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cocolog:83381239

ニコリスキー『ロシア教会史』を読んだ。「唯物論的歴史観」というやつなのか、宗教を「裏面」から暴きたてていて戦慄した。凄まじい。普通の教理史を予想して読みはじめて、頬をひっぱたかれた気分。 (JRF 3394)

JRF 2015年9月15日 (火)

『ロシア教会史』(N. M. ニコリスキー 著, 宮本 延治 訳, 1960年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4770407009

原著は、1930年に初版、大幅に手が入った第二版が1931年に出て、その(著者によらない)改訂版が1983年に出て、その1983年版を底本としているようだ。

1931年版からは、「キリスト教以前の信仰と礼拝」の章と、「合同の使命と解体」の項が削られ、その他様々な省略があるらしい。

JRF2015/9/151525

……。

私は、ロシアの歴史そのものに詳しくないので、その点でも、一面的な物の観方をすることになった。

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……。

>年代記は物語る。988年あるいは989年に、キエフにキリスト教信仰の《光が輝き始めた。》 -- 異教の神々のまやかしであることを確信したキエフ公ウラジーミルは改宗することを決意し、たび重なる調査、交渉、はては遠征まで行なった後、ビザンチンの正教が真実の信仰であると認めるようになった。<(p.7)

実際には、その100年も前から始まっていたキリスト教化の過程の仕上げがそのとき行なわれたらしい。

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その後、追善供養などのため修道院を中心に「封建的」に肥大化していく。イコンに対する「偶像崇拝」も特徴的であった。最初はギリシアから府主教・総主教を招いていたのが徐々にロシアからの叙任がなされるようになり、独自色を強めていく。

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>農民たちとの関係で、修道僧たちが貴族と同じような支配者の立場にあり、貴族の方がより欲深く残酷であったという点にのみ、わずかな違いがあったとすれば、修道制度がその骨肉を分け合った貴族との関係では、修道院は彼らのための一定の宗教的機能を果たしていたと言ってよい。<(p.62)

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>1588年、ボロゴドゥスキーの主教が語ったように、修道僧自身、彼らが修道院に入ったのは、救済を求めるためにではなく、《平穏のうちにパンにありつく》ためであったことを認めている。<(p.62)

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修道僧ヨシフ・ボロッツキー…

>ヨシフの意見によれば、聡明さで万物を創造するのが神の特性であり、《狡猾さで創造する》のは神の特性ではないかのごとき主張をする者は異端者のみである。<(p.64)

JRF2015/9/155177

……。

ノブロゴロドで異端が起こる。

>ノブゴロドが陥落したとき、反キリストが勝ち誇る。やがてこの世の終りがやってくる。この期待は教会の文書の中にその根拠を見出した。パスハーリヤは1492年までしか計算されていなかった。1492年は世界創造から七千年目に当たるにちがいない。<

…それが「終末の日」だと…。2012年のマヤ暦の騒動(参:[cocolog:69768386])に似た根拠だね。以降、終末論が盛んになっては消えていく。

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……。

1580年になると、修道院の膨張が禁じられ、17世紀を通じて、封建領主の時代から専制国家へのロシアの転身と共に、教会が「力」を奪われていくようになる。

象徴的な年として「1666年」あたりの「ニコンの改革」により、分派が発生する。ニコンはツァーリと並ぶ権力を教会にもたらそうとしたが失敗した。しかし、礼拝などを新しく刷新する改革はツァーリにも受け容れられた。しかし、その新しい礼拝に対する反発が「古儀式派」という分派を生じさせた。

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そこには、商業資本の発達という地盤が見てとれるようだ。古儀式派は郊外商工地区=ポサードを中心に広まった。1718年、ペテルブルグにおいてドクーキンの秘密の手紙が発見された。そこにはこう書かれている。

>《異教を信ずる他国者が、息子のように暖かい大盤振舞いを受け、多くの利益を与えられている。一方、哀れなキリスト教徒は、借金のために笞打たれ、税金を抱えて飢えに苦しみ、すべての人々が一文なしになってしまった。(…)》<(p.156)

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彼に代表されるポサードは、>自分たちをこのような国家とつながる教会や、世俗の拘束から自由なるものとみなしたのである。<(p.157)

もちろん、激しい弾圧もあったが、古儀式派は20世紀に致るまで生き延びることとなる。

農民の間では終末論的な期待(?)からか、焼身自殺が流行したりもした。

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……。

「正教」の教会は、17世紀末から1861年までの農奴制の時代、ロシアの国家の宗務院[ソノード]という一省庁として生き残ることになる。教会の世襲財産は次第に士族階級の手に渡り、修道院は国家の管轄下の一機関とされていった。

