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cocolog:83575979

『カトリック教会のカテキズム』の第3編「キリストと一致して生きる」と第4編「キリスト教の祈り」を読んだ。 (JRF 8866)

JRF 2015年10月 8日 (木)

『カトリック教会のカテキズム』(日本カトリック司教協議会 訳・監修, カトリック中央協議会, 2002年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4877501010
http://7net.omni7.jp/detail/1101911672

「第1編 信仰宣言」と「第2編 キリスト教の神秘を祝う」は、前回([cocolog:83541430])に読んだ。

相変わらず遅々とした進みだが読み切った。

JRF2015/10/83802

……。

……。

国家と教会との関係について。

JRF2015/10/81652

……。

>どのような政治体制であっても、共同善に寄与するものであれば合法的です。<(1922, p.570)

>社会化にはまた、危険も伴います。国家の過大な干渉が、個人の自由と主導性を妨げることもあります。教会は、補助性の原理と呼ばれる教えを打ち出しました。この原理に従えば、「上位の共同体は下位の共同体からその役割を奪い、その内的生活に干渉すべきではなく、むしろたえず共通善の観点から、必要なときにはこれらを支え、これらの相互の活動を調整するために援助すべきです」。<(1883, p.563)

JRF2015/10/80251

……。

>よい結果を得させるために悪を行うことはゆるされません。<(1756, p.533)

これは、前回の神義論「神はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げな」かったというのと比べて、どうなのだろう?

JRF2015/10/86407

[cocolog:83220604] で「悪から善をひきだす能力といったものの徴候」すなわち「競争」などにおいて「失敗」をあえて許すことの必要性みたいなのを私も認めているけど、悪知恵みたいなものは、悪とは区別するということなんだろうか? 「敵」にとってはそれは悪でしかないことというのはあると思う。

JRF2015/10/87398

>(…)福音の精神に基づく救済は敵そのものに対する憎しみとは相いれるものではありませんが、敵が行った悪い行為に対する憎しみとは相いれないわけではありません。<(1933, p.572)

罪を憎んで、人を憎まず…か。悪とは思っていなかったこと、むしろ正義と思ったことを「罪」と認める段階がある…「勝者」にはあるかなぁ…[google:真福八端]を思うね。

JRF2015/10/80820

後に悪と裁かれると知っても「正義」を行う人はいるだろう。それも許されないのかな。「ゆるし」を渇望するのはそういう人だろうに。

JRF2015/10/84089

……。

今起こっている戦争を私は念頭に置いて…

>神の恵みに助けられなければ、人間は「悪に屈する憶病さと、悪と闘っていると錯覚しているだけで実際は事態を悪化させているだけの暴力との間にある、狭い道を見いだすこと」ができません。<(1889, p.564)

JRF2015/10/85083

これができているか疑う。ただ、『紛争と難民 緒方貞子の回想』を読んだとき([cocolog:81186087])に考えたことからすれば、必死に「狭い道」を見いだそうとしている方々も多くいるのだと思う。私は軍そのものすら否定してしまいがちだが、軍がなければ平和がないというのも一面の「現実」だろう。(私にできること…か。)

JRF2015/10/87921

反抗・革命など武器の使用が許される場合についても言及がある。

>次の条件がそろわない限り、政府の抑圧に対する抵抗行為のために武器を用いるのはゆるされません。

(1) 基本的人権が間違いなく、強く、永続的に侵害を受けている場合。

(2) 最後の手段であること。

(3) 現状よりも大きな害を起こさないこと。

(4) 成功するという希望には根拠があること。

(5) 武力に訴える以外にはよい解決法が良識的に見つからないこと。

<(2243, p.659)

JRF2015/10/86629

…穏当だが、現実的なのかは難しいところ。「最後の手段」は抵抗の力を削[そ]がれた上でのことを意味するだけかもしれない。何がしか直接的・間接的に外の(国際的)力を借りてという場合は、時期の考慮がより大事なことはありうる。殉教を見てきたカトリックだが、今は巨大なカトリックゆえに抵抗手段がいろいろ考え出せるという面もあると思う。

