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cocolog:84842079

『新約聖書』を『新約聖書略解』とともに読んだ。もう何度目かになるが、「新しい発見」と言うか、記憶にない部分が多かった。記憶に残らないのは、私が導かれてないからか、とも思う。 (JRF 2289)

JRF 2016年3月25日 (金)

記憶に残らないのは最近の読書も同じだったが、「聖書」にはどこか期待していた。でも、やはり、あっさりと読み、過ぎてしまった。ちなみに最近では昨年の11月に、『文語訳 新約聖書 (詩篇付)』を読んでいる([cocolog:83891626])。

JRF2016/3/250712

『新約聖書 (新共同訳)』(共同訳聖書実行委員会 訳, 日本聖書協会, 1987-1988年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4820232010
http://7net.omni7.jp/detail/1101337689 (詩篇付き)

『新共同訳 新約聖書略解』(山内 眞 監修, 日本基督教団出版局, 2000年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4818403660
http://7net.omni7.jp/detail/1101651899

JRF2016/3/253136

『新約聖書』のほうのリンクは、私が持ってるものズバリではない。私が持ってるのは古い詩篇なしバージョン。

JRF2016/3/250220

……。

私は、キリスト教・ユダヤ教、そしてイスラム教も含めてもいいと思う、…そこに表される神をほとんど信じていると言っていい。特にキリスト教については、親に、もしかするとキリスト教に改宗するかもしれないと何度か相談したぐらいに親近感を持っている。

でも、キリスト教のカトリックがいいのかプロテスタントがいいのか、その前に、日曜礼拝が大変だなどという怠けた理由で、改宗には致らないでいる。

JRF2016/3/256631

もちろん、それらだけが改宗を妨げているわけではない。

JRF2016/3/256036

親は(葬式)仏教だが、親からは別にあんたが改宗しても気にしないと言われてるので、そこは理由としてはもう弱い。でも、弱いにしろ、葬式への参加等に真摯さが薄れると自分が、他者が、感じるのではないかという思いもないではない。

JRF2016/3/252149

また、詳しく教義を知るほど、私の思いからは、私が特に統合失調症の発作時にそうあろうと念じたことからは、遠ざかる気がして、まだ近づくことができない。そのことはたとえば↓から辿ってもらえればと思う。

JRF2016/3/258304

[cocolog:83541430]
>私は統合失調症で入院を二度ほど経験しており、一神教特にキリスト教の影響の下、コンピュータゲームの上などのレイヤーで古代の神々が復活しているという妄想を抱いた。それを「多神教的キリスト教」といったふうに表現したりもしている。そのことは主に以前 [cocolog:83347972] でこの《ひとこと》に書いた。

JRF2016/3/250263

(…)

私の「多神教的キリスト教」の妄想が、カトリックから見れば基本「異端」で、>黙示録的偽典がせいぜいの位置<で>精神病者の書いた一小説に留まる<としても、私が「事実」だと「奇跡」だと感じた妄想にも何か意味があったと思う。そう信じたい。…というのが私の基本的立場としてある。

JRF2016/3/256819

自分は、シリア・フェニキアの女(マルコ 7章)のように、または百人隊長(マタイ 8章)のように、離れたところから、「唯一神」への信仰によって、限られた救いであったとしても「神々の復活」(もう「神々」というよりは「天使」的理解になるかもしれないが)を喜べると信じたい。そして外にいたままで「唯一神」を信仰しているとも認められたい。

JRF2016/3/254157

それが新興宗教的と言われるなら、それでかまわない。ただ、自分で(信者は自分だけの)新興宗教を興すならいいが、どこかの新興宗教に属すことはないと思う。親も、キリスト教ならいいが、他の新興宗教みたいなのはちょっとと言ってるし…。まぁ、その辺は個人の問題っちゃあいえるけど。

JRF2016/3/257049

万一、カトリックやプロテスタントに所属することになるなら、この辺りの思いは、表向きは捨て去って、ひそかに狂人の妄想として抱き続けるといったことになろうかと思う。

JRF2016/3/255298

ただ、そういう思いも今はそれほど強くはない。死んでもいいし死ななくてもいいなら死なないでいるほうがいいのかもしれない…という「迷い」の状態にあって、信仰に救いがあるようには思っていない。「怠けている自分」と見えるものを何とか肯定したいという思いと、別の何か(介護士とか)になりたいという思いがぐるぐる自分の中で渦巻いている。

