cocolog:85083398
『旧約聖書』を読み続けてきていて、今回は『旧約聖書続編』部分、トビト記からマナセの祈りまで読んだ。これで『旧約聖書』も全部読んだ(再読した)ことになる。 (JRF 5455)
JRF 2016年5月 2日 (月)
『聖書 新共同訳 - 旧約聖書 旧約聖書続編つき』
http://www.amazon.co.jp/dp/4820213091 (ジッパーつき・ミニ判黒)
http://7net.omni7.jp/detail/1101626553 (クロス装厚表紙)
私が持っている『旧約聖書 続編つき』は、古いミニ版。
JRF2016/5/27072
『続編』部分は、ギリシア語聖書に含まれていたものだが、ユダヤ教では正典とは認められていないらしく、ユダヤ教やプロテスタントでは外典(アポクリファ)という扱いになるが、カトリックは一部を「第二正典」として正典と同じ地位とみなしているそうだ。(詳しくはググッてください。)
JRF2016/5/29245
今回もいくつか引っ掛かった部分を抜き書きする。
JRF2016/5/21506
……。
ユディト記のユダヤ人の歴史について客観的に語る部分。
>この民はカルデア人の血を引いており、以前にはメソポタミアに居留していました。と申しますのは、彼らは、カルデアの地に住んでいた先祖の神々に従うことを望まず、親たちの歩んだ道を離れ、天の神、彼らが知るに至った神を礼拝するようになったため、カルデア人によてその神々の前から追い払われました。
JRF2016/5/25749
(…)
そのため彼らはメソポタミア地方を逃れ、そこに久しい間居留することになったのです。その後、居留地を出てカナンの地へ行け、という神の言葉に従って、彼らはカナンに定着し、金銀や多くの家畜を豊かに得ました。カナン全土が飢饉に見舞われたとき、彼らはエジプトへ下りましたが(…)
<(ユディ 5章)
JRF2016/5/22819
アッシリア軍の総司令官が、アンモン人の指揮官にイスラエル人とは何者かと問うたときの答えで、おそらくアブラハムからヨセフ(それ以降)にいたる歴史が客観的な描写で書かれており、私は新鮮に感じた。
JRF2016/5/29321
……。
マカバイ記 一 から、安息日と戦争について。
>だれであれ、安息日に我々に対して戦いを挑んでくる者があれば、我々はこれと戦おう。<(一マカ 2:41)
安息日に戦争をしかけられたとき、どうするのかというのは私もちょっと疑問に思っていた部分。戦争も兵站活動を含めれば普通の商業活動にも関わってくる。マカバイ記では戦うにしろいろいろな制限を考えていたことが出てくる。
JRF2016/5/21431
……。
マカバイ記 二の7章では、七人兄弟の殉教という話が出てくる。
>世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。<(二マカ 7:9)
拷問する王こそが残虐であるというのはその通りなのだが、七人そろって殉教してしまうのが私なんかには狂信としか思えない。残虐な王はこれでさらに残虐な思いを強くしたのではないかといぶかる。こういう世界に(再び)しちゃあいけない。
JRF2016/5/21277
……。
マカバイと呼ばれるユダが戦死者の「罪」に触れて祈願した。
>もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。<(二マカ 12:44)
復活などの死後の概念が定着していない時代、戦死者のことをどう考えていたんだろう? 国の、王のために戦えば「天国」に行けるとぼんやりと信じられたのだろうか? それとも残った家族などが望みをつなぐためだったんだろうか?
