cocolog:84574663
蜂屋 邦夫 訳注『老子』を読んだ。読んでもあまりピンと来なかった。私は栄達とは関係ない境地に居て久しく、そこで「無為」を説かれても虚しいだけだった。 (JRF 2694)
JRF 2016年2月12日 (金)
『老子』(蜂屋 邦夫 訳注、岩波文庫, 2008年12月)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003320514
http://7net.omni7.jp/detail/1102632536
JRF2016/2/122274
このところ、『列子』([cocolog:83935116])、『荘子』([cocolog:84506351])と道家の書物を読んできて、これで『老子』を知らないというわけにはいくまいと思って、買い求めて読んだ。
JRF2016/2/127794
『列子』は偽書であるという説があるが、『老子』についてもそのような書として私にとっては『列子』以上にマイナスイメージがあり、読むのを避けていた面がある。老子が偽書であるという説はネットではあまり見ないが、老子という人物の実在は、『史記』のころからあやふやだったことがこの本にも書かれている。
JRF2016/2/123689
『老子』は日本では江戸時代から注解の本があったりして、日本でも学問が蓄積されてきたところ、1973年に古い質料が、1993年にさらに古い質料が見つかって、かつての訓詁学が多きく揺らいだことがあるそうだ。私にマイナスイメージを植え付けた「誰か」は、専門家達がそのときに受けた苦々しさを伝えたかったのかもしれない。
JRF2016/2/124306
>『老子』についての現在の研究状況は、ひとむかし前と、まったく違っている。そのことは、1973年の帛書『老子』、1993年の楚簡『老子』の発見がもたらしたものである。これらの発見によって、それまでの、『老子』の原型を復元したり、あるいは再構成したりする研究は、ほとんど瓦解してしまったと言ってもよい。<(あとがき, p.252)
JRF2016/2/124192
今回の岩波文庫の本の発売は 2008年。「衝撃」をある程度吸収した上での発売ということになろうと思う。訳は、正直言って、こなれてないんじゃないか、他に良い訳があるんじゃないかと思う部分もないではなかったが、これも『老子』の現代の姿として知っておいて損はなかったのではないかと思う。
JRF2016/2/129443
……。
>これが道ですと示せるような道は、恒常の道ではない。これが名ですと示せるような名は、恒常の名ではない。<(第1章, p.11)
現在の『老子』はこの一文ではじまる。『荘子』や『列子』などと違って、実例を引くようなことはなく、このような哲学的(と言っていいのかな?)な文章がずっと続いていく。例がないのでとっかかりがなく、正直記憶にはほとんど残らなかった。右から入って左から抜ける感じ。
JRF2016/2/129883
……。
>「聖人は仁ならず」は、儒家の聖人観や仁徳を否定し、非情なものだということを言っている。<(第5章, p.32)
無為は非情でもある。非情だから無為でおれるという面もあるのだろう。こういう言い方をされると道家を好きになれないが、まぁ、それは私の「弱さ」というか「かたくなさ」なのだろう。
JRF2016/2/121390
……。
>仕事をなし遂げたら身を退ける、それが天の道というものだ。<(第9章, p.42)
プログラム等でやりたいことはやりつくした。私はだから次のステップを求めているという面がある。まだ身を退けていいトシではない…でも、このトシでも退いていいなら、このまま退いちゃってもいいという思いも半ばある。社会に迷惑はかけるけど…。
JRF2016/2/124632
……。
>人君が技巧や功利をすててしまえば、盗賊はいなくなる。<(第19章, p.85)
所有権をなくして共産主義化すれば「盗賊」という概念はなくなる…と読むと、モリスの『ユートピアだより』([cocolog:83220604])を思い出す。技巧に頼らないというのは荘子([cocolog:84506351])にも同じような議論(子貢が出てくるところ)があり、この本にもその部分に言及があった。
JRF2016/2/123015
……。
>奪ってやろうとするならば、かならずしばらく予[あた]えてやれ。<(第36章, p.169)
ここは以前にブログで参照した。こすっからくて陰謀論じみてて暗い部分…、通して読んでみるとどちらかといえば朗[ほが]らかな老子らしくない部分だった。
