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cocolog:83541430

『カトリック教会のカテキズム』の「第1編 信仰宣言」と「第2編 キリスト教の神秘を祝う」を読んだ。読むのに時間がかかっている。残り第3編と第4編は次回の《ひとこと》で。 (JRF 9246)

JRF 2015年10月 4日 (日)

『カトリック教会のカテキズム』(日本カトリック司教協議会 訳・監修, カトリック中央協議会, 2002年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4877501010
http://7net.omni7.jp/detail/1101911672

JRF2015/10/46906

「[google:カテキズム]」とは「教理問答」とも訳され、私はそう覚えていたのだが、Wikipedia によると今は少し意味が違って「要理教育」や「教理指導書」と訳すのが適当らしい。

原著は、1992年にフランス語版が出て、その修正案が出されて取り入れられて、1997年にラテン語規範版が出て、その訳になる。

JRF2015/10/44375

……。

私は統合失調症で入院を二度ほど経験しており、一神教特にキリスト教の影響の下、コンピュータゲームの上などのレイヤーで古代の神々が復活しているという妄想を抱いた。それを「多神教的キリスト教」といったふうに表現したりもしている。そのことは主に以前 [cocolog:83347972] でこの《ひとこと》に書いた。

JRF2015/10/42305

私の「多神教的キリスト教」の妄想が、カトリックから見れば基本「異端」で、>黙示録的偽典がせいぜいの位置<で>精神病者の書いた一小説に留まる<としても、私が「事実」だと「奇跡」だと感じた妄想にも何か意味があったと思う。そう信じたい。…というのが私の基本的立場としてある。

JRF2015/10/46628

最初の入院つまり統合失調症の明示的な発症以前から私はキリスト教の特に神学に興味を持っていた(参:↓)。もちろん、日本の宗教、仏教教理などにも関心は持っていたが、どちらかというとキリスト教に惹かれるものがあった。

《IT 革命と私 - 神学の忌避の向こう》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2010/11/post-2.html

JRF2015/10/45980

この本を読んだのも、その興味・関心の延長線上ということになる。一度しっかり「カトリックの主張」というのを知ってみたかった。

JRF2015/10/45664

……。

この本は読むのにすごい時間がかかっている。段落番号がついて一段落一段落分割されているのだが、一回読んだだけで一つの段落がサッと頭に入らず、読み直したりしているため時間がかかっている。

JRF2015/10/42095

私は(今のところ)、カトリック教会、キリスト教会の外の人間なので、基本は第1編を読めば十分かとも思うのだが、他も読んでみようと思っている。だから、抜き書きしたいと思うところも第1編、つまり今回書く分に集中すると思う。が、読んでいてひっかかるところは第2編にもしばしばあったので、残りを読む次回もひょっとすると長く抜き書きするかもしれない。

JRF2015/10/40647

なお、記号を変えたり、注にある参照先を開いて表示したりしていることがある。

JRF2015/10/44034

……。

……。

まず、三位一体の「子である神」に関心を持って読んだ。

JRF2015/10/45802

最近読んだ『聖クルアーン』([cocolog:83154639])では…

>アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産まれになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。<

…とされ、東條真人『タロット大事典』([cocolog:83418869])に載っている「ミトラ讃歌」では…

>讃えあれ、主! (…)あなたは唯一にして、ただ一人、親なく、子なく始めも終わりもないお方!<(p.375)

JRF2015/10/43396

…となっていて、「唯一神」が「子」の位格を持つことについて、多神教的という「疑い」を他の「一神教」は持っている。これが気になった。

JRF2015/10/47732

この本では第1編第2部第2章の信条の第2項の「3 神のひとり子」という節に特に詳しい解説があった。

JRF2015/10/46944

その節までの部分でも、旧約聖書では出エジプト記 4:22 ではイスラエルを「長子である」とし、イエスの復活後ではガラテヤ 4:4-5 で「わたしたちを神の子となさるためでした」やニコリント 6:18 で「わたしたちはあなたがたにとって父となり、あながたがはわたしの息子、娘となる、全能の主はこう仰せられる」と述べているのが挙げられていて、比喩的に、「養子」的に、「神の子」という表現は使われていることがわかる。

