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cocolog:85386184

大黒 学さんの一神教学会の『多一教の教理問答』を読んだ。多一教の理念を壊さずに、イエスの十字架からの復活やモーセの奇跡と並立するようにできるのではないか…と考えた。 (JRF 6560)

JRF 2016年6月18日 (土)

先日、[cocolog:85308129] で書いたように、「多神教的キリスト教」(参:[cocolog:83347972])のフレームワークに属するものとして小説『神々のための黙示録』を書いた。その少し前に、その小説の骨格として [cocolog:85237794] で「転生」と「最後の審判」の並存・調和を考えた。

JRF2016/6/182855

《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970

《神々のための黙示録 - 小説家になろう》
http://ncode.syosetu.com/n6013di/1/

JRF2016/6/188941

ちょうど時期的に似たころに、私がはてなブックマークやブログなどを注目している大黒学さんの一神教学会が『多一教の教理問答』を公開したので、これも何かの縁かもしれないと、興味深く読んだ。宗教を創ることを最近いとわなくなり、「多神教的キリスト教」(参:[cocolog:83347972])を考えている私にとって、大黒学さんは先駆者的存在。

JRF2016/6/183286

《「多一教の教理問答・第零版alpha00」を公開しました - 一神教学会からのお知らせ》
http://d.hatena.ne.jp/monotheism/20160608

《多一教の教理問答》
http://www.monotheism.jp/sutra/polynitism.htm

JRF2016/6/182311

>弊会は現在、設立十周年を記念する事業といたしまして、「多一教」(polynitism)という宗教の布教を計画いたしております。これは、「アブラハム宗教」(Abrahamic religion)と総称される宗教に新たに加わることになる宗教です。<

JRF2016/6/180404

……。

私が一番、気になったのは、やはり、公開のお知らせにも書かれていた部分、物理的な奇跡がないという部分だ。

JRF2016/6/180635

>多一教以外のアブラハム宗教においては、ヤハウェは我々が存在している宇宙に対して物理的な干渉を加えることがあると考えられており、そのような干渉は「奇跡」と呼ばれます。それに対して多一教は、ヤハウェは我々が存在している宇宙の物理法則と物理定数を定めて、その存在を開始させたが、それ以降はいかなる物理的な干渉も加えようとは考えていない、と主張しています。

JRF2016/6/180512

(…)

この点で、多一教は理神論(deism)にかなり近い宗教であると言うことができます。しかし、多一教は決して理神論ではありません。なぜなら、多一教におけるヤハウェは、人間に啓示を与えるという非物理的な手段によって、我々が存在している宇宙に対して干渉を加えるからです。

JRF2016/6/188137

つまり、イエスの十字架後の復活や出エジプトの紅海を割ったようなモーセの奇跡は認めない一方、「お告げ」をある種の奇跡と見て、釈迦などへも「非物理的干渉」によって教えを伝えたとするようである。物理的奇跡を認めないのは、創世記でアブラハム以降ヨセフまでの記述を見れば、そういう考え方もあるのかなとは思う。

JRF2016/6/184973

が、私は物理的奇跡を「否定」までする必要はないのではないかと思う。「多一教」という立場であっても。もう少し緩いテーゼでいいのではないか。

JRF2016/6/189615

伝説的には6000年ぐらい前のアダムとイブが出てくる創世記の天地創造の際(かしばらくしてから再介入してそうしたかはわからないが)、「進化論」が成り立つと見えるように神は地球や宇宙を創造されたという観方がありうる。これは記憶も含めて世界が5分前に創造されたという[google:5分前創造説]の5分を6000年前にしたものに相当する(参:[cocolog:81647290])。

JRF2016/6/189050

神が進化論も成り立っていると見えるように意図したならば、奇跡的介入で進化がねじまげられたように見ずとも、科学的に進化が説明できるはずである。…と考える。[google:ミッシングリンク]みたいな話もあるが、それもいずれ科学的に説明できるようになると考える。少なくとも、科学的に矛盾した神の介入の証拠は出て来ないと信じていいのではないか?

