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トルストイ『復活』を読んだ。主人公の「突飛な言動」に感情移入しかねた私は「不純」な人間なんだろうな…と思った。 (JRF 3249)

JRF 2015年9月 6日 (日)

『復活 (上・下)』(トルストイ 著, 原 久一郎 訳, 新潮文庫, 1952年)
http://www.amazon.co.jp/dp/B000JBCIX2

新潮文庫からは新しい訳が出ていてそれが市場に出回っているよう。

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……。

最初、一度読んだことがあるような(おそらく)錯覚があったのは、以前読んだドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(参:[cocolog:80215217])にロシアの裁判の描写があったからだと思う。が、実際少しだけ試し読みして読むのをやめたことがあったのかもしれない。よく覚えていない。

以下、「ネタバレ」含む。

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……。

主人公のネフリュードフ公爵は、陪審員として参加した裁判で偶然、被告として過去自分が処女を奪って「捨てた」カチューシャに向き合う。生まれはよくないながらも比較的恵まれた境遇だったカチューシャはそれで妊娠したためその境遇を追われ、子を生んだあと(生まれた子はすぐ死に)、売春婦にまで身をやつしていた。売春の客が毒殺され、渡された薬を睡眠薬だと思って飲ませたカチューシャも罪に問われたという次第だった。

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私には、その裁判で有罪になった者はどれも根拠薄弱だと思ったけれど、とにかく作者の書き振りでは、カチューシャは利用されただけで無実に違いなく、にもかかわらず、徒刑(いわゆるシベリア送り)に処せられることになった。

ネフリュードフは、カチューシャの無実を信じるとともに自らが責任を負うところの陪審院裁判に瑕疵があったことを認める。そして、彼は、かつて若い頃の自分の罪が彼女を売春婦という境遇に落としたこと、さらにその上で有罪となるのを防げなかったことに大きなショックを受ける。

JRF2015/9/69626

ネフリュードフは、カチューシャの件について上告するとともに、その徒刑がくつがえらないときは、それまでの婚約関係などすべてを捨ててシベリアまで着いていき、カチューシャと結婚しても責任を取ろうと決意するのだった。

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それとともに、ネフリュードフは、若い頃の主張であった土地私有制への反感から、自分の領地で実験的に私有制をゆるめることに手をつけていくのだった。土地私有制への疑問は、スペンサアの『社会静学』またはヘンリイ・ジョージの著作に影響を受けたとのこと。

そして、上告についてペテルブルク等の貴族仲間の間を立ち回るうちに、ネフリュードフは裁判制度というものが役人や地主階級を守るため…「社会の現状の保持」するためのものに過ぎないと考えるようになる。

また、カチューシャの監獄を訪れ、また、そのシベリアへの護送に随行するうちに、ネフリュードフは、監獄制度についても、強く矛盾を感じていくのだった。

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……。

長く書いちゃったが、以上が、あらすじになると思う。特に、新版への Amazon 評のなどにもあるように、カチューシャとネフリュードフの「恋」以上に、社会矛盾へのトルストイの考えの表白というところに本作の特徴があるのだと思う。ロシア革命前夜で、それを担っていく階層の代表者ふうの人々との会話もある。

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ネフリュードフの「恋」に関しては、私はミッスィとの関係を続けなかったのが最初意外だった。カチューシャへの結婚はいくらなんでも突飛すぎ、ミッスィとの関係がどこかで活きてくるだろうと思った、むしろそれがネフリュードフの「救い」になるだろうと思ったが、そうならなかった。

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先に書いちゃうと「ラスト」は私には納得しかねるものだった。ネフリュードフは、カチューシャは、「許された」のだろうか? それともネフリュードフもカチューシャもトルストイの書き振りも我々読者が「許す」ことが求められているのだろうか。それはむしろ読者の「堕落」ではないかと思うのだが。

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……。

以下細々した点について。

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>泥棒や人殺しや間諜や売春婦などは、自己の職業を邪悪なものと認識し、これを恥じているに違いない。 -- こう考えられるのが普通だが、事実は全然反対で、運命のいたずらから、もしくは各自の罪過から、特定の境遇へ突き落とされた人々は、その境遇がたといどのように正しからぬ境遇であっても、必ず自分達のその境遇を善良な、尊敬に値するものと思わせてくれるような、人生観をあみ出すものである。<(上巻, p.267)

私は、今の境遇を是認することがまだできていない。でも、それについてここに書かれているように「不感症」になっていくんだろうか?