JRF2016/5/23551
……。
知恵の書において、偶像崇拝について。
>実体のない偶像を礼拝することは、諸悪の始まりと源、そして結末である。<(知 14:27)
始まりであり結末であるとはすごい表現。権力者の肖像を作り崇めさせるのが、自己目的化するといったところか。憎しみをもって破壊するのも偶像崇拝の一面で、それも変にストレスを解消させるだけでよくないのだろう。
JRF2016/5/28938
……。
シラ書[集会の書]から格言をいくつか。
JRF2016/5/26570
>できないことに手を出すな。お前に示されたことは、既に人間の理解を超えたものなのだから。<(シラ 3:23)
私が統合失調症なのは病気だけど、その症状として神に関する妄想を抱くのは、「できないことに手を出す」自分がいるからなんだろうな…。
JRF2016/5/20772
>怠け者は、糞で汚れた石と同じで、だれもが、その汚らわしさをなじる。<(シラ 22:1)
>物分かりの悪い者や愚かな者、みだらなふるまいをする年寄りをたしなめることを恥じるな。(…)<(シラ 42:8)
私は怠け者の愚か者ということになってしまった。笑われるのは当然。こんなはずじゃなかったんだけどな…。
JRF2016/5/26573
>絶えず鞭で問いただされている召し使いには、生傷が絶えないように、むやみに誓いを立て、御名を呼ぶ者は、決して罪から清められることはない。<(シラ 23:10)
私は足首のらへんに生傷、かき傷が絶えない。部屋を不潔にしているからだろう。
JRF2016/5/22138
>(…)子はしつけなければわがままになる。(…)若いときには気ままなことをさせるな。<(シラ 8-11)
私の親はどちらかといえば放任気味であったが、決して、しつけがなかったわけではない。大学(院)は工学修士相当まで出させてもらっているし、親に責任はない。なのに、私のせいで、親がまちがったように見られるとすれば本当に申し訳ない。親不孝な息子で申し訳ない。
JRF2016/5/25502
>律法を守ることは、多くの供え物に匹敵し、掟に心を留めることは、和解の献[ささ]げ物に、他人の親切に報いることは、穀物の献げ物に、施しをすることは感謝の献げ物に匹敵する。<(シラ 35:1-4)
ユダヤ教の律法の焼き尽くす献げ物や和解の献げ物をどういうときにすればいいのかが、私は未だによくわからない。こういう考え方をしてもいいのかな…というところ。
JRF2016/5/21221
>過ちを犯すな。手を汚すな。あらゆる罪から心を清めよ。(…)その上で、医者にも助けを求めよ。主が医者を造られたのだから。<(シラ 38:10-12)
古代の医者や薬にどこまで実力があったのかはわからないが、なんというか、「代替医療」に心引かれがちな私には、心にしみる格言だね。病いと罪とは関係のない現代で、そのほうがいいんだけど、まぁ、昔には昔なりの良さもあったのだろう。
JRF2016/5/29965
>子よ、物乞いをして一生を送るな。そうするくらいなら死んだ方がましである。<(シラ 40:28)
あららぁ、本にまで死んだほうがマシって言われちゃったよ、私。現代だから「物乞い」そのものではないだけで…本当に親に社会に申し訳ない。
JRF2016/5/27678
……。
エズラ記(ラテン語)は第四エズラ記とも呼ばれるらしいが、元の(ヘブライ語やギリシア語)のエズラ記とは関係がなく、「最後の審判」「死後の裁き」などを描く黙示録的文書となっている。前から書いてきたように黙示録的小説を書きたいと思っている私には、特に神学論争をする部分など参考にしたい部分もあり、少し興味を持って読んだ。
JRF2016/5/26007
……。
……。
さて、『旧約聖書』の再読も終った。[cocolog:84974434] で書いたようにちゃんとした信仰生活に入れば意味があるのかもしれないが、今、これを読んでもはっきりいって空しいだけだ。
私は今も親に甘えている…それは間違いない。ああ、この先、このままというわけにはいかないだろうと思うのだが…、どうすればいいのかわからない。
JRF2016/5/27716
聖書は何度か通して読んだことがあり、今度のは、モーセ五書(トーラー)を [cocolog:84912421] で読み、前回 [cocolog:85062947] にマラキ書まで『旧約聖書略解』とともに読んでいた。今回は、『続編』部分で『略解』はなく、本文だけを読んだ。全体にザッと読み通しただけ。
JRF2016/5/27270