JRF2015/10/46369

その節ではさらに次のようにいう…

>神の子という称号は、旧約聖書の中では、天使、選ばれた民、イスラエルの子らと、その王に与えられています。その場合、この称号は、神と特別に親しい関係を持つ人々と神との間に結ばれた養子身分を表しているのです。(…)したがって、イエスをイスラエルのメシアとして、神の子と呼んだ人々は、おそらくそれ以上のことを念頭に置いてはいなかったでしょう。<(441, p.136)

JRF2015/10/42345

>ところが、ペトロがイエスを「生ける神の子キリスト」と公言したとき(参:マタイ 16:16)の事情はこれとは異なります。(…)パウロはダマスコへの途上で起こった回心(…の…)後「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』とイエスのことをのべ伝え」(使徒言行録 9:20)ました。(…)<(442, p.137)

JRF2015/10/45260

>(…)イエスは最高法院で、「では、お前は神の子か」という告発者たちの尋問に、「わたしがそうだとは、あなたたちがいっている」(ルカ 22:70)と答えられます。すでにそれ以前、イエスはご自分を、父を知る「子」、これまでに神がご自分の民に遣わされた「しもべたち」とは異なる者、天使たちにすらまさる者といわれました。ご自分の子としての身分を弟子たちのそれと区別しておられます。(…)<(443, p.136)

JRF2015/10/40848

つまり、養子的ではない子(そして同時に父の位格も持つ神)としてカトリックはイエスを見ている。

>言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。<(ヨハネ 1:14)

JRF2015/10/42140

『聖クルアーン』や「ミトラ讃歌」が「神の子」を否定することによって、逆に、キリスト教(カトリック他)のこの部分が引き立っているとも見える。

JRF2015/10/47624

>(…)3世紀から教会は、イエス・キリストは神の養子ではなく、本性から神の御子であることを明言しなければなりませんでした。最初の公会議であるニケア会議は、325年、その信条の中で、神の御子は「造られずして生まれ、父と同一実体のもの(homousios)」であると公言し(…た…)。<(465, p.142)

JRF2015/10/47884

神でもあり人でもあるという神の御子、そのあり方…

>(…)神の御子のこの真に人間としての知識は、ご自分のペルソナの神的いのちを表していました。(…)何よりも、人となられた神の御子が御父について抱いておられた親密で直接的な知識がそうです。御子はまた、ご自分の人間的知識の中に、人間の心の隠れた思いを見通す神の洞察力が含まれていることを示されました。<(473, p.145)

JRF2015/10/45413

イエス自身が自分を「神」のごとく扱っている部分は、まず、罪をゆるす権威について…

>(…)罪をゆるすことでイスラエルの宗教的指導者たちをジレンマに陥らせました。すなわち、彼らはおののいて「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪をゆるすことができるだろうか」(マルコ 2:7)といい、次の二者択一を迫られたのです。つまり、罪をゆるすイエスについて、人間でありながら神と等しい者のようにふるまうことによって神を冒涜しているというべきか、あるいは彼のいうことが真実であって、彼のうちに神のみ名が現れて現存しているというべきか、のいずれかを選択するように迫られたのです。<(589, p.176-177)

JRF2015/10/49369

そして…、

>「わたしに味方しない者はわたしに敵対する」(マタイ 13:30) といえるほどのイエスの絶対的な要求を正当化できるものは、イエスが神であるから、ということ以外にはありえません。

JRF2015/10/48337

(…)

イエスがご自分を「ヨナにまさるもの、……ソロモンにまさるもの」(マタイ 12:41-42)、あるいは神殿より偉大なものであるといわれるとき、さらには、ご自分についての説明の中でダビデがメシアをダビデ自身の主であると呼んだことを指摘されるとき、また、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ 8:58)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ 10:30) と断言されるときなどについても、同じことがいえます。
<(590, p.177)

