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cocolog:83935116

小林勝人 訳注『列子』を読んだ。漢文。書き下し文と訳を読んでいった。校・注はとても詳しいが、他書と違い、まとめて後ろにあるため飛ばし読んだ程度。解説は下巻のカントとの関連は意味を掴めなかった。 (JRF 4431)

JRF 2015年11月20日 (金)

『列子 (全二巻)』(小林 勝人 訳注, 岩波文庫, 1987年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003320913 (上巻)
http://7net.omni7.jp/detail/1101200828 (上巻)

JRF2015/11/209247

……。

まず、読んだ動機について。[cocolog:82677859] で次のように文献を探していると書いた。

>確か黄帝だったか神農だったか、それ以外の皇帝だったかで、皇帝の健康のために、医療のために、「実験動物」的に人口を増やすといった中国神話があったように記憶していたのだが、ググっても見つからない。記憶違いだったのかもしれない。<

JRF2015/11/207180

それで、前々回([cocolog:83826716])に平凡社『中国の故事と名言 500選』を読んでいて、私がずっと以前に読んだはずの『列子』に「黄帝」についての記述があることを知り、もしやと思って、「再読」してみた。

すると「そのものズバリ」ではないが、上の記述を匂わせるような記述を見つけた。

JRF2015/11/203471

黄帝篇 第一章に次のような記述があった。


黄帝が天子の位に即[つ]いてから十五年ほどの間というもの、天下の人民が自分を天子として上[かみ]に戴いて[あがめ奉ってくれて]いることにただもう満足してしまい、もっぱら自分の生命力を養い、耳や目の欲望を楽しませ、鼻や口には香気と美味とを十二分にすすめたが、そのあげくかえってげっそりとやつれはて肌の色は黒ずんでしまい、ぼうっとして五官のはたらきは調子がすっかり狂ってしまった。

JRF2015/11/207038

(…)
それからさらに十五年ほどたつと、こんどは天下がうまく治まらぬことを憂慮して、あらんかぎり頭を使い、知恵をふりしぼって人民を治めたが、そのためにまたもや、げっそりとやつれはて肌の色も黒ずんでしまい、ぼうっとして五官のはたらきも調子が全く狂ってしまった。

JRF2015/11/205777

健康に関することがオチに来ていることから、人民をダシにして健康になるようはかったのではないかという疑いを持つことができる。

でも、私の記憶によれば、こんな曖昧な記述ではなくもっとはっきりと人々を「実験動物」的に扱ったような記述を読んだおぼえがある気がする。少なくとも私の記憶にあったのは、ここではなかった。

JRF2015/11/208512

……。

私の関心は以上…なわけだが、一応通して読んでみたので目についたところをもう少しだけ語ろう。

JRF2015/11/206772

解説によると、『列子』は秦・漢帝国以前にその書があったことがうかがえるが、現存するものは偽作ではないかという疑いがあるらしい。訳注者は、秦漢以前のものに魏晋時代までだんだんと「補作」されていったという説をとるようだ。

JRF2015/11/208429

それはそれとして『列子』は、『老子』『荘子』と並ぶ「道家」の書とされ、仁義礼智を説く儒家の孔子などへのアンチテーゼ的に、無為自然を説いたのを特徴とする…などと言われる。

JRF2015/11/205319

『列子』は表紙のコピーによると>「杞憂」「朝三暮四」「愚公移山」などよく知られた絶妙な寓言・寓話が多く、滋味ゆたかな説話文学の一大宝庫となっている。<…とのこと。

JRF2015/11/203243

この本は校・注にかなり力を入れていて、いろいろな版の異同を細かく調べきるその姿勢には感嘆すべきものがある。文系学者のすごさみたいなのを思い知った。ただ、岩波の他の漢文書籍と違って、校・注が、漢文と書き下し文(または訳)の間になく、後ろにまとめてある形式なので、本文を全部読み終ってから、校・注をまとめて読むことになった。そのため、せっかくの詳しい校・注なのにほとんど読み飛ばすように読んでしまったのを、なんか申し訳なく思った。

