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cocolog:83466473

角川書店『プラトン全集 1』を読んだ。対話文ではよくわからず解説を読んでやっと意味を飲みこめるということが多かった。『パイドン』の魂の実在の証明には興味を持ったが、他は流し読んだ程度。 (JRF 5252)

JRF 2015年9月25日 (金)

『プラトン全集 1』(プラトン 著, 山本 光雄 編集, 角川書店, 1973年)
http://www.amazon.co.jp//dp/B000J9BJN4

「エウテュプロン」「ソクラテスの弁明」「クリトン」「パイドン」「クラテュロス」所収。「エウテュプロン」から「パイドン」までは、ソクラテスの裁判から死までの時系列に沿っている。

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……。

……。

「エウテュプロン」は、敬虔について。解説には、エウテュプロンとソクラテスが…

>“敬虔の本質”の定義を求めて問答するのである。しかし結局両者の一致した定義は得られないままに問答は終わることになる。だが、そのために両者の問答が無意義であったということにはならない。(…)答え手は初め「敬虔とは何であるか」を知っていると自信たっぷりうぬぼれている。だがそのうぬぼれはソクラテスの鋭い細かな、そして時にはユーモアを交えた問いによって、突きくずされていく。つまり、自分の無知を思い知らされていくわけである。<(p.457)

…とある。

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……。

……。

「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスが裁判にかけられ有罪が決まり、死刑が宣告される様を描く。

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ソクラテスは、その途中、デルポイの巫女より、ソクラテス>より以上の知者は誰もいない<(p.53)という神託を授かったことを述べ、>「この人こそ私以上の知者です、しかしあなたは私がそうだとおっしゃった」と明らかにしてやるつもりで<(p.54)、政治家、詩人、手工業者のところに行ったが、ある種の慢心が彼らにはあって「自分が知らないということを知っていない」という点で、自分より無知であることを知ったのだという。

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そういうソクラテスは、>青年たちを腐敗させる廉[かど]で、かつまた国の信仰する神々ではなくて、別の新奇なダイモニアなるものを信仰する廉で罪人である<(p.59)とされたのであった。

ソクラテスは青年たちを腐敗させる由については、自分の周りの者を腐敗させようと態[わざ]とする者はいないといったふうにして却ける。ダイモニアについては、神々も信仰しており、そこからの「聖霊」的なものとしてダイモン的なものを信じているだけだと述べる。

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僅差でソクラテスは有罪となる。それまでの詩人たちによる長きにわたる中傷が、反駁の効果を少なからしめたからかどうかはわからない。

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さらに、罰金刑か死刑かでも決を取ったのだが、死刑に定められる。そして、普通裁判にかけられた者が泣きごとを言ったり懇願をしたりといったことをするのに、それをしなかったソクラテスは言う。

>死することだけなら、人は武器も投げ捨て、追手の情にすがることによって免れることはできるだろう(…)。死をのがれるための手段はたくさんある。ともかく諸君、このことは、つまり死を免れることはむずかしいことじゃないのではなかろうか、むしろ邪悪を免れることのほうがはるかにいっそうむずかしいのではなかろうか。というのは邪悪は死より足が速いからである。<(p.87)

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…と言い、「邪悪」が裁判を支配したことを示唆して、ソクラテスは牢につながれることになる。

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……。

……。

「クリトン」は、特殊事情によって、刑の執行が伸び、その間に「脱獄」もそんなに金銭的に高くつくことなくできたのに、ソクラテスは脱獄しなかったことをクリトンがなじる…という展開になる。

「悪法も法なり」という言葉そのものは出てこないが、そのような旨をソクラテスは述べて、彼が脱獄するほうが悪徳になるという。

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……。

……。

「パイドン」より先に「クラテュロス」について。クラテュロスがヘルモゲネスをからかっているところに、ソクラテスが通りかかって話をするという展開。

クラテュロスは、名の正しさというのは本来的に存するものであって、皆が正しい名を持っているが、ヘルモゲネス、君だけはそうじゃない、とからかう。

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クラテュロスは、>名であるかぎりはりっぱにはつけられていない、などと主張するのは、私には納得のゆかぬことなんだけれどね。<(p.367)と言うように、要は、立派になるよう名付けは行われるが、財産の分与も受けられないヘルモゲネスの場合は、そこからして疑わしい。ヘルモゲネスのもとになった神ヘルメスの交渉の才も見られないではないか(p.310 で自身が納得しているように)。…というのが、結局のところクラテュロスの言いたかったことなのだと思う。

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ヘルモゲネスは、それに対して、>いかなる名が個々のいかなるものに与えられているのであっても、それはもともと本性的なものでは決してなく、むしろ、そう呼び慣れており、現にそう呼んでいる人たちの取り決めとか慣習によるからである<と考えるという反論の仕方をする。