JRF2015/9/63652

……。

土地公有の問題については、その後のソビエトの歴史を知る我々には問題があるのは「明らか」と言うべきなのだろうが、ただ、私が指摘できるのは、地代で公共物をまかなうというとき、公共物には警察や軍隊や知識階級の機能も含まれるということ、輸出入が特に日本では見過ごせないほど大きいということぐらい。この辺は、モリスの『ユートピアだより』([cocolog:83220604])に関しても述べた「夜警国家」ですら不十分だという以上の認識は私にはない。

ネフリュードフは、土地の分与については、(カチューシャのこととあわせて)義兄に「狂人じみている」といったふうにまで言われる(下巻, p.173)。

JRF2015/9/60286

……。

監獄制度がひどいという主張の一方で、ネフリュードフは、>この社会には厳密に言って、合理的な刑罰の方法は二つしかないということなんです。-- 往古採用されていた方法ですね。つまり、肉体的にピシリピシリと加えていく刑罰と死刑がそれなんですが<(下巻, p.186)…と述べる。それまでのヒューマニスト的なネフリュードフ像に対してわりと驚きの意見である。

JRF2015/9/67731

今の日本では、監獄制度はかなりマシなものになっていると思う。モリスが述べていたような犯罪者を病院送りとして扱うのに近いのかもしれないが。でも、今なら、ネフリュードフも、ピシリピシリとやるよりは、監獄のほうがマシだと思うのではないか。

ただ、ホリエモンが「不正経理」で獄につながれたのに、他の「不正経理」は裁かれないといったように、監獄を政策的に使っているのではないかという疑いは今もあるけれど。

JRF2015/9/61951

私は札幌と大阪で統合失調症による入院を経験しているが、後の大阪での入院には、土地柄なのか札幌にはなかった「緊張感」みたいなものがあったように思う。それは「人権侵害」的なものでなかったのはもちろんだが、刑務所の場合は、それ以上の「緊張感」が必要なのは今もその通りのはず。監獄には、こねたパンが発酵するように、犯罪者がより犯罪に傾斜して再犯を犯しやすくなる機能みたいなものは今もあるのかもしれないと、この本を読んでちょっと思った。

JRF2015/9/61716

……。

ネフリュードフの友人の検事次長セレーニンが、かつて欺瞞に満ちていると考えている(おそらくトルストイもそう考えている)正教を是認するに致ったのは次のような論理だった。

>人間は個々の理性は真理を認識し得ない、真理は人々の結合体にのみ啓示される、これを認識する唯一の手段は啓示である、そして啓示は教会によって保持されている、等々々と言ったようなあらゆる月並みな詭弁を自家薬籠中のものとした。<(下巻, p.112)

これ、私が「教会」という組織の必要性と信じるところに近い。これ、詭弁ととられるのか…。

JRF2015/9/64443

……。

この本の最後に出てくる聖書引用、マタイ 6:33 だと思うが…

>汝等まず神の国とその真実を求めよ、さらば爾余の凡ての物は汝等に付加さるべし。<(下巻, p.404)

おそらく、これは「信じよ。さらば救われん。」に相当する部分だと思う。今、「信じよ。さらば救われん。」をググると「求めよ、さらば与えられん」(マタイ 7:7)が出てくるし、「信じる者は救われる」をググるとマルコ 16:16 などが出てくるけど、それらはむしろこの部分のほうがあってると思う。

JRF2015/9/60244

この本を読んでる途中、「信じて正直に生きれば、まるで用意されていたかのように、自[おの]ずと、必要なものは自分に与えられるものだ」…という意味の言葉があったと想像されて、それがなんだったかとググったりしていた。そして、この本を読み終るときにこの言葉に出会って、これが、それかな…と思った。

まぁ、聖書の言葉だったかもよく覚えていないので、他にそういう言葉があるかもしれないが、その辺はおいおい知っていけばいいかな…。

JRF2015/9/61620

……。

ネフリュードフは献身的だが突飛で、客観的に見て、それが疑いや反感を生んだとしても周りが悪だったとは言えない。周りが悪でないのに悪が招来されていることについては、本書のテーマの一つでもあったが、ネフリュードフの実践的愛が、それを少しでも柔らげる方向に機能していたのだとすれば、未来は期待できるものに変わったと言えるのかもしれない。ネフリュードフの行動には違和感を「不純」な私は感じるけれども、意味はあったようにも思う。

この物語は虚構でしかないが、現実に多くの愛の実践があって、時代が動いていたのだろうな…と感じた。

JRF2015/9/60368

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