JRF2015/11/200617

ちなみに「再読」のはずだが、前回読んだ印象がまったく残ってなかった。前回は訳の部分を読み飛ばしただけだったか、勝手に読んだ気になっていただけなのではないか。そのあたりはもうよくわからない。

JRF2015/11/201996

……。

天瑞篇 第三章、

>なぜならば、万物を生成して上からこれを覆[おお]いまもる天は、地のように万物を形成して下からこれを載せてたもつことはできず、万物を形成して下からこれを載せてたもつ地は、聖人のように万物を教化することはできず、万物を教化する聖人は、万物それぞれの性能に背いて用いることはできず、それぞれに性能の定まっている万物は、自分の持前[もちまえ]を超えることができないからである。<

JRF2015/11/206110

天は変わらず、地は変わる…人が変えることができる。地を変えてそこに意味を持たせるのが聖人の役割り。聖人のみが道に従うのではなく、天・地・聖人が一体となって道に順っている。…といったところか。

JRF2015/11/208350

人が田畑を造って支配が問題となり、支配者によって礼が重視されるようになる。それはまったくの無為自然とは違うとは思うが、田畑を造ると決めたからには自然ななりゆきなのかもしれない。「礼」は人為だが、それを極[き]めるに致らせるのは自然な人の欲の流れのようなものがある。

JRF2015/11/208570

でも、その流れによりそうのではなく、そこから外れることに「道家」の面目はあるように見える。人を用いる・用いられるの関係の中で、他の人の思いを背負う・気負うのではなくもっと大きな「道」を背負って動いているから、それでいいんだと自分を慰めるようなところがある。それでこそ「本当の意味」の成功が掴める…と。

私なんかはそれはごまかしのように思うが、でも、その言説に魅力を感じないわけではないのは、それが心の動きの真実をとらえているからでもあるのだろう。

JRF2015/11/206426

……。

天瑞篇 第四章、

>(…)この種子には万物を変化転生させる霊妙なハタラキがある。たとえば蛙が変化して鶉[うずら]となるようなものである。(…)この豹はさらに馬を生み、馬はまた人間を生み、人現は月日がたつと、遂にまたもとの「機」すなわち造化の霊妙なハタラキの中に帰ってゆく。(…)<

JRF2015/11/201758

小動物が草むらに飛びこんで、鳥がバサバサッと現れたとする。それはまともに考えれば、小動物が鳥に変化したわけではないが、変化したと思えないわけでもない。人は吝[うら]みによって、変化[へんげ]を連想できる。吝み=裏見で、「何か」がそこに続いていると機序を疑う。それは、自分の中では作為があったものとして閉じている。そこからプログラム的に「機」械的に動くもののヒントが生まれ、それを形にすることもできるかもしれない。

JRF2015/11/202358

つまり、その変化は虚なのに実を得ることも人には可能ということなのだと思う。虚に大いに意味がある。それが「虚」という概念を重視する列子がここで言いたかったことなのかなと夢想した。

JRF2015/11/200308

……。

上の天瑞篇 第三章や第四章でやったような「哲学」を他の章でも実施できるのだと思うし、『列子』を研究するというならそうすべきなのだが、私は気力が続かず、読んでいて、そういう「哲学」に飛躍するのは、この二つでオシマイになった。

JRF2015/11/206327

……。

天瑞篇 第十四章は、「杞憂」の話である。杞の国の男が、天が落ち地が崩れるのではないかと心配したのを心配した男が、そんな心配は無用だよとさとすという話。

でも、現代では、太陽系の運命とか問題になるし、環境問題なんかは深刻に語られている。「杞憂」も少しは意味があるのではないかと私なんかは思う。意味を与えることができる、その余裕がある、というべきか…。

JRF2015/11/202859

……。

仲尼篇 第五章は、列子こと列禦寇先生がなぜか近くに住んでいる南郭先生と話をしない。弟子が列子にその理由を尋ねると、南郭先生は徳が備わっていて共に話す必要がなかったからで、それじゃあと列子は弟子達と南郭先生を尋ねた。すると南郭先生は弟子の末席の男をひたすら譴責する様子だった。…というお話。

JRF2015/11/202246

「有言の不言」。有言でもってむしろそれ以外への不言をきわだてたといった話になるのだろうか。わざと無視したというのとも違うんだよね。関心はあるというのは示して、かといって話すことはないよねというのを言外に示したということなのだろう。まぁ、そういうこともありえるのかな…?

