cocolog:84060491
レヴィナス『タルムード四講話』と『タルムード新五講話』を読んだ。分類としては哲学書なのだろうが、宗教の具体的な話でわかりやすく楽しめた。私は、こういうのは気楽に読めるようだ。 (JRF 0187)
JRF 2015年12月 5日 (土)
『タルムード四講話』は1986年、『タルムード新五講話』は1990年に、それぞれ国文社から出たものの新装版である。
JRF2015/12/54074
……。
私は内田樹氏のブログと Twitter を読んでいる。レヴィナスは内田樹氏が訳しているというので知った。私が以前関心を持っていたタルムードについて書いているらしい。内田氏の著書を買うことは少ないが、そんな中でも私が関心を持ったレヴィナスの本なので、この本は買ってみた。
JRF2015/12/54229
値段の割に分厚くない。正直、書店で手に取ったとしたら、その薄さに買うのを思い直したかもしれない。でも、Amazon 経由で知らずに『四講話』を買い、その薄さを見た上で、買えない額でないし、ついでだからというので『新五講話』も買った。私の浅い読みでは値段分、元を取るような読みはできない。私はこの本が向けられた対象者ではないな…と感じつつ、読ませていただいた。
JRF2015/12/56465
……。
タルムード…ユダヤ教への関心が前は強かった。下にも書くと思うが、そこに影響を受けた意見を政府に送ったりしたこともある。そのころは仏教も、因果論ではなく縁起論こそが本筋だと思っていたころでもある。今は、縁起論への関心も薄れ、ユダヤ教への関心も薄れている。私は、本源的なものを追わなくなってしまって久しいのかもしれない。
JRF2015/12/54688
……。
……。
まず『タルムード四講話』について。
JRF2015/12/54943
……。
ある文に次の一節が括弧書きであった。
>(独習者に災いあれ!)<(p.57)
私は「独習者」なわけだが、こうやって「ひとこと」に書くことで情報を他の人と共有している。だから「独習者への呪い」は緩和されると思いたい。
JRF2015/12/50109
……。
第一講話は、「他者に対して」と題され、次のミシュナー(参:[google:タルムード])に関して論じられる。
>人間が神に対して犯した罪過は大贖罪日に赦される。人間が他者に対して犯した罪過は、あらかじめ加害者が相手の怒りを鎮めてかない限り、大贖罪日においても赦されない。<(p.31)
JRF2015/12/57913
ここには、本来、神に対する罪のほうが重いはずなのに、人に対する罪のほうが重く裁かれているように見えるという「逆転」がある。しかも、このことは、他人は「大贖罪日」があろうがゆるしてくれないという現実に支持されている。
JRF2015/12/57379
スリーストライク法ではないが、三度ゆるしを乞えば十分だという意見のラビがある。一方、あるラビは13度も別のラビにゆるしを乞うたがゆるされないことがあった。その後、ゆるされなかったラビが学統を築くことになった。その優秀さにひそむ越権的蔑視(無意識に犯した罪・野心)があったとみたからこそゆるされなかったのだといったような論があった。(「ラビ」はユダヤ教の「牧師」みたいな教師・学者のこと。)
JRF2015/12/53554
また、サウルによってどうも虐げられたらしいギブオン人がダビデにサウルの子孫7人の命を要求し、ダビデがそれを受け容れたという話があった。でも、その後、ギブオン人達はイスラエルから外に出されたとも話す。7人が死んだとき、その死骸が鳥や獣に食われないように守ったリッパという女性の行いが称揚される。
JRF2015/12/50122
人は人に償いを求める。しかし、それはすなわち神の意に適う行い…なのではなく、それは別に考えるべきことなのだろう。
JRF2015/12/56116
そういったところからレヴィナスはユダヤ人がドイツ人をどう扱うべきかを考える。
>タルムードは同罪刑法による公義を求める人たちに赦しを強要することはできないと私たちに教えています。タルムードは他の人たちがこの時効のない権利を行使するのに対してイスラエルは異を唱えるものではないことを私たちに教えています。けれどもタルムードが何よりも強調して私たちに教えているのは、たとえイスラエルがその権利を認めるにせよ、自分自身のためにはその権利を請求してはならない、ということなのです。「イスラエルである」とは権利を請求しないことを言うのです。<(p.65-66)
JRF2015/12/56433
……。
第二講話は、「誘惑の誘惑」という題で、出エジプト記のトーラーを人々が受け取る場面が、問題となる。
JRF2015/12/58625
聖書では、人々は自由に律法を選び取ったのではなく、まるで強迫されて律法を強要されたのだというがごとく読める。
あるところに誘惑があると知り、それを避けることを考える。そういう知が「誘惑の誘惑」なのだという。その知の前に行動を起こすことが求められるのだが、それは「純粋無垢」という幼さでしかないのか…という問題提起がなされる。
JRF2015/12/53277