JRF2015/10/85884

ただ、原爆・水爆のある宇宙時代の現代、かつ、国軍が強過ぎる現代において、(5) の良識的解決法で (1) の基本的人権の間違いをただすしか本来できないはずで、それ以外の武力行使は、「テロ」でしかなく、(4) の成功の基準がかなり歪んだもの…つまり (1) の基本的人権に反するものでしかないのではないかと疑う。そういう意味では、上の基準は、現代においては、武力行使を伴う抵抗が「不可能」なものだということを間接的に認めているという点で、正しいのかもしれない。

JRF2015/10/81690

でも、中東・アフリカ情勢等を見ると、「なぜか」、そうとばかりも言えないのが悲しいところ。「空爆」のニュースを聴いても、何がどうして起きているのか私にはわからない。私は軍事オンチだ。

JRF2015/10/85373

>軍事力による正当防衛を行使できるための厳密な条件というものが、真剣に検討されなければなりません。<(2309, p.674)

これは、「あらゆる戦争は自衛を口実にしてはじめられた」とよく言われるけど、その違和感というのは、自衛戦争にいたるまでの政府の姿勢に問題があることにある。不断の努力で平和を目指すことが何よりも大切だという点を条件闘争が隠してしまうのではないかと疑う。

JRF2015/10/83765

最近、話題の集団的自衛権も、国連を使った枠組を有効に機能させることができないとされることに違和感がある。国連の指揮下に無条件に国民の命を預けれるほど国連は信用できないという面もあるのかもしれないが、安保理とも独立に「海上保安庁」的なレベルで紛争を防ぐものとかは作れないのかと思う。

JRF2015/10/80766

……。

カトリックは「信教の自由」を宗教の差別なくまず認める。

>「基本的人権に関するすべての差別は(…)性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づくものであろうと、神の意図に反するものであり、克服し、排除しなければなりません。」<(1935, p.537)

JRF2015/10/88974

>「国民の特殊な事情を考慮して、国の法的制度において、特定の宗教団体に特別の地位が認められることがあるとしても、信教の自由の権利は、すべての市民と宗教団体とに認められ、かつ尊重されなければなりません」。<(2107, p.624)

>信教の自由の権利は、誤謬を信じてよいとする道徳的許可でも、誤謬を選ぶ権利でもありません。それは国民的自由に関する人間の自然権です。(…)<(2108, p.625)

JRF2015/10/85526

おそらく「邪教」を念頭においてであろう。…

>信教の自由の権利には、その本性上限界がありえます。<(2109, p.625)

…とはあるが、この姿勢は立派だ。

JRF2015/10/82626

……。

「伝統」があるがゆえに死刑は容認するようだ。

>教会の伝統的な教えによれば、違反者の身元や責任が完全に確認された場合、それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば、死刑に科すことも排除されていません。

(…)

今日では、(…)死刑執行が絶対に必要とされる事例は、「皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました」。
<(2267, p.664)

JRF2015/10/82110

……。

……。

十戒の第一のおきてについて。

JRF2015/10/87273

……。

>十戒には、自然法を優れた表現を用いて示すものが含まれています。それをわたしたちは、神の啓示と人間理性によって知るのです。<(2080, p.616)

十戒が自然法を「含む」というのはわかるが、そのすべてが自然法だと見なされるのは困る。ただ、どの部分が自然法かという見方は、おそらく私とカトリック教会では違いがあるだろう。

JRF2015/10/89434

この本では、(伝統に沿って、)十戒を、マタイ 22:37 の「あなたの神である主を愛しなさい」の部分に相当する最初の三つの掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」の部分に相当する七つの掟とに便宜的に大きく分けて説明している。

JRF2015/10/87776

……。

>聖パウロは、第一の義務は信仰による従順だと語っています。また彼は、すべての倫理的逸脱の原因は「神についての無知」ということで説明できるだろうと推論しています。<(2087, p.619)

無神論的なところから国家や戦争の必要性を導き出し、そこから人は信仰を求めることを導くと、ちょっと罰当たりな言い方だが、「神は一柱で十分」というのは真理=合理的なのかもしれない。多神教みたいなものも「神についての無知」で説明されるのかもしれない。いやな言い方だが。

