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cocolog:84588927

金谷 治 訳注『大学・中庸』を読んだ。科挙で使われた四書五経、その「四書」のうちの二つが『大学』と『中庸』で、短いこともあり、教養として一度読んでみようと手に取った。 (JRF 7436)

JRF 2016年2月14日 (日)

ちなみに、四書の残りは『論語』と『孟子』で、『論語』は読んだことあるが、『孟子』はまだ読んだことがない。『孟子』はいまいち読む気力がわかないが、この先、読書が暇になりそうなら読むかもしれない。

JRF2016/2/140623

『大学・中庸』(金谷 治 訳注, 岩波文庫, 1998年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003322215
http://7net.omni7.jp/detail/1101496604

JRF2016/2/147940

井筒俊彦『意識と本質』([cocolog:83187076])を読んで、朱子学(程朱の学)は、禅的な修行体験、つまりある種の宗教体験を経ることを知ったのちにはじめて朱子学的文献を読んだことになる。その点で、これまで儒教に接していたのと違う視点を得ていたわけだが、今回の読書でそれを意識したのはわずかだった。

JRF2016/2/146049

……。

>『大学』は「初学入徳の門[いりぐち]」として「四書」の中えもまず第一に学ぶべきもの、『中庸』は最も深遠なものとして「四書」の最後に学ぶべきものであった。<(はしがき, p.3)

『大学』『論語』『孟子』『中庸』の順に読むといいらしい。『論語』を先に読んで『大学』を読み、『孟子』を読まず『中庸』を読むことになったわけだが、まぁ、気にするほどのことでもないと思いたい。

JRF2016/2/144967

……。

……。

まず『大学』について。

JRF2016/2/147307

……。

>『大学』の要点はその第一章を読むことによってほぼ明らかになるが、それは、己れ一身の修養を基盤として天下国家の統治を目ざすという「修己」と「治人」との組織的な連繋統一であって、それこそが大学教育の目標だというのである。

JRF2016/2/148480

(…)

それは朱子によって「三綱領」「八条目」と名づけられた項目に従って明らかにされる。「大学の道は」と説き起こされた巻頭の言葉は、まず「明徳を明らかにする」「民を親しましむる」「至善に止まる」という三つの実践項目で答えられるが、それがいわゆる「三綱領」、つまり大学教育の三つの中心目標であった。

JRF2016/2/148009

(…)

さて、この「明徳」の「修己」と「親民」の「治人」とをさらに分析した細目が、いわゆる「八条目」である。「天下を平らかにする」「国を治める」「家を斉[ととの]える」「身を修める」「心を正す」「意を誠にする」「知を致す」「物に格[いた]る」の八つである。
<(大学 解説, p.12-13)

JRF2016/2/143141

「大学」は、董仲舒によって士人のための教育機関として(後には小学の上に)設置されたものであるらしい。

>要するに『大学』の成立は、武帝の時の大学設置に関連して、儒学的な国家有為の人材(君主も含めて)の育成を目標として作られたということであろう。<(大学 解説, p.24)

JRF2016/2/146238

……。

>古きよき時代に、輝かしい聖人の徳を世界じゅうに発揮し[て世界を平安にし]ようとした人は、それに先だってまず[世界の本である]その国をよく治めた。その国をよく治めようとした人は、それに先だってまず[国の本である]その家を和合させた。(…)<(大学, p.35)

国を治めるにはまず家から、家をおさめるには、まずその身を修めるという儒教の根本的主張は、しかし、私はあまり賛成しない。

JRF2016/2/140719

衣食足りて礼節を知るというのは、まぁ、本当だと私も思うから、家がおさまっているほうが国が治めやすいというのはあるとは思う。

JRF2016/2/144425

しかし、順序としては、(国の経済の)仕事をしてキチンとお金を入れてるから家庭がまるくおさまるという方向も強いはずで、家をおさめるより、国を治めるのが先と見る観方も成り立つように思う。

JRF2016/2/140602

現代の「常識」では、夫婦が子育てに協力し合うのが普通とされていて、それが「家がおさまっている」というあり方だとすると、夫が仕事ばかりにかまけていて子育てに協力しないのは「家がおさまっていない」というべきだが、それでもそういう夫のような人物がいることで国がうまくおさまっているということはありえないわけではない。ひるがえってそういうワークスタイルでも、家はおさまっていると見ることができるのかもしれない。