JRF2015/10/46825

……。

……。

『聖クルアーン』([cocolog:83154639])でも問題となった「最後の預言者性」はキリスト教でも問題になるようだ。

JRF2015/10/49390

>「したがってキリスト教的経論は、新しい決定的な契約として、ついに過ぎ去ることなく、わたしたちの主イエス・キリストの栄光ある再現以前には、もはやいかなる新しい公的啓示も期待されるべきものではありません」。しかし、たとえ啓示は完結したにしても、明白にし尽くされてはいないのです。(…)<(66, p.28)

JRF2015/10/44107

>洗礼者ヨハネはキリストの直前の先駆者として(…)すべての預言者にまさる最後の預言者であり、(…)イエスの「友」であることを喜んでいます。(…)<(523, p.158)

JRF2015/10/42529

狂って何か啓示みたいなものを受けたと感じる私みたいな者は「新興宗教」を起こす者でしかない…というのは確定的なんだね。

JRF2015/10/48789

ただ、特殊な用例として、「預言者たち」に福音書記者などを含ませることもときにはあるようだ。

>ここで「預言者たち」といわれているのは、旧約時代であれ新約時代であれ、神のことばの告知や聖書の執筆に際して聖霊が霊感を与えたすべての人のことであると、教会は信じ考えています。<(702, p.225)

JRF2015/10/41575

……。

……。

平信徒つまり一般人との関わり、その信仰について。

JRF2015/10/46433

>信徒は、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける」(ルカ 10:16) とキリストが使徒たちにおおせになったことばを想起し、司牧者が多様な形で述べる教えと指針とを素直に受け入れます。<(87, p.32)

平信徒は、聖書を自由に読んで合理的に時には超心理的に何かを考え感じることがあっても、司牧者に従わないといけないんだね。その辺は、今の時代、辛いかな。プロテスタントが出てくるのも当然かなという面はあるね。とはいえ…

JRF2015/10/48538

>啓示された真理がわたしたちの自然の理性にとって真実であり理解できるということが、信じる動機にはなりません。わたしたちが信じるのは、「欺くことも欺かれることもない啓示する神の権威のため」です。(…)<(156, p.50)

信じにくいことを信じるから宗教で、かといってそれが「放縦」に陥らないように教会という権威が必要というのは、まぁ、わかる。

JRF2015/10/41031

>「信じる」とは、教会の行為です。まず、教会の信仰があり、これがわたしたちの信仰を生み、支え、養います。教会は信じる者すべての母です。「教会を母として持たない者は、だれも神を父として持つことはできません」。<(181, p.57)

でも、「司牧者」の人がらというか主張によって教会に近付きにくいこともあるのは事実なんだよね。それは、まぁ、「運命」なのかなぁ…。

>(…)「天の国の秘密」(マタイ 13:11)を悟るには、神の国に入ること、つまり、キリストの弟子となることが必要です。「外」にいる人々(マルコ 4:11)には、すべてがなぞのままです。<(546, p.165)

JRF2015/10/48239

私は外部にいて、きっと↓とか、ちんぷんかんぷんな方向に行ってしまっているのだろうなぁ…。外部にいるからこそ見える…みたいなことは…ない…か。

《『新約聖書』ひろい読み - たとえで説く理由》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/04/post.html

JRF2015/10/43860

一方で、キリスト教が信者以外にも開かれてそうだと読める部分もある。

>教会は使徒たちに続いて、キリストは例外なしにすべての人のために死なれたと教えます。「(キリストは) 過去、現在、未来のすべての人間のために苦しみました」。<(605, p.182)

JRF2015/10/48789

教会の中の人の場合は、もちろん、平信徒なりの意見が求められることもある…。

>キリスト信者は、各人の学識、固有の権限、地位に応じて教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する権利および時として義務を有します。<(907, p.280)

