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cocolog:84709327

中村 元 訳『ブッダのことば - スッタニパータ』を読んだ。素朴な教えだが、意味を咀嚼しづらかった。托鉢で身をたてられない社会で、「妄執を離れよ」と言われても、難しい。 (JRF 6934)

JRF 2016年3月 4日 (金)

『ブッダのことば - スッタニパータ』(中村 元 訳, 岩波文庫, 1984年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003330110
http://7net.omni7.jp/detail/1101171019

JRF2016/3/41795

最近、儒教・中国(古典)思想の本をたて続けに読んできたが、私のもともとの興味は一まとまりのブログのタイトルとなってる「宗教と動機づけ」で、仏教理解も昔は私の大事な関心領域の一つだった。(例えば [aboutme:125348] では田上太秀『仏典のことば さとりへの十二講』にちなんで長い考察というか「講義」をしている。)

JRF2016/3/45229

そうでありながら、仏教に関しては「原始仏教」の(日本語訳の)原典にあたることはあまりしてこなかった。オウム真理教がもたらしたマイナスイメージがあったからというのもないわけではないが、私達が巷で観る大乗仏教からはどこか離れたものという感覚があったからだと思う。

JRF2016/3/45494

今回は、岩波文庫の中国思想の本を読んできた流れで、同じ岩波文庫の青の本で中古でずいぶん前に買ってありながら読んでなかった『ブッダのことば』に手を延ばした。

…読んでみると、ところどころ読んだ気がしないでもないが、たぶん通読ははじめて。

JRF2016/3/49576

……。

まずは、解説から

>いまここに訳出した『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。シナ・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には極めて重要である。

JRF2016/3/44935

(…)

この『ブッダのことば(スッタニパータ)』の中では発展する以前の簡単素朴な、最初期の仏教が示されている。そこには後代のような煩瑣な教理は少しも述べられていない。ブッダ(釈尊)はこのような単純なすなおな形で、人として歩むべき道を説いたのである。
<(解説, p.433-438)

JRF2016/3/47112

素朴に「妄執を離れよ」と繰り返し説くが、でも、現代、まず食料を得るには金を得なければならず、金を得るためには普通は「仕事」をしないといけない。「仕事」には「こだわり」をもってあたらねばいい「仕事」はできない。「こだわり」は伝えるべきもので、すると現世に残るものを欲したくなる。…といったふうに、単純に「妄執」を離れるわけにはいかない気が私はする。

JRF2016/3/49634

その、「妄」がつかない程度の執著が、ある程度あってもこだわらない態度でいればいいのかもしれないが、それで個人が集団に帰属することなく修行者として最初の一歩を踏み出すのは難しいように思う。まぁ、修行者は、集団に帰属するべきだと言われるならそれまでだが、道を知ろうとする形の修行というのは現代に何か他の形がありえるのではないか。それを私は探ってきたとのだと思う。…それはあまり意味のないことだったともう認めないといけないけど。orz

JRF2016/3/49432

「大乗仏教」ではないということなのだろうが、この本では「自力」で輪廻から離れることが良しとされる。今、介護の研修を受けていて、介護のしすぎで介護「利用者」の残存能力を活かすチャンスを奪い、より要介護の高い状態へ追い込むことをしてはならないとよく言われる。それと同じようなことで、「菩薩」の必要はなく、どのような状態からでも、人が自分で悟れることに意味があるとするのだろう。それを介助するぐらいなら意味のあることかもしれないが…。

JRF2016/3/42115

……。

以前、仏教における肉食や殺生についてこだわっている方がいたのを見たことがある。

>これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。<(二四二, p.55)

在家の者のつとめとして…

>生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。<(三九四, p.81)

JRF2016/3/44840

肉食そのものは悪ではないが、屠殺はどうも悪と言っているように読める。

>仏教では酒は後代に至るまで禁止されているが(タントラ的密教を除く)、さらに肉食に耽溺することも好まなかったことが解る。<(一一二 注, p.275)