JRF2016/2/142888

そうすればはためには家がおさまっているから国がおさまっているようにも見えるが、実態は、国がおさまっているから家がおさまっているという順序になっているといえよう。

JRF2016/2/140483

「常識」は時代時代によってかわるどころか、地域や家庭によってもかわる。「常識」をまず決めてしまうのが儒教のあり方のように思う。それはやはり不都合があるのではないか。

私は大学は工学部で技術屋を目指したことがあるから、余計、家と(国の経済の)仕事は別物だという感覚があるのかもしれない。

JRF2016/2/148717

……。

>「切磋琢磨」という語の出典<(大学, p.43)

あと、正心誠意も『大学』がたぶん出典だろう。

>中[あた]らずと雖も遠からず。<(大学, p.57)

当たらずといえども遠からず…なんて口に出して言うことがあったけど、出典は『大学』だろうか? もっと古くからある表現なのかな?

JRF2016/2/147936

……。

>きびしく重税をとりたてる家臣がいるくらいなら、むしろ主家の財物をくすねる家臣がいる方がましだ。[害の及ぶ範囲はその方が狭いだろう。]<(大学, p.80)

この言葉は立派だと思う。私はなんか許された気分(…って深くツッコまないで!)。

JRF2016/2/144487

……。

>思うに、人間がはじめてこの世界に生み出されたその当初から、すでにだれもが[平等に]仁・義・礼・智といった本性を与えられていた。[いわゆる性は善なりである。]けれども、[その万人同一の本性とは別に、人間にはまた]気や質というものを受けていて、その受け方は必ずしも万人平等というわけにはいかない。そこで、[その気と質のあり方にさえぎられて、]だれもがみな自分の本性として持っている[貴重な]ものを自覚してそれを完全に実現するということが、できないでいるのである。<(大学章句 序, p.85)

JRF2016/2/146628

SMAP の『世界に一つだけの花』を想い出す。意外にあの歌は儒教だったのかな?

JRF2016/2/142974

……。

……。

『中庸』について。

JRF2016/2/145929

……。

>「中庸」ということばは、書名として有名であるだけでなく、一つの徳目ないしは生活態度をあらわすことばとして、今も生きている。

(…)

ただ、『中庸』の書中には、もう一つの重要なことばが出てくる。それは「誠」ということである。しかも、その「誠」は「天の道」であり、「天命」の徳として人の本性になっているという深遠な哲学的基礎を備えている。

JRF2016/2/147240

(…)

朱子の『章句』が北宋の程子のことばを引いて、「この書は始めに一理をいい、中ごろ散じて万事となり、末また合して一理となる」というのは、全体の流れをうまく言い当てている。(…)始めの一理とは総論の「天命の性」のことであり、中ごろの万事とは第二章以下の各論である。そして、末の一理というのが後半になってあらわれる「誠」のことであって、それは「天の道」とされて始めの一理「天命の性」と相い応じている。(…)

JRF2016/2/148324

(…)

(…)『中庸』の書には、(…)ほどよい中ほどという「中庸」の徳の実践も確かに強調されている。しかし全体の比重からすると、「天命の誠」を説くところにこそ、その重点がある。「中庸」の徳もこの「誠」と結合することによって初めて誤りのない真実なものとなるのである。「誠」を説く文章がとくに高い調子を帯びているのも、当然というべきであった。しかも、「中庸」を書名とするところに深い含意があるというべきであろう。
<(中庸 解説, p.125-130)

JRF2016/2/147426

>誠が身についた人は、努力をしなくともおのずから的中し、思慮をめぐらさなくともおのずから達成し、自由にのびのびとしていてそれでぴったりと道にかなっている、これこそ聖人である。<(中庸, p.203)

私は聖人ではあり得ないが、誠意をもってやってきたつもりだった。「就職」はしてないにしろ、プログラミングやブログ書きによって「仕事」をし、一方で十分に遊ぶことも(日本経済に)必要なこととしてやってきたつもりだった。それが「道にかなっている」と思っていた。

JRF2016/2/144526

…でも、もうそう考えることはできなくなった。振り返って自分が創ってきたものは「ゴミ」でしかないと認めるしかない。書いたことも創ったものも注目を集めることができなかった。理解者もいない。

結局、「誠意」がなかったのかなぁ…。orz

JRF2016/2/143853

>完全に誠を備えた境地では、[そのはたらきは]まるで神霊のようである。<(中庸, p.212)

『中庸』における「誠」は、「スーパーパワー」の源にもなるらしい。私が「狂った」のも「誠意」があったからではないかと自分では軽く疑う。私は「中庸」を目指し、「誠」に近い位置にいたとできたら、慰めがある。まぁ、自分に都合のよい解釈すぎるか。(^^;