>ラビ・エリエゼルが言った。「イスラエルが『聞き従う』ことより先に『行なう』ことを約束した時、天からの声が叫んだ。『天使たちだけが知っているはずのこの秘密を私の子らに洩らしたのは誰だ。』(…)」<(p.76)
JRF2015/12/59310
実際には「行なう」ことをしたあと、イスラエルは偶像崇拝の罪にすぐに染まった。ことは単純ではない。神への信頼があって、「行なう」ことは「忠誠」であったという論も建てられるが、判然とはしない。
JRF2015/12/51103
ただ、この出エジプト記の部分は
>「トーラーが死の威嚇のもとに止むなく受け容れられたものである以上、律法を侵犯した場合でも、自分が進んで受け容れた律法ではないからという言い訳が成り立ち、免責されることになる」という警告(…)<(p.93)
神がそのようなふうにゆるしを用意してくれていたのだという解釈もあるのだろう。が、それを自発的に再度、受け容れるという道もあり、本書ではエステル記の例が引かれる。
JRF2015/12/55797
しかし、「行なう」ことが真理に直結するこれらを単純に「予定」という言葉で言い表さないところにユダヤ教徒の矜持があるのかもしれない。結局…
>「私たちは行ないます、そして私たちは聞き従います」が表現していたのは一途に信じる魂の純粋性ではなく、絶対的なものにひしとしがみついている主観性の構造だったのです。<
…とレヴィナスは結論付ける。
JRF2015/12/55404
>天使の玄義とは供犠の可能性です。存在というどんよりと鈍重なものの中に一つの意味が誕生するのです。「死ぬことができる」という一つの能力が誕生するのです。この能力は「自らを犠牲に供するためにはどうすればよいか」という知に結びついているのです。<(p.120-121)
JRF2015/12/57534
「あること」をやれたら「死んでもいい」と思う。それが犯罪であっても、それができたら人生終っていいというようなことを思う日がたまに私にはある。それは暗い欲望で、どうしてそのような欲望を私が抱くようになったかを考えれば、それは本来当り前の普通の欲望が歪んでできたものでしかないことはわかる。
JRF2015/12/53808
そこに犠牲は用意されているのか…いや、その道は自分で絶った。でも、その道を行けなかったことが自分を追い込んでいて、だからこそ欲望がより歪んでいるという面はあるかもしれない。この状況で「まず行なう」は罪だ。でも「まず行なう」べき何かは別に存在するようにも思う。
JRF2015/12/54496
今の生き方も知って選んだものじゃない「まず行なう」という人生の内にあるものだ。でも、こう以外にできないというところに心理的には追い込まれていて、そこから動けない。暴力的に動かされるのを望んでいるわけでもない。このままでいい。でも、このままでいいと社会がゆるしてくれるのか…。
JRF2015/12/57892
私は「聞き従う」ために、今の自分を肯定してもらうために、いろいろな本を漁っているのだろうか?それは誘惑の誘惑に惑っているだけでしかないのだろうか?
JRF2015/12/53279
……。
第三講話は、「約束の土地か許された土地か」という題で、テキストとしては民数記13章や、申命記 1:19 から1章ののこりまでが題材となる。内容としてはズバリ、シオニズムが問題となる。
JRF2015/12/57332
このテキストで問題となったヘブロンの土地は、よい耕作地ではないが放牧に適していて、ヘブロン人ではできないことが、発達したエジプトの文化を持っていたイスラエル人にはできたかもしれない。しかし、…
>イスラエルの精神的優位性を依拠とする権利請求は権利の濫用ではないか(…)。<
JRF2015/12/59549
文化が遅れているから、発展させるために「侵略」していいとはならない。ヘブロンへの偵察隊は、偵察後にそのほとんどが侵攻に消極的になった。それはそこに住む人がいるということそのことが侵さざるべきことのように思えたからではないか。
JRF2015/12/50567
イスラエルはその後40年放浪してからヘブロンを侵攻することになる。それだけ耐えねば、自分達を正しいと見なせなかったのか?ユダヤ教徒への迫害があったからこそ、イスラエルへの入植は人々の望みになったのか?そんな殺生な理屈はない。それが神の道理であるはずがない。…とは思うが、それが神が示した歴史でもあった。
JRF2015/12/55579
>自分は正義の社会を建設し、大地を聖別していると思い込むことは誰にもありがちなことであり、その思い込みが征服者や植民地主義者を勇気づけるのではないだろうか、と私に反論される方もおられるでしょう。その反論にはこうお答えしなければなりません。
JRF2015/12/55168
(…)
トーラーを認めること、それはただ一つの普遍的正義の規範を認めることである、と。ユダヤ教の第一の教えとはこれです。教えとは践むべき道として存在すること、つまり「ある行ないは別のある行ないよりも義である」とする基準が存在する、ということ、これです。人間の搾取がない社会、キブツの最初の建設者たちが構想したような社会 -- 彼らもまた天へ昇るための梯子を作っていたのです。
