« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

cocolog:82853495

『世界の名著 24 パスカル』を読んだ。全部読んだが今回の引用は『パンセ』からのみ。ただ小品集の『病の善用を神に求める祈り』の誠実さ、へりくだりには心打たれるものがあったことは特記しておく。 (JRF 2126)

JRF 2015年7月12日 (日)

『世界の名著 24 パスカル』(パスカル 著, 前田 陽一 編, 中央公論社, 1966年)
http://www.amazon.co.jp/dp/B000JBBMQ6
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1100262176 (中公バックス版)

JRF2015/7/123202

解説の前田陽一氏の経歴も興味深い。叔父から借りた『パンセ』に感銘を受け、やがて東京大学仏文学科でパスカルを中心に研究し、卒業後、第三回フランス政府招聘留学生としてパリに渡り、通訳や外交官の仕事もしながらパリで過ごしたあと第二次大戦期にヨーロッパやアフリカを転々とし、やがてアメリカに抑留されたのち、浦賀に帰ってくるまで12年間を、いってみればパスカルに捧げることになったそうだ。

「文系の人」の中でもすごい人というのはこういう人生を歩んでいるんだな…とまぶしかった。

JRF2015/7/123343

……。

『パンセ』について引用していく。

『パンセ』の配列はブランシュヴィック版に主によるらしいが、特に441節以降などはそれ以外によるところもあるらしい。よってあまり参考にならないかもしれないが、引用の際は節番号とページ数を付し、例えば 347 節の 247 ページの場合、347p.247などと表示する。

JRF2015/7/123398

……。

>すべてを少しずつ。人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。なぜなら、すべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべてを知るよりずっと美しいからである。<(37p.79)

「狭くても深く」より「広く浅く」というよりは、「狭くても深く」が一つあった上での「広く浅く」の必要性を説いたとみるべきか。

JRF2015/7/128278

……。

>彼はそのなかに無数の宇宙を見、そのおのおのがそれぞれの天空、遊星、地球を、目に見える世界と同じ割合で持っているのを見、その地球のなかにもろもろの動物、そしてついにはだにを見るがいい。<(72p.90)

「だに」は無限小へ致る途中のもの。パスカルの幾何学への考えでは無限分割など微分につながる考えはすでにあったよう。「ゼノンのパラドクス」=「アキレスと亀」(参:[aboutme:76872])を思い出すね。

JRF2015/7/128072

……。

>〈恩恵は返却可能と見られるあいだは好ましいが、度をはるかに越えれば、感謝に代わって憎悪にて報いられる〉<(72p.93)

タキトゥス『年代記』4:18 からの引用だが、パスカルはモンテーニュ『エセー』3:8 から引用しているらしい。

JRF2015/7/126444

……。

>人生はまやかしの連続である。人は互いにだまし、互いにへつらうことしかしない。だれもわれわれのいるところでは、われわれについて、われわれがいないところで言っているようなことは言わない。<(100p.112-113)

「真実」だろうけど、暗いな…。

JRF2015/7/123841

……。

>自分の勤労だけによって暮らすことと、世界最強の国に君臨することとは正反対なことである。それがトルコ皇帝という人物のなかで結合しているのである。<(113p.116)

注によると古い否定された伝説による一節らしい。社会の「外」にいて、自分の勤労だけで暮らせるように私はなりたかったが、それは甘い考えだったと認めざるを得ない。

JRF2015/7/126777

パスカルは、母が早く死に、父が「教育パパ」で、法官階級だったのを市債に買い換えることで生計を建ててたらしい。それである種ニートみたいな生活をしていたというところに私はシンパシーを覚える。もちろん、パスカルのような偉業は私にはないわけだが…。ただ、パスカルは宗教に走ったあと、40歳になる前に病(詳しくは不明)で死んでしまう。(だから、そこから先は私は参考にできない…。)

JRF2015/7/122763

……。

>人間というものは、倦怠の理由が何もない時でさえ、自分の気質の本来の状態によって倦怠に陥ってしまうほど、不幸な者である。しかも、倦怠に陥るべき無数の本質的原因に満ちているのに、玉突きとか彼の打つ球といったつまらないものでも、十分気を紛らすことのできるほどむなしいものである。<(139p.125)

ときに戦争ですら「気を紛らすこと」なのだそうだ。戦争を野心や「不満」を紛らわすものと言えばそうも言えるのかもしれないが…。

JRF2015/7/126191

……。

>クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう。<(162p.134)

