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「転生」と「最後の審判」の並存・調和を考える。 (JRF 5850)

JRF 2016年5月26日 (木)

このところ書いてきたように「黙示録的小説」を書きたいと思っている。そのストーリーを考える上で、その骨格にあたるスジとして、最後の審判と転生について考えている。

JRF2016/5/266473

……。

最後の審判では裁きのために霊だけでなく肉体も復活する。そして天国に行くか「永遠の火」に行くかが決められる。「永遠の火」がそのままイコール「地獄」なのか、最後の審判の前に霊が置かれるところの一つに「地獄」があるのかはよくわからない。

さらに、カトリックは、天国と地獄の他に、ささいな罪を贖えば天国に行けるという煉獄の存在を認めている。

JRF2016/5/263437

……。

[cocolog:85062947] で>肉体が復活して地獄で焼かれているんだけど、それは(プロジェクターなどの)立体影像的なものでもあり、「霊」が別の生活においてさまざまな「罰」を受ける…みたいなことを考えている。<…と述べた。そこから天国に行ける可能性がないかもしれず、そうだとするとその点は地獄のままだが、生活において何らかの改善がなされるかもしれないとするとその点は煉獄的になる。

JRF2016/5/268484

煉獄か地獄かはおいといて、そこに生活世界があるとすると、そこに子供が産まれるということがあるかもしれない。その赤ん坊は一体何者なのか。例えば「現世」では割礼や洗礼を受けるべきだったのに受けられなかった赤ん坊なのかもしれない。そこには生も死もあるとすると、その生活世界に転生してきたかのようにみなせる。

JRF2016/5/262883

前世の記憶はあるだろうか。その生活世界には実世界と同じように嬰児死があるとする。嬰児は嬰児として死んだことを記憶してまた嬰児のまま死ぬのだろうか。そしてまた転生するのか。そして前世の死を運命のごとく繰り返すだけのようなことがありうるだろうか。

JRF2016/5/260091

いや、嬰児には成長できるチャンスが今度の世界ではある。前世の記憶はない。その赤ん坊がその世界で善行をして死んだとする。ならば、その者は天国に行けるのか? ならば、そこは煉獄的だとなる。このチャンスは、赤ん坊や胎児だけでなく子供にも与えられるべきだろう。同じ霊が、赤ん坊に戻ったところから再スタートする。いっそのこと、前世で悪いことをした大人にもチャンスが与えられるとしたほうがよくはないか?

JRF2016/5/266611

ここは煉獄ではなく地獄ということなら、生活世界で死んだら霊の世界に戻って再び罰を受けるのかもしれない。前世の記憶は持っていなかったが、霊の状態になればその前のことも思い出せるのかもしれない。そこに記憶がある…。上述の部分で、肉体は実際には地獄で焼かれているということを考えたが、そちらのほうが実体であり、赤ん坊となって生活したのはただの夢のようなものかもしれないという考えが浮かぶ。善行の夢を見ている間は痛みを忘れられる…。

JRF2016/5/268319

……。

地獄の肉体が夢をみて、その夢がある生活世界に住んでいるということなら、肉体達は夢を共有していることになる。むしろ「地獄」における新しい世界の創造に、資本参加するように、夢で参加するようになるのかもしれない。

JRF2016/5/261914

夢ならば「夢」が転生していっても肉体は地獄のままかもしれないが、神もまた資本参加するならば、その新しい世界の霊には肉体が付与されるのかもしれない。肉体があるかないかの違いは、肉体の復活…「再び」の「最後の審判」による復活があるかどうかにあるとできるかもしれない。元の肉体は地獄かもしれないが、新しい世界の肉体は「夢」の霊を引き連れて天国に行けるのかもしれない。「最後の審判」は一つの無限であり、天国に行った者には、それにより無限の罰も終ったように思えるのかもしれない。