JRF2016/3/251446

宗教には気が向いていない。が、そのわりに聖書とか読んでるのは、本が自由に買えなくなっても何度でも読める本を探しているからという側面が強い。私なりに「みすぼらしい将来」に備えてる。どうなるかわからない…予想よりもっとヒドくなることもありえる。それなら死んだほうがいいという思いと、社会に受け容れてもらえるなら死ななくてもよいという思いとがあって…。

JRF2016/3/258514

……。

宗教そのものは必要だと考える。今はマスコミの影響もあり、宗教がなくても、ある程度、倫理は守られてると思う。でも、この先も長い時代の変化を考えると、宗教が担ってきた役割が大事になることも(再び)あるだろうとも思う。ここで「宗教」というのは、主に、死後の世界があるとすることで倫理を守らせる働きに着目している。

JRF2016/3/252322

コーランを読んだとき([cocolog:83154639])に「転生なのか最後の審判なのか解けない」と書いたが、それは今も変わらない。が、2000年以上も前から続いてきた宗教がある種の奇跡そのもののように思うし、そこが神が関与しているといっていれば信じやすいと思う。そして私は統合失調症の発作で唯一神があるという方向に引っ張られた。

JRF2016/3/257488

伝統的な唯一神の信仰は、ずっと最後の審判と復活というものがあるといっていて、人々が倫理を保つよすがとしてその信仰で十分なのも証明されてきたんだから、そこに参与するのは私にとってどちらかといえば善いことのように思える。

JRF2016/3/254511

「最後の審判」というものが、今知られている何兆年を超える宇宙規模での終りなのかはわからない。むしろ、外宇宙を十分開拓する前に人類が滅びる地球の終りで、それはまた電脳空間の終り的なものでもあろうとして、私が夜の夢で見るようなアニメちっくなものと想像したとしても私自身に罪はなかろうと思う。後のほうの信じ方なら私にもリアリティや切迫性を感じることができる。

JRF2016/3/256891

その延長線上で、今知られている大宇宙が神による壮大な仮想現実で、いきなり終らせられるというのも私にとっては受容の範囲だし、逆に、「人類の終り」のあと「超電脳体」みたいなものの歴史が別にあるというなら、それはそれで意味がある(というかおもしろい)し、そこまで行けば人間である私には関係のない話のように思う。(この辺りの話が好きなら、ちょっと似た妄想としてはダンガンロンパに対するひとこと [cocolog:74607467] がおもしろいかも。)

JRF2016/3/255440

その辺を勘案して、「宗教」を次の時代に伝えるのも責任だというなら、現代日本にいて「西洋文明」にひたりきった私はキリスト教に属せばいいのではないか…といったところでこの「ひとこと」の最初のほうに戻る。

JRF2016/3/258628

……。

統合失調時、奇跡を「感じる」ようになった。それはスーパーパワーであって、それを自分の力とする神的存在があって、しかし、それを超える「神」がいてよく、実はその「神」は愚かとも見えるような方法ですでに自分をおあらわしになっていた。統合失調時にそこまで「きづいて」いた。

JRF2016/3/250339

一神教は効率的だという印象を私は持っていて(参:[cocolog:83891626], [cocolog:83575979])、結局[つまるところ]、効率は正義で、しかし(おそらくヤコブ=イスラエルにはじまる)正義を現実においておしすすめた結果には無理があって、その無理の中を歴史的に顕現した唯一神に偽りはないと思う。

JRF2016/3/255131

ただ、同時に、社会を効率化した究極体において無駄であっても、現実界では無駄な神々の顕現があるはずもないという信心も私にはあって、それが「神々の復活」という概念に結実している。

JRF2016/3/252810

キリスト教が、こういった狂気まで受容できるかというと、それ自身はそうではないだろう。でも、キリスト教のはじめには「異言」があった。偶像崇拝は否定されていたが、その社会と共存はしていた。その組織の周辺で、何らかの方法で、私のこの思いは生き続けられるのではないか。そう願う。

JRF2016/3/259837

……。

……。

あと今回読んで引っかかった細々とした点について少しだけ…。

JRF2016/3/258613

……。

イエスが「裁いてはならない」と述べたことについて、裁判員制度とのからみで関心を持っている。

>「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(…)」<(マタイ 7:1)

>(…)世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。<(一コリ 6:2)

JRF2016/3/257631

宗教上の理由で裁判員になるのがイヤだというインタビューを確か見た記憶がある。

JRF2016/3/256690

自分が裁かれてよい基準で裁くならいいのかというとそうでもないだろう。自分の基準では相手にとって厳し過ぎる場合もあり、その場合はゆるしをもって「裁く」のがキリスト者らしいし、他人が他人自身がこうあるべきだとしていたことについて他人の基準で裁くこともあるだろう。それが他人への力添え…「隣人愛」になりうる。