JRF2015/12/50360
(…)
これは「普遍的正義などというものは存在しない」とする道徳的相対主義に対する異議申し立てです。私たちがトーラーと呼んでいるものは人間的正義の規範を示します。そしてまさしくイスラエルの民がイスラエルの地を希求するのは、この普遍的正義の名においてであって、いかなる民族的正義の名においてでもないのです。
<(p.163)
JRF2015/12/53384
ベーシックインカムの議論が盛り上がっているとき、地デジ放送への切り換えが進んでいるとき、福島第一原発の事故…「原発震災」が起きたことを思い出す。歴史が犠牲を伴って何かを私達に示そうとする。有神論的世界観からは、そういうことが肯定的に導かれる。
JRF2015/12/57534
むしろ神が有ることを示すために自分達が動くべきこともあるのかもしれない。それが「イスラエル」というものなのかもしれない。
>ご承知のとおり、この地は尋常の土地ではありません。これは「天」にも比すべき地です。なぜならその住民が不義なる者であればただちに吐き出してしまう地であるからです。比類なき土地です。かかる条件の下でなおこの土地を受け容れる覚悟が、この土地についての権利を賦与するのです。<(p.169)
JRF2015/12/53321
誰かが日本を「神の国」と呼んで批判されたことがある。でも、この土地も、どこの土地でも、そこに住むものが覚悟を持つべきことがらがある。私も含め、日本人は、吐き出される覚悟はない。それはなくてもいいのか、これからはそれも意識しなければならないのか…。
JRF2015/12/58018
……。
第四講話は、「世界と同じだけ古く」とういう題で、裁判所であるサンヘドリンが話題になる。
JRF2015/12/55139
(小)サンヘドリンでは…
>人間ひとりの生死にかかわる事件は23名の裁判官が審理することになっていたことを思い出して下さい。12人が被告を死刑に、11人が死一等を免ずるという審判を下した場合、ユダヤの律法は一票差での死刑宣告を禁止しております。(…)今度は25名の裁判官の前で事件が再審理されます。そして再び、(…)一票差であったとしますと、改めて二人の修学生が法官に加えられます。<(p.184)
JRF2015/12/52416
私は政府に意見としてだいたい次のような案を出したことがある。
《裁判員制度の人数構成に関する私案》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/10/post.html
>
・ただし、全員が不利な評決に賛成してはならない。
何の議論もなく「有罪」が決まらないよう、全員が「有罪」評決に賛成することを禁じています。
これは古代ユダヤ法の裁判を参考にしています。私はこの制度を弁護士という制度がなかった時代、弁護士を半自動的に立てるための制度だったと解釈しています。
<
JRF2015/12/59252
古代ユダヤ法だから、取ったのではない。それが合理的に思えたから取ったのだ。
JRF2015/12/55990
ここでタルムードが教える方法も「合理的」というか正義に適っているように思える。一人ずつ加えられていけば、プレッシャーがどちらの意味でかはわからないがかかる。二人であれば、まず二人がそれぞれの意見にわかれることが前提となってよく、よりプレッシャーが少なく、公平に思えるからだ。
JRF2015/12/51256
サンヘドリンは「世界のへそ」だという。でも、それはどこの民族でもそういう考え方はあるともいう。「世界と同じだけ古く」という題は、ギリシアの『エウメニデス』との比較で述べられる。ミシュナーはそれより五世紀遅い。
>つまり真に正しい精神生活を営むものは、どのような精神的危機も受けて立つ、ということ、これが彼我の隔たりなのです。ヘレニズムはおそらくこの点で、正統性においていささか欠けることがあるのです。<(p.193)
…と述べる。
JRF2015/12/51487
「世界のへそ」というのは民族的自尊心だけからいうのではない。>正義が語られる場は創造の痕跡(…で…)そこで行われる正義は天からの養分を蘇らせる<(p.190)。ユダヤ人は今も養分が与えられる「へそ」として必要とされている。レヴィナスはこう教える。ユダヤ教徒は、
>私は私が犯したのでないことについて有責でありうるし、私のものでない惨苦をわがものとして引き受けうる、と。<(p.208)
JRF2015/12/56453
これについての言葉遊びがおもしろい。創世紀27章でヤコブがエサウから長子権を奪うところで、
>彼の着物「ベガダーヴ」と彼の叛逆者「ボグダーヴ」の語呂合わせです。イサクがかいだのはヤコブからやがて生まれ出るであろう叛逆者たちの臭いだったのです。しかしヤコブはこれらの叛逆者たちすべての罪責の重みをすでにして一身に背負っておりました。<(p.208)
…その臭いがイサクにはかぐわしかった。その有責性の表現がすなわちサンヘドリンでもある。
JRF2015/12/53192