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聖職者には、懺悔などから知った内容で国益に反するものは密告することまで命じられた(p.230)。

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>軍役に適する者は、自分の代わりに雇人を差し出すものは残し、それ以外はすべて軍役に徴収することが命令された。(…)雇人差し出しについての条件は、教区の司祭たちには高くついて手が出なかった。<(p.236)

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>村の司祭たちの平穏な暮しは、全国的に地主に依存していた。そしてこの故に、村の教会人たちは全体として我慢強くすべての侮辱に耐え、常に《農民たちに地主への服従を説教しながら》誠実にみずからの務めを行なったのである。こうすることによって、士族国家における教会の奉仕者としてのみずからの基本的な機能を果たしていったのであった。<(p.238)

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教理面においては…、

>これらの戒律の説明に際し、教理問答の作者、有名なモスクワ府主教フィラレートは、臆面もなく教理問等のもつ政治的な意味をさらけ出している。すべての最高権を父と母とに帰する第五戒律の拡張解釈、あるいは戦争における殺人や、死刑を禁止の対象から除く第六戒律の解釈を想起するだけで充分であろう。<(p.253)

JRF2015/9/157140

……。

一方、商業資本を地盤とする古儀式派は、まず、神父を必要とするかどうかで神父容認派=ポポーフシチナと、その必要性を認めない神父否認派=ベスポポーフシチナに分かれた。

ポポーフシチナは、神父という「余計な」経済的負担を受け容れたところからもわかるように比較的恵まれた層を含んでいた。税は余計にかかったようだが、有利な点もなかったわけではないようだ。

JRF2015/9/151639

>1771年末、ついに古儀式派商人のモスコワ・グループが合法的に形成され、やがて古儀式派のブルジョア的共同体の自然発生的な中心として活動の先頭に躍り出た。(…)ロゴージュの共同体の手中には、十九世紀初めまでに、すでに幾百万もの資本が蓄積され、その力でかつての中心 -- ケルジェニェッツ、スタロドゥービエ、イルギス -- をおのれの前にひざまずかせ、古儀式派教会の発展を、みずからの意思どおりに推進していくのである。<(p.268-269)

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ポポーフシチナは、新しい神父の獲得に悩むことがしばしばあった。当初は、ニコンの改革で離れた司祭たちを受け容れた。その後、宗務院教会の「落ちこぼれ」を再塗油して聖叙することとなった(p.273-274)。

JRF2015/9/150826

……。

>もともとはほとんどが農民的なものであったベスポポーフシチナの共同体もすべてが同じ運命をたどったわけではないことが明らかになっている。あるものは社会的分化の結果、ブルジョア的な組識に転化していった。他のものは純粋に農民的な分派としてとどまった。<(p.279-280)

JRF2015/9/153110

>最初の分離派の居住地の一つがパモーリエのブイグの共同体であった<。(p.280)

>ブイグの人々は激しい努力の末、やっとのことで生存のための可能性を確保し、半修道院的、半共産主義的な組織を作り上げた。<(p.280)

この共産主義的な組織から出発して、資本主義的な組織に移っていくというのがよく見られるパターンとなるようである。

JRF2015/9/155589

ツァーリへの祈祷が問題となってさらなる分派が発生したりしたが、何といっても、ベスポポーフシチナでは結婚のあり方が問題となったようだ。

中には終末への期待から結婚をしないことを教義とする「ピュリタン」的な派も現われたが…

>ブレオブランジェンスカヤの人々は、《合法的な結婚は行なわないが、女性なしではとても過ごせない尊敬すべき節約者》というのが現実であった。<(p.295)

JRF2015/9/150711

>特にブレオブランジェンスカヤの人々の、破目を外したふしだらさを憤慨した人々の非難に対し、彼らは次のように答えている。なるほど放縦は罪ではある。しかし《罪を犯さなければ -- 懺悔はないし、懺悔がなければ -- 救済はありえない》。<(p.296)

JRF2015/9/152718

……。

>人頭税のために再び審査制度(1744年)、身分証明書制度が導入された。国家に対する義務としての、そしてまた地主の手中にある刑罰のための手段としての兵役義務は、絶えず農夫たちの頭上に突き付けられている、ダモクレスの剣であった。<(p.302)

>本質的に、神秘的で不可思議な自然と向かい合うことを余儀なくされていた農民たちは、宗教的な思考から逃れるすべを知らなかった。堪えがたい生活条件からの単なる逃避さえ、彼らはそれを宗教的な形に具象化して、それを生活の宗教的な原理に昇華した。<(p.303)