JRF2016/3/254495

普段は裁判なんて関係ないように暮らしているけど、社会には裁きは必要なもの。自分が裁く機会はなくても、そういう社会に属している以上、いつかは裁かれるかもしれないという覚悟は持っておくべき…というのがイエスの言葉の解釈になろうか…と私は思う。

JRF2016/3/255101

また、仮に全員がキリスト教徒だという社会では、誰かが裁くことになるわけで、それを罪だとするのはむごいことだと思う。まぁ、そのぉ、私は精神に障害を負ってる関係上、たぶん裁判員の資格はないとすべきで、その点、大きなことは言えないのだけど、裁判員の勤めを果たすことは「隣人愛」から是認すべきことのように思う。

JRF2016/3/254572

……。

「十字架を背負う」ことについて、今回、妙に印象に残った部分。

>それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(…)」<(マタイ 16:24)

>(…)イエスは激しい鞭打ちの刑で体力を相当消耗しており、自力で十字架を運ぶことができなかった(16:24 の勧告にもかかわらず)。<(略解 マタイ 27:33)

JRF2016/3/255883

「十字架」は他人に担ってもらうことになったとしても仕方がないんだ…。私はいろいろやってもう力が出ないように思っている。これを他人が引き継ぐことを望んだとしてもいいんだ。ゆるされているんだな。…みたいに思った。もちろん、誰も引き継がないかもしれないけど、それならそれで、ゆるされたんだと思う。

JRF2016/3/255994

……。

イエスの「兄弟」について。

>(…)《イエスの兄弟たち》は(…)の四人を指すが(マルコ 6:3)、(1)ヨセフとマリアの実子(プロテスタント)、(2)イエスの義兄弟(カトリック)、ヨセフの先妻の子供たち(オーソドックス)で意見が分かれる。(…)<(略解 使 1:14)

JRF2016/3/255167

『カトリック教会のカテキズム』([cocolog:83541430])を読んだときにカトリックは、マリアを「終生の処女」とする信仰を(いまだに)持っているのに驚いたが、おそらく正教会(オーソドックス)も同じ見解なんだね。でも、ヨセフに先妻があると考えるのは私には盲点だった。

JRF2016/3/250169

……。

「幼児洗礼」について。

>まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。<(使 16:33)

>これが幼児洗礼の聖書的論拠になる。<(略解 使 16:33-34)

こんな細かい非直接的な言及が根拠になるんだね。じゃあ、他もいろいろこじつけることができるんじゃあ…。

JRF2016/3/250875

……。

神を「父」と表すことについて。

>称賛の対象は、《主イエス・キリストの父である神》である。《父》という言葉は、イエスが神を「アッバ」(アラム語「お父さん」)と呼んだことに由来する。<(略解 二コリ 1:3)

JRF2016/3/251535

[cocolog:83154639] で>神自身が受肉して人となり、人として生きるとき神を父[アッバ]と呼んだから、彼は子の位格を持つとされるだけで、イエスは唯一神と違うものではないのが重要なところ。<と書いたが、ちょっと典拠に自信がなかった。が、だいたいの典拠は見つかったかな。

JRF2016/3/259890

……。


「天使礼拝」について。

>偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、(…)<(コロ 2:18)

JRF2016/3/256543

>(…)《天使礼拝》という表現であるが、天使を礼拝するという意味ではなく、天使たちが執り行う天上の聖なる礼拝を指している。ヘレニズム的ストイケイアの理解に肯定的なヘレニズム・ユダヤ教文献においても、それら宇宙的諸要素やそれを司る天使たちを神々として崇拝することは偶像崇拝として厳しく明確に批判しており(…)<(略解 コロ 2:18)

JRF2016/3/259275

…とのことだが、聖書に解説なくこの句があるのはむしろ天使「を」礼拝するのがある程度認められていたという面もあるのではないかと思う。(ただの「尊敬」で「礼拝」ではないとかいろいろあったとしても。)

JRF2016/3/252623

ここで上で述べた「多神教的キリスト教」について少し考える。

JRF2016/3/252978

キリスト者になった古代ギリシャ人が、捨てたはずの神々と天使とともに夢で遊んだとしても、または神々が恨みがましくその人を悪夢で責めたとしても、目ざめてから、キリストに立ち帰るなら何の問題もないと思う。「偶然」が支配する夜の夢で会っても影響されないのに、自ら選んで「ゲーム」という夢を見たなら、より立ち帰るのは容易だろう。

