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cocolog:85108135

ダンテ『神曲』を読んだ。この本が一つの墓碑なんだろうと思った。ここに書かれることが死後の名誉(不名誉)となる、と。そこまでに自分の作品を出世させたダンテはすごい。 (JRF 3964)

JRF 2016年5月 6日 (金)

[cocolog:84974434] で「黙示録的な小説」を書こうかと考えはじめて、その参考として、[cocolog:85016448] で地獄めぐりをした『神曲』を読もうかと述べた。そして、実際に『神曲』を買って、読んでみた。

JRF2016/5/60542

『神曲 【完全版】』(ダンテ・アリギエーリ 著, 平川 祐弘 訳, ギュスターヴ・ドレ 画, 河出書房新社, 2010年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4309205496
http://7net.omni7.jp/detail/1102955958

Amazon で買うときに、文庫版がちょうど揃って買えなかったので高かったけど、この「完全版」を中古で買った。

JRF2016/5/66318

……。

Amazon 評で「わかりやすい訳」と言われていたのでこれを選んだが、確かにほとんど現代口語で読みやすいのだが、表現がこみいっていたりして私には難しかった。いろんな古典文学をベースにしていて、聖書の参照はまだわかるものの、ギリシア・ローマ古典や歴史の参照となるとわからなくなり、さらに、ダンテの時代のイタリア・フィレンツェの政治家・宗教家やダンテの友人も出てくるが、そうなるとわかるわけがない。

JRF2016/5/63852

そんな「内輪ネタ」満載にもかかわらず、世界的文学として読みつがれているということだから、それ以外の部分がしっかりしているということなのだろうが、各地の名所などを地獄等を描くときの比喩に使ったりする部分は、マネできたらすごいだろうな…とは思ったが、黙示録的象徴を文に持ちこむのは注がないと一体誰がわかるんだと思ったりした。実際、訳者も次のように述べている。

JRF2016/5/67456

>なお、詩行が読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。<(煉獄篇第32歌 訳注)

私は「煉獄篇末尾から天国篇全体」に限らず全体にそう感じたので、まぁ、私の読み方のほうが悪いということなのかもしれないが…。

JRF2016/5/61899

……。

「内輪ネタ」と書いたが、逆に言えば、そういう部分の人名などが墓碑のように作品に遺されたとも言える。この本全体が墓碑なのだ。だからこそ『神曲』の普及を支える人々もいるのではないだろうか? この本の中でダンテが死後の世界の住人に自分は生きて本を遺すから、そこに書かれるために何か語ってくれないかと話しを促す描写が頻繁にある。ダンテは高慢の気があると自認しているという描写もしているが、自分のこの作品が後世に遺るという自信に満ちていたように思う。それはブログを十年やって何の注目も浴びなかった私にはマネできない心境だ。

JRF2016/5/61455

私が黙示録的小説を書くときは、人づきあいが少ないし、旅行して風景を知っているのでもないので、二次創作的に味わったゲームやアニメの情報を時事としてとりこもうとするのではないかと思う。ダンテの行為が侮辱罪に近かったかもしれないのと同じ感じで、私は著作権法の罪にかかるかどうかというのを狙っていくことになるのかもしれない。それで後世に今のオタク事情の一端が遺るとできれば、それに勝る幸いはないだろう。

JRF2016/5/64452

……。

私が地獄に行くのか(天国に行く前に)煉獄に行くのかと言えば、キリスト教信仰にまだ入ってないので地獄というのが結論的だが、「例外」みたいなのは本作では認められている。

JRF2016/5/68727

天国篇の第19歌、第20歌の木星天で、キリスト教信仰を信じてなかった者の救いを問題とする。例としてトラヤヌス帝とトロイア人リペウスが出てくる。トラヤヌス帝は、聖グレゴリウスの熾烈な祈りのおかげで一たん生き返り、そこでキリスト者になって死んだという、方法としては難しいが機序がわかりやすい例なのに対し、リペウスの方はいまいちわからない。注によると、リペウスはキリストの受難を予知しえたからだとは言われる。

JRF2016/5/68464

でも、一方で、ダンテを地獄と煉獄に案内したウェルギリウスは地獄の辺獄(リンボ)に留まるわけで、煉獄の頂上には来れたところを見ると煉獄の苦しみを受ける価値がわからず自由意志でそこに留まっている面もあるのかとも思うが、それなら、人々が目的とすべき天国の至福性に疑いが出てくるようにも思う。

JRF2016/5/66486

なんらかの「例外」によって私が煉獄に行くとしても、そこで好色の罪を洗い落とさねばならぬのだろう。私は地獄行きの女ったらしの罪はありえないが、(ちょっとヒドい)エロマンガを好んでいたので、その(女関係の)不偶からするとちょっと納得がいかないが、好色ということにはなるのだろう。現代のオタクは皆多かれ少なかれ、その罪を洗い流す必要があるのではなかろうか。