…が、厳しそうだね。

JRF2015/10/44413

……。

……。

上に関連して、エキュメニカル(教会一致促進)運動については、今のカトリックはわりと積極的なように読める。

JRF2015/10/40653

>この一つである教会は、最初からかなりの多様性を表しています。それは神のたまものが多種多様であり、これをいただく人々が多数であることに由来します。さまざまな民族と文化とが神の民の一致の中に集められ、教会の成員の間には、多様なたまもの、任務、境遇、生活様式が見られます。(…)<(814, p.255)

JRF2015/10/45701

プロテスタント個々人への配慮みたいなものはある。

>このような決裂に由来する種々の教団の中で現在生まれる人々、また「キリストの信仰に育てられた人々に、分離の責めを負わせることはできません。カトリック教会は彼らを兄弟に対する尊敬と愛をもって抱擁します。(…)」<(818, p.256)

JRF2015/10/40077

ユダヤ教徒はもちろん、イスラム教徒も無視はしない。

>教会とイスラム教徒の関係。「救いの計画は創造主を認める人々をも包容するものであって、そのような人々のうちには第一に、アブラハムの信仰を保っていると主張し、最後の日に人々を審判される唯一にしてあわれみ深き神を、わたしたちとともに礼拝するイスラム教徒が含まれます」。<(841, p.263)

JRF2015/10/45870

他の諸宗教については人類が共通の起源を持っていることを念頭に…

>教会は他の諸宗教のうちに、「まだ影と像のもとで」求められる、知られざる神、しかし遠く離れてはおられない神の探求があることを認めています。なぜなら、神はすべての人のいのちと息とすべてをお与えになり、万人が救われるのを望んでおられるからです。(…)<(843, p.263)

JRF2015/10/46513

とはいえ「教会の外に救いはない」という見方も残っている。

>「(…)カトリック教会が神によってイエス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなおその教会に入ること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否するとすれば、このような人々は救われることはないでしょう」。<(846, p.264)

つまり、私のようなのはダメで、私がここでカトリックの要理を解説してしまっているのは、偶然読んだ人には「余計なこと」である可能性がある…ということ。

JRF2015/10/49638

>「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を捜し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができます」。<(847, p.265)

JRF2015/10/48979

主張に揺れがあると読むべきなのかな…。「福音ならびに教会を知らない」というのが、その本当のところ、その個人に対する「良心」…を知らない・気付かない(気付かないように「運命」付けられている)ということであれば、私を含め「救われる」可能性を持つ人は増えるんだろうけど…。どうなんだろう?それじゃあ、組織宗教としてやっていけないかな…。

JRF2015/10/41392

他の地域に根を下ろすとき…

>教会は普遍的です。したがって、あらゆる文化の真の富を浄化しながら、それらを一つの教会に取り入れることができるのです。<(1202, p.374)

>「(…)諸文化への順応のためには回心が求められますが、また同時に、必要であれば、カトリック信仰と相いれない先祖伝来の慣習を捨てることも要求されます(…)」。<(1206, p.375)

JRF2015/10/47489

この辺、「野蛮さ」だけが問題になるわけではなさそうなのが、「怖い」ところ。司祭のレベルで先鋭的な人が選ばれる可能性もある。そういう人は「熱意」もある。…というのが私なんかは身構えるところ。やっぱり宗教の違いって大きい。

JRF2015/10/47717

……。

……。

私がカトリックについて知らなかった意外なことについて…。

JRF2015/10/46027

……。

聖母マリアについては「終生の処女」という信仰を持っているのには驚いた。

JRF2015/10/46569

>これに対し、聖書はイエスの兄弟姉妹について語っているではないか、という反対の声が上がります。教会はつねに、このようなくだりはおとめマリアの他の子供を指しているのではない、と受け止めてきました。聖書によれば、「イエスの兄弟」(マタイ 13:55) と呼ばれるヤコブとヨセフは、明らかに「もう一人のマリア」(マタイ 28:1) と呼ばれているキリストの弟子マリアの息子たちです。イエスの兄弟姉妹と呼ばれている人々は、イエスの近親なのです。旧約聖書では、近親はしばしば兄弟か姉妹と呼ばれています。<(500, p.152)