JRF2016/2/142517

……。

>子曰く、「射は君子に似たること有り。諸[こ]れを正鵠[せいこく]に失すれば、反[かえ]って諸れをその身に求む」と。<(中庸, p.166)

↓のコメントで、「正鵠」を「鵠[こく]を正[ただ]す」と読む解釈を示唆したが、この『中庸』では射の「礼」についてではなく「射」についてと限定されていることから、そういう解釈はまずいことがわかる。

JRF2016/2/148500

《「的を射る」?「的を得る」?》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post_4.html

JRF2016/2/145983

「射」という漢字はこの本の中でいくつか読みを与えられているから、まだ逃げ道がないわけではないのかもしれないが、身を引いておいたほうがよいだろうと思う。

>正鵠 -- 弓の的[まと]の中心[ほし]。古注で布の侯[まと]に画いたほしを正、皮の侯に画いたほしを鵠とある他、具体的には異説が多い。<中庸, p.166)

JRF2016/2/143828

ちなみに「的」のほうでは

>的然 -- 「的」は(…)明らかなこと。「然」をつけて形容語とした。<(中庸, p.241)

「明らかなこと」を論じ、「的」は形容語を作る字となっている。因果なものだ。

JRF2016/2/144608

……。

>故きを温めて新しきを知り、<(中庸 p.222)

>故きを温めて…… -- 『論語』為政篇に同じ言葉がある。<(中庸, p.223)

「温故知新」の出典の一つね。「温めて」は「温[たず]ねて」のほうが私には親しみがある。

JRF2016/2/143815

……。

>(…)「徳のない愚かものでありながら、自分かってな行動をしたがり、位のない低い身分でありながらかってな独断を通したがり、今の時世のなかにおりながら古代のやり方にかえろうとする、こういう者には、その身に災難がふりかかるものだ」(…)<(中庸, p.227)

えーっ、孔子先生は、古代のやり方に返ろうとしているじゃん…って思ったらそうでないらしい。

JRF2016/2/145199

>(…)「わたしは夏の礼について話をするが、[その後裔である]杞の国では[今の世に明らかな]実際の証拠がたりない。わたしは殷の礼を学んでいるが、[その後裔である]宋の国にはいくらかの伝承がある。わたしはさらに周の礼も学んでいるが、これは現在ひろく行なわれている。わたしは周に従うことにしよう」(…)<(中庸, p.228)

JRF2016/2/145231

……。

>「まことにその中をしっかりと守れ」というのが、尭から舜に天下を授けたときに伝えられたことばであり、(…)「人の心は[欲がまじっているから]危険なものであり、道の心は[純粋精妙であるから]微妙なものである。精密に考え純一につとめて、まことにその中をしっかりと守れ」というのが舜から夏の禹王に天下を授けたときに伝えられたことばである。<(中庸章句 序, p.250))

JRF2016/2/144163

朱子によると、これが聖人たちが伝えてきた四句の言葉で、『中庸』もこれを述べているのだという。

JRF2016/2/149784

……。

……。

直近に読んだ『老子』([cocolog:84574663])よりは意味は取りやすかったように思うが、表層的な理解というか、「右から入って左へ抜ける」という記憶には残らない読み方になったのは否めない。

JRF2016/2/146193

『中庸』は「誠」への傾注が度を過ぎているように思った。(新選組は「誠」の旗をかかげるが、この『中庸』の影響なのかな…と思ったらどうもそうではないらしい。)

《新撰組の『誠』ってどういう意味ですか?義理とか忠誠心とかの意味ですか?幕末... - Yahoo!知恵袋》
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1461209369
>すべてが憶測の域を出ませんが「試衛館」と言われている天然理心流の道場名が、正しくは「誠衛館」ではないかという話があります。<

JRF2016/2/145346

それがちょっと新興宗教的に思えたのは、最初のほうで挙げた井筒俊彦『意識と本質』の影響だけではないように思う。(まぁ、漢代なので「新興」という言葉はあたらないかもしれないが。)

逆にここから考えると『論語』というのは中庸の書だったな…と思う。まぁ、儒教の影響の強い日本だからそこが中庸に見えるという面があるとしても。

JRF2016/2/149598

typo 「返ろう」→「帰ろう」。

JRF2016/2/147781

……。

ちょっと修正。「切磋琢磨」は『大学』に出てくる言葉だが『詩経』の言葉として引用されているため、出典は『詩経』と解するべきのようだ。

JRF2016/2/236279

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