JRF2016/5/69615

……。

ダンテはイタリア人で今だとカトリックということになると思うが、カトリックらしく「自由意志」を広く認める。

>君ら生きている人々はなにかというとすぐ原因[わけ]を天のせいにする、まるで天球が万事を必然性により動かしているかのような口吻だ。仮にそうだとすれば、君ら人間の中には自由意志は滅んだことになり、善行が至福を悪行が呵責を受けるのは正義にもとることとなる。天球は君らの行為に始動は与えるが、万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。<(煉獄篇第16歌)

JRF2016/5/60416

私の(昔の)考えは↓から。

《自由意思と神の恩寵》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html

JRF2016/5/63791

……。

煉獄での人の内心の作用について。

>前から魂はそれを願っていたのだが、情が許さなかった。情は、神の正義に服し、自己の意にそむいて、かつて罪を追い求めたように今は罰を求めるからだ。<(煉獄篇第21歌)

煉獄では罰を求める情が湧いてきて、それに服するが、罰が十分になったときその情が晴れ、(それ以上罪がなければ)天国への道に歩みを進めることになる。自由意志的な内心たる情に作用があるというのが、死後の世界的であり、私なんかはちょっと恐ろしいと感じる「神秘」だね。

JRF2016/5/67048

……。

贋金[にせがね]造りの罪のところで

>俺が話しながら冗談に『空飛ぶ術[すべ]を心得ております』といったのは事実だ。<(地獄篇第29歌)

…というのが贋金造りになるというのは、できないことをできると言って投資を募り、それを証券化したのが「贋金」と認められたということだろうか。そんな発達した資本主義の形態がダンテの時代にあったんだろうか?

JRF2016/5/60272

……。

他人への無関心について。

>困っている人が助けを乞うまで手を拱[こまね]いている人は実はもともと助ける気がない意地悪な人たちだ。<

これは私が自分自身、反省すべきところだね。自分は何もできないし、できる人がやればいいと思っちゃうんだよね。「小さな親切、大きなお世話」なんてことわざも連想するし。

JRF2016/5/69159

……。

「信仰」をなぜ持つかについてダンテの答えとして

>「もし奇蹟もないのに世界がキリスト教に帰依したとするなら」と私がいった、「この事一つで他に百倍する奇蹟だといえないでしょうか。(…)」<(天国篇第24歌)

JRF2016/5/64048

[cocolog:84842079] で私自身、>2000年以上も前から続いてきた宗教がある種の奇跡そのもののように思うし、そこが神が関与しているといっていれば信じやすいと思う。<と述べている。が、それのみを信仰の理由にするのは保守的判断のみを重視するということで反省して正しい態度ではないように思えてしまう。私には、統合失調症というある種の啓示体験があったのだが、他の人は、結局は保守的態度に帰着するしかないのだろうか。…理性的には。

JRF2016/5/65727

……。

天国での信仰や希望について。

>天国へ来ると信仰はない。なぜなら信ずるのではなく現に見るからである。希望もない、なぜなら至福を現に持つからである。しかし愛だけは「いまなお」続き、永遠に続く。<(天国篇第25歌 訳注)

JRF2016/5/65422

うーん、そうだろうか。他者が自分と違う観方をしているというところから、違う信仰というものを理解でき、そこから自分の信仰を反射して知るといったことはないのだろうか。コンピュータっていうのは、レジスタ付き計算機に巨大な記憶装置が付いてるだけのものだが、狭義の「計算」しかできないわけではない。信仰や希望が単なるデータ列に比せるものだとしても信仰や希望の型がいろいろあるというそれだけでも意味があるのではないだろうか。

JRF2016/5/64108

……。

二進数について。

>2の64乗(西洋将棋の目は64)という数は、西洋将棋を発明したインド人がペルシア王に褒美として第一の目には一粒、第二の目には二粒、第三の目には四粒、と常に倍する数で64の目をうめるだけの穀物をもらいたい、と希望したという故事による。それは合算する、2^64 - 1 = 18446744073709551615 となる。<(天国篇第28歌 訳注)

ググり方が悪いのか、ネット上でこの例が見つからなかった。気になるなぁ…。

JRF2016/5/66584

……。

……。

『神曲』、これが「詩」なのだと言われると圧倒される。「物語」のように思うが、確かに、読む前に思っていたような物語風の描写ではなく、独特の雰囲気があった。たぶん、一度読んだぐらいじゃわからないのだろうな。今度は注などは無視して、詩だけ読んでみようと思う。せっかく高い本を買ったんだしね。

JRF2016/5/61334

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