JRF2015/11/207777

……。

湯問篇 第九章、

>かくて、扁鵲[へんじゃく]はついに二人に毒の入った麻酔の酒を飲ませた。すると三日もの間、仮死状態になった。扁鵲はその間に胸を切開して心臓を取りだし、それを入れかえて元の正しい位置におさめ、手術がおわると、霊妙なききめのある薬を飲ませた。<

おお、「麻酔薬」というアイデア自体はこんな古くからあったんだね。その後の心臓移殖はとても信じがたいから、麻酔の部分も寓話でしかないのだろうけど。

JRF2015/11/206379

《麻酔 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E9%85%94
>文化元年(1804年)10月13日、華岡青洲は経口の通仙散を用いた全身麻酔下での手術により、大和国宇智郡五條村の藍屋勘の乳癌摘出に成功している。はっきりした記録が残っているものでは世界最初の麻酔手術である。

JRF2015/11/203496

(…)
亜酸化窒素(笑気ガス)の麻酔作用は1795年にトマス・ベドーズの助手である、イギリスの化学者ハンフリー・デービーにより証明され、1800年に論文として発表された。しかし、初期には亜酸化窒素の医学的な用途は限られており、その主な役割は娯楽であった。1844年12月、アメリカ合衆国の歯科医師であるホーレス・ウェルズは抜歯を無痛で行うために亜酸化窒素を使用した。


…とのことなんだけど。

JRF2015/11/204687

……。

湯問篇 第十三章、

>周の穆王[ぼくおう]が西の方に巡行されたとき、(…)途中で一人の技術者を献上したいという国があった。(…)「(…)わたくしにはもう今までにできあがっている作品が一つありますから、まずそれからご覧いただきとうございます。」(…)「わたくしが造った役者の人形です。」(…)まるで生きた人間そっくりである。<

つまり「ロボット」が造られていたという話。これもアイデア自体は古くからあるということなんだね。

JRF2015/11/204050

……。

力命篇 第十章、

「だんまり屋のずる助とおっちょこちょいとのろまとせっかちとの四人のものは、一諸に友達として世につきあっていたが、めいめいみな気のむくままにふるまっていた。彼らは死ぬまでお互いの本性を理解しようともせず、いずれも自分では智慮深い人間だと思っていた。」

JRF2015/11/207923

…みたいに、

「~と~と~と~との四人のものは一諸に友達として世につきあっていたが、めいめいみな気のむくままにふるまっていた。彼らは~しようともせず、いずれも自分では~の人間だと思っていた。」

…という文章が五つ続くのが私にはライフハックみたいでおもしろかった。

JRF2015/11/208607

……。

力命篇 第十一章、

>おもうに、智慮分別のある人物に、損得を計算させ、真偽を調査させ、他人の心をつまびらかに推し量らせて、それから何か事業をやらせたとしても、成功[の率]も半分なら、失敗[の率]もまた半分である。その反対に、智慮分別の劣る人物に、損得の計算もさせず、真偽の調査もさせず、他人の心もなんらおかまいなしに、何か事業をやらせたとしても、成功[の率]も半分なら、失敗[の率]もまた半分である。<

JRF2015/11/205248

これは嘘だ。率が半分ということはない。(私のような)「できない人」のできなさというのをわかってないんじゃないか。成功することも失敗することもあるというのはそれはそうなんだけど、その率が常に等しいというのは嘘、大袈裟だと思う。