JRF2015/10/43245

この主張については知らなかった。普通に聖書を読んでイエスの母マリアが生んだイエスの兄弟がいると私は思っていた。

マリア信仰にはかなり積極的な様子。

JRF2015/10/47624

……。

「創世記」の創造の一週間について…

>八日目。しかし、わたしたちにとっては新しい一日が加わりました。キリストの復活の日です。七日目で第一の創造が完了します。そして八日目に、新しい創造が開始されるのです。(…)<(349, p.105)

こんなふうにカトリックは考えてたんだね。知らなかった。

JRF2015/10/46172

>「主の日」である日曜日は、キリストの復活の日であるので、エウカリスチアの祭儀を行う主要な日です。主日は典礼集会の日、キリスト者の家族の日、喜びの日、労働を休む日として、とくに優れた日です。主日は「全典礼暦年の基礎であり、中核」なのです。<(1193, p.372)

日曜日を「安息日」と表現することは避けてる印象。ユダヤ教との語彙の一致をはかってるのかな?

JRF2015/10/45045

……。

ローマ教皇の「不可謬性」というのは、一応今もあるみたい。

>「司教団体の頭であるローマ教皇は、その職務の権能により、この不謬性を持つのであって、それは自分の兄弟たちを信仰に固める任を持つすべてのキリスト信者の最高の牧者および師として、信仰と道徳に関する教義を決定的に宣言するときです。……教会に約束された不謬性は、司教団体がペトロの後継者とともにその最高の教職を行使するとき、司教団体の中にも存在します」。(…)<(891, p.276)

JRF2015/10/40754

でも、思ってたほど、ゴチゴチの言い方ではないね。この本の後の部分で、まだ「不可謬性」の主張があるのかな?

JRF2015/10/42703

……。

>(…)「十字架上に眠るキリストのわき腹より、たえなる秘跡である全教会が生じたのです」。エバが眠っていたアダムのわき腹から造られたのと同じように、教会は十字架上で亡くなられたキリストの、やりで貫かれた心臓から生まれました。<(766, p.241)

すごい「神秘」的な類比だね。こんな考え方をするんだね。

JRF2015/10/46768

有名な「悪魔祓い」は、凖秘跡の扱いになるらしい。

>祓魔式の狙いは悪魔を追放し、悪魔の支配から解放することにありますが、これはイエスがご自分の教会にゆだねられた霊的権能によるものです。<(1673, p.508)

JRF2015/10/41173

なお、「信心業」と呼ばれる>聖遺物の崇敬、聖所訪問、巡礼、行列、十字架の道行、宗教舞踏、ロザリオ、メダイ<も「凖秘跡」の扱いになるようだ。

JRF2015/10/47054

さらに意外なところでは、「葬儀」も凖秘跡の扱いになるようだ。そういえば七つの秘跡(後述)に入ってないね…。

JRF2015/10/44528

……。

……。

プロテスタントとの違いについて…。

JRF2015/10/48467

……。

「原罪」については、生殖によって伝わるとはっきり述べる(404, p.118)。

>(…)その罪とは、人が生まれながらに担っている罪、すなわち「霊魂の死」です。信仰に基づくこの確信によって、教会は、自分で罪を犯したことのない幼児にさえ、罪がゆるされるために洗礼を授けます。<(403, p.117)

JRF2015/10/47145

……。

↓で述べたこと。自由意志について。カトリックは予定説にかたよらず、ある程度、自由意志を認める方向であることは知っていた。

《自由意思と神の恩寵》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html

>(…)神は、人間がご自分を愛し、また人間相互が愛し合うために自由意志をお与えになりました。人間に対するこの意図を知って初めて、罪は与えられた自由の濫用であることが理解されてくるのです。<(387, p.113)