JRF2015/10/86665

ここで、ちょっと関連は薄いが↓を思い出した。そこでは「合理的」では不十分な何かにぶちあたるまで言及しているが、その先は語っていない。

《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html

JRF2015/10/85791

……。

……。

ゲームなどでの偶像崇拝について。

JRF2015/10/84273

……。

十戒の第一のおきては、出エジプト記では次のようになっている。

>あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない<(出エジプト 20:3-5)

JRF2015/10/83155

「地の下の水の中」というものが、当時「想像されていたもの」と違うことが現在はわかっていて、そこに不可思議なものが住んでいるという考え方は今はない。「再創造」によってかは知らないが、そこは当時と変わっており、この部分は「象徴的」に解釈すべき余地を持ちはじめているとすべきだと思う。

そもそもが他の人が知ることもできないようなことを勝手に想像し、決めつけてそれを信仰するように強制することを禁じたと読むべきだと私は思う。

JRF2015/10/89544

「天」でも「地」でも「地の下」でもない空想のことだとわかっていること、または、コンピュータゲームの中のことでしかないとわかっていることならば、仮に空想の中・ゲームの中で他の神々を拝んでいようと、それは夜の夢の中でそうしたという以上のことはなく、何の罪もない。…と私は信じたい。

JRF2015/10/81383

ただし…、

>これらのむなしい偶像は、「偶像を造り、それにより頼む者は、偶像と同じようになる」(詩編 115:4-5,8) といわれているように、人をむなしい者にします。<(2112, p.625-626)

…という部分については、今の大部分のゲーマーの現状については充てはまっていると言わざるを得ない。私なんかはこの部分、何とか変えて行きたいと思っている。そのあたりはモンスターハンター4をやっているときに強く思った。(参:[cocolog:78274410] )

JRF2015/10/81305

カトリックについてはそもそも「偶像」だらけだと見える。

>ニケアで開催された第7回の公会議(787年)は、聖画像破壊者に対抗して、人となられたみことばの神秘に基づき、聖画像の崇敬を正当化しました。その対象となる聖画像には、キリストのものだけではなく、神の御母マリア、天使、およびすべての聖人たちのものも含まれていました。神の御子は人となることによって、聖画像に新しい「意義」を与えられたのです。<(2131, p.630)

天上の天使もいいのかな? その辺もしかしたら細かな決まりがあるのかも。

JRF2015/10/83301

……。

……。

私の絶望について。

JRF2015/10/87241

……。

>第一のおきては、絶望やうぬぼれなどの希望に反する罪も禁じています。

絶望とは、人間が自分の救いや、それを得るための助け、あるいは自分の罪のゆるしを神からいただけると期待するのをやめてしまうことです。それは、ご自分の約束に忠実であられる神のいつくしみや正義、また、あわれみに背く罪となります。
<(2091, p.620)

JRF2015/10/82990

私は「自殺防止」のため、↓の記事を Google AdWords に登録している。しかし、最近、特に 2014年4月の統合失調症の入院以来、自信を失っているような状況で、私自身が「死にたい」と考えるに致っている。この点は許しを乞いたい。

JRF2015/10/85558

《救いの無力さ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2007/05/post_1.html
>絶望は過ぎる。そうでなければ死ぬだけだ - 知り合いの死を神に問う<

「知り合いの死を神に問う」というのは AdWords に登録したときに使った「宣伝文句」的補足。

JRF2015/10/84154

>教会は自殺した人々のためにも祈ります。<(2283, p.668)

JRF2015/10/84682

……。

私は「死ぬ権利」に言及したことがある(参:[cocolog:82413218])。そこでは

>自分の「この先」と日本経済の未来を考えたら、例えば介護保険料を払うようなトシになったあと、精神に著しい発作的な障害があり、保助者もいなくなる等、将来の自分に相当すれば、自殺のための薬を処方して欲しいな…と夢見ることもある。<

…と書いた。

JRF2015/10/84008

>障害者や病人、あるいは瀕死者などのいのちに終止符を打たせる直接的な安楽死は、動機や手段のいかんを問わず、倫理的に容認できません。

したがって、苦しみを除去するために死に至らせる行為、あるいは何もしないで放置しておくことは、(…)重大な殺人行為となります。
<(2277, p.667)