JRF2016/3/44661

……。

>師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥[しりぞ]け、汚れなく、よく心をしずめ持[たも]って、みずから安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、-- このような人は〈バラモン〉と呼ばれる。<(五一九, p.110)

生まれによってではなく、行為によってバラモンになるというのは繰り返し(例えば 六五〇 p.140)説かれる。

JRF2016/3/47652

……。

>諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。<(八二七, p.184)

「論争」はあまり好まないようだ。(ちなみに「論破」というと橋下さん(参:[cocolog:76513876])を思い出すね。)

JRF2016/3/44218

>師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教養がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」<(八三九, p.186)

JRF2016/3/43408

ここにおいて中道を行く…この本の時代では「中道」ではなく「両極端を離れる」という言葉を使うみたいだが…ということは、教義について厳しくつっこまれても「こだわらない」、つまり、論争には負けたみたいになっても気にしないことが求められるということか。

JRF2016/3/45097

論争に勝てるようであっても…

>この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。<(八九六, p.196)

JRF2016/3/46906

そして、

>安らぎを固執することなく。<(九〇〇, p.197)

…ということであるから、意地を張って論争しないというのもまた違うのだろう。

JRF2016/3/44526

……。

>ローヒッチャというバラモンはこう思った、-- 「ここに修行者またはバラモンが善なる理法に達することがあるかもしれない。しかし、かれは善なる理法に達しても、他人に宣説しないほうがよい。人は他人に対して何を為し得ようぞ。他人に対して説くのは、あたかも古い束縛を断って新たに束縛をつくるようなものである。これは悪い、むさぼりの事柄である」と。(…)(仏典はこれを「悪しき見解」(…)と呼んでいるが、それは伝道に重点をおいた仏教徒の見解なのであろう)。<(四四 注, p.258)

JRF2016/3/42489

他人に教える必要がなぜあるのか…これは若いころ私も気づいたことで一時期その考えに捕われたものだった。「悪しき見解」とされるんだね。

JRF2016/3/47093

一方、インターネットは、「他人に教える」ことが良いことという下地の中から生まれてきて、すったもんだがあって、その考えが今は廃れているように思う。昔は、本を出版するのは難しく、情報を他の人に知らせることができるというのはそれだけですばらしいことだった。今は、いかに変な情報を伝えないかのほうが重要視されかねない。情報を出すマナーが大切とされる時代になった。でも、まぁ、今でも私個人は情報を出すのを重視しているけどね。

JRF2016/3/40433

……。

>仏教の僧侶は働かない、無為徒食しているのではないか、ということは、インドでは後世になってもバラモン教徒から発せられた非難であった。シナ・日本の儒学者も、仏教に対して同様の非難を向けていた。こっでは思想史的に重大な問題が提起されているのである。これに対して仏教側からは、修養生活に勤めることが積極的な行動であると答えているのである。<(一章四節 注, p.266)

JRF2016/3/41132

私はまったく「働き」をしていないわけではないが、世間からは「働き」を認められて報酬をもらえたことは(ほとんど)ない。少なくともこの「働き」では生活はできない。無為徒食していると言われてもしかたがない。だから最近、心を入れ替えて、何かできないかと探っているんだけれども…。

JRF2016/3/41826

>「詩を唱えて得たもの」(…)というのは、恐らく仏教が興起した時代に、バラモンたちがヴェーダの呪句を唱えてそれに対する布施として種々の物品を得ていたが、真の求道者はそのようなことはしてはならない、ということを述べたと考えられる(…)。

(…)

最初期の仏教の修行者たちは、合理的な確信をもって行動していた求道者であった。だからこのようなことをキッパリと断言したのである。ところが仏教教団が発展して民衆の間に根を下ろすと、「お経を唱えて布施を受ける」という習俗が成立した。
<(四八〇 注, p.344-345)