JRF2016/5/267110

ゼノンのパラドックスにアキレスと亀のパラドックスとして知られているものがある。足が早いことで知られるアキレスもゆっくり動く亀に追いつけない。なぜなら、亀がある地点 B に達したとき、前の地点 A までアキレスがやってきているとすると、アキレスが地点 B に達したときは必ずその間にその先の地点 C に亀は達しているから。…というもの。これは等比級数の無限和が有限の距離に収まることで説明できる。無限の距離とはまた別に無限個の等比数列が作れる。無限にもいろいろ種類がある。

JRF2016/5/265596

無限の罰も同様に別の無限と並存できると考える。「最後の審判」は有限の時間内に必ず訪れるとしても、その間に無限個の級数が取れるように、無限の罰の時間が埋めこめると考えるのである。

JRF2016/5/267020

次の「最後の審判」までに時間があるとすると、すでに復活が決まっている夢の他にもう一つ夢を見ることがあるかもしれない。そうすると霊が二分されたかのようになる。部分霊の問題である。逆に、ある世界で生活していた霊の切り離された思いだけが部分霊として転生するということもあるのかもしれない。部分霊の他がまだ生きているとするなら、それは同時に「生き霊」であるとも言える。

JRF2016/5/269417

霊は赤ん坊から必ず生きなければならないのだろうか。途中から肉体に参加するということはないだろうか。「憑依」の問題である。生き霊の部分霊が憑依すること、または類例として守護霊になることまで考えていいのかもしれない。プラトンのイデア論に似たものとして、人の霊はそもそも偉大な生きる何かの部分霊のようなものなのかもしれない。

JRF2016/5/269945

肉体が復活するときは、そういった部分霊も背負って復活するのだろう。その肉体が地獄で資本となって新しい世界が構成される。元々、ある肉体の部分霊だったものはその前の肉体のイメージを果たして保持しているだろうか、忘れてしまうのではないだろうか。これがより深い地獄ということなのだろうか。その部分霊は「悪魔」だったのか? もし復活の際、天国に行ったなら、「悪魔」のささやきだった部分霊も一諸に天国に入るのだろうか?

JRF2016/5/264042

部分の逆、統合もありえるのだろうか? 赤ん坊のうちに死んだ者は過去にさかのぼるほど数多い。個性はもちろんあるというべきだが、似た境遇の者も多いだろう。彼らが統合された霊となって一つの人生を生き、救われるということはないのだろうか?

JRF2016/5/269938

……。

基本的に最後の審判は、霊が別の肉体を纏って転生を繰り返すことの否定の上に成り立っている。転生は生まれの不平等を説明できてしまうので、神の下の平等に反するというのがその理由だと私は考えている。

JRF2016/5/268488

しかし、死後の世界でのみ転生を認めるなら、そこがすでに地獄ということなら、別の世界へのみ転生するということなら、平等を汚すことは少ないのではないか。同じ世界でも、過去に、今に転生するというのも同様ではないか。

JRF2016/5/268335

今に転生するとなれば、今、生活している誰かに憑依するといったところだが、それがそういう人を説得するのと何が違うのか。他者として説得するほうが徳が高いのではないかという気がする。過去に転生するとなれば、タイムトリップの矛盾を引き起こさないように自分を埋めこむということだろう。進化の前の猿やアメーバに転生し、前世の記憶を少し持って何かに役立てることが今の自分を作るとするのだろうか。それが徳が高いと私が思うのは、他の人に認められることを目指してないからだろう。でも、神の手をわずらわせている…。

JRF2016/5/269787

しかし、アメーバのような無限に近い複数の生に部分霊的に転生してから一人の霊に戻るならば、そこに、その「地獄」に、罰としての意味が見つかるだろうか。そこまでいけばある種「無秩序」ということの意味を考えねばならないのでははいか。

JRF2016/5/262398

その転生を望み精神修養することに一体何の意味があるのだろうか。無限とも思える多くの生に思いを伝えられることだろうか。しかし、それをかかえて天国に行くのか? じゃあ天国から地獄に思いを通じさせているということになるのではないか? 天国の一部として地獄がある…それは私の持つ天国のイメージではない。