ただし…

>負担が重かったり(…)するような医療措置の停止は、ゆるされる場合があります。これは「過度の延命治療」を拒絶することです。それは、死なせることを意図するものではなく、死を防ぐことはできないということを認めることです。(…)<(2278, p.667)

JRF2015/10/83308

「死ぬ権利」の問題は↓でよく取り上げられていて、私はちょくちょく読む。

《海やアシュリーのいる風景 - Yahoo!ブログ》
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2

JRF2015/10/87577

また…

>激しい精神的混乱や、試練や苦しみ、あるいは拷問などについての極度の恐れなどは、自殺の責めを軽減することがありえます。<(2282, p.668)

私はここに救いを求めることになるのかな…。

JRF2015/10/86438

……。

生きる側を選んだ場合の悩みもある。

>(…)労働は義務なのです。聖パウロも、「働きたくない者は、食べてはならない」(二テサロニケ 3:10) といっています。(…)<(2427, p.701)

ここは最近も書いてきた私の悩み(例えば[cocolog:83438906])。「働かざる者食うべからず」。

私はお金をもらって働くという通常の「労働」をしていない。今、こうやって本の抜き書きをしたり、他の人が使ってくれないプログラムを作ったり、誰も読んでくれない小説を書いたりすることが、お金をもらえなくても、倫理的に、ここでいう「労働」と認められて欲しいという願いはある。

JRF2015/10/85095

>聖ヨハネ・クリゾストモは、(…)厳しいことばで次のように述べています。「自分の財産を貧しい人々に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人々のものです」。(…)<(2446, p.706)

JRF2015/10/86898

私は親がこれまで割と裕福で、それで40歳を超えた今まで「遊民」みたいなことをしてきた。ベンチャービジネスみたいなものを夢見て、いろいろプログラム等は作ったけど、ビジネスのとば口にも立てず失敗が確定したことを認めざるを得なくなっている。この先、親が年金生活に入ったり、死んだりすれば一気に状況が悪くなり、親が死んだあとも生き残れば、生活保護行きが確定しているようなものだ。

JRF2015/10/85969

私は「貧しい者」だと、今はそうでなくともそうなることが確定した者だと自分自身は思っている。生活は慎ましやかにしているつもりだけど、ゲーム等のオタク活動はするかもしれない。こんな私でも「貧しい者」として、人々からの(国からの)援助を期待してもゆるされるんだろうか…。

JRF2015/10/82176

……。

……。

「誓ってはならない」について。

JRF2015/10/88841

……。

プリーシヴィン『巡礼ロシア』([cocolog:83404967])で、素朴な「約束」「誓い」をするシーンがあった。

>「誓願、すなわち、可能でありよりよい善益について神に対し熟慮の上自由になす約束は、敬神徳によって果たされなければなりません」。(…)<(2102, p.623)

>教会は一定の場合に、十分な理由があれば、誓願や約束を免除することができます。<(2103, p.623)

JRF2015/10/86617

[google:ナジル人]など旧約聖書にも誓願はでてくるが、しかし、新約聖書には次のようにある。

>「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。(…)」<(マタイ 5:33-34)

JRF2015/10/87470

この点、カトリックはどう説明するか。

まず、これを第二のおきて「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト 20:7)に関連させる。その上で…

>教会の伝承は聖パウロの考えに従い、重大で正当な理由のためになされる誓い(たとえば、裁判所で)は、イエスのことばに反するものではないと理解しました。(…)<(2154, p.634)

…と、注で、二コリント 1:23、ガラテヤ 1:20 と、聖パウロが「誓った」例を挙げている。

JRF2015/10/87711

誓うというときは「○○にかけて」誓うもので、「○○」が神ならば神の信仰をいけにえにできると考えるようなもので、その辺に冒涜があるとおそらく考えるのだろう。マタイ 5:36 の「あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」を考えれば、神から与えられた自分の肉体を賭けの対象にするのも神への冒涜だというのだろう。

JRF2015/10/89852

でも、一切の約束はできず、ああなるだろう、こうしたい、こうであった…以外に言えないというのは不便で、自分が責任をもって、やりたい、こう信じたと告げる必要性というのは人と人の間で認めざるを得ないのだと思う。だから、「何か」にかけてではなく、せいぜい自己の(内的)信用にかけてということであれば、自分の今後の行動を「約束」するものについては、それが神に対しての約束であろうと、冒涜はない…ということなのかもしれない。

