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岩波文庫『文語訳 新約聖書 (詩篇付)』を読んだ。意外にサクサク読み進めることができた。文語表現のカッコ良さに惹かれたのだが、読んだ結果、それはあまり印象に残らなかった。 (JRF 6856)
JRF 2015年11月15日 (日)
聖書にはいろいろ版があって、文語訳にもいくつか種類があるらしいが、これは俗に『改訳 新約聖書』(1917年)と呼ばれる版らしい。付いてきた詩篇については、『旧約全書』(1888年)のものらしい。
JRF2015/11/152338
トルストイ『復活』を読んだとき([cocolog:83307893])に出てきた聖書引用が文語で、それがカッコ良かったので、関心を持ち、「文語訳」がちょうど岩波文庫で出たばかりというのを知って、それならと応援の意味もこめて買ってみた。(ちなみに、『復活』の文語訳は、今回の文語訳とは違うものらしかった。ロシア語の該当部分を訳した独自の訳なのかな?)
JRF2015/11/154792
読みはじめて、「~なば」の「な」を否定「ず」で訳すか完了「ぬ」で訳すかで迷ったり、「ん」を推量「む」ではなく否定「ず」が「ぬ」に変化してさらに「ん」と変化したものなんじゃないかという疑いを持ちつつ読んだりするなど、初歩的な部分でとまどいもあったが、次第に慣れた。(前者は、完了の「ぬ」で訳すのが正しそうで、後者は推量の「む」や「らむ」が「ん」や「らん」に変化していると考えれば正しそうであった。)
JRF2015/11/156654
そういったところを慣れてしまえば意外に読みやすかった。とはいえ、わからない表現はときどき出てきて、そこは新共同訳(口語訳)の聖書を参照しながら読んだ。新約聖書に比べて詩篇は、新共同訳ではカギカッコが付いているようなものも付いていなかったり、段落番号が新共同訳と違ったりして、意味を追うのが難しかった。詩篇は表現自体、難しかったように思う。
JRF2015/11/150018
最初は感じていたカッコ良さも次第に自然に感じられるようになり、印象に残ることは少なくなった。その一方で、新共同訳を一度は目を通していたはずなのに、全々記憶に残ってなくて、その面で聖書の記述そのものに驚くようなこと、「発見」がしばしばあった。その点からは「文語訳」をわざわざ読んだ意味はあったと言えよう。
JRF2015/11/152808
……。
別に文語訳だからということではないが、今回、聖書を読んでみてひっかかったことをいくつか。
JRF2015/11/150294
まず、神に対する服従という一神教の特徴はそれとして、奴隷の人の主人に対する従順を説いているのが目立った。そこかしこに、そういった意味の言葉が出てくるが、例えばコロサイ書3:22の場合、
>僕[しもべ]たる者よ、凡ての事みな肉につける主人に従え、人を喜ばする者の如く、ただ眼の前の事のみを勤めず、主を畏れ、真心を従え。<
JRF2015/11/158959
…とある。テモテ前書 6:1 の場合、
>おほよそ軛の下にありて奴隷たる者は、おのれの主人を全く尊ぶべき者とすべし。これ神の名と教えの譏[そし]られざらん為なり。<
…とある。
国家の権威にも服せという。ロマ書 13:1 の場合、
>凡ての人、上にある権威に服すべし。そは神によらぬ権威はなく、あらゆる権威は神によりて立てられる。<
似た部分は、エペソ書 6:5、テモテ前書 2:1、テトス書 2:9、ペテロ前書 2:13 にもある。(この他にもあるかもしれない。)
JRF2015/11/155756
つまり、神に仕える者の態度が人々の目に正しいと映るとき、主イエス・キリストへの信仰が正しいものと周りに(神にも?)見なされるのだから、従順を外に示すべきという論理ではある。テモテ前書 2:1 には>是われら敬虔と謹厳とを尽して安らかに静かに一生を過ごさん為なり。<…ともある。この時代に信仰に迫害を招かないようにするための現実的戦略という面ももちろんあっただろう。
JRF2015/11/151344
……。
テサロニケ後書 3:10、
>また汝らと偕に在りしとき、人もし働くことを欲せずば、食すべからずと命じたりき。<
いわゆる「働かざる者、食うべからず」。でも、キリスト教会でも最初のころは異言や預言にも一定の「働き」を見ていて、それで食を得ることを認めていたのではないだろうか。私はまともな「働き」ができないので、(人に使われない)プログラムも含めた「言葉」で「働き」を認められたいという願いがある。
JRF2015/11/156704
……。
テモテ前書 1:20、
>その中にヒメナオとアレキサンデルとあり、彼らに涜[けが]すまじきことを学ばせんとて我これをサタンに付[わた]せり。<
「サタンにわたす」ってすごい表現。『新約聖書略解』によれば>破門に相当する処分を意味する<かもしれないと示唆している。
JRF2015/11/159521
……。
ヘブル書 第10章。ユダヤ教では燔祭と罪祭で、犠牲を焼いて赦しを乞うことがあったが、イエスに従った以上、燔祭や罪祭というものはなく、罪があれば最後の審判において焼かれるしかないということらしい。10:26-27 から
>我等もし真理を知る知識をうけたる後、ことさらに罪を犯して止めずば、罪のために犠牲、もはや無し。ただ畏れつつ審判を待つこと、逆らう者を焚きつくす烈しき火のみ遺るなり。<
