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エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を読んだ。精神科医が私との会話の中からふいにこの書名を出してくださったので、読んでみた。 (JRF 7078)

JRF 2015年12月19日 (土)

『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム 著, 日高 六郎 訳, 東京創元社, 1965年 新版)
http://www.amazon.co.jp/dp/4488006515
http://7net.omni7.jp/detail/1100247975

JRF2015/12/192829

まず要約しよう。

中世末期、または資本主義の発達につれて、個人個人は「個性」化され、自由になった。しかし、それは個人を孤独にし、無力さ無意味さを(無意識的に)感じさせることにもなった。孤独・無力になったとは、例えば、教会への帰属が失われたこともそうであるし、外部の資本の必要性によって自分の目の届かないところまで奉仕する形になったこともそうである。例えば(p.141)、昔の小売店主は取引先と様々な交渉をしたが、現代のガソリン・スタンドの店主の場合は、仕入先は決まっていて販売先は交通量により決まってくるだけで、より歯車的に働かねばならなくなっている。

JRF2015/12/191295

両親などからの庇護である「第一の絆」をやがて離れる個人は、愛や生産的な仕事のなかで外界と結ばれる「積極的な自由」を求めるべきである。しかし、それを得られず、ときに新たな庇護を求めて権威主義つまりファッシズム(ファシズム)に逃避することがある。ファシズムの下では決して元のような満足な絆を得られるものではなく、いずれ限界を迎えるであろうことを著者は予測する。一方、ファシズムを免れてデモクラシーに生きる人々も、外部から与えられただけの「自己」を自分と思い込むような「自動機械」になっていて、無力さ・無意味さを感じており、いつファシズムに転化しても不思議ではない。

…という。

JRF2015/12/197596

解決として経済的な側面からは…

>生産の問題は -- 少くとも原則的には -- 解決された。そしてわれわれは、経済的な特権を求める争いが、もはや経済的貧困によってうながされることのない豊富な未来を思いうかべることができる。こんにちわれわれが直面している問題は、人間 -- 組織化された社会の成員としての -- が社会的経済的な力の主人となって、その奴隷であることをやめるように、それらの力を組織化することである。<(p.297)

JRF2015/12/193009

…と述べ、>計画経済<(p.298) を推奨するが、1941年の段階で、ロシアの「社会主義」は欺瞞的(p.300) であるとすでに述べ、現実的な経済提言という面では弱いのは、本書が「社会心理学」の書であるという建前から、割り引かねばならないだろう。

JRF2015/12/196973

その点、この本の結論としては、次の事実を指摘したことを挙げるべきなのだろう。

>社会的性格は、社会構造にたいして人間性がダイナミックに適応していく結果生まれる。社会的条件が変化すると社会的性格が変化し、新しい欲求と願望が生まれる。これらの新しい欲求が新しい思想を生み、ひとびとにそれらの思想をうけいれやすいようにする。これらの思想が、こんどは新しい社会的性格を固定化し強化し、人間の行動を決定する。いいかえれば、社会的条件は性格という媒体を通して、イデオロギー的現象に影響を与える。(…)<(p.326-327)

JRF2015/12/193617

これは、プロテスタンティズムの成立の前に、時代に取り残される人々がいて、それがプロテスタンティズムが出てくることで、社会に必要とされる性格を内面化させることで、逆に時代を推進する力が生まれてきたことから導かれている。この辺りはマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をより精密に考えたといったところなのだろう。

JRF2015/12/194878

……。

細々とした点について…。

JRF2015/12/190391

……。

>フロイトは、抑圧から文化的行動へというこの不思議な変化を昇華とよんだ。もし抑圧の度合が、昇華の限界以上に達すると、個人は神経症[ノイローゼ]になり、抑圧を減らすことが必要となる。しかし、一般的には、衝動の満足と文化とは逆比例する。抑圧がつよいほど、より多くの文化が生まれる。<(p.17)

ポルノとかは抑圧の結果なんだとは思うが、しかし、その量は自由な国のほうが多いだろう。量の問題ではないのかな? 抑圧もおおっぴらだということなのだろうか?