JRF2015/10/87206

『新約聖書略解』によれば、>逆に言えば、誓いが必要とされるところでは、人は自らの真実をこめた言葉を語っていない可能性がある。<(p.38) というが、>イエスの真意は現実には実行し難く<…と「非現実性」を認めている。

JRF2015/10/87784

……。

……。

信仰による「義化」=「義認」(参:p.587)について。

JRF2015/10/81707

……。

そもそもの「信仰」自体が「恩寵」=「神に与えられた恵み」であるというが…。

>恵みは超自然的なものなので、わたしたちの経験的知識では把握できず、信仰によってしか知ることができません。したがって、自分の感じや働きなどを根拠に、自分は義化されている、あるいは救われているなどと判断することはできないのです。

JRF2015/10/83442

(…)

このような態度について優れた一例を、教会裁判官たちの狡猾な質問に対する聖ジャンヌ・ダルクの回答に見ることができます。「自分が神の恵みのうちにいるかどうかを知っているかと尋問された彼女は、『もし、わたしが恵みのうちにいないなら、神様がわたしを恵みのうちに置いてくださるようにお願いします。もし恵みのうちにいるなら、神様がわたしをその状態に守ってくださるようにお願いします』と答えました」。
<(2005, p.592)

JRF2015/10/86898

「恵み」は予定されたものという予定説の考え方も聖書に根拠がある。

>「(…)神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ 8:28-30)。<(2012, p.595)

JRF2015/10/89609

なお、予定説と義認については、以前に記事を書いている(↓)。

《義認説と予定説》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_4.html

JRF2015/10/82054

列聖を行うカトリックは、恵みがあった「しるし」を公けに認めることになる。カトリックは、「召し出された者」にすべての人を連ねようとする。

>霊的進歩は、つねにキリストとのいっそう親密な一致を目指すものです。(…)すべての人々に無償の恵みが与えられているということを明らかにするために、この神秘的いのちの特別な恵みないし非凡なしるしはただ幾人かの人だけにしか与えられないかもしれませんが、神はすべての人々を、ご自分とのこの親密な一致にお召しになっておられるのです。<(2014, p.595)

JRF2015/10/88064

……。

……。

性・生殖について。

JRF2015/10/86246

……。

カトリックは受胎のときから「人格」「人権」を認める。

>教会は1世紀から、あらゆる妊娠中絶は倫理的に悪いものであるということを宣言してきました。<(2271, p.665)

JRF2015/10/88246

生殖医療による「治療」は認めるが、それが中絶を伴うようなら認められないという。さらに…

>「染色体や遺伝子に影響を与えようとする試みは治療行為ではなく、性の区別や、前もって決められるその他の特徴に基づいて人間を選別して出産することを目指すものであり、人格としての人間の尊厳と完全性とアイデンティティーを脅かすものです」。(2275, p.667)

JRF2015/10/87317

でも、外宇宙を「人類」が目指すというときになったら、ある種の遺伝子操作は不可欠でないかという直観が私にはある。アニメ『ガンダム Gのレコンギスタ』のビーナス・グロゥブの人々の描写にも(参:[cocolog:82116314])と同じ直観があると思う。そういう場合は、宇宙に出たところで「治療」として操作・研究を行うんだろうか。でも、それは 2295, p.671 で禁ずる「人体実験」になると思うのだが。

もちろん、遠い未来の話と今はできるけど…。

JRF2015/10/84305

……。

>定期的禁欲、自己観察に基づいた計画的出産法、ならびに不妊期間の利用などは、客観的倫理的基準にかなったものです。<(2370, p.688)

逆にいうとそれ以外の避妊はダメだというのがカトリックの見解。ピルはおろか、コンドームや外での射精もダメなんだね。厳しいね。

JRF2015/10/88826

体外授精など…

>これらの技術が夫婦間で活用される場合(配偶者間の人工授精や受胎) は有害度は減じるかもしれませんが、倫理的にはやはり容認できるものではありません。<(2377, p.689-690)

…やはり厳しい。

JRF2015/10/84158

>福音書は、不妊は絶対悪ではないと教えています。(…)このような夫婦は、遺棄された子供を養子にしたり、他者への奉仕活動に献身したりすることで、その優しい心を表すことができます。<(2379, p.690)