鶏口牛後とは逆の意味で
>「(…)『ライオンの尾となるとも、狐の頭となるなかれ。』」<(p.179)
…と説かれる。サンヘドリンでは、並んでる順序にちゃんと順って法官になる順番がやってくる。上位の列の下位にいて、その法官の次に留まろうとすることは、自分勝手な狐の頭になるよりも意味のあることなのだ、と教えられるらしい。
JRF2015/12/56835
……。
……。
『タルムード新五講話』について。
JRF2015/12/57470
……。
第一講話は「ユダヤ教と革命」という題で、ミシュナーやゲマラーでは労働者の労働条件などが話題になる。
JRF2015/12/51138
ある雇用主の息子が、「食事付き」という条件を出して労働者を雇ってきたとき、雇用主は焦ってまずこう言わせる。「あなたたちはパンと乾いた野菜しか請求できない」。
JRF2015/12/59217
ユダヤ教では他者(客)の権利は実質的に無限であるため、まず自分の責任を限定することからはじめねばならなかったと説明される。
>アブラハム、イサク、ヤコブの末裔とは、「もはや幼児的段階を越えた人々」を意味しています。自分が何者であるかを自覚し、もはや教育される必要のない人々、そのような人々を前にした時には、私たちの義務には限りがありません。労働者たちは、その劣悪な条件とその仕事の粗雑さにもかかわらず、この成熟に達した人間に属するのです。<(p.21)
JRF2015/12/55633
>契約の本義は私の権利を擁護することではなく、私の義務の範囲を限定することにあります。<(p.24)
JRF2015/12/51173
私が公開するソフトでは例えば↓の License のように、責任はあるが、これほどの小ささでしかないという逆説的な表現で責任を限定しようとしている。
JRF2015/12/50953
《quail-naggy.el: 単漢字変換 Input Method for Emacs.》
http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2015/10/post.html
>Within three months after the release of this program, I especially admit responsibility of efforts for rational requests of correction to this program.<
JRF2015/12/50186
GPL などがやってる「まったく責任がない」という言明には違和感を感じているのが正直なところだからだ。(例えば [aboutme:138358] 参照。)
JRF2015/12/50399
>悪が善の役に立ったり、善が「客観的には」悪を利したりする弁証法、それは混乱と夜のことです。この混乱を一掃する革命が必要です。「善」はあくまで「善」であり、「悪」はあくまで「悪」であることが必要です。これこそ革命的理想の真の定義ではないでしょうか。<(p.39)
JRF2015/12/55237
「善」の悪用を禁じることはできない。「悪」には「まったく責任がない」というぐらいにしかいう他はない。それを使っている者はすべて善用しているとすることを望むのならば、秩序がすべてを支配することを望むことになるのではないか。「秩序」は現実には神的秩序ではなく国家的秩序でしかない。そのすべての支配を望むのは危険というか愚かであろう。
JRF2015/12/54254
>(…)皆さんは、このテクストのあとの部分が、「実存は、その語の絶対的な意味において、賭けである」という今日隆盛をきわめている形而上学に反する、そのような考え方にきっぱり反対するものであることを知ることになるでしょう。
JRF2015/12/50347
(…)
タルムードではその反対に、存在は極端なほどの重量を含意しているのですが、自由から派生する責任はそれほど重いものではありません。というのも、私たちは、私たちがかかわり合ったこと(私たちのアンガジュマン)を超えて、それ以上に有責であるからです。仕事が夕暮れまで成されねばならないというのは、まさにそのような意味においてなのです。
<(p.42)
JRF2015/12/58155
ラビ・エレアザルは泥棒を捕まえるための助言として
>「居酒屋へ行き、知識人でもなく、日雇い労働者でもなく、夜間労働者でもないのに、酒を飲んでいる者を何の良心の疚しさを覚えることなく、逮捕せよ。」<(p.49)
…といったことを述べた。
JRF2015/12/52532
>ラビ・エレアザルは、その語のローマ的な意味での国家の領域で「悪」と戦うことを受け容れたのだ、と。つまり革命的行動を、政治的行動として実践することを受け容れたのだ、と。(…)寄生者は、その語の広い意味において、泥棒です。<(p.49)
ここがよくわからない。ローマ政府の側に立った行動をすることがなぜ「革命的行動」になるのか。ユダヤ教指導者層の意に反しているという意味でそうなのか?知識人か労働者以外の在り方はありえないと「善」「悪」をただすからそうなのか?