JRF2016/3/44738

>祭祀や儀礼が宗教にとって本質的なものであるという見解に従うならば、原始仏教は宗教を否定しているということになる。<(八四六 注, p.389)

>ここでは、他人の権威にたよったり、教義にたよったりすることを否定しているのである。これは偶像破壊(…)の精神に通ずる。<(一〇六九, p.422)

JRF2016/3/43283

原始仏教は当時の「宗教性」を否定したんだね。それに一定の支持者がいたということなのだろう。軍事と経済がよく動き出して、社会が動き、身分よりも実力を重視したいような勢力があり、そこが「教団」も求めていたといったところか。

JRF2016/3/45273

……。

>われは考えて、有る -- (…)この原文の解釈はむずかしい。一つの解釈は、「考えて(…)制する(…)」と、つづけて解釈することである。しかし語順を考えると(…)まとまっと句とみなすほうが順当(…)。そうだとすると、ここでは哲学的に重要な問題を提供する。(…)「われ考う。故に、われ在り」(cogito ergo sum)に対応する問題が意識されているのである。

JRF2016/3/43388

(…)

しかし文句が似ているとしても、近代西洋と古代の仏教とのあいだには、確然たる相違があった。近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼさるべきものであった。
<(九一六 注, p.399)

JRF2016/3/49765

インド哲学の「先進性」といったところか。

JRF2016/3/49275

……。

……。

これも中国思想の本を読んだときと同じく、右から入って左から出ていくような、記憶に残らないような読書になってしまった。繰り返し説かれることが「当り前のこと」というか、まぁ、お馴染みの教義だった。「原始」のころから野蛮でもなく「お馴染み」のものとそう遠くないところにあった、「お馴染み」のものがわりかし「原始」のころのエッセンスを伝えているといえるのかもしれない。もちろん、私が前から(原始)仏教について学んでいて、違いに慣れていた面もなきにしもあらずだが。

JRF2016/3/40304

今後のことだが、岩波文庫からは他にも(原始仏教の)仏教教典が出ているが、そこを当って果たして得るものがどれほどあるのだろうかと、今回の読書から得たものを見て思う。それを言ったら、最近の読書から私はどれほどのものを得たか、得ていない…ということになるのであるが。…虚しい。

特定の本を例えば聖書を何度も読む…といった読み方をしたほうがいいのかな? そのほうが、まだ、得られるものが多いのかな?…迷う。

JRF2016/3/43128

……。

……。

追記。

『ブッダのことば』には関係ないが…、

JRF2016/3/62075

上で、介護は「自力」のほうが良いとされる…みたいなことを書いた。じゃあ、「他力」の介護ってどういうものなんだろう?…というとよくわからない。

よくわからないが、「自力の介護」の反対として語られるのは、介護職員が作業効率のみを考え、介護利用者を物のように扱うこと。

JRF2016/3/65285

そこでは、箸[はし]を使わずスプーンだけで食べ終ったり、できあいの弁当みたいな食事はあじけないものと言われることがあるんだけど、私は、自分が介護される立場に立ったとき、そういう面で効率が追及されることで、他のところに余計に介護力が向けられる…他の人にまたは予算的な余祐を他に回せることはむしろ望むべきことのように思う。

JRF2016/3/65966

そういう効率を「自律」的な決定として行うというのが、「他力」の介護が理想として描く自己の在り方なのではないか。

それで残存能力が削られるという面は、太極拳みたいなもので補えないだろうか。そうできるなら、太極拳的活動を自分の意欲をプラスしてやる分、自力…自己決定の部分をより増すという方向にもなるのではないか。

どうだろう?