JRF2015/12/197515

……。

>(…)ひとびとにまじって生活していても、極度の孤独感に打ちひしがれることもあろう。その結果ある限度をこすと精神分裂症的な障害のように狂気の状態となる。<(p.26)

JRF2015/12/193850

>他人が私にそうあるように期待していることの、反射にすぎないような自我以外に、自我などは存在しない。私は「あなたが私に望むままのもの」である。この同一性の喪失の結果、いっそう順応することが強制されるようになる。(…)もしわれわれがこのような事情にしたがって行動しないならば、われわれはたんに非難と増大する危険をおかすだけでなく、われわれのパースナリティの同一性を喪失する危険をも犯すことになる。そしてそれは狂気におちいることを意味するのである。<(p.280)

JRF2015/12/192478

私はこれらに該当するのだろうか? 極度な孤独感はあった。でも、同一性を失うのは別のパターンのように思う。

JRF2015/12/197052

……。

>すなわち自己を自然や他人とはちがったものとして意識することによて、またたとえぼんやりとはしていても死や病気や老衰を意識することによって、人間は宇宙や「自分」以外のすべてのものと比較して、自分がどんなに無意味で卑小であるかを感じないわけにいかなくなる。<(p.28)

上の要約で私は、「中世末期、または資本主義の発達」に自由になると同時に孤独となったと書いたが、もっと根源的な部分でそうなのだという。

JRF2015/12/196186

……。

>人間が自由となればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。<(p.29)

本当は、ここをもって要約にかえようかと思った部分。これがこの本の本旨だと思う。

JRF2015/12/192568

……。

>個性化の過程は自動的に起こるのに反し、自我の成長は個人的社会的な理由で、いろいろと妨げられる。この二つの傾向のズレが、たえがたい孤独感と無力感を生みだし、そしてこの孤独感と無力感とが、今度は逆にのちに逃避のメカニズムとしてのべるような、心理的メカニズムを生みだすことになる。<(p.41)

逃避のメカニズムとしては権威主義的性格などが挙げられる。

JRF2015/12/194339

……。

>資本主義においては、経済的活動や成功や物質的獲得が、それ自身目的となる。経済的組織の発展に寄与することや、資本を蓄積することを、自分の幸福や救済という目的のためにではなく、目的それ自身として行うことが人間の運命となる。人間は巨大な経済的機械の歯車となった(…。)<(p.127)

ここが、上の要約で「外部の資本の必要性によって自分の目の届かないところまで奉仕する形になった」と書いた部分である。

JRF2015/12/194941

……。

>人間をこえた目的に、たやすく自己を服従させようとするこの傾向は、実際には、プロテスタンティズムによって準備された。もちろん、ルッターやカルヴァンの精神にとっては、経済活動のこのような優越性を認めることほど縁遠いことはかなったけれども。しかし、かれらはその神学的な教えにおいて、人間の精神的な支柱と、人間の尊厳と誇りとの感情とを破壊することによって、またあらゆる活動というものは、人間の外部にある目的を、よりいっそう促進させるためのものでなければならないと説くことによって、この傾向を発達させる基盤を作ったのである。<(p.127)

JRF2015/12/193693

私も宗教改革に関心を抱いたことがある。「動機付け」という点で特に注目したこともあった。

《IT 革命と私 -- 神学の忌避の向こう》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2010/11/post-2.html

《義認説と予定説》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_4.html

JRF2015/12/190771

……。

上のガソリン・スタンドの例の他にホワイトカラー・百貨店・選挙・宣伝などの例を挙げてからこういう。

>個人のできるのは、行進する兵士や無限のベルトにとっくむ労働者のように、歩調をあわせることだけである。かれは行為することはできる。しかし独立や意味の意識は消えている。<(p.148)

これを近代デモクラシーにおける人間の自動機械化(p.151)と呼んでいる。

JRF2015/12/194138

……。

著者はサディズムとマゾヒズムは「共棲(symbiosis)」(p.176)しているというが、私はサディズムが支配する者を欲しているという点は確かに同時存在を欲しているが、それが都合よく供給されることは少ないのに対し、マゾヒズムはサディズムの過剰から容易にその相手を見つけるという点で、かならずしもバランスしているようには思わない。

ただ、マゾヒズムがなぜ生じるかというと孤独感と無力感を逃れようとして生じるという点は著者の見解が当っているようにも思う。

JRF2015/12/194700

>マゾヒズムはこの目標への一つの方法である。マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば自由の重荷からのがれることである。<(p.170)

JRF2015/12/192059

ファシズムは、自己の無力感がより広がると思えるような方向にマゾヒズム的に走ることで選択される。それが支配層のサディズムと共棲しているということだろう。

>私はサド・マゾヒズム的性格という言葉を使うかわりに「権威主義的性格」と呼ぶことにしたい。<

JRF2015/12/192973

>権威主義的性格の本質は、サディズム的衝動とマゾヒズム的衝動の同時存在として述べてきた。サディズムは他人にたいして、多かれ少かれ破壊性と混合した絶対的な支配力をめざすものと理解され、マゾヒズムは自己を一つの圧倒的に強い力のうちに解消し、その力の強さと栄光に参加することをめざすものと理解される。サディズム的傾向もマゾヒズム的傾向もともに、孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服するために共棲的関係を求める要求とから生ずる。<(p.244)