JRF2015/12/58848
レヴィナスは、あるいは「居酒屋」「カフェ」を問題にする。
>人々が魂なき世界の恐怖と不正に耐えうるのは、カフェに行って、すべてを忘れることができるからこそなのです。誰しも自分さえよければそれでいいと思っていられる場所、自分だけのためにそこにいる場所、忘却の場所、他者を忘却する場所、それがカフェです。(…)西洋的存在者にとって(…)本質的なカテゴリーでありながら、ユダヤ的存在者によって拒否されたカテゴリー、それがカフェなのです。<(p.51)
JRF2015/12/54943
2015年11月13日のパリ同時多発テロ事件が「カフェ」の多い通りで起きたことを思い出す。
JRF2015/12/53796
ソ連のような共産主義、社会主義を徹底した場面で、知識人や労働者が「食堂」を使うのは合理的だと思う。でも「カフェ」を使う必要性は見出せない。今の人々が、ロボットに侵食されない労働の領域(参↓)として思い浮かべるものの一つの「レストラン」は付加価値がたくさんついた「カフェ」的なものだ。人間が労働する場所が本来的にはなくなること、その「余祐」を肯定しているように見えて実は、労働者と非-労働者の間隙の中、労働者の側に通諜して「余祐」を否定しているのが「カフェ」なのかもしれない。
JRF2015/12/57826
《日本の労働人口の49%は人工知能やロボット等で代替できる? | スラド》
http://srad.jp/story/15/12/04/0621254/
(昔なら、「ロボット」ではなく買われて来た「奴隷」にできる仕事ということになるのだろう。)
JRF2015/12/53382
……。
第二講話は、「イスラエルと若者」という題で、ミシュナーはナジル人に関する話題となる。ナジル人とは、誓願を立てて、誓った期間、髪を切らず、葡萄の木から生じたものを口にせず、あらゆる不浄…特に死者との接触を禁じられた者のこと。
JRF2015/12/55860
レヴィナスの講話当時の若者は髪を伸ばした。それをナジル人に引っかけている。ナジル人は、期間が過ぎたらすっぱり髪を切らねばならない。…
JRF2015/12/56485
>髪の毛を伸ばしたままにしておくこと、自分を顧みないこと、自分に立ち返らないこと、自分のしていることがどんな効果を生むかなどに心を奪われないこと、自分のしていることの大胆さの程度を測ったりしないこと、こういったことはそのひとが純粋で明晰である限りは、比類なく美しい行為であると言えましょう。けれども大胆さが職業と化してしまうことには注意が必要です!<(p.81)
JRF2015/12/51632
ゲマラーでは、ナジル人の話題を受けているのに、なぜか祝福に関する話題に入る。それは、飲み食いの奇蹟性を問題にしているからだという。
>(…)パンが、それが発生する大地から、それを消費する口にたどり着くまでの旅程は危険に満ちているからです。それは紅海の横断に匹敵するほどに危険な旅程なのです。<(p.100)
JRF2015/12/52347
>あるラビたちの説によれば、食物と飢えたる人々の間には悪霊がいて、パンが人々の口に入るのを、おりあらば邪魔してやろうと待ちかまえております。そして祝福はこの悪霊を追い払う能力を持つ、仲介役の、味方の天使を呼び寄せることができるのだそうです。(…)ここでは平和的な競争が提示されているのです。(…)持てる者たち(…)が、自分のものである食糧を(…)他の人々にも当然分有する権利のあるものとして見る時に、はじめて、飢えたる世界の問題は解決することができるのです。<(p.101)
JRF2015/12/51071
…後半はえらくナイーヴだが、「悪霊」がいるというのはどうも本当のことのように思える。それは戦争であったり経済問題であったりするということ(参:[cocolog:73758235])だけれども。それは祝福し手放す者だけでなく、「アーメン」…「かくあれかし」と唱えてそれをその持ち場に合わせて引き継ぐ者の協力があってはじめて解決に近づく問題なのかもしれない。
JRF2015/12/59378
その成功の条件は、「若さ」そしてそれよりも高い地位に上ってゆくことにあるという。
>若さとは永遠なるものに対する受容の状態を指します。「《父》のコンプレックス」のちょう正反対のものです。イスラエルの民とは若者の最たるもの、トーラー修学生なのです。トーラーを受け容れつつ、トーラーを刷新してゆく者たちのことなのです。<(p.104)
JRF2015/12/51707
>世界を建設的に刷新しつつ、平安をもたらすこと、これがナジル人の誓約を行った若者の意味であり、若者そのものの意味であるのです。<(p.105)
逆に言えば、老いれば自分が持っているものにこだわってしまい、「もの」を与えることができなくなるという示唆があるのかな?