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そのヘルモゲネスに対し、ソクラテスは、神々の名や果ては普通名詞まで、言葉の「名の正しさ」つまり語源を、延々と論じることで、「名の正しさ」、もっともらしさというのはあると論じ、その後、クラテュロスに対しては、絵が模倣であるように名もすべてを表すのではなく、解説いわく>名はすべて名である限り、真相を完全に表示しているという建前から、事物の真相を探求するには名のみでこと足りるという形式主義的独断論<、私にいわせれば言霊[ことだま]論、に警告を発する。

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……。

私は、α同値に関心を持っているとしばしば書いてきた。ラムダ計算におけるα同値とは束縛変数名を、(変数名の重なりに注意しながら注意深く)付け替えても、(操作的)意味は変わらないというもの。「名の正しさ」ということで、そことの関連をちょっと思い出した。

でも、私は「名の正しさ」みたいなのがあれば、ご利益があると言いたいとずっと考えてきた。型付きラムダ計算や高階論理の範囲を超えて、超えたシステムにおいて。

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α同値については、この《ひとこと》では、外部からのシステムのフック(介入)に関連させて考えたり([cocolog:81437980])、並列計算のテストのための枠組(ELDE)やデバッグに関連させて考えたり([cocolog:72947619])してきた。

JRF2015/9/254237

……。

あと本文と関係ないが、「名前」に関して前から気になっていたことをこの際だから書いておく。[cocolog:82853495]で…、

>私なんかも本名がちょっと反キリストっぽくて気にしたりすることがある。<

…と書いた。もうちょっと詳しくそのことについて書いておこう。

JRF2015/9/257475

「反キリスト」的というのは、私は大きな池の近くに住んでいて、そこから「お池の○○さん」といえると思うんだけど、それをラテン語にすると「Pontio Pilato」っぽくなるから。(それは実は[cocolog:81437980]でも示唆していた。)

JRF2015/9/253920

ポンティオ・ピラトが反キリストであるというのは別に言われていることじゃないけど、ミサ曲の Credo でいつもその名が出てきて、恨まれてるのかなぁ…反キリストにふさわしい名の一つなのかなぁ…という意識があった。獣の数字 666 に関しては、それに適合させる方法は、いろいろ方法論があるんだろうけど、そういうのは知らないので、それとは関係ないと思う。

JRF2015/9/252837

……。

……。

「パイドン」はソクラテスの死の直前を描く。その場にふさわしく、魂の実在、あり方が議論の焦点となる。

JRF2015/9/250170

オルペウス教団またはピタゴラス教団の「肉体は魂の牢獄」という説の影響を受けているかのような言説もある…

>われわれがなにかを純粋に知ろうとするならば、肉体から解かれて魂自身で事物そのものを観なくてはならないということだ。<(p.141)

JRF2015/9/251192

…とあるが、後年のプラトンのイデア説を強く示唆して、魂が「転生」の前にイデアのようなものを知っているはずだと説く。

>われわれがいつも口にしているもの、すなわち美しさや善さやすべてこうした有るもの[有性[ウシア]]が存在しており(…)それらの有性が存在するのと、われわれが生まれる前にも、われわれの魂が存在していたのと、そしてまた、それらが存在しなければ、これらの魂たちも存在しなかったのとは、いずれもその必然さは同じではないのか<(p.166)

JRF2015/9/255117

哲学者は、その学によって、死にもっとも近いところにいるという。だから死を恐れないのだと。

>愛知を、この言葉の真の意味で行なっている者たちは死ぬ稽古をしているのだ、そして、死んでいくということを、人間たちのうちでいちばん、彼らが恐ろしいことと思わないのだ。<(p.144)

JRF2015/9/254855

魂の実在の証明の途中…

>生きることにあずかるものがすべて死ぬとしたら、しかも死んだら、その死んでいるという同じかたちにとどまって生きかえることがないとしたら、結局、すべてのものは死に絶えて、生きているものはなにもいなくなるのが、大きな必然ではないか。<(p.155)

JRF2015/9/257773

…と言い、死んでも魂のようなものが残ると言いたげなのだが、後出しの時代に生きる我々にしてみると、腐敗は菌などの生命を生んでおり、火葬にして灰になってもそれが他の養分となることで「生きる」ことに預れることは知っている。だから、この論から、魂の実在は言えないといっていいと思う。むしろ、人間が人間を産んでいくことにこそ「魂」の継続を見るべきじゃないかと私なんかは思うのだが。