JRF2015/12/191432

私は大阪に住んでいるのだが、ここは現在「おおさか維新の会」という政党が強い。ときに地域外の識者が、それをファシズム政党と呼ぶのだが、私には実感がない。確かに、中央と違う政権を地方でのみ認めることは何らかのデメリットがあるのかもしれず、それを受けいれることはマゾヒズム的に見えるのかもしれないが、本人達にとってはある種の気慨を見出してる面もあると思う。私個人は「党」については支持するともなんとも言えないが、橋下徹氏についてはやや好意的に見ていた(参:[cocolog:76513876])。

JRF2015/12/196155

……。

ファシズムを免れたデモクラシーの側でも「権威」がなくなったわけではない。

JRF2015/12/190201

>最近になって、「良心」の重要性は失われてきた。個人生活において力をふるっっているのは、いまや外的権威でも内的権威でもないようである。すべての人間は、もしかれが他人の合法的な主張に干渉しないならば、完全に「自由」である。しかしわれわれのみるところによれば、権威はなくなったのではなく、むしろ目にみえなくなっただけである。あらわな権威のかわりに、匿名の権威が支配する。そのよそおいは、常識であり、科学であり、精神の健康であり、正常性であり、世論である。(…)けっきょくわれわれの全生活をおおっているのは、これらの微妙な暗示の雰囲気である。<(p.185)

JRF2015/12/194776

その匿名の権威にすがってしまって安心をえるのが「人の自動機械化」なんだろうか?

>個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一となった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。<(p.204)

JRF2015/12/191033

そうだろうか? そんなにたやすく自動人形化されるだろうか? 人の生活はそんなに生やさしいものではないという気もする。仕事においてのみそうであることがどれほどの不幸だろう? 見過ごされがちな創意工夫はそれでもあるだろうし、働きがいを感じる瞬間はどの個人にでもあるのではないか。…などと、働いていない私は想像する。

JRF2015/12/190698

……。

>ヒットラーは自分の窮極の目標について次のように書いている。すなわち「民族国家においては、民族的人生観は、ひとが犬や馬や猫をよりよく飼育することなどに気をつかわず、むしろ人類そのものの向上に気をつかうというあのより貴い時代、あるものは知りつつだまって断念し、他のものは喜んですべてをあたえ、喜んで犠牲を払うような時代の実現に、最後には成功しなければならない」。<(p.255)

JRF2015/12/197602

ここで著者は、「知りつつだまって断念し」のあと、その反対のタイプである「指導する」とか「責任をとる」とかがきそうなのにきてないと説明しているが、「他のものは喜んですべてをあたえ、喜んで犠牲を払う」のが支配者の心持ちだというレトリックなんだろうね。「好まない戦闘」という犠牲を払うといったところか。

JRF2015/12/198954

……。

>近代の産業組織は本質的に、あらゆる人間にたいし、経済的に保証された生活のための手段を造りだすだけでなく、労働時間をいちじるしく短縮させながら同時に人間の知的、感覚的、感情的な潜在力を十分に表現するための物質的基礎を創造する力をもっている。<(p.260)

JRF2015/12/197783

上の要約でも似たような文があった。…私もそう信じてたんだけどね。最近は、近所の工事の人とか見てて、そんなに物質的余裕はなかったのかな…と思い返している。そんなに余裕のある価格で請け負ってるようには見えない。まだまだ多くの人が「労働」しないとダメなのかな…って。でも私個人はまともに「労働」できるように思えないんだけど。私、ほんとにダメ人間だから。

JRF2015/12/199574

……。

自動人形化した人間には無意識的な苦悩がある。…その

>(…)苦悩をみおとすならば、われわれはわれわれの文化をその人間的基盤からおびやかしている危険をみぬくことに失敗するであろう。すなわち、もし興奮を約束し、個人の生活に意味と秩序とを確実にあたえると思われる政治的機構やシンボルが提供されるならば、どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受けいれようとする危険である。人間機械の絶望が、ファッシズムの政治的目的を育てる豊かな土壌なのである。<(p.282)

JRF2015/12/191282

そういえば、今、アメリカの大統領選で、トランプ氏という候補が歯に衣きせぬ発言で注目をあびているね。そういった部分を指しているのだろうか? それとはまた別のものなのかな?