JRF2016/3/64993

……。

……。

追記。

「他力」の介護について、さらに追記。

JRF2016/3/60908

介護が効率的になったところで、効率的になった分を自分の介護に回してもらうというのは本末転倒だから、「太極拳みたいなもの」は他人に頼らずできないといけない。

JRF2016/3/63035

ただ、「太極拳みたいなもの」を認知症になる前から持っていて、それを認知症になってからするというのは、難しいだろう。箸やスプーンの訓練みたいなニッチな「太極拳」は存在しないし、存在したとしても昔からやっていたなんて人を考えるのは難しいだろう。そういう「拳法」を編み出す、一人一人に編み出してもらうというのも相手が認知症だと無理だろうし、そもそもその努力にどれだけ意味があるか未知数だ。

JRF2016/3/69248

それに、昔からやっているということでは、すでに「ラジオ体操」は多くの病院で取り入れられてるみたいだし、嚥下の訓練・体操みたいなものはあると聞く。病院内で実際、太極拳をしてみるというのは2014年4月の入院時に私はやったが、それを素人の私が人に教えたところでどうにかなるとも思えない。

JRF2016/3/65467

……。

少し考えの方向を変えてみる。

JRF2016/3/63426

私は統合失調症の発作になることがあり、それがヒドくなるようなら死んだほうがマシだと思うことがある。

同じように、自分がボケるぐらいなら「尊厳死」を選びたいと思う人もいるのではないか。

JRF2016/3/66993

ボケた人は、ボケの病識がないと言われる。それは、ボケるぐらいなら死にたいと強く思っているがゆえに、「死にたくない」という本能が刺激され、ボケたのを認識したとき同時に「死にたい」と思うことがないよう、ボケの病識が消えるからだ…ということはないだろうか。その病識のなさがボケへの対応をいっそう難しくしていると考える。

JRF2016/3/67331

だから、逆に「ボケはしかたがない」という自分になっていく。ボケを受容した生き方をするというのが一つのボケ予防に「有効かもしれない」戦略として考えることもできるのではないか。

JRF2016/3/67773

自分はボケているのではないかと考え、その場合に効率的な方法をあらかじめ受け容れていく。自分はまだボケたという認識がなくても実際ボケてるのかもしれない(それならばしかたがない)という対応を先にしていく。例えば、すでにボケた目の前の人と同じスプーンを使う方法で食事を食べる…などなど。

JRF2016/3/65452

常に自力を重視してボケに抵抗するのではなく、ボケたときの訓練をボケる前からしている自分を作り(←すなわち、これが「太極拳みたいなもの」)、他人のほうが自分のボケをよく認識していると常に考える(←すなわち、これが「他力」)。

JRF2016/3/61839

それが結局、効率的な介護につながり、回り回って自分のためになるだけでなく、自分のボケ予防になっているというふうにいかないか?

…素人の浅はかな考えかな、やっぱり。

JRF2016/3/66672

尿もれパッドを使うことが、トイレへ行く習慣をやめさせ、それが足の筋肉を弱くして、寝たきりにいたるみたいな機序には、上の考え方だと対応できないな…。

JRF2016/3/62029

認知症の人は、自分が認知症だと気付くと自信を失うと聞く。それはボケたら死んだほうがマシという思いとはまた別にあるだろう。

「ボケはしかたがない」と思うことは、ボケても「生きたい自分」を受け容れるということ。生きたい自分が自分から訓練してより他人に迷惑をかけない道を選び生き残ろうとすること。でも、それは認知症の人にとって酷なのかもしれないな…。

JRF2016/3/60601

……。

要するに、ただ効率だけを追及すると「役に立たない者は死ね」となる。効率化のベースには「生きたい」がないといけない。でも、効率化自体が老人にとって酷。…ということかな。

JRF2016/3/77294

……。

追記。

なぜ、老人にとって酷なのか…。「尊厳死」とかとはまた別に老人は「死の受容」を生きる必要があるからだと思う。本人だけでなく家族や周りも死を受容していく。現場では、「生きたい」をベースにしてばかりだと、本人も周りも疲れ切ることになるのではないか。

JRF2016/3/80196

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介護職員初任者研修を修了した。座学・実技とあってテストも受けた。修了証はまだだが、修了はした。ただ、このあと就職するかについては消極的になっている。 続きを読む

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