cocolog:84506351
金谷 治 訳注『荘子』を読んだ。一度読んだと思っていたがほぼ記憶になかった。今回の読書もやはり記憶に残らないだろうと思うと虚しくなる。 (JRF 5428)
JRF 2016年2月 1日 (月)
まず、第一冊の解説から、
JRF2016/2/16486
>『荘子』三十三篇は、中国古代の道家思想を伝える重要な古典である。孔子、孟子、荀子とつづく儒家に対抗して、後世の思想に大きな影響を及ぼした道家の思想は、老子と荘子をその代表者とする。
(…)
ただ、老荘とひとくちではいっても、そのもとの老子と荘子とではいくらかの違いがある。(…)違いの著しい点は、老子ではなお現実世界での成功を目ざす現実関心が強いのに、荘子ではそれをまったく乗りこえているということであろう。
JRF2016/2/12552
(…)
荘子の人生哲学は因循[いんじゅん]主義で一貫している。そして、それを基礎づけるものが万物斉同の哲学であった。
(…)因循というのは、因[よ]り循[したが]うということ(…。…)「坐忘」とか「喪我」ともあるように、自己を放[はな]ち棄てて絶対的なものに心身をまかせきるのである。死んで生きかえるという宗教的な解脱の境地がここにはある。
JRF2016/2/15096
(…)
(…)この因循主義をささえるものとして、万物斉同の哲学がある。それは主として斉物論篇にみえるもので、この現実世界の対立差別のすがたをすべて虚妄としてしりぞける立場であった。
<(第一冊 p.7-9)
JRF2016/2/10807
荘子は三十三篇は内篇・外篇・雑篇の三部に分けられる。内篇がおよそ「原荘子」と呼ぶべきもので、外篇・雑篇にも古いものがまじっているが概ね後代の付け足しであるという。第二冊の解説によると…
JRF2016/2/16382
外篇・雑篇において…
>(…)重要なこととして、老子への接近ということがある。(…)ここで老子的というのは、今の『老子』の書によって知られる思想をさすこともちろんであるが、それは原荘子の思想とは違ってかなり世間的な現実関心が強く、それだけに政治的でもあれば、また世俗の成功主義も強かった。
(…)
外・雑篇では全体として斉物の哲学も薄れているといえるであろう。
<(第二冊 p.7-10)
JRF2016/2/16458
なお、道家の書物として『列子』をこの前、読んだ([cocolog:83935116])。
JRF2016/2/17661
……。
訳注者も先の『韓非子』([cocolog:84446917])にくらべ『荘子』は難しいと言っているが、読むだけでもやはり『荘子』は難しい。テツガクが難解なのである。
>現実の指によって、その指が真の指(概念としての指 -- 指一般)ではないことを説明するのは、現実の指ではない[それを超えた一般]者によってそのことを説明するに及ばない。<(第一冊 p.59)
…などと言った回りくどい表現が出てくる。
JRF2016/2/18872
一方、「胡蝶の夢」(第一冊 p.88-89)や「庖丁解牛」(第一冊 p.92-95)など、なれ親しんだ説話もある。「庖丁解牛」は、たぶん高校の授業かなんかでやったのだろう、話をよく覚えていた。
JRF2016/2/16543
……。
中心となる「無為自然」説には今の私は違和感が強い。「無為」であればいいというのは、「新自由主義」を少し思い出す。「新自由主義」の「規制緩和」の主張には(コンピュータの登場等で)時代が変わったことによる規制の張りかえは必要だが、規制そのものは何らかの理由があってなされたものと信ずるべきで、まったく無くすのはおかしいと考えていた。
JRF2016/2/11046
『荘子』の無為の主張も
>「聖人を根だやしにして知恵を棄て去れば、世界はたいへんよく治まる(…)」<(第二冊 p.74)
…のようなものには断じて首肯しえない。かつて「聖」とされたものが時代が変わって適応できなくなっている部分はあるにせよ、その「道」というべきものなのかはわからないが、「魂」の部分で引き継ぐべき部分は必ずあると思うから。
JRF2016/2/10718
昔は荘子のような主張にもつまづいたものだった。
《道を語り解く - 教え説くのではなく》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post.html