JRF2015/10/46961

>ペラギウスは、人間は自由意志の力によって、神の恵みの必要な助けなしに、道徳的によい生活を送ることができると主張しました。(…)逆に、初期のプロテスタント宗教改革者たちは、最初の罪によって人間は根底から堕落し、その自由意志は失われたと教えていました。そして一人ひとりの人間が受け継いだ罪を、克服できない悪への傾き(欲望)と同一視しました。<(406, p.118)

JRF2015/10/40345

……。

プロテスタント(ルター)の主張に万人司祭説というのがあったと思うが、万人が祭司であるというのは、カトリックも認めるところのようだ。

>信仰と洗礼によって神の民に加わる者は、この民の独自の祭司としての召命にあずかります。(…)<(784, p.247)

JRF2015/10/46341

↓は、プロテスタントが分かれるときに、使った部分かな?残ってるんだね。それともエキュメニカルな要請で新しくできたところなのかな?

>(…)「信徒は、奉仕者が不足し教会に認められる場合には、法の規定に従い、朗読奉仕者または祭壇奉仕者ではなくとも、その若干の職務、すなわちことばの奉仕職を果たし、典礼の祈りを司式し、洗礼を授け、聖体を分配する職務を果たすことができます」。<(903, p.279)

JRF2015/10/40317

……。

秘跡はカトリックでは七つ認めている。

>キリストによって制定された新約の秘跡は、洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚の七つです。<(1210, p.379)

Wikipedia によるとプロテスタントは、「洗礼」と「聖餐(聖体)」のみが多いとのこと。

JRF2015/10/42820

>(…)「諸秘跡はそれを授ける人間、あるいはそれを受ける人間の正しさによってではなく、神の力によって成し遂げられる」のです。(…)<(1128, p.354)

これも確か昔に問題となった部分だよね?(参:1584, p.481)

JRF2015/10/48565

……。

カトリック教会は、ミサ曲や聖画像などの芸術への貢献度が高いという印象がある。というか、プロテスタント(の多く)はそこを偶像崇拝として否定してるんじゃなかったっけ?あれ?でも、バッハはプロテスタントのはず。記憶違いかな?

>「全教会の音楽伝統は、他の諸芸術の表現にまさって、はかりしれない価値を持つ宝庫を成しています。(…)」<(1156, p.363)

JRF2015/10/42193

……。

「幼児洗礼」もカトリックと(一部の)プロテスタントの違いの一つ。

>幼児に洗礼を授けるというのは、起源を特定できないほど古い教会の伝統です。すでに2世紀の史料においてはっきりした証明がなされています。(…)<(1252, p.388)

JRF2015/10/46440

だからといって、幼児洗礼がないと「救われない」という言い方はしない。洗礼を受ける前に死んだ求道者なども救いがあり…

>(…)イエスの子供たちへの愛情から見て、わたしたちは洗礼を受けずに死んだ幼児には救いの道があると希望することができます。(…)<(1261, 390)

…微妙な言い回しだけどね。

JRF2015/10/40153

……。

聖体という秘跡においては…

>(…)わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神性とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられます。(…)<(1374, p.418)

これを「象徴的」と解した宗教改革者もいた(参↓)。

《聖餐論、聖体論争》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_15.html

JRF2015/10/44929

東方教会と聖体の典礼(エウカリスチア)を共にすることを勧めもするカトリック教会だが、プロテスタントには厳しい姿勢をとる。

>宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」。この理由で、カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません。(…)<(1400, p.426)

JRF2015/10/45139

……。

「結婚」の秘跡について…

カトリックは離婚できないので有名。

>(…)結婚のきずなは神によって結ばれたものであり、受洗者同士の完成の認証婚は決して解消できません。(…)<(1640, p.495)