これ『パンセ』が出典になるのか。ググるとそうらしい。もっと古い書物で言われているのを引いてきたのとは違うんだね。

JRF2015/7/123803

……。

>このようにしてわれわれは、決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。<(172p.137)

JRF2015/7/126864

……。

パスカルの神に賭けたほうがいいという有名な証明…。

JRF2015/7/121319

>ある地位を失うとか、自分の名誉を傷つけられたと想像するとかして、憤怒や絶望のうちに多くの日夜を過ごすその人が、やがて死によってすべてを失うということを知りながら、何の不安も何の動揺をも感じないのである。同じ心のなかに、同時に、最も小さなことに対するこの感受性と、最も大きなことに対するこの無感覚とを見るということは、奇怪なことである。これは不可解な魔法であり、超自然的な催眠であって、その原因となる全能の力をさし示しているものである。<(194p.146-147)

まず、神に賭けないほうの予定説的な無感覚を述べている。

JRF2015/7/122187

>われわれの想像力は、現在の時について絶えず思いめぐらしているので、それを非常に拡大し、永遠については思いめぐらさないので、それを著しく縮小する。その結果、永遠を無に、無を永遠にしてしまうのである。<(195の2p.154)

ある意味、「賭け金」は対比可能なものであったということか。

JRF2015/7/127249

>私の心は、真の善に従うために、それがどこにあるかを知ろうとして、すべてをあげてそれに向かっている。永遠を得るためには、何ものも私にとって高価すぎることはない。<(229p.161)

>神があるというほうを表にとって損得を計ってみよう。(…)もし君が勝てば、君は全部もうける。もし君が負けても、何も損しない。それだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ。<(233p.165)

>私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。<(241p.170)

JRF2015/7/121860

…これが『パンセ』における証明的なもの。もっとわかりやすいのを見た気がするから、それは別途誰かへの手紙とかにあったものなのかな?

JRF2015/7/128136

……。

>われわれは精神であると同程度に自動作用である。<(252p.174)

パスカルは機械式計算機を「発明」していた。人間機械論的な視点もあったようである。

JRF2015/7/121888

……。

>人は、聖書が星の数の多いことを記しているのを公然と非難し、「星は千二十二しかないのだ。われわれはちゃんと知っている」と言っていた。<(266p.178-179)

注によるとプトレマイオスの目録では星の数は 1022 らしい。実は肉眼で見えるものって「数えられる」オーダーらしいね。私も数年前に知って驚いた。ただ、パスカルの時代には望遠鏡が発明され、それ以上の数がある(だろう)ことが明らかになっていたそうだ。

JRF2015/7/122814

……。

>ところで、われわれの宗教において彼らが耳にすることは、神だけを愛し、自分自身だけを憎まなければいけないということと、しかし、みなが腐敗し、神に近づけなくなってしまったので、われわれと一つになるために神のほうが人間になられたということである。<(286p.184)

「自分自身だけを憎まなければいけない」…そうなのか?(パスカルの信じるところは)厳しいな…。

JRF2015/7/120017

……。

>力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力をいっしょにおかなければならない。(…)このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。<(298p.189)

タロットカードの正義と力がカードデッキによって番号が違ったことを思い出す。(参:↓)

《易双六(ようすこう) - タロットカードを使った一人遊び》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2011/11/post.html

JRF2015/7/123959

……。

>プラトンやアリストテレスと言えば、長い学者服を着た人としか想像しない。彼らだって人並みの人間で、ほかの人たちと同様に、友だちと談笑していていたのだ。そして彼らが『法律』や『政治学』の著作に興じたときには、遊び半分にやったのだ。(…)彼らが政治論を書いたのは気違いの病院を規整するためのようなものであった。<(331p.200)

JRF2015/7/122211

……。

>人間はひとくきの葦[あし]にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。<(347p.204)

JRF2015/7/129051

……。

>(…)光は、われわれが感じる〈遠心力〉にすぎないなどと人が言うと、われわれはびっくりさせられる。<(368p.210)

光が遠心力に過ぎないとはデカルトの学説らしい。[cocolog:82729771] で書いた「光に方向はない」という私の妄説よりは可能性を秘めているのだろうか?