JRF2016/3/251489

「夢」や「ゲーム」で仮想の自分が礼拝しても、それは天使「が」礼拝するのと何の代わりがあろうか。「夢」で何かを教わってきたとしても、それもまた唯一神の遠い恵みであることに変わりはないと思う。

JRF2016/3/250849

自然の中に神を見出す子供(自らの子供の部分)は「天使」だ。天使が神を礼拝して何の問題があろう。天使が遊ぶのを見て美しいと思うのは、むしろ神への讃美ではないだろうか。もちろん、それを汚そうと願えば「罪」でいい。聖霊を汚すようなものだ。

JRF2016/3/254570

しかし、非実在に昇華した神々のごとき者が「天使」となるなら、それが夢の中でもてあそばれるのを望むのは、いやしいことだけれども、それを「夢」に留める理性とともにあれば、見逃されうる罪となされえないだろうか。ロリコン物やBL物のマンガやゲーム・CGなどの流通は私は認めたい。それらは罪であったとしても現実的な滅びへの道のはずだから、同胞の導きによって救われるとしたい。

JRF2016/3/253896

(「夢」に関してこのあたり↓が少しだけ関連するかな。)

《時間泥棒の夕べ - 排中律と call/cc》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2011/01/post-1.html

JRF2016/3/250303

ただ、これらは「ソドムとゴモラの罪」なのではないかという疑いはある。

>《ソドムやゴモラ、またその周辺の町》の人々も、人間同士で姦淫をなしただけでなく、人間の領分を超えて、天使たちとの性行為に及ぼうとしたゆえに(…)、天から降った硫黄の火によって滅ぼされた(…)。<(略解 ユダ 7)

JRF2016/3/256969

でも、現代とは決定的な違いがあるはずだとも思う。まず、神々や天使の実在を信じて汚そうとしているわけではなく、あくまで想像上または映像上の存在との「妄想」で自分をごまかしているだけだということ。現実の同性愛のような多様な価値観があっても放縦とは必ずしも結びつかないほど社会の倫理感が向上していること。(←マスコミのおかげ?) それらとは別に「偶像」が声を出し、歩くことがある程度たしかな予測のうちにある時代は、つまり、全自動化の時代で、人の働きがいらなくなることも予測のうちにあるということが挙げられる。

JRF2016/3/253113

ただ、原発震災を経験してる我々は、ゆるやかに硫黄の火の罰を受けているのかなという気もしないではない。

JRF2016/3/259825

……。

ノアの洪水での「生き残り」について。

>そして、霊においてキリストは、捕[と]らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。(…)<(一ペト 3:19-20)

>(…)《捕らわれていた霊たち》、すなわち神への不従順のゆえに獄に入れられていた悪しき天使的存在(創 6:1-6 に基づくユダヤ教伝承が、この箇所の背後にはある。エチオピア語エノク書 6-10章参照)(…)<(略解 一ペト 3:19)

JRF2016/3/255918

ここでは自分の妄想(↓)を思い出した。

《「ヨブ記」を読む》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html

JRF2016/3/253366

>例えば、創世記 04:20-04:22 のカインの末裔の話、トバル・カインが鍛冶師になったなどという職業集団説明説話は、ノアの洪水の前に出てくるが、洪水で皆滅んだとすると説明の意味がなくなる。何かのトリックがあるとも読める。そういうふうに、過去としては別世界であるが未来において統合されるこの世界に創造者としてヨブや私が責任を負っているということはないのか。<

JRF2016/3/250659

つまり、カインの末裔はノアの洪水のあとの再創造のようなもので、今の私などにつながっているという妄想があったのだが、それが不思議に一ペト 3:19 の《捕らわれていた霊》に符合する。「何か」あるのか?

JRF2016/3/256063

……。

……。

春、私にとっては心の調子がおかしくなることの多い季節、そのときに聖書を読んでいた。少し妄想をなぞるところがあったのは、おかしくなったせいではなく、単に宗教書を読んでいた影響だと思いたい。

JRF2016/3/254752

修正 「ヨセフの先妻の子供たち」→「(3)ヨセフの先妻の子供たち」。

JRF2016/3/259458

……。

追記。

ゲームで仮想の自分が「礼拝」という特別なコマンドをするのは「天使が礼拝する」ことになるという部分、天使が天使「を」礼拝することになるのはまずいか…? 天使が天使を礼拝するのは、天使と天使が遊び睦み合う「美」の一部で、それが神への讃美になっていると解釈できないか? ダメかな?

JRF2016/3/269086

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