JRF2015/9/255517

昔↓という記事も書いた。一神教的議論が中心だが、ご参考までに。

《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html

JRF2015/9/252572

魂について結論的にソクラテスは…

>神的で、不死で、思惟の対象となり、単一な形相をもち、不壊で、つねに同じようで、自己自身に対して同じ状態にあるものに、魂は最もよく似ているが、これに反し、人間的、可死的で、多くの形相をもち、思惟の対象となることなく、壊れやすく、また自己自身に対してもけっして同じ状態にとどまらないものに、肉体はまた、最もよく似ている<(p.174)

…と述べる。

JRF2015/9/256117

哲学で「清め」られずに「不浄のまま肉体から離れ去る場合」、魂は、獣や鳥のたぐいに入り込む。市民の徳を積んできた魂は、市民的で温順なもの…蜜蜂とか蟻とか、または人間のたぐいに入り込む。…という。(p.177-178)

JRF2015/9/253667

……。

一端、結論めいたものが見えたあと、シムミアスとケペスが議論を蒸し返す。

一方がいわく、魂は、完成した竪琴が良い音を奏でる、その調和のようなものではないかというもの。それについては、肉体の調和を支配するものがむしろ魂なのだとソクラテスは返す。(p.204)

JRF2015/9/257979

もう一方がいわく、魂は、何度も転生してきて今度の転生が最後というふうに「不滅」ではないのではないか、というもの。それに対する反駁は、訳注が詳しい。

JRF2015/9/254041

>魂はもともと生をそれの本質としてもっている。ちょうど熱が本質として病気をもち、火が本質として熱さをもっているように(大前提)。

さて、死は生の反対である。健康が病気の、冷が暖の反対であるように(小前提)。

それゆえ、魂はそのうちに死を受け入れない。生きていない魂は、病気でない熱病とか、熱くない火とかと同様に、矛盾である。したがって、魂は不死である(結論第一)。

JRF2015/9/254210

(…)

ところで、不健康や不冷はその反対物によって滅ぼされる。熱が下がり(無くなる)、火が消えるといった具合に。しかし、不死は、定義によれば、不滅である(…)。したがって、魂は、同じ定義によって、不壊である(結論第二)。
<(p.416)

JRF2015/9/253215

でも、私は、火は何事もないところで消えていくように、ここでいう「不死」も何事もなく消えていくようなこともありうるのではないかと感じる。魂が不滅かどうかは知らないが、ここは証明として不十分なように思う。

JRF2015/9/254368

……。

この論証のあと、ソクラテスは、地球の姿を語る。>大地が天空のまん中に球形をなして浮かんでいる<(p.233) と今から見てもほぼ正しく述べているところはわずかで、地下を霊的世界と見なすような不可思議な議論をする。

>ソクラテスはあの世における模様や魂の旅などを物語(ミュートス)と見なした。魂の不滅は論証できるが、あの世のことは論証できないと考えた。<(p.405)

そして、特にそれについては反論もなく、すみやかに、死にいたる毒をあおぐことになる。

JRF2015/9/253114

……。

その毒薬の効果は、最初、飲んですぐは歩けるぐらいだが、徐々に足が動かなくなり、「冷たさ」が心臓のところまで来たら死ぬという。こういう薬で確実に死ねるなら、私も欲しいな…魅力的だな…とか考えてみたり…。

JRF2015/9/254092

……。

ソクラテスの「辞世の句」としては「悪法も法なり」がそうだと私なんかは覚えていたんだけど、プラトンのこの著作を読むかぎりでは、そのものズバリの表現は出て来ない。毒をあおいだあと最後に言うのは…、

JRF2015/9/258947

>「ねぇ、クリトン、われわれはアスクレピオス様に雄鶏の借りがある。とにかく、返してください、忘れずに」<(p.249)

…となっている。訳注によると、ここは…

JRF2015/9/256300

>生前願いごとをしていたのを思い出して、雄鶏の奉献がその返済になると解されてもいるが、むしろロバンが解したように、この雄鶏に借りがあるということは、肉体との結合(病)から、今、死んで解放され、癒されるのだから、それを医の神アスクレピオスに感謝して、クリトンに、雄鶏を忘れることなく捧げてくれと頼んだとしたほうが、象徴的で興趣深い。<(p.419)

…とのこと。

JRF2015/9/257093

しかし、「悪法も法なり」を「パイドン」の中に無理やり見出そうとすればなくはなくて、

>こっそり逃げ出すよりか、国が命ずるどんな処罰でも受けるほうが、より正しくもあり、より善くもあるとわしが思ったから、そうならなかったまでだ。<(p.211)

…という部分を挙げることはできる。ただ、まったく印象的な部分ではないのだが。

JRF2015/9/253888

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