…それが逃亡派=ペグーヌイとなる。

JRF2015/9/158260

>救いを願う人はすべて、反キリストの烙印、すなわち身分証明書を受け取るべきでなく《町も村も家も》持つべきではない。このような人々は永遠にこの世から逃れて巡礼を続け、世俗世界とは無縁の、社会とのあらゆる関係を絶った巡礼者でなければならない。<(p.305)

一方、ペグーヌイをかくまう家も存在して、それもペグーヌイの一派ということになっている。この《停泊所》はペグーヌイをときに労働力として使って、資本家階級の階段を上っていくとのこと…。

JRF2015/9/152329

……。

終末論はまったく「新興宗教」のような派も生み出した。フルイスト派=フルイストゥイである。フルイストゥイに属する分派は、教祖自らが「キリスト」と名乗る宗教である。おそらくドストエフスキーの小説(参:[cocolog:80215217])では「鞭身派」とされていたのがそうであろう。

JRF2015/9/159969

>フルイストゥーフシチナの実際行動は、次のように結論づけられる。すなわち、すべてによく耐えよ。そうして、人が天国での法悦に先駆けて、この世での喜びを得ることができる狂宴においてのみ休息を求めよ。<(p.320)

狂宴では踊りや、自分への笞打ちがあり、それが宗教的なエクスタシーに導いた(p.322)。

JRF2015/9/150614

フルイストゥイでも結婚は否定されたが…

>もう一つ特別な儀式があった。これはいわゆる《キリストの愛の儀式》と呼ばれるもので、まれにしか行なわれず、すべての《船》が行ったものでもなかたが、《すべての若者を汚し、乙女を堕落》させたヤリーラの夜の変形であることは疑いない。<(p.325-326)

(《船》はフルイストゥイの活動単位。)

これが修道尼にも広がっていたという。その「噂」だけでも、人気のほどがうかがわれる?

JRF2015/9/158370

フルイストゥイの一つフェドセーエフツィでうまく立ち廻ったのがグチコフであった。

JRF2015/9/155331

>その方法というのが、貧しい小商人たち、特に女小商人たちに、フェドセーエフツィの信仰を受け入れるという条件つきで無料で住居を提供することであった。(…)ブレオブラジェンスコエの家にある部屋や《僧房》が実際に無料でなかったことは言うまでもない。 -- それは、主人の紐造り女や、型置き女に変えられた《無料の》下宿女たちの、激しい労働によって支払われたのであった。それだけではなく、これらの《百姓女たち》は、フェドセーエフツィの結婚拒否のもとで、抱え主たちのための将来の《白い奴隷》の供給源になったのである。<(p.393)

JRF2015/9/153328

……。

フルイストゥイの中から、有名な去勢派=スコープチェストボが現れた。結婚の否定から自分の性器を去勢までしてしまう派である。1770年から1771年の間に、去勢を最初に実行したのがアンドレイ・イワノフ・ブローヒンで、続いて、未来のスコープチェストボの神、コンドラーチー・セリヴァーノフ(トゥリフォーノフ、トゥロフィーモフ)は、アンドレイによって去勢を受けた。

フルイストゥイが専ら経済的利益のみの「搾取」に使われたのに対し、去勢派は政治的な野心を持ち(p.408)、より早く資本的蓄積を実現した(p.404)。

JRF2015/9/151236

>ペテルブルグと地方の《船》との間には、政治的経済的な情報の交換が定期的に行なわれ、すべてのスコープツィの組織を、ペテルブルグからの指揮によって動く巨大な高利貸的取引所的な団体に変えたのであった。<(p.407)

JRF2015/9/157777

去勢派の教義の中では、割礼が去勢に擬された。

>神は戒律者アブラハムを選び、彼に割礼することすなわち去勢することを命じられた。(…)使徒たち、最初のキリスト教徒たちはすべて去勢された人々であったが、やがて《美しさ》が初期のキリスト教徒に打ち克ち、去勢者の数は急速に減少していった。<(p.409)

JRF2015/9/156374

……。

また、《霊的キリスト教徒》と自らを呼んだドッホボール派の人々=ドッホボールツイやモロカン派の人々=モロカーネも現われた。

この二つの分派は、発生の実情を見れば、最初は、その社会的な基盤からも組織面からいっても、フルイストーフシチナの変種であったことがわかる(p.340)。

JRF2015/9/158964

ドッホボールツイは自らを「アベルの息子達」に擬した。なるほどアベルにも子供はいたかもしれない。それは私には盲点だった。(参↓)

《「ヨブ記」を読む》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html
>例えば、創世記 04:20-04:22 のカインの末裔の話、トバル・カインが鍛冶師になったなどという職業集団説明説話は、ノアの洪水の前に出てくるが、洪水で皆滅んだとすると説明の意味がなくなる。何かのトリックがあるとも読める。<