>意味があるように見えるものに意味はない。その意味がないものに意味をこめていくのは自分だ。…こういう「道」を説く言説に昔はよくつまづいた。今も嫌いじゃない。<
JRF2016/2/14624
が、今は「新自由主義」をある意味体現して自由に生きて失敗したこの身の上では「社会の仕組み」の大切さのほうが身にしみる。
JRF2016/2/19565
>この世界にはもともとの一定したありかたがある。もともとの一定したありかたというのは、(…)束にくっついたものも「ひも」や「なわ」でくくったのではない。[みな自然にそうあることだ。](…)[すべてはあるがままにある。 ]<(第二冊 p.24)
小枝をくくって束にするようなことは今の時代見ないが、そうすることは持ち運びに便利にしたり、大きさをまとめたりするのに意味があった。それは人がより効率的に生き残るために意味があった。礼儀や仁義という名目も、人を見る目を効率的に養うには意味があったと思う。
JRF2016/2/10655
生と死を超越した立場に立てば、そりゃあ、そういうものも意味はなくなるかもしれない。しかし、生きていることを大切に見るのが集団の約束のようなものなのだから、意味があるとせねばならない。もちろん、尊厳死とかの議論にまで達すれば見え方の異なる部分もあるだろうけど、これからの時代そこが大事だとは言え、それは中心ではなく周辺の議論であることを変えてはならず、生き残るための効率という視点は忘れてはならないと思う。
JRF2016/2/14254
「効率」という功利主義的な用語を使ったけれど、礼儀や仁義などを何か数値的にズバッとわかるものと私が考えているとは考えないで欲しい。それは言葉のあやで、対人相対的な個々の関係に基づいて、または個人個人のその在り方に応じて評価が変わる、弁証法的な過程も含む、…というごとに語義から離れていくような何かが、それらにはあると私も考えている。
JRF2016/2/11561
……。
>「これはなんと使い道のない木であった。だからこそこれだけの大きさになれたのだ。ああ、あの神人もこの使い道のないあり方によって[あの境地に]いるのだ。」<(第一冊 p.140)
私はまさにデクノボウだが、このままでいいんだろうか? そうは思えないからいろいろ動こうとしているんだが…。私はどう死ぬのかなぁ…。
JRF2016/2/12314
……。
孔子の弟子の子貢が旅行中に、ある老人が苦労して畑づくりをしているのに出会った。子貢は「はねつるべ」という機械を使えば楽にできると教えるが、老人は聞く耳をもたない。
>「わしは、わしの師匠から教えられたよ。仕掛けからくりを用いる者は、必ずからくり事をするものだ。(…)わしは[はねつるべを]知らないわけじゃない、[道に対して]恥ずかしいから使わないのだよ。」<(第二冊 p.123)
JRF2016/2/16459
便利な機械を使いたがらない強情の人は昔もいた…という話ではあるが、それがこの書がここで言いたいことではない。機械を使うという判断は、無為とは対極にあるようなものだ。でも一端機械を使いはじめれば、それがあるのがむしろ自然となるのが普通である。より便利な機械を求める段になれば、また、違ってくるのだろうけど。
JRF2016/2/14097
旧式の機械を使っているがゆえに便利なノウハウというのもありうる。そこに愛着がわくのは自然だが、それが幸せなのかどうかはまた別の話。世の中を難しくし過ぎてはいけないという面も考えなきゃいけないように思うが、難しい世の中でも今の時代は回っている。将来、それがおかしかったという時代にならないことを私は祈る。
JRF2016/2/16124
……。
>冉求が仲尼(孔子)にたずねた。「まだ天地がなかったときときのことがわかりましょうか。」仲尼は答えた、「わかるよ。昔も今と同じようなものだ。」<(第三冊 p.176)
生き物の始まりをたずねていけば同じ生き物が、物のはじまりには物がある…といったことを孔子に述べさせている。孔子の『荘子』内での立場は、老子に劣りながらも、時に道にかなったこともするという中途半端なもので、それにこう解答させているということは荘子の解答とはまた違うという含みがあるのかもしれないが、こう考えているというのはおもしろい。
JRF2016/2/14746
