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cocolog:83479882

J. L. ボルヘス『伝奇集』を読んだ。難しいな。現代の幻想の小説[ノベル]が、これに続くものなのだとしたら、私に書けるのは「ライトノベル」でしかなく、またそれを超えるものであるべきではないと思った。 (JRF 2049)

JRF 2015年9月27日 (日)

『伝奇集』(J. L. ボルヘス 著, 鼓 直 訳, 岩波文庫, 1993年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003279212
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101125972

JRF2015/9/277767

あるブロガーが「絶賛」していたので、買って読んでみた。

《2015-09-19 魔術的リアリズムの効用 - もちもちおねいまんとわたしの夜》
http://d.hatena.ne.jp/motimoti3/20150919#p1
>ボルヘスの「伝奇集」に出会ってもちもちおねいまんは、この人生においてこの作者の本を読むことは目的の一つだったのだなと最初に理解した。<

JRF2015/9/276147

……。

「幻想」を語りながらリアリティを保つのは、A. ビアスのホラー小説集『死の診断』を思い起こさせた。この本は私が小説を語ることの原点。

『死の診断 - ビアス怪奇短篇集』(A. ビアス 著, 高畠 文夫 訳, 角川文庫, 1979年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4042364020

JRF2015/9/270436

実はそれはこの本を読む前に、上のブロガーの評からそうでないかと感じていた。同時にラテン・アメリカと聴いて直感したのが私と同じく頭文字が「JRF」になる J. レッドフィールドによる『聖なる予言』(とか『第十の予言』とか)の方向。ボルヘスに比べると、宗教性まで持つに致っているが、「簡単」にはなっている。

JRF2015/9/271616

『聖なる予言』(ジェームズ・レッドフィールド 著, 山川 紘矢 & 山川 亜希子 訳, 角川文庫ソフィア, 1996年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4042693016
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101334394

JRF2015/9/278589

読んでいて奇妙な反[アンチ]論理性、脈落のなさのようなもの、つまり「前衛性」というのは、『ゴルバチョフ機関』を思い出させた。

『ゴルバチョフ機関』(石黒 由 著, 新風社文庫, 2003年)
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102031814
http://www.amazon.co.jp/dp/B00Y6ZHN1Y (Kindle版)

JRF2015/9/274603

↑は、むしろ著者のブログから先に知った。どこかでその奇妙な言説を知ってブログを訪ね、不遜にも心配になってブログを講読し出したのだった。

《ish☆数えます》
http://cyborg.relove.org/

JRF2015/9/277778

……。

以上、この本から受けた衝撃を、手持ちの「カード」で分散してみた。

最初のほうを読んで、この本の小説は、「幻想小説」ということになるのだろうが、独得の濃厚な香りがあり、一本一本が奇想に満ちている。が、小説家が小説家に言及するようなメタな構造が目まぐるしく、難しいという印象を持った。

JRF2015/9/278361

それが、小説「八岐の園」以降「工匠集」に入ってからずっと、結末はわかりやすいものになったように感じた。途中、迷路のような展開もあったりするが、小説「死とコンパス」の結末ではユーモアさえ感じた。

JRF2015/9/270633

しかし、その「途中」に隠れた「嘘・隠喩・比喩」は私には読み取れなくなった。わかりやすいところをわからせてもらったような状態なのだろう。例えば、「工匠集」の「プロローグ」には小説「南部」は>それを小説的な事件の直截な物語として読むことができ、さらにべつの読み方もできる<と書いてあるが、解説の示唆があるまで「べつの読み方」についてはちっとも気付かなかった。

JRF2015/9/275118

私は、この小説集を読むのに失敗したのだと思う。

JRF2015/9/271298

……。

あと、本論には関係ないが、小説「隠れた奇跡」は手塚治虫の短編マンガ「処刑は3時におわった」と着想や舞台がそっくりだった。ただ、「与えられた時間」を手塚は恐怖としてとらえたのに対し、ボルヘスは神の恵みとして描いた。ボルヘスの扱いのほうが個人的には好み。

JRF2015/9/274271

……。

小説「ハーバート・クエインの作品の検討」で次のような文がある。

>ヨーロッパ人で、と彼は語った、潜在的に、あるいは現実に、作家でない者はいない。<(p.100)

現代ではヨーロッパ人に限らず多くの国の人々がそうだろう。

JRF2015/9/271456

読み書きができれば「小説」ぐらいは誰にでも書ける。…もちろん、小説家は自分の技巧を信じて、「誰にでも」を否定し、実際、人に読まれることを考えれば否定するのが真実であるにしても、Kindle などでも発表できる現代、小説家を「気取る」ことは誰にもできるだろう。

JRF2015/9/271280

私は、[cocolog:70928320] で…

>今の私は、あのころのように小説を書けない。もうこの先、原稿用紙何十枚何百枚とかいう小説の表現形式で完結したものを書くことはあるまい。<

…と書いた。でも、ゲームなどの「工夫」をした創作はもうできないと今は感じていて、普通に小説を書いてみてもいいのではないかという気に気が変わっている。ボルヘスみたいな複雑な構造を持った「現代らしい」本格(短編)小説はかけないだろうけど、「ライトノベル」というと語弊があるが、軽い「物語」なら書けるかもしれない。

JRF2015/9/271499

……。

蔵書で主に中古で買って読んでなかったものを読むのをここ一年以上続けてきたわけだが、それも次の一冊で一区切りにするつもりでいる。そのあとゲームをするというのは、まだしんどい。工夫のないプログラムをするか、小説を書くかしようと考えている。

おそらくプログラムをしてから小説を書くという段取りになると思うが、気力が持つか自信がない。

JRF2015/9/273014

ゲームに戻るかもしれない。ずっと前に読んだ本などを、もう一度、読み返すことになるかもしれない。

先のことはわからない。が、何かはしないと社会に対する申し訳なさが募るばかりだから、何かはしようとすると思う。それが社会に対して果たすべき役割として、どれほど不十分なものだとしても。

JRF2015/9/278969

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