JRF2015/9/155524

ドッホボールツイは、モーローチヌイエ・バドゥイで共産主義的な生活をはじめた。しかし、やがて、指導者カプースチンのもとに資本を集めるようになり、>共同体の組織は最も厚願な搾取の道具となり果てたのであった。<(p.352)

JRF2015/9/158289

モロカーネも、同じく共産主義的な生活ではじめ、搾取に終った。(p.355-357)

JRF2015/9/155209

なお、ドッホボールツイは細々と生き残り、トルストイが『復活』(参:[cocolog:83307893])を書くキッカケを作ることになる。

JRF2015/9/151877

>宗教の旗を掲げた搾取との闘いの組織は、初期社会主義者たちの世俗的な試みよりも、なお惨めな結末を迎えたのであった。同様な宗教組織はすべて、一つの例外もなく一部構成員のための蓄財の道具と化し、特に急速なテンポで支配と搾取の組織への道をたどっていった。幻想の上には、自由も、平等も、働く人民大衆の物質的な幸福も、けっして打ち立てることはできないのである。<(p.359)

JRF2015/9/151782

……。

1861年の農奴解放は社会に大きな動揺をもたらした。

そこで大きな力を持ったのが、シュトゥンダというドイツ系を示す語を付した分派、明らかな外国資本のバプチスト、アドベンチストの分派だった。作者に言わせれば、バプティストなどは、>プロレタリアートを階級闘争からそらし、ストライキ破りの要員をつくり出すことに努力したのであった。<(p.452)

JRF2015/9/150162

国教会では、農奴解放後の社会システムによって、聖職者の世襲的な身分が危機にさらされることになった(p.468)。1867年の法律によって、世襲制を認めない旨が付告された。しかし、古くからの制度がすぐ活動を止めるということはなく、教区を息子や娘に移譲するという習慣は長い間続いたのであった(p.469)。

JRF2015/9/154144

学校制度もしばしば改められ…

>神学教育の偽善に満ちたあり方が、彼らが家庭生活から得た印象をさらに強化し、何人かの誠実にして真実を恐れぬ正教徒たちは、神学校が無神論の温床になることを確信して、恐怖をさえ感じたのであった。教会擁護者たちにとってさらに恐るべきことは、神学校出身の無神論者が生活上の必要から司祭や輔祭の道を選び、自分たちのなすべきことに対して、なんらの信も置かぬ[ruby:鳥占い師:アブグールィ]となりつつあるという現状であった。<(p.472)

JRF2015/9/154042

そして、1905年には、宗教に対する寛容が宣言された。《狂信的なもの》(去勢派とフルイストゥイ)以外の分派組織は認められた。(ただし、キリスト教から非キリスト教への転向の禁止はそのまま有効であり、また信ずる宗教はなにも持たないことも許されなかった。)(p.489)

JRF2015/9/159704

そこにいたるまでに、教会人たちは地主のそしてツァーリのために説教し、教化することを求められ、農民たちとの間に亀裂を生じていた。さらに、労働運動弾圧のため(!)、司祭たちは有名な「警察社会主義」の運動に積極的に参加した(p.479)。

JRF2015/9/150334

>教会は武力闘争のための特別の《社会的》戦闘組織、いわゆる《ロシア国民同盟》に編入せられ、1906年 - 1908年には、その関係の密接さは《神父》と《同盟員》とが同義語とされたほどであった。<(p.480)

JRF2015/9/152889

>武力と大虐殺とを手段とした公然たる政治闘争の分野とまったく同様に、教会的宗教的な施策も全然効果を挙げ得ないことが明らかになった。ロシアの社会の中で、教会制度存続のために最も危険だと見なされた人々の中では、宗教的麻酔も全然効果を発揮しなかった。<(p.483)

JRF2015/9/151661

>神々の黄昏が始まった。永遠の夜が来るのも遠くないであろう。<(p.496)

JRF2015/9/151924

……。

本が出たのは1930年だが、叙述は、1917年の「十月大革命」をもってほぼ終っている。実質的には1905年付近が関連の最後の記述と見えるものが多い。新しいところでは1927年に古儀式派がまだ動いていたことが記されているぐらいである。

JRF2015/9/151091

《ロシア正教会の歴史 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

ソビエトが崩壊し、今では正教会は教勢を伸ばしているという。Wikipedia の記事ではじめて知ることもあれば、Wikipedia には書いてないようなこともこの本にはもちろん書かれていた。

JRF2015/9/151940

この本は、無神論的に神を論じる書ということになろうかと思うが、「現実」というかリアルはこの視点のほうが着実に捉えているのだろう。自分の甘さみたいなものと向き合うことができたように思う。

JRF2015/9/157625

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