JRF2015/7/122770

……。

>私は長いあいだを一つの正義が存在すると信じて過ごしてきた。そしてその点で、私はまちがっていなかった。なぜなら、神がわれわれに啓示しようとされたところに従って、正義は存在するからである。だが、私はそれをそのようにとってはいなかった。そして、その点においてこそ私はまちがっていたのだ。なぜなら私は、われわれの正義が本質的に正しく、私はそれを知り、それを判断するものをもっていると信じていたからである。だが、私はあまりたびたび正しい判断を欠いたので、ついに自分について、ついで他人について疑心をいだくようになった。<(375p.212-213)

JRF2015/7/127707

ある種、「自由意志」論の否定の告白なのだろう。

《自由意思と神の恩寵》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html

JRF2015/7/124491

……。

>人間のあいだに不平等があるのは必要である。それはほんとうである。だが、それがいったん認められると、扉は最高の支配に向かってだけでなく、最高の圧制に向かってまで開かれることになる。<(380p.214)

JRF2015/7/121634

《「自由と平等」のレトリック》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/11/post.html
>ここにあるのは「自由」と「平等」の対立ではなく、「自由」と「自由」のトレードオフであり、「平等」を感じさせる枠組の変容である。<

JRF2015/7/126538

努力…結果…平等…昔は私もいろいろこだわりを持っていた。今はそういうところからは離れている…。本人は、落ちるところまで落ちたことを認めざるを得ない。今は両親が生きてるから何とかなってるだけで…。

JRF2015/7/126284

……。

>神の知恵は言う。(…)「今あなたがたは、私があなたがたを形づくったときの状態にはいないのである。私は人間を清く、罪なく、完全に創造した。(…)だが、彼はこれほどまでの栄光を、思い上がりに陥らないでは保つことができなかったのである。(…)その結果、今日では、人間は獣に似たものとなり、私からあんなにまで遠く離れているので、その創造主のおぼろげな光がかろうじて残っているのにすぎないものとなった。(…)<(430p.229-230)

原罪…か。

JRF2015/7/125456

《『創世記』ひろい読み - 知識の実》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/___cfef.html

JRF2015/7/125003

>この一連の部分は、主にカトリックにおいてはアウグスティヌスの時代から、人が生のときからアダムとイブの罪を性殖行為によって受け継ぐという解釈が与えらていた。これを「原罪」といい、その許しを与えられるのはペテロの正統な後継たるカトリックであるとする。

一部のプロテスタントが「原罪」解釈を否定するのはそのあたりの事情があるかもしれないが、あまりそういうこととは無関係なギリシャ正教も性行為を極度に悪とみなす「原罪」解釈はとらないようである。

これらの宗派であえて「原罪」という言葉を使うときは、イブの逸脱とアダムの無責任を指摘しても、罪が「遺伝」するとは考えない。

JRF2015/7/128597

「原罪」が性行為によって「遺伝」するというのには違和感はあるが、霊的再生(産)を動物的行為に頼らねばならないところに、ある種の罪…というか「いましめ」があって、イエスが処女懐胎によって産まれたことを祝福し、その死と復活によってそれが「克服」された…という考え方は、生殖技術の発展により赤ん坊を産む機械まで視野に入りつつある現代には意義深いものがあるように思う。もしかすると、「原罪」というか「いましめ」は克服「された」のではなく、今、克服(?)「されつつある」過程にあるのかもしれない。

JRF2015/7/124365

そういう宗教的考えが背景にあったわけではないけど、発達した生殖技術と外宇宙への発展を結びつけようとする私の小説『エアロダイバー』の構想(参:[cocolog:82616563])は、そういう部分の危惧をストーリーに編み込んで肉付けしていけばいいんだろうか…?

JRF2015/7/122388

……。

>人々のあらゆる仕事は、富を得ようとするにある。それなのに、彼らには、その富を正当に所有する資格も、その富をしっかりと所有するだけの力もない。学問についても、快楽についても同様である。われわれは真理をも幸福をも持っていない。<(436の2p.241)

パスカルは自分の持つ富に疑問というか不安を持っていたのではないか。パスカルが得た「真実」も、パスカルは自分のものという自信を持ちえなかったのだろうか。パスカルですらそうだとしたら、私は何も持ち得ないだろう。一時の快楽も虚妄だというのは、独身者にとってはあたり前のことだ。

JRF2015/7/125304

……。

>神のみを愛し、自分だけを憎むべきである。<(476p.253)

>自分のうちにある自愛心を憎まず、また自分をおだてて神にしようとする本能を憎まない人は、全く盲目である。<(492p.259)