《盗びとに頼ろうとする者を見たならば》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post_15.html
>ググると「奪うためには、まず与えよ」は《老子の言葉》(第36章) のようです。<
JRF2016/2/128341
……。
>天下の物は有より生じ、有は無より生ず。<(第40章, p.193)
「無から有が生じる」というのは大胆な言葉で、質量保存則のある現代から見て不適切な言葉だが、質量保存則的なものはその前の「天下の物は有より生じ」の部分であって、「有は無より生ず」はどうもそれとは観方が違い、ここの「無」は「道」と通ずるらしい。
>「道」は形容のしようがないから「無」と言ったのであり、「無」は何もないことではない。<(第40章, p.194)
JRF2016/2/127057
……。
>「晩成」は、おそくても完成するということであるから、肯定の意味であるが、元来、大いなる器は完成しないというのが『老子』の本義であった。<(第41章, p.200)
「大器晩成」の出典だが、帛書や楚簡まで辿っていくと別の意味であったという。
JRF2016/2/129455
……。
>「和其光同其塵」は、いわゆる和光同塵の典拠となった言葉。<(第56章, p.258)
「和光同塵」を広辞苑で引くと、老子第4章を原典として指している。調べるとこの本にも確かにそのような文があるが、この本では第56章を原典としている。何か意味があるのだろうか?
JRF2016/2/126642
広辞苑では、二つの意味が載っていて、(1)知恵ある人がその知の光をやわらげ隠し、俗世間の人々の中に同化して交わること。(2)仏・菩薩が本来の知徳の光を隠し、煩悩の塵に同じて衆生を救済すること。特に、仏が日本の神として現れる本地垂迹のことをいう。和光垂迹。…とある。
JRF2016/2/126980
……。
>「千里之行」(…)『老子』の原型は「百仞之高」であろう。(…)「千里の行も足下より始まる」は(…)「千里の道も一歩から」の典拠になったきわめて有名な格言であり、いま、原型を指摘した上で、底本のままに訓読し、翻訳した。<(第64章, p.293)
「千里の道は高速道路」「千里の道も自転車こいで」というのが私の作った「格言」。私は昔(中高生のころ)はそんなことを考えてた。
JRF2016/2/127294
……。
>むかしの、よく道を修めた者は、人民を聡明にしたのではなく、愚かにしようとしたのだ。(…)知恵によらないで国を治めれば国が豊かになる。<(第65章, p.298)
『韓非子』([cocolog:84446917])のところで引いた「知らしむべからず依らしむべし」との考え方との違いは、支配者も愚かであればいいと考えているところだね。でも、特に外交とかを考えると本当にそれでいいのかなぁ…と私などは否定的に観てしまう。
JRF2016/2/121180
……。
>天網恢恢、踈にして而も失わず。<(第73章, p.330)
>「踈」は「疏」の異体字、まばらなこと。(…)易州・龍興観碑には「踈而不漏」とあり、日本では、この「漏らさず」とする方が知られている。<(第73章, p.331-332)
「天網恢恢[てんもうかいかい]疎[そ]にして漏[もら]らさず」を広辞苑で引くとこの章が出典とされ意味は「天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずこれを捕える。悪い事をすれば必ず天罰が下る意。」…とある。
JRF2016/2/120902
……。
……。
最初のほうで書いたように「哲学」がうまく頭に入らず、今回は、格言の出典を確かめる引用ばかりになってしまった。
無為に生きてしまっている私には、過ぎた本だったということだろう。無為も長ければ、慰められることもなかった。今の私は「仕事」に向かっている…向かいたいという点で、肌に合わなかったのかもしれない。
JRF2016/2/125340
typo 「多きく」→「大きく」。
JRF2016/2/125047
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受信: 2016-03-29 18:36:59 (JST)
若い人がこういう境地もあると心に留めておく、または、人生経験を積んだ老年の方が、「別の考え方」として読むにはいいのかもしれないが、私のような中途半端で無為徒食の人間が読んでもあまり意味はないのかなと思った。
JRF2016/2/122447