…というのが、カトリックの立場らしい。

JRF2015/10/81636

……。

恥かしいが自慰について…。

>自淫(自慰)とは、性的快感を得るために性器を故意に刺激することです。「絶えざる伝統の中で、教会の教導職も信者たちの道徳的感情もともに躊躇することなく、自慰が本質的に、また非常に秩序を乱す行為であることを宣言してきました」。(…)<(2352. p.683)

私は「禁欲」をしようと思っているがうまくいってない。ある程度、前の回から日数がたつと、眠れない日が来て、オナニーすると眠れるから、ついやってしまう。俺はダメだなぁ…といつも思う。

JRF2015/10/84001

配偶者がいれば、「妻とするときのために残しておく」みたいな心理も働くと思う。東洋医学の本を読んだりすると、精子をあまり出さないことも健康の秘訣だという。その点、独身者で、禁欲がしにくいのは、自然が行う罰なのかな…と思う。言い訳かな?

JRF2015/10/88183

……。

これは、前回の補足だが、混宗結婚、異宗結婚について…

>(…)信仰に限らず、結婚そのものについての考えの相違、それに宗教的考えの違いが、結婚生活の中で、とくに子供の教育に関して、衝突の原因になります。こうした場合には、宗教的無関心の誘惑が待ち構えています。<(1634, p.494)

「宗教的無関心」は、現代における「原罪」みたいなものなのかな…。

JRF2015/10/87333

カトリックは、離婚は許さないが別居はかろうじて認める。そして、第3編で…

>子供の養育もしくは財産の保護を合法的に保証できる方法として民法上の離婚しか残されていないような場合は、民法上の離婚は、倫理的に容認することができます。<

…と述べるが、基本、再婚などにとても厳しいのは前回書いたとおり。

JRF2015/10/84476

……。

……。

祈りについて。

JRF2015/10/89132

……。

祈りとはおもに御父に向けられるもの(2680, p.778)であっても…

>キリスト教的祈りのしかたには、キリストを通して行う以外のものはありません。共同体の祈りであろうと個人の祈りであろうと、口祷であろうと念祷であろうと、イエスの「名によって」祈らないなら、御父のもとには届かないでしょう。(…)<(2664, p.773)

JRF2015/10/87964

東條真人『タロット大事典』([cocolog:83418869])では、祈りの方向を大事にと言っていて、私はそれに対し、>真心からの祈りなら、自然に唯一神の方向に向いていると考えたらダメなんだろうか<と書いていた。でも、「祈りのテクニック」として、一つに集中すべき「名」が必要ということはあるのかもしれない…とここを読んで思った。

JRF2015/10/84976

……。

祈りには口祷、黙想、念祷という形があるらしい。このうち念祷というのはどうするかはうまく読みとれないのだが「祈りの絶頂」(2714, p.788) らしく、何かすごい祈りであるらしい。

>キリストの神秘にあずからせてくれるものであれば、念祷はキリストの祈りと一つになります。キリストの神秘は教会では感謝の祭儀の中で祝われますが、聖霊は念祷の中で、わたしたちがその神秘を愛の実践という形で表すことができるようにしてくださいます。<(2718, p.789)

JRF2015/10/86961

……。

どう祈るかにはいろいろな形がある…とは認めるようだ。

>「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」(ローマ 8:26) ということを、本当にわたしたちは納得しているでしょうか。(…)御父は、お願いをする前からわたしたちに必要なものをよくご存じですが、わたしたちの側から願ってくるのを待っておられるのです。(…)本当に御父の望みを知ることができるためには、人に自由をもたらす御父の霊に助けられながら祈る必要があります。<(2736, p.794)

JRF2015/10/87302

……。

一般に祈りは戦い(p.790)であるらしく、祈り続けることは難しいものらしいが、それでも祈れという。

>祈りとキリスト教生活とは切り離すことができません。

(…)

「祈りを仕事に仕事を祈りに結びつける人は、たえず祈っています。たえず祈れという教えを実行するには、これ以外に道はないと考えてよいでしょう。
<(2645, p.797)