自らの「天才」を肯定しつつも否定的に観るというのは、神への愛と自分を憎むことに還元されてしまうのだろうか…。

JRF2015/7/128882

《道を語り解く - 教え説くのではなく》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post.html
>自分には知識も、努力によって身につく能力もないことをときに感じる。私が人に伝えられる価値があることを何か言っているとすれば天賦の才からのものだ。ただし、ここでの「天賦の才」とは一般人とは優れているということをまったく意味しない。ただ時と場所を得て論を継いだだけのことだ。それが善かったとなるならありがたい。<

JRF2015/7/127469

>人間は、おまえはばかだとたびたび言われるとそう思いこみ、またおれはばかだと自分にたびたび言いきかせると、そう思いこむようにできている。なぜなら、人間は一人で自分と内的な会話をするからである。そこでそれをよく調節するのがたいせつである。〈悪い交わりは、良いならわしをそこなう〉われわれはできるだけ沈黙し、われわれが真理であると認めている神とだけ語らなければならない。そうすればわれわれは真理を自分に納得させることができる。<(536p.271)

JRF2015/7/120252

[cocolog:81686700]
>ちなみに私は「オレが悪い。」が口ぐせで、それに「何とかしないと。」を続ける。ただ、最近、それを「悪い」んじゃなくて「ダメ」なんだなと気付いて、「オレはダメだ」と言うようにした。あんまりそれはよくない感じなのかな。<

愛せる神があるというのが大事なことだったんだろうな。統合失調症のおかげで神(みたいなもの)があるとは私は信じているが…。私には、具体的な神を愛せるよう、もっと固定された信仰が必要なんだろうか?

JRF2015/7/122353

……。

>むしろ「神にあわれみがあるからこそ、あらゆる努力をしなければならない」と言うべきである。<(497p.260)

JRF2015/7/129914

出エジプト記 23:19などの「子山羊をその母の乳で煮てはならない。」…は、「かわいそうだから」ではなくそう命令されてるからダメなのだと finalvent 氏が強調されることがある。でも、ヨナ記4章で、とうごまの木をヨナが惜しんだようにニネベを神が惜しむという部分は、詳しくわからないことでも解釈し従う努力が実を結ぶと見えることがあること、そういう「あわれみ」があることを示すのではないか?

自由意志の擁護に傾斜しすぎかもしれない、偶像崇拝に近くなってるかもしれない、が…。

JRF2015/7/124646

……。

>もし神が一度でも現われたとしたら、神は常に存在する。そこで神は存在するけれども、人は神を知るに値しないと結論するほかはない。<(559p.285)

私の場合は、ちょっとグノーシスっぽいけど、神と見られることを受け容れた唯一神ではない天使的存在というのがあるのを認めたんだよね。統合失調症のとき。そういう存在とも「和解」していくべきだ…というのがあった。そうじゃないとイエス以前の人々は誰も救われないとなりかねない、それは間違いだと念[おも]ったから。

JRF2015/7/122183

……。

>福音書のうちに引用された預言は、君たちを信じさせるためにしるされていると思うのか。いな、それは君たちを信仰から遠ざけるためだ。<(568p.288)

予定説的厳しさ。

JRF2015/7/125851

>選ばれた人々を照らすには十分な光があり、彼らをへりくだらせるには十分な暗さがある。見捨てられた人々を盲目にするには十分な暗さがあり、彼らを罪に定め、言いのがれさせないためには十分な光がある。<(578p.292)

JRF2015/7/126470

>神がみずからを隠そうとされたこと。もし一つの宗教しかなかったならば、神はそのうちに明らかにお現われになるであろう。もしわれわれの宗教にしか殉教者がなかったならば、同様であろう。神はこのように隠れているので、神が隠れていることを説かない宗教は、すべて真ではない。またその理由を明らかにしない宗教も、すべて有益ではない。<(585p.294-295)

JRF2015/7/121524

……。

>中国史。証人がそのために死をも辞しないような歴史のみを、私は信じる。<(593p.297)

注によると、1658年、マルティニが『中国史』をラテン語で出版したが、それによると、ノアの洪水よりも600年前に中国の最初の王朝が存在していたことになっていたらしい。

JRF2015/7/122448

……。

>マホメット、読書を禁じる。<(599p.299)

注には、モンテーニュが「マホメットは、私の聞いたところでは、その信者たちに学問を禁じた」と書いたとある。

これは、コーランを翻訳してはならないという部分に相当するのだろうか?それとも、神学者解級を認めないことに相当するのだろうか?もしくは、こう読める場所が実際あるということか?