JRF2015/10/47436

>少なからぬ国々には、民法上の離婚に頼って、民法上の再婚を行うカトリック信者が数多くいます。(…)離婚した後に民法上の再婚をした者は、客観的には神法に背く状態にあります。したがって、この状態が続く限り、聖体を拝領することができません。(…)ゆるしの秘跡によってゆるしが与えられるのはただ、キリストとの契約と忠実さのしるしである結婚を破ったことを痛悔し、まったくの禁欲生活を送る人々に対してのみです。<(1650, p.498)

JRF2015/10/40398

…厳しいな。せめてゆるしの秘跡はもうちょっと広めに適用すればいいのに。2015年現在も同じ状況なのかな?

JRF2015/10/49751

混宗結婚(プロテスタントとカトリック信者どうしの結婚など)や異宗結婚(カトリック信者と非キリスト者間の結婚)については、積極的とはどうしても読めないが、それに関する記述はある(p.493)。

>多くの国々では、教会一致運動における対話のおかげで、かかわりのあるキリスト教諸派は混宗結婚者のための共同司牧を発足させました。(…)<(1636, p.494)

JRF2015/10/41288

……。

……。

私の神学的関心に引っかかったことについて。

JRF2015/10/41685

……。

「神の存在の証明」に言及するところで次のように書く…。

>世界と人間は、第一原理でも究極原理でもないことを示します。両者は、初めも終りもない存在そのものにあずかっています。ですから、これら多様な「道」によって、人間は、いっさいのものの第一原因、究極目的である一つの実在が存在するということを知ることができます。すべての人は、この実在を「神」と呼んでいます。<(34, p.20)

こういう難しい、哲学(神学)的な言い方もできるのは、カトリックの強みの一つなんだろうね。

JRF2015/10/49080

……。

「天使」っていうのはプロテスタントは認めてるのかな?

多神教的になっちゃうんで、そこを嫌う勢力はあると私なんかは想像しているんだけど。

JRF2015/10/47539

プロテスタントも、旧約聖書にも出てるんで(創世記 22:11 とか)認めてはいるんだろうけど、あの、絵画などで見る羽の生えたような者(?)は信じてないかもしれない。この本では、前面にはあまり出てこないけど、カトリックらしくしっかり認めていて、第1編第2部第1章 信条 第1項の第5節の「1 天使」として項目がある(p.100)。

>(…)教会は、特定の天使たち(聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル、守護の天使) の祝日を祝います。<(335, p.102)

「守護の天使」まで認めているのがカトリックらしいのかな?

JRF2015/10/48262

>(…)教会の教えによれば、サタンは初め、神に造られたよい天使でした。(…)<(391, p.114)

「堕天使」も当然認める…と。

JRF2015/10/43286

……。

「神義論」については、より大きな善のために悪は必要という論をとるようだ。

>(…)聖トマス・アクィナスは次のように答えました。「(…)神はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかったのです。聖パウロはこれを、『罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました』(ローマ 5:20)といっています。(…)」。<(412, p.120)

JRF2015/10/44618

このあたり私が書いたものだと↓か。でも、上のようにカトリックが公式に解釈しているとは知らなかった。

《『新約聖書』ひろい読み - イエスはサタンか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/01/post_4.html

JRF2015/10/43337

……。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(参:[cocolog:80215217])でゾシマ長老の死後の「腐敗」がスキャンダルになったが、キリストご自身については…

>その肉体は「死に支配されたままでおられるということはありえなかった」(使徒言行録 2:24) ので、「神の力がキリストの肉体を腐敗から守った」のです。<(627, p.188)

JRF2015/10/47134

一方、肉体から離れた「魂」のほうを別に考えることができるようで、>死者たちの住まいに下られ<(633, p.190)、>「(…)捕らわれの身であるアダムと、同じく捕らわれの身であるエバを苦しみから解き放つために、神と神の子は進んで行かれるのです。(…)」<(635, p.191) …ということがあったとある。