JRF2015/12/55034
……。
第三講話は「脱神聖化と脱呪術化」で、呪術を行った者への制裁を論じたテキストが話題となる。
JRF2015/12/58771
>胡瓜の幻覚を見せたくらいのことでは別にどうということもありません。しかしもし呪術者がその胡瓜を「摘んだ」となると、幻覚が経済的なプロセスに入り込んでゆくとなると、どうでしょう。現代の経済過程は結局この幻想的な胡瓜の収穫とそれに付加される巨大な利益の特権的な場に他ならないわけですが、この場合には呪術は犯罪的なものになります。<(p.127)
JRF2015/12/54342
ここの意味がよくわからない。原発震災のときに農産物はかなり自動化されてどこかで工業的に生産されているのをあたかも農業でできたかのように流通させているという妄想をしたことがあった。何らかの Fake がそこにあると感じていた。(どこかに書いたはずだが見当らない…。)そういうことを言ってるのかな?…と思ったら、この章の後のほうで次のような文章があった。
JRF2015/12/58437
>おそらく人間的な目的に奉仕するための合理的な技術とは別に、幻想を産出する技術というものが存在するのです。つまり胡瓜を作りだし、それを販売するような技術が、証券取引所的な投機によって暴利をむさぼる者たちが操る類の技術が。<(p.144)
…ということで「投機」に代表される金融技術への批判であったよう。
JRF2015/12/54971
テキストでは呪術に対する刑として石撃ち刑や斬殺刑などが話題になるが、実は「死刑」が執行されることはほとんどなかったらしい。
>ラビ・タルフォンとラビ・アキバはこう言っております。「私たちサンヘドリンに席を占めていた間には誰一人死刑にはならなかった。」<(p.131)
JRF2015/12/51565
死刑には実際になる者がいなかったとしても、どの刑に相当するかを論じることには意味があるということらしい。
JRF2015/12/54841
斬殺刑に相当するとしたときは背徳的な諸部族の文明に呪術が属すと考えるのに対し、石撃ちの刑に相当すると考えるときは、その軽はずみさが問題になるという。
>眼を伏せているべき時にじろじろ眼を上げるこの好奇心、神を前にした時の無遠慮、神秘に対する鈍感さ、(…)ある種の「フロイト主義」、おそらくまた、そのような教育に不可欠の驚嘆すべき言語を考慮しないままに行われているある種の性教育、(…)そしておそらく「万人のための学問」というある種の要求、こういったものが呪術と言われているのです。<(p.134)
JRF2015/12/52985
呪術は安息日(シャバット)の侵犯と類比されうるらしい。
JRF2015/12/54989
>反動的な迷信や、技術の進歩を前にした恐怖など何ほどのことでありましょう! 私たちが増長しない限りは、何をしてもいいのです。人工肉を作ってもいいのです。それは呪術ではないのです。人工肉ならいいのです。そうです。安息日のための肉ならいいのです。これは瑣末なことではありません。安息日が存続する限りは、いかなる大胆な夢想に形を与えてもよいのです。事物の秩序から、必然性から、事物の歯車装置から、人間は脱出する能力を持っており、それが人間の至上権なのです。<(p.146)
JRF2015/12/55263
手を触れずに近付いただけで明かりが着く照明は、安息日にも使っていいという話を思い出す。安息日が発明を促すこともあろう。
JRF2015/12/59435
ラビ・エリエゼルは、ある(新式の)かまどが不浄かどうかを巡って他のラビと対立し「破門」された。木がひとりでに根こそぎになったり水が逆流したり奇跡が応援しているように見えても、ラビ・エリエゼルは正しいとはされなかった。
JRF2015/12/55305
ラビ・エリエゼルの死の直前、(かつての)弟子達が訪れた。死の間際なのに出された質問は、容器とも非容器ともどちらとも取れる皮製の五つの物体が浄か不浄かという瑣末なものだった。ラビ・エリエゼルの答えはすべて「不浄」というものだった。さらにもう一つの質問がなされた。それは「靴型の上にある靴」について浄か不浄かという質問だった。
JRF2015/12/53861
>なぜこういう質問がなされたかというと、未完成の物体は不浄性を受け取ることができないからです。<(p.164)
ラビ・エリエゼルは「それは清いものである。」と答え、その「清い」という言葉を口にしながら、死んでいったという。
JRF2015/12/51937
今回参照したゲマラーは最後、呪術を学んではならないとはいいつつも、それを理解し、それを教えるためには、すべてを学ばなくてはならないと述べる。