現代だと、進化論があってそこはもう動かせない感じだが、古代の中国だとどう考えたのだろう。Wikipedia↓によると『史記』にも創世神話のようなものはないそうで、始原というものを本当はどう考えていたかよくわからない。「歴史」があって、そのはじめというものも想像できたはずだが、それをあまり語りたがらないところに中国らしさがあるんだろうか。
JRF2016/2/14699
《天地開闢 (中国神話) - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E9%96%8B%E9%97%A2_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
JRF2016/2/19787
……。
[cocolog:70803146] で、『孔子伝』(白川 静 著)からの話として次のように書いた。
>その第2章「儒の源流」の「大儒と小儒」の節に次のような文がある。
>孔子の教団に属する人は儒と呼ばれた。(…)『荘子』の「外物篇」に、墓の盗堀をする儒の話がみえる。(…)漢の王族であった広川王(…)は、盗堀を好み、(…)その記録を残していたことがしるされている。<
<
JRF2016/2/13706
確かにそのような部分があった。
>儒者は、『詩経』を口ずさみ礼のきまりをふりかざしながら、墓の盗堀を行なっている。儒者の大先生が伝令をとばしていう、「東の空が白んできたぞ。仕事はどうだ。」へぼ儒者は答える、「まだ肌着をぬがしていませんし、口の中の珠もあります。(…)」<(第四冊 p.17)
JRF2016/2/12023
以前も書いたと思うが、現代の「考古学」が、遠い将来、「盗堀」や「破壊」だったと見なされない、つまり、"Islamic State" がやってることと結局は似たようなことをやっていたと後世に判断されない、といいんだけど…。
JRF2016/2/15606
……。
『荘子』の最後の最後には付録的に荘子の論争友達だった論理学派の恵施の議論が載っている。
JRF2016/2/14548
>(16)矢がすばやく飛んでいくのに、進みもせず止まりもしない時がある。[矢の動きをこまかく分割すると動とも静ともいえない時があるわけだ。]
(…)
(21)わずか一尺の捶[むち]でも、毎日その半分ずつをとり除くとすると、万代かかってもなくなることはない。[半分は必ず残るからだ。]
<(第四冊 p.240)
JRF2016/2/11801
これはゼノンのパラドックス(↓)だね。(16)は「飛んでいる矢は止まっている」のパラドックスだし、(21)は二分法(またはアキレスと亀)のパラドックスだね。
《ゼノンのパラドックス - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
JRF2016/2/10286
アキレスと亀は [aboutme:76872] でもちょっと書いた。アキレスと亀の問題は、今 Wikipedia に書かれているような等比級数の問題であることを、私は独力で気付き、ちょっと自慢に思っていたこともあった。
JRF2016/2/15553
……。
『荘子』は一度は通して読んだことがあるはずだが、ほぼ覚えがなかった。読んだつもりで読んでなかった or 途中で読むのをやめたのだろうか。それもありうる感じの記憶のなさだった。
ただ、私の「ボケ」はかなり進行しているという自覚は、2014年4月の入院以降は特にあり、単に読んだのを忘れただけという可能性も大いにある。
はぁ、今回読んだのも、同じように無意味になるんだろうなぁ…と思うと虚しくなる。
JRF2016/2/14073
トラックバック
他サイトなどからこの記事に自薦された関連記事(トラックバック)の一覧です。
蜂屋 邦夫 訳注『老子』を読んだ。読んでもあまりピンと来なかった。私は栄達とは関係ない境地に居て久しく、そこで「無為」を説かれても虚しいだけだった。 続きを読む
受信: 2016-03-29 18:37:15 (JST)
『荘子 (全四冊)』(金谷 治 訳注, 岩波文庫, 1971年-1983年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003320611
http://7net.omni7.jp/detail/1100350740
JRF2016/2/19730