JRF2015/10/44746

……。

>イエスは、聖霊を「真理の霊」と呼ばれました(参:ヨハネ 16:13)。<(692, p.222)

>「旧約聖書は、御父を明瞭に、御子を漠然と告げ知らせました。新約聖書は御子を明らかにし、聖霊の神性を垣間見せました。(…)」<(684, p.219)

聖霊は「新しいもの」、「今」の働きを象徴するもの。

JRF2015/10/49366

……。

死者の霊魂の分離をカトリックは信じる。そして、その霊魂が天国や地獄や「煉獄」へ行ったりすると信じるようだが、最後の審判との関係はどうなっているのだろう?ちょっとハッキリしない部分があるように私は感じた。

JRF2015/10/49699

>(…)霊魂と肉体が分離する死において、人間の肉体は腐敗しますが、霊魂は神のもとに至り、栄光を受ける肉体に再び結合される彼を待ちます。(…)<(997, p.300)

>人は死んだらすぐ、人生におけるキリストとのかかわり合いについての私審判の結果に基づき、その不滅の霊魂において永遠の報いを受けます。それは、清めを経た上で天の至福に入るか、あるいは直接に天の至福に入るか、あるいは直ちに永遠の苦しみ(罰)を受けるかの、いずれかです。<(1022, p.307)

JRF2015/10/47743

つまり、最後の審判という「公審判」の他に「私審判」というのが死後すぐにあって、そこで煉獄か天国か地獄に行くのかが先に決まってしまうように、ここでは読める。でもそうなのか?それは「最後の審判」の考え方と齟齬がないのだろうか?「神秘」なのだろうか…。

JRF2015/10/41130

……。

>「(…)わたしたちは、天軍のあらゆる軍勢とともに、主に栄光の賛歌を歌い(…)われらの主イエス・キリストが来られるのを待ち望むのです」。<(1090, p.345)

『タロット大事典』([cocolog:83418869])のミトラ教の軍の描写に対し、>軍隊の行進というものは、どこの国のものであれ怖気[おぞけ]が走る。<と書いたが、やはり、いやな比喩だね。まぁ、神を「万軍の主」とするのは伝統的な呼び方ではあるんだけど。…こういう表現が必要な時代に世界が再び包まれることがありませんように。

JRF2015/10/47958

……。

「ゆるし」の秘跡において…

>罪のゆるしと神との交わりの回復は、罪の結果である永遠の苦しみを取り除きます。ただし、有限の苦しみは残ります。<(1473, p.452)

煉獄の苦しみは「恵み」として受けよという。それを柔らげるべく主に他者が「追善」として行う「免償」も「ゆるし」の秘跡に含まれているようだ。(p.451)

JRF2015/10/41950

……。

「病者の塗油」の秘跡について…

JRF2015/10/44953

>(…)しかし、いかに熱心な祈りをしたとしても、すべての病気が治されるとは限りません。たとえば、聖パウロはキリストから(…)「キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもて満た[す]」(コロサイ 1:24)意味があることなどを教わるのです。<(1508, p.459)

JRF2015/10/48206

>(…)時の流れとともに病者の塗油は徐々に臨終にある人々に限って行われるようになりました。そのため「終油」と呼ばれるに至りました。(…)<(1512, p.460)

JRF2015/10/41771

洗礼や堅信は一回限りだが…

>塗油の秘跡を受けた病人が小康を得た後に再び重体に陥った場合、または、同じ病気が長引いて容態がいっそう悪化した場合、この秘跡は繰り返し授けることができます。(…)<(1515, p.461)

JRF2015/10/48894

もちろん「治る」希望もあえての否定はしていない。

>それが神のおぼしめしであれば、からだの治癒も行われます。<(1520, p.462)

JRF2015/10/46301

……。

……。

長い! 来週かけて第3編と第4編を読んでしまいたいけど、めげそう。orz

JRF2015/10/40976

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