神の全能にとっては「公衆」の構成員一人一人について「単独者」として裁ける。…というのである。

JRF2015/5/97704

私はよくイスラム教のウンマ=共同体という概念を考え、それごとの「審判」みたいなものを考えるが、ここの議論を加味すれば、それは共同体の個々を神が裁けないからではなく、神が共同体の事情によって単独者を赦し、とりなすことができるとでも考えればいいのだろうか?

keyword: ウンマ

JRF2015/5/98527

……。

>つまずきの最後の形態は、(…)キリスト教を虚偽であり嘘であると説き、キリストを(…)仮現説の立場からか、あるいは、合理主義の立場からか、そのいずれかから否認するものである。<(p.584)

JRF2015/5/95774

《デンマーク国教会 - Wikipedia》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%9B%BD%E6%95%99%E4%BC%9A
>破門・戒規は法的に可能だが悪魔崇拝を言明した場合を除くと極めて稀である。転生を支持する教会員も破門されたことがあるが、2005年に最高裁が破門を取り消している。<

JRF2015/5/98677

国教会というものがあれば、私も楽だったのかな…と思う。案外、私はそういったところに移住したほうがいいのかな? でも、言語の問題が大きいし、そもそも役立たずだから向こうが受け容れてくれないだろうし…。今のままで、この日本でどう生きるか考えていくしかない。

JRF2015/5/90212

……。

……。

総じて、興味深い考え方に刺激されはしたが、それぞれの標題と比べると肩すかしを食らった印象も少なくない。[cocolog:82173429] のニーチェと違って、もう一度読んでみたいとはあまり思わなかった。むしろ、それよりは他の神学書を読んだほうがいいのではないかと思った。が、こういう「教化書」というのは日本では、案外、出会いにくかったように思う。そういう意味では「とりあえずキープ」しておくべき書なのかな?

JRF2015/5/93381

あと、読んでるときには付箋紙をいっぱい付けていっていたのだが、今回はそれをあまり反映させなかった。「もういいか」という思いがあったから。最近ちょっと投げやりになってるかも。

JRF2015/5/91741

……。

……。

(時事として、ある大分県の動物園がイギリス王室に対して大変な不敬をしました。英日友好。まことに申し訳ありませんでした。私が謝っても意味ありませんが、問題になってからでも猿の名前をロッテ(英語名:Rotte)にでも変更すれば良かったと考えます。…ちなみに、私の両親は礼儀や外国人への偏見をこじらせたような番組を好んで見ており、私が読んでるブロガーが差別的な発言等をしているのも知っています。私もトシをとればどんどんそうなるのかも知れません。今も気づかずに「何か」失礼をしてるかもしれません。申し訳なく、情けないです。orz)

JRF2015/5/98697

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