cocolog:84664128
金谷 治 訳注『論語』を読んだ。再読のはずだが、ほとんど覚えていなかった。高校や大学の授業でやった分については見覚えがあったが、他はサッパリ。今回読んだ分もすぐに忘れるのだろう。 (JRF 8104)
JRF 2016年2月26日 (金)
『論語』(金谷 治 訳注, 岩波文庫, 1999年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003320212
http://7net.omni7.jp/detail/1101605926
JRF2016/2/263275
『論語』は、東洋の聖書というべき本で、その説明は他にまかせる。今回は、少し引っかかりを感じた部分を抜き出す。
JRF2016/2/265165
……。
>巧言令色、鮮[すく]なし仁。<(学而篇, p.21)
>剛毅木訥、人に近し。<(子路篇, p.267)
前回『荀子』では>君子は美辞麗句を好む…と。むしろ朴訥なのがいいというのが孔子の立場<と書いたが、まさにその部分。([cocolog:84645108] に追記しておいた。)
JRF2016/2/268974
……。
>先生がいわれた、「道徳のある者は孤立しない。きっと親しいなかまができる。<(里仁篇, p.82)
うーん、私は孤立してしまった。道徳がなかったからということなのだろうか…。orz
JRF2016/2/266401
……。
>回や一を聞きて十を知る。<(公冶長篇, p.89)
一を知って十を知る…と私は覚えていた。それで聖徳太子のイメージが強いんだけど、聖徳太子のは十人の話を聞けたということだったか。元の出典はどうもここらしく、顔回について言われた弁なんだね。
JRF2016/2/265625
……。
>子貢がいった、「わたくしは、人が自分にしかけるのを好まないようなことは、わたしの方でも人にしかけないようにしたい。」先生はいわれた、「賜[し]よ、お前にできることではない。」<(公冶長篇, p.92)
JRF2016/2/262622
人にして欲しくないことをするな…とかいうのは、「黄金律」と言われるらしい。『論語』の中でこの他の場所にも違う表現で出てくる。その徹底は難しいと孔子は述べているが、私はやってるつもりのことが多かった。でも、つまりは、できていないんだろうな。
《黄金律 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E5%BE%8B
JRF2016/2/262783
……。
>鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。<(雍也篇, p.118)
「敬遠」の出典。>子、怪力乱神を語らず。<(述而篇, p.189)ともあるが、外挿的には鬼神に言及するんだね。鬼神に関することは狂人とのさかいめもあって難しいんだろうね。死者の魂へのこだわりなどがあったとき、「狂」として扱うよりは、鬼神があるとしたほうが礼にはかなうということはあるんだと私は思う。
JRF2016/2/260992
……。
>先生がいわれた、「聖とか仁などというのは、わたしなどとてものことだ。(…)」<(述而篇, p.148)
JRF2016/2/261522
論語では「仁」とは何かについてはっきりとした答えをむしろ避けるのをよしとするようだ。私は↓で少し書いたが、ニンベンに「二」と書いて「仁」だから、仁の人は、人は聖人にはなれないので、聖人の次の二番目を目指す人のことなんじゃあないかと考えていた。(『快傑ズバット』が「日本じゃあ二番目だ」と言っていたのを思い出す。)
《法を体現させる》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/10/post_2.html
JRF2016/2/267065
そのような観方をする私にとってこの本の注に載る問答は納得度が高い。
>『孟子』公孫丑上篇 == 子貢、孔子に問いて曰わく、夫子は聖なるか。孔子曰わく、聖は則ち吾れ能くせず。我れは学んで厭わず教えて倦[う]まざるなり。子貢曰わく、学んで厭わざるは智なり。教えて倦まざるは仁なり。仁且つ智なれば夫子は既に聖なり。<(述而篇, p.148)
JRF2016/2/267368
自分で仁や聖というのはハードルが高く、そう自覚する者は逆に仁や聖から遠いように思う。人から見てどうなのか、相対的評価というところが問題なのだと思う。「私」に見えた範囲では彼の人が仁であるということはあると思う。
JRF2016/2/269009
……。
>民はこれに由[よ]らしむべし。これを知らしむべからず。<(泰伯篇, p.157)
『韓非子』([cocolog:84446917])のところで「知らしむべからず依らしむべし」として引いた部分だね。政治家の「失言」として話題になったもののように思うが、軽くググっても見つからなかった。
JRF2016/2/260584
……。
>子の曰わく、後生畏るべし。焉[いずく]んぞ来者[らいしゃ]の今に如[し]かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯[こ]れ亦た畏るるに足らざるのみ。<(子罕篇, p.179)
私はもう四十歳を過ぎてしまった。いろいろやったつもりだが、まだ世間に認められたものはない。もうダメなのか…。
JRF2016/2/267661
……。
>過ぎたるは猶[な]お及ばざるがごとし。<(先進篇, p.211)
過ぎたるは及ばざるごとし…『荀子』([cocolog:84645108])に同じ言葉が出ていた。出典とすべきはこちらか。
JRF2016/2/262625
……。
>葉公[しょうこう]が孔子に話した、「わたしどもの村には正直者の躬[きゅう]という男がいて、自分の父親が羊をごまかしたときに、むすこがそれを知らせました。」孔子はいわれた、「わたしどもの村の正直者はそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものですよ。」<(子路篇, p.260)
JRF2016/2/266352
↓を思い出す。↓はつまりは、親が(こじつけでも何か理由を見つけて)子が盗んだと認めないほうが自然だというのが私の意見で、それは↑に近い。
[cocolog:70803146]
>盗品が遺品の中にあって、どうやってかは知らないが、死者が盗んだ者と証明されたらしい。(…)親が、返すために買って手に入れて返すタイミングを探っていたなどと主張すれば、カドが立たなくなってしまう。<
JRF2016/2/261488
……。
……。
再読(のはず)ということもあって、抜き書きはこれぐらいで…。
通読して、最初のほうは孔子の礼に対する細かさが目についたが、読み進むごとに、『大学・中庸』([cocolog:84588927])を読んだときの>『論語』というのは中庸の書だったな<という感想が主になった。
JRF2016/2/264128
孔子は、弟子の人柄を観て、いうことを変える。基本、相対主義なんだね。でも、一本通ったところがある…通ったところがあろうとしている。それが『論語』から浮かびあがる孔子像の人物的魅力になっている。
私はザッと訳を読んでしまったが、昔の人は漢文と格闘しながら熟読玩味したんだろうね。訳をすぐに読める私は幸せなんだろうが、昔は昔で良さがあったというべきなんだろう。
JRF2016/2/263928
今、私は介護の研修を受けて「別の道」を探そうとしているが、五十歳で「知識人」を目指すような道を歩むというのもそんなに悪くはないのかな…と思い、少し「決意」が揺らいだ。そんな読書だった。
JRF2016/2/266601
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受信: 2016-03-29 17:04:53 (JST)
他人の幸せや成功を妬まないことが大切であるということと、それが礼によって達成されるということについて考える。 続きを読む
受信: 2016-12-28 17:21:15 (JST)
前回『荀子』([cocolog:84645108])を読んだあと、少し読書の時間に余祐ができたので、『論語』を再読してみた。
JRF2016/2/266292