>一番大事なことは最後に書いてあります。偽りの神聖なるものが(あるいはむしろ神聖なるもの「そのもの」と言った方がいいかも知れません)棲息する幻想と呪術の世界について、また神聖なるものの頽落について、私たちはここまで学んできたわけですけれども、こういったことのすべては知っておくべきことなのです。<(p.168)
JRF2015/12/52405
「可死的な神(々)」からもユダヤ教は「知」は得ている。その「知」があるために禄を得る者もいるかもしれない。もちろん、聖性は生ける「神」から来るのだけれども。
JRF2015/12/51287
……。
第四講話は、「そして神は女を造り給う」という題で、まず神が人間を創造したことを、そして男と女に造ったことを話題にする。
JRF2015/12/53413
>こういうバライタが存在する。「女をじろじろみつめる機会を得るために、手から手へ金を渡す男は、たとえトーラーにしたがって生き、我らが師モーセのごとく善行を積んでいても、地獄の罰を逃れることはできない。<(p.180)
JRF2015/12/59705
ポルノを買ったことのある私は地獄往きということだろう。上で書いたように「暗い欲望」を持つことがあったとしてもそれはごく弱いもので、ポルノで発散できる程度のものだ。微々たる歩みだが少しずつ回心はしているつもりだ。でも、いきなりポルノを捨て去るようなことは私にはできそうにない。このまま少しずつ遠ざかって、枯れていければいいと思う。そうしていつかポルノを絶てれば、地獄往きも許されたりはしないだろうか? そこに望みを持てることが「地獄」の意義のようにも思うから、そう信じたい。
JRF2015/12/59775
>人間はすでに完全に出来上がっていた世界に到来したのです。にもかかわらず人間が最初に懲罰を受けなくてはならないのです。自分がしたわけではないことについてさえ有責なる者、それが人間です。被造物の人質であるがゆえに、人間は宇宙に対して有責です。<(p.195)
keyword: 原罪
これは「原罪」という考え方、その考え方に影響を受けたものなんだろうか。それとは違うんだろうか…。
JRF2015/12/54799
>男は女の後ろを歩いてはなりません。というのは女の後ろを歩くと、男の思念に乱れが生じるからです。最初の理由は男性心理への洞察に基づいているわけです。女は、ただ自然にいるだけで、エロティックである、という観察がこの禁制の前提にあります。<(p.206)
JRF2015/12/51905
私はゲーム『モンスターハンター4』では女性キャラを使っていた。それは女性の尻をおっかけるほうが見た目にいいというエロい判断からだった。[cocolog:78275541] では>ナルガ腰のほうが、ちょいエロで、見てるユーザーのヤル気というパラメータに悪影響がある感じだった<とか述べている。
この辺の男性心理を自然なものというか聖なる理由のあるものと女性には受け取ってもらえるものかどうか…。
JRF2015/12/59622
……。
第五講話は、「火によってもたらされた被害」という題で、火事の損害賠償に関するミシュナーが話題になり、そこから戦争へと話題を転じる。
JRF2015/12/53492
>「(…)『義人は不幸がおこるより前に取り去られる。』」<(p.221)
「善人は前の戦争で皆死んだ」とかいう発言をどこか(複数)で見たことがある。平和な日本だが、そうであっても生き残ってる自分はどこかしら義人ではありえないようにも思う。日本はもちろん世界的に高齢化が叫ばれる社会、これから不幸を多く見なければならないのではないかと案じている。
JRF2015/12/52194
火事を出したとき、いばらや小麦の束や立ち穂や他人の畑について償いをしなければならないと『出エジプト記』22:6には書かれている。
>ではなぜ「立ち穂」なのであろう。立ち穂は眼に見えるところに立っている。であるから、これは眼に見える場所すべてについて有責であることを意味する。<(p.229-230)
JRF2015/12/54173
[cocolog:77514629] や [cocolog:8285349] でも書いたが、出エジプト記 23:19などで「子山羊をその母の乳で煮てはならない。」とあるが、finalvent 氏などはそれは「かわいそうだから」ではなく、「神がそう命じたから」煮ないと解釈することを勧めていた。でも、この「立ち穂」に関してはそのような類推解釈を許しているように見える。
JRF2015/12/58261
>私たちは今、平和な時代に生きてはいないでしょうか。(…)地上には正義が行われているはずではないでしょうか。なるほど、そうかも知れません。もし火という根源的な力のうちにすでに統御不能のもの、すなわち戦争が入り込んでいるのでないとしたら。しかし、繰り返し申し上げますが、火が統御不能であるからといって責任をまぬかれることは誰にも許されはしないのです!<(p.233)