JRF2015/11/208958

……。

楊朱篇は、快楽主義的というか為我説(個人主義)が強いのが特徴となっている。

JRF2015/11/201646

例えば楊朱篇 第十章、

>(…楊朱…)先生はこういってさとされた。「(…)すでに生まれたからには、とやかく余計なことをせず、なりゆきに任せ、自分のやりたいことを存分にやりつくして、静かに死のおとずれを待つことだ。(…)」<

JRF2015/11/207257

別の部分(第十二章)では、四聖(舜・禹・周・孔)は苦しんで「実」を得られず死に、「名」を後世に遺した。天下の悪の桀・紂は、「実」を目いっぱい得た上で悪「名」を遺した。死ねば木の切り株や土くれと何らかわりはないのだから、「実」をとったほうがいい。…というような論を展開する。名を捨てて実を取れという論なわけだ。

JRF2015/11/202727

これはもしかすると反面教師的に教えられた部分なのかもしれない。虚を尊ぶといっても、礼を捨てて実を尊ぶのとは違うというのを研究することが求められているのかもしれない。でも、楊朱の議論はある程度、説得力があるのも事実だ。

JRF2015/11/206622

楊朱篇 第十九章では、老子の「名は実の賓[ひん]なり」の言を引きつつも、

>現実に今の世の中では、名声のある者は尊い身分となって世に栄えるし、名声のない者は賤[いや]しい身分として辱[はず]かしめられている。尊い身分として世に栄えると、安楽に愉快な生活ができ、(…)安楽に愉快な生活は、人間の本性にかなって満ち足りるものである。この本性にかなうという、そこにこそ人生の実質を左右するものが係っているのである。<

JRF2015/11/206774

だから、名が実際的に実につながっている以上、まったく無視するわけにはいかない。

>名声にばかり執着して実質をそこなってしまう者どもを憎むのみである。<

…とリアリストに徹している。

JRF2015/11/202447

これがリアルだとは思うが、こういう人格は、「怖い」と思う。そういう人にはあまりなりたくない…という私は甘ちゃんなだけなのかな…。これをどう否定すればいいのだろう…というところに『列子』の論点みたいなものもあるのかな?

JRF2015/11/208284

……。

説符篇 第五章、

>だから自分で余り力みすぎると、誰も忠告したり教えてはくれず、誰も忠告してくれなければ、その人は孤立無援ということになる。ところが、賢人ともなると何事も他人に任[まか]せて、自分は決して我[が]を張らない。だから、いくら年を老[と]っても衰えは見せず、頭のはたらきは冴えなくなっても、取り乱すことがない。それ故、国家[くに]の政治を執[と]る難しさは、かかる賢人を見つけ出すことにあるのであって、決して自分自身を賢く見せびらかすことにあるのではない。<

JRF2015/11/202656

賢人は人にまかせる。そういう賢人を見つけ出せというのは、人にまかせられる人にまかせよということか? ちょっと意味が通じてないように思う。でも、ここをそう言わず「何だかよくわかりません」と誰かに尋ねられるぐらいなのがちょうどいいんだろうな…というのはわかる。私は一人ぼっちだ。

JRF2015/11/207995

……。

下巻の解説には、道家の「道」とカントの「物自体」という概念がとても似ているという論考が載っているのだが、引用されているカントの論がとても難しく私には理解できなかった。

が、訳注者もこのあたりを追える>好学良識の士の出現<を望んでいるようなので、「我こそは」と思う方には、この本をとってもらいたい。

JRF2015/11/200233

……。

列子は「道」家とのことだが、私は以前↓という記事を書いた。

《道を語り解く - 教え説くのではなく》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post.html

JRF2015/11/200694

「道家」の老子がいうような「道は無為にして為さざるなし」という「道」と、私がいう「道」とはあまり関係がない。私のは「人が生きる道」程度の理解で、カントの「物自体」に比されるような「道(Tao)」にまで考えは及んでいない。ただ、「人が生きる道」というのも普通の道(road)ではありえず、ある種背後に運命的なものを見てそれに順うという心境を持っているということは「語り解く」という言葉にあらわれているといえよう。

JRF2015/11/202979

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