JRF2015/12/192845

……。

著者は「積極的な自由」を解決策として勧める。

>積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する。<(p.284)

JRF2015/12/191906

その「自発的」であった人々の例として「芸術家」を挙げる。>ある哲学者や科学者もまた芸術家といわなければならない。<(p.285) 私自身もある種の「芸術家」なんじゃないかと思っている時期もあった。(今も少しそう思っている。)

>しかし芸術家の地位は傷つきやすいものである。というのは、その個性や自発性が尊敬されるのは、じっさいには成功した芸術家だけであるから。もし作品が売れなければ、かれは隣人から奇人か「神経症患者」とみられる。<(p.286)

かくして私は「狂人」と見られているわけだ。

JRF2015/12/199787

が、しかし、私が学生のころから考えて、それで TV CM とかを見て、「アーティスト」を目指した人間はたくさんいるように見えるのに、それが結局どうなったかは見えにくい。私なんかはそこに欺瞞的システムがあるんじゃないかと邪推しているのだが、本当のところはよくわからない。どうなっているのだろう?

JRF2015/12/199401

>このことはまた、活動そのもの、すなわち過程がたいせつで、結果がたいせつではないことを意味する。われわれの文化にあっては、まさにその逆が強調されている。(…)ひとは自分に本当の幸福をあたえてくれるただ一つの満足感 -- 現在の活動の経験 -- をみのがし、つかまえたと思った瞬間に失望させられる一つのまぼろし -- 成功という幸福のまぼろし -- を追い求める。<(p.288)

そうはいっても「成功」したいよ…。

JRF2015/12/199049

……。

理想には真の理想と偽の理想があるという。ファシストが「犠牲を払って」追い求めているのは偽の理想だという。

>真の理想にはすべて一つの共通したものがある。すなわちそれらは、まだ実現されていないとしても個人の成長と幸福にとってのぞましいものを求めようとする欲求を表現している。<(p.292)

JRF2015/12/195871

>(…)マゾヒズムの現象をみると、人間が苦悩や従属の経験に引きこまれることのあることがわかる。(…)仮想の理想とは、主観的には魅惑的な経験(服従への衝動のように)でありながら、じっさいには生に有害であるような、強迫的な非合理的な目標と定義するにいたる。(…それは…)理想ではなく、病的な目標であることは明瞭である。<(p.293-294)

JRF2015/12/192435

犠牲にも真の犠牲と偽の犠牲があるという。

>真の犠牲は精神的な統一性を求める非妥協的な願望を前提とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻をかくしているのにすぎない。<(p.295)

JRF2015/12/190778

……。

ドイツでナチズムが台頭してくるとき社会主義や共産主義は脇へ追いやられた。

>社会主義は権威にたいしては個人の独立を強調し、個人的な隠遁にたいしては連帯性を強調するが、それは、これらの労働者がの多くのものが、かれらのパースナリティ構造にもとづいて、本当に求めていたものではなかった。<(p.310)

権威主義的性格をみぬいてなかったということか。

JRF2015/12/190863

……。

>だれでもその幼いときに、無力を特徴とする時期を通過している。この無力な状態において、正義感や真理感のような特性が発達し、それが人間に一般的な能力となったように思われる。<(p.318)

正義や真実は幼い子供が主張しても、正義や真実であることから、彼らの力になる。それが「人間性」として確立するのは力学として当然であるという。

JRF2015/12/192354

>フロイトは、性のうちにただ生理的な強制だけしかみず、性的な満足のうちに苦しい緊張からの解放だけしかみていなかった。過剰の現象としての性的衝動や、自発的な喜びとしての性的快楽 -- その本質は緊張からの解放というような消極的なものではない -- は、かれの心理学では場所をっていないのである。<(p.323-324)

JRF2015/12/196642

訳者によると、>フロムのたつ心理学的な立場は、いわゆる新フロイト学派あるいはフロイト左派ともよばれているそれである。(…)新フロイト学派では、社会的な人間関係のなかで形成される衝動や欲求を考えることによって、フロイトのすべてを性でぬりつぶす汎性主義を克服している。<(p.330) …らしい。

JRF2015/12/193354

……。

……。

なぜ、精神科医の先生は私と対面してこの書に言及したのだろう。ファシズム的な脅威が近づく時代性に言及なさりたかったんだろうか…。何かの庇護を求めようとしている私について警告を発してくださったのだろうか…。「労働」すなわち本当の自由からいつまでも逃避していてはいけない、それはできない、できない時代になりつつある、ということだろうか…。…理解にとぼしい人間ですみません。orz

JRF2015/12/193674

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