「対岸の火事」などといってはいられないというのは、先に挙げたパリ同時多発テロ事件からも類推できること。想像は妄想は、火のように燃え広がる。
JRF2015/12/53933
>シナゴーグや教会の虚構の平和のうちに逃避してはなりません! このことについてはもう話したとおりです。ただし、そこに生命がみなぎている場合、聖書を学ぶ子供たちがいる場合、祈りが集団性から発される場合、そういう場合はその限りではありません。それは孤立のうちに平穏を求めることとはちがうからです。公共的な祈りが行われないシナゴーグや学びの場所ではないような聖域に武器は備蓄されるというテーゼをクラウゼヴィッツだったらどう考えるか、私には分かりません。<(p.252)
JRF2015/12/53968
「空爆」がどこを狙ってるのだろうと心配になることはある。それはしかたがないことなのか…。もしくは、何かメッセージ性を持って空爆がなされているのか…、それはわからない。でも、大空襲や原爆の話を知る日本人にとって、人々の苦しみにも思いを致すことは敵に組することにはならないと思う。
JRF2015/12/51528
……。
「訳者あとがき」から。
JRF2015/12/53116
>個人的な生活で困難に遭遇したとき、そこから「逃避する」ためにではなく、その困難に立ち向かい、その困難の本質を究明するためにこそ「哲学書」を読む、というひとはあまりいないようである。病気の時にヘーゲルを読んで勇気づけられたとか、生活苦の時にハイデッガーを読んだら救われた、というような話を訳者は寡聞にして知らない。(…)しかし、レヴィナスは違う。<(p.269)
JRF2015/12/51037
私の読書も「逃避」なのかな…。確かに何かの役に立てられそうもない読書ばかりをしている。というよりも、私の人生の目的みたいなものを見失っていて、いや、そういう「目的」があると思うのが間違いで、「生活」を力強く生きていくことが必要なんだと頭ではわかっているつもりなのだが、実践が伴わない。
JRF2015/12/50685
この先、どう生きていくのか。それに迷っている。逃げているだけなのか?…それはわからない。そうではないと思いたい。自己肯定感が欲しい。しかし、それが難しい。怠惰に人生を過ごしてしまっている。贅沢だ。だが、今の時代でも、それは許されないのか。そういう疑問もある。自分以外の(働く)人々がもっと幸せであればいいと願う。そう思うがゆえの「怠惰」という選択なのだと考えるのは…甘えに過ぎない…のだろうな…。
JRF2015/12/54746
トラックバック
他サイトなどからこの記事に自薦された関連記事(トラックバック)の一覧です。
『旧約聖書』を『旧約聖書略解』とともに読んでいる。モーセ五書(トーラー)まで読んだ。 続きを読む
受信: 2016-06-29 15:53:09 (JST)
レヴィナス『聖句の彼方』を読んだ。訳されていて日本語になってるのだが、意味をとるのが難しい。私は対象読者ではないのだろうと思う。 続きを読む
受信: 2017-04-02 04:03:53 (JST)
レヴィナス『諸国民の時に』を読んだが、難しくて理解できなかった。哲学者はこれを読み下しているのだな。尊敬する。期待して読んだ「タルムード読解」は、他の章に比べてわかりやすかったが、得るところは少なかった。... 続きを読む
受信: 2017-06-28 19:13:25 (JST)
レヴィナス『困難な自由』を読んだ。やはり難しい。しかしこの語り口には知性を感じる。それを学びたいと思わせるものがある。ユダヤ人内部の問題が語られるときも、日本人として人類としてどう引き寄せて考えるか、反射しての有責性が問われているように思う。... 続きを読む
受信: 2017-09-30 06:57:01 (JST)
『タルムード四講話 新装版』(エマニュエル・レヴィナス 著, 内田 樹 訳, 人文書院, 2015年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4409030876
http://7net.omni7.jp/detail/1106601799
『タルムード新五講話 新装版 神聖から聖潔へ』(エマニュエル・レヴィナス 著, 内田 樹 訳, 人文書院, 2015年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4409030884
http://7net.omni7.jp/detail/1106601778
JRF2015/12/52095