JRF2015/7/125093

……。

>病める魂の状態をあらわす福音書の表徴は、病めるからだである。だが、一つのからだだけでは、どんなに病んでいてもそれをあらわすのに十分でないので、多くのからだが必要であった。<(658p.326)

ちょっと [cocolog:82677859] の>皇帝の健康のために、医療のために、「実験動物」的に人口を増やすといった中国神話があった<というのに似ているね。神話も上のような意味だったのかな?まだ思い出せない。

JRF2015/7/125117

……。

>しかし、キリスト者は、聖餐をすら彼らの目ざしている栄光の表徴と解する。<(670p.332)

聖餐のパンやぶどう酒が何であるかを言わず、聖餐自体が何かをシンボライズしている…という微妙な言い回しだね。

《聖餐論、聖体論争》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_15.html

JRF2015/7/120600

……。

>イエス・キリストは、財産もなく、学問の対外的な業績もなく、その清浄な秩序のなかにおられる。彼は発明も授けず、支配もしなかった。だが、謙虚で忍耐づよく清浄で、神に対しては清く、悪魔に対しては恐るべく、少しの罪もなかった。ああ、知恵を見る心情の目を持つ人々にとって、彼はいかに偉大な壮麗とすばらしい豪華とをもって来臨されたことであろう。<(p.793p.395-396)

パスカル自身との対比。反キリスト性を気にしてるのかな?私なんかも本名がちょっと反キリストっぽくて気にしたりすることがある。そういうのと似たような感情があったのかな?

JRF2015/7/122762

……。

>だから、一つの奇跡を見たらすぐ、それを承認するか、それとも反対の並みはずれたしるしを見いだすか、どちらかでなければならない。<(835p.412)

パスカルは「奇跡」を肯定的に見る宗派的立場にあった。統合失調症妄想の「実在性」みたいなものを信じてしまう私はそのあたりシンパシーがある。

JRF2015/7/122027

>そのひとり子が、ところもあろうにこの場所を選び、憂いのさなかにある彼らに奇跡的な慰めを受けさせるために、四方から人々を集わせてくださったのだ。<(839p.413-414)

注によると、パスカルのいたポール・ロワヤルにおいて、「聖荊の奇跡」に引きつづき多くの奇跡が起こり、病人たちがそこへ巡礼したことを、この文は意味しているそうだ。

JRF2015/7/121267

……。

……。

『パンセ』は断片集で、箴言集的。頭に引っかかる言葉もあれば、わけがわからず読み過ぎてしまう言葉も多く、「読みやすい」とは言えない。ただ、こういう形態で読み継がれる本というのも少ないので、『パンセ』に引っかかる人(つまづく人)も出てくるのかな…と思った。

JRF2015/7/123242

パスカルの没年齢をもう私は越してしまってるんだよね。40歳前で死ねたのが少し羨ましいというか、そういう人生もありかな…と今の私は思う。私、なんで生きてるんだろう?とかね、やっぱり考えちゃうんですよ。[cocolog:81757811] では私は「死んだほうがマシ」とか書いちゃってるし。

なんかほんとに生きてて申し訳ないです。両親・世間に、ありがとうございます。

JRF2015/7/128661

……。

……。

追記。

《任天堂、岩田社長が死去 胆管腫瘍のため 「後任は未定」 :日本経済新聞》
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFL13H61_T10C15A7000000/
>任天堂は13日、11日に岩田聡社長(55)が胆管腫瘍のため死去したと発表した。<

JRF2015/7/132560

ファミコン版「手旗信号」([cocolog:79241255])のころ、ガンのニュースを聴いてストレスをかけちゃったかな…と心配になった。それが死去したとは。

…早過ぎる死。なんで私みたいなのが生きていて…と思う。

かといって、生体臓器移殖してもらうことに個人的に賛成する気もないヘタレな私。まぁ、私は、55才までにはまだ間がある。その間に何も起こらないとも限らないが。

JRF2015/7/131781

« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

トラックバック


トラックバックのポリシー

他サイトなどからこの記事に自薦された関連記事(トラックバック)の一覧です。

» cocolog:83466473 from JRF のひとこと

角川書店『プラトン全集 1』を読んだ。対話文ではよくわからず解説を読んでやっと意味を飲みこめるということが多かった。『パイドン』の魂の実在の証明には興味を持ったが、他は流し読んだ程度。... 続きを読む

受信: 2015-09-28 14:36:14 (JST)

» cocolog:84912421 from JRF のひとこと

『旧約聖書』を『旧約聖書略解』とともに読んでいる。モーセ五書(トーラー)まで読んだ。 続きを読む

受信: 2016-06-29 15:53:04 (JST)