このあたりはキリスト教の知識を知ったがゆえに厳しい審判に臨まねばならないということで、その知識を広める私は余計なことをしているというべきなのだろう。
JRF2015/11/152015
……。
ペテロ前書 1:8、
>汝らイエスを見しことなけれど、之を愛し、今見ざれども、之を信じて言ひがたく、かつ光栄ある喜悦をもて喜ぶ。<
イエスは昇天したことになっているが、別にイエスはそのまま地上にいてもいいし、何度も天から現れてもいい。もちろん、次に現れるときは世の終りとなっているから、おいそれと現れてもらっては困るということになるのだが、その教えがなければ、別に今いても良かった。
そうしなかったことに…、イエスが今はいない、それでも保てる信仰で十分である…ということころに意味があるのかもしれない、と私は思った。
JRF2015/11/155836
……。
ヨハネ第一書 4:12、
>未だ神を見し者あらず、我等もし互いに相愛[あいあい]せば、神われらに在[いま]し、その愛も亦われらに全うせらる。<
「神を見し者あらず」というのは、神が「イエス」の姿で現れたというイコンを認める解釈とは反するところ。ただし、ヨハネ第三書 11 で、
>愛する者よ、悪に効[なら]ふな、善にならへ。善をおこなふ者は神より出で、悪をおこなふ者は未だ神を見ざるなり。<
…という部分は、むしろイエスを神と見てそのイエスを「見ざるなり」と言っていると解釈できるから、第一書から第三書までの間に、教義が整理されていったのかもしれない。
JRF2015/11/154561
……。
偶像崇拝について、コリント前書 10:20、
>否われは言ふ、異邦人の供ふる物は神に供ふるにあらず、悪鬼に供ふるなりと。我なんぢらが悪鬼と交わるを欲せず。<
コリント前書 10:27-28、
>もし不信者に招かれて往かんとせば、凡て汝らの前に置く物を良心のために何をも問わずして食せよ。人もし此は犠牲にせし肉なりと言はば告げし者のため、また良心のために食すな。<
JRF2015/11/156484
私は『カトリック教会のカテキズム』を読んだとき([cocolog:83575979])、
JRF2015/11/153980
>「天」でも「地」でも「地の下」でもない空想のことだとわかっていること、または、コンピュータゲームの中のことでしかないとわかっていることならば、仮に空想の中・ゲームの中で他の神々を拝んでいようと、それは夜の夢の中でそうしたという以上のことはなく、何の罪もない。…と私は信じたい。
ただし…、
>これらのむなしい偶像は、「偶像を造り、それにより頼む者は、偶像と同じようになる」(詩編 115:4-5,8) といわれているように、人をむなしい者にします。<(2112, p.625-626)
…という部分については、今の大部分のゲーマーの現状については充てはまっていると言わざるを得ない。
<
JRF2015/11/153009
…と書いた。ゲーム中、悪鬼に仕えていることになると私は思わないが、「他の神々を拝んで」いることになると私が公けに言うことで、「犠牲にせしは肉なり」と告げたのと同じく、人々をゲームそのものから遠ざける結果になりはしないかと怪しむ。
JRF2015/11/152845
同じ「ひとこと」で一神教が「効率的」であるように述べた。
>無神論的なところから国家や戦争の必要性を導き出し、そこから人は信仰を求めることを導くと、ちょっと罰当たりな言い方だが、「神は一柱で十分」というのは真理=合理的なのかもしれない。多神教みたいなものも「神についての無知」で説明されるのかもしれない。<
JRF2015/11/154821
やたらと「偶像」にささげものを求める「ゲーム」は非効率的だから一神教にもとると言えるのかもしれないが、「非効率性」という「豊かさ」を認めることに今の自由な社会の基盤があるとも私は思う。「豊かさ」でもエネルギー効率の良いものを求めるなどすることで、社会と共存していくことは可能ではないか。そうでなければ世界は殺伐とし過ぎるように思う。
JRF2015/11/159368
……。
直近のニュースとしてフランスで同時多発テロがあった。私は、そこに人の血を流すことにしかリアルを見出せず、バーチャルな「偶像」からもリアルな教訓を学べることを忘れた、忘れることに追いやられた人達がいることが問題の根本にあるのではないかという気が今はしている。バーチャルな諫言を抑え付けたということがあったのかもしれない。しかし、世界を変えるに拙速なのはニセのプラグマティズムがあるからのようにも思う。
JRF2015/11/156437
ただ、これは遠くから見ての印象論でしかない。実際そこで害にあってる人々によりそう意見ではないかもしれない。
戦争とテロに関し、「連帯」は軽々には言えない。けれども哀悼の意を表します。
JRF2015/11/151021
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『新約聖書』を『新約聖書略解』とともに読んだ。もう何度目かになるが、「新しい発見」と言うか、記憶にない部分が多かった。記憶に残らないのは、私が導かれてないからか、とも思う。... 続きを読む
受信: 2016-03-29 17:04:06 (JST)
『文語訳 新約聖書 (詩篇付)』(岩波文庫, 2014年1月)
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JRF2015/11/152138