JRF2015/10/87780

……。

……。

以下、細々としたことについて。

JRF2015/10/88493

……。

前回、教皇の不可謬性に言及した。

第3編では、教会の司牧者たちの教導権には「不謬性のカリスマ」を認める。ゆえに

>(…)信者には、教会の合法的権威が与えた法令と決定とを遵守する義務があります。たとえ生活規律に関する法令であっても、愛をもって素直に従うよう求められます。<(2037, p.599)

JRF2015/10/80141

……。

占いやまじない、降霊術がダメなのは予想できることとして、「お守り」もダメらしい。

>(…)お守りを所持することも、とがめられるべきことです。(…)<(2117, p.627)

そもそも…

>迷信とは(…)たとえば、ある種の正当であったり必要であったりする信心業に、何か魔術的な効果を帰すような場合です。必要な心構えにではなく、祈りのことばや秘跡のしるしなどの単なる外面的な要素に効力があると考えることは迷信です。<(2111, p.625)

強いな…。

JRF2015/10/84000

……。

>教会は、それが身体の復活信仰への疑いを表すものでない限り、火葬をゆるしています。<(2301, p.672)

[cocolog:80375587] で…

>私がクリスチャンになるのがやだな…と思うことの一つに土葬があったんだけど、最近は火葬が多い(?)らしい。<

JRF2015/10/86143

…と述べた。カトリックは火葬も OK なんだね。でも、東方教会はかたくなに反対しているという記事を見た。

《「火葬希望者の葬儀は行わない」 ギリシャ正教会が方針:AFPBB News》
http://www.afpbb.com/articles/-/3030635

JRF2015/10/80521

……。

>とばく(トランプなどによる)やかけごと自体は、正義に反するものではありません。(…)与えた損害が些少で、損害を受けた者もそれを重視しているとは考えられない場合には、重大な罪にはなりません。<(2413, p.698)

意外なことに博奕は OK なんだね。

JRF2015/10/86938

……。

>(…)神は(…)ご自分のみことばのわざであり英知のわざである被造物界の普遍的な言語を使って、ご自分を啓示なさいます。子供にも科学者にも見える宇宙の美と調和や「造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造ったかたを認める」(知恵 13:5) ことができるのです。(…)<(2500, p.718)

JRF2015/10/80537

この点、↓という進化論理解はいいんだろうか…。そこが私のつまずきの石となっているのだが。

[cocolog:81647290]
>[google:5分前創造説]の亜流になるんだけど、進化論が成り立つように見えるように神は創造を行ったのだから、進化論にも意味を見出すべきだという主張の仕方もある。<

JRF2015/10/88348

……。

>(…)イエスはすべての人間、とくに罪びとのために御父のもとで執り成してくださる唯一の仲介者です(一テモテ 2:5-8)。(…)<(2634, p.764)

『聖クルアーン』に関するひとこと([cocolog:83154639])でも書いたけど、とりなしは「預言者」ごと「ウンマ」ごとになされて欲しいという「希望」が私にはうっすらある。でも、カトリックというか聖書は「唯一」の仲介者としてしまうんだね。

JRF2015/10/87832

でも…

>わたしたちは聖人たちがわたちたちや全世界のための執り成しをしてくださるようにと祈ることができるし、またそう祈らなければなりません。<(2683, p.779)

…とあるので、イエスより一個下のレベルでのとりなしならまだ希望できるのかな…。

JRF2015/10/88765

……。

>(…)神の国は、イエスの最後の晩さん以来感謝の祭儀の中でも到来しており、わたしたちのただ中にあります。神の国はまた、キリストが御父にこれをお返しになるときに栄光を帯びて到来するでしょう。<(2816, p.820)

「すでに」と「いまだ」の緊張感がキリスト教では大事と読んだことがある。カトリックは「すでに」神の国は来ていることを、来ている部分を、こうもハッキリ認めているんだね。

JRF2015/10/80510

……。

……。

流し読んだ部分もあるが、読み切った。長かった。

基本は「教理問答」でしかないので、教会の「現実」はまた別に知らねばならないということは脇に置いても、私が神学を通じて知ってるつもりでいて知らなかったことが多く、勉強になった。倫理の一つの基準として参考書にもなりうる本というのが、「外部の者」の感想。…といったところ。

JRF2015/10/81594

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