JRF2016/5/263814

最後の審判の大事な要素として、この世界は有限であり終りがあるということが挙げられる。無限の時間を転生していけるわけではない。私がここで考える地獄において「天国」と「地獄の罰」は無限・永遠だが、生きる者の世界・生活世界は有限で「永遠」はなく、いつまでも転生できると思っている者の上にも最後の審判のラッパが鳴って終りが来ると考えたい。

JRF2016/5/266333

……。

資本による新しい世界創造に話を戻す。どんな世界でも存在可能なのではなく、存在不可能な世界は「とけて」しまう。…「溶けて」がまず第一義だが、「解けて」にも意味を見出す。世界が巨大なコンピュータの計算に統合されるなら、それは新しい世界とは見なされないのではないか?

JRF2016/5/263221

神は新しい世界に必ず出資なさるのではない。巨大コンピュータに統合されるものにはそれだけで十分であるとする。ここに、すでにある肉体達がイコール、資源であるという観方、限りあるものだという観方が出てくるかもしれない。

JRF2016/5/260597

一方で、ゲームの中に世界を埋没させることで、あやしげな神々が復活できるという道もあるのではないか。そして、唯一神の手をわずわらせないシステムであることも大事で、一般人がゲームをやるごとにその神々の世界は一時的に呼吸し、それがその人のその神々に対する功徳となる、と。そこで貯めた魔力がどこかで使われるのかもしれない。

JRF2016/5/269749

また一方で、「解けて」しまえない世界には魔法を許す世界もあるかもしれない。そもそも肉体の犠牲が新しい世界や霊をもたらすというのは魔術の考え方に近い。まず法があって次に物質があるような世界、シンボルに念を送ることで通じあえるような世界もあるかもしれない。

JRF2016/5/266382

魔術があるから神々に居場所も出てくる。しかしここの私の世界観では唯一神を凌駕する神々は存在しえない。「地獄」でも唯一神がいるという状況の下でのみ「神々」が復活できる。一般に創造や魔術の責任者として神々が考えられてしまうのは僭越なことであるが、「特許」が神のものでなく特定の人のものとされるように、特定の創像や特定の魔術の責任が神々や魔術師に帰されるのはまず問題ない。

JRF2016/5/260788

魔術世界は無神論者に住める場所ではない。しかし、そういう傾向を持つ者が魔術使用者となるとき、どうしても魔術の責任者のほうが偉いと考えがちになってしまう。それは唯一神に対する神々の僭越になるので、神々はそうならないようにする責任がある。その一つのセオリーが、魔術の使う前提要件として、魔術使用者は、最後の審判ですでに焼かれるなり溺れるなりしているという確信に到達させ、唯一神の存在を痛感させるというものが考えられる。いってみれば魔術を使えるようになるためのその認識に致るのが秘術なのである。もちろん、僭越に致らないためには、それ以外の方法もあるかもしれないが。

JRF2016/5/262865

……。

「神の国」の到来については「すでに」と「いまだ」の緊張の中にあるという神学がある。「最後の審判」については「すでに」と「いまだ」の間にあるという公式な理解はないはずだが、私は統合失調症になったときに最後の審判がはじまったと「誤解」した。私には「最後の審判」も「すでに」と「いまだ」にあっていいという理解がある。上の論考は私の統合失調症時の妄想にヒントを得ている。

JRF2016/5/264516

こういった私の妄想のフレームワークを私は「多神教的キリスト教」(参:[cocolog:83347972])と呼んでいる。キリスト教があくまでもベースだという認識が私にあり、最後の審判のほうが転生よりも上位概念であるかのように扱っていたり、唯一神性を大きな縛りとして見ている。この点、別のフレームワークに立てば、最後の審判と転生について別の考えに致りうるのだろうが、(当面、)私はそこまで追うつもりはない。

JRF2016/5/263252

typo 「創像」→「創造」。
修正 「私がここで考える地獄」→「私がここで考える死後の世界」。

JRF2016/5/262662

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