JRF2016/6/188894

一方、ここで、イエスの十字架からの復活やモーセの奇跡についても似たような状況にあると言うことができる。なぜか。それらについても神の介入の証拠は(証言以外)もうなくなってしまっているからである。

JRF2016/6/188864

つまり

「奇跡については神の介入の証拠はやがてなくなり物理的・科学的な説明を邪魔できなくなる。」

…とできれば十分で、(物理的)奇跡とはそのように証拠は残さない形でなら起こりうると考えるのである。多一教も、奇跡に関する考え方をこう緩めれば、イエスの十字架やモーセの奇跡とも共存できるようになると思う。

JRF2016/6/185971

例えば、これから起こりうる奇跡の例として、原発震災がどこかに起こって、「ほとんど被害がなかった」という奇跡が考えられる。未来の人が科学的にそんなことがありうるのかと思って調べても、残っている当時の資料などからは、被害が少なかったことをうかがわせるイベント等があるが、被害がなかったことの証拠はもう得られないということはありうる。

JRF2016/6/189839

私は統合失調症の発作になったとき、(物理的)奇跡が起きていると感じた。奇跡が起こったという証拠は振り返れば何もないけれど…。

JRF2016/6/189763

平田森三『キリンのまだら』(p.176-183)で、時間間隔を適当に取れば「生き物」のように見えるゾウリムシ(パラメシウム)の動きが、時間間隔を長く取るとブラウン運動にしか見えないという話が出てくる。生きていること自体、奇跡のようなものだが、生きていると見えるのも奇跡的なのだと私は思う。

JRF2016/6/180483

多一教の「端末神」の考え方はキリスト教の「聖霊」に似ているけど、決定的に違うのは、端末神ではそれを内的作用(意志-心的作用)としか見ないことにあると私は思う。上記、小説では次のような語りがある。

JRF2016/6/181689

>「聖霊は促すだけです。信仰によってのみ、その現れを知るのです。どのようにかして現れ、心に響いたこと、それは大切なことなのです。」<

JRF2016/6/186499

個人が、集団が、奇跡が「どのようにかして現れ」たと観測して、それが後に「奇跡」ではない、または、そのような奇跡はない、とわかったとしても、それを観測したことは意味のあることだと私は思う。それは、(キリスト教の宗派によってはそう認めないかもしれないが、)聖霊の働きだと思う。(物理的)奇跡を認めないことに対応して、「端末神」の考え方は貧弱な概念になっていると私は考える。

JRF2016/6/187134

……。

また、多一教には「死後の世界」の概念がまだ書かれていない。一神教学会の「経蔵」の他の文書には書かれているから、「いらない」という判断がなされたのだろう。旧約聖書は死後の世界にあまり言及しない。そういったところからいらないと判断されたのかもしれない。

JRF2016/6/186521

しかし、進化論が過去を説明するように、過去の死んだ人々の救いがどうなったか、神はどうなさったかを疑問に思い説明を求めるのは当然ではないだろうか。死んだ人々が皆報われているようには見えない現実がある。それに対する救いの奇跡はなくて良いのだろうか?

JRF2016/6/185555

何のために宗教ができたか、宗教を創るか、というと、いろいろ解答はあろうが、大雑把に救いを求めてといえるのではないか。その大事な部分に、多一教は応えていないように思う。

JRF2016/6/189646

私は、「多神教的キリスト教」を考えるにあたって、小説「神々のための黙示録」で死後の救いの在り方をまず考えたといったところになるだろうか。

JRF2016/6/188749

「多神教的キリスト教」ということだと大黒学さんには↓があり、そこでは死後の世界に言及がある。

《日本型キリスト教の教理問答》
http://www.monotheism.jp/sutra/japachri.htm

JRF2016/6/185326

>洗礼は、受けたいと望まなくても、 死後に奪衣婆(脱エバ)から強制的に授けられます。すべての人間は、死んだのち、 三途の川で奪衣婆に出会うことになります。 彼女の使命は、生前に洗礼を受けていない人間に対して、 三途の川の水で強制的に洗礼を授けることです。したがって、最後の審判は、 あらゆる人間を天国へ送ることになります。 地獄は、 人間が存在しない世界になることがすでに予定されています。<

JRF2016/6/181154

キリスト教であっても、死後、「三途の川」を渡ると考えるのは、ダンテの『神曲』([cocolog:85108135]に似たシーンがあったから、正統なのかもしれないが、正直、違和感はある。それ以上に地獄送りがいなくなるというのは、私の小説も似たようなものだが、思い切ってるな…と思う。

JRF2016/6/183651

もう一つ驚きなのが、神々に関する部分

>「神」という日本語の言葉は、 必ずしも「三位一体の神」という意味だけで 使われるわけではありません。 日本語では、「神」という言葉は多くの場合、 「聖性を持つ霊的な存在者」というような意味で使われます。 この意味で「神」という言葉を使うとすると、 キリスト教は多神教に分類されることになります。 なぜなら、キリスト教においても、マリアや聖人や聖遺物のような、 聖性を持つ霊的な存在者の存在が認められているからです。<

JRF2016/6/180438

私もキリスト教がユダヤ教やイスラム教に比べて多神教的だとは思うけれども、私はマリア崇拝や聖人崇拝を多神教とまで言い切ってしまう感覚はない。神々を持ち出さないために聖人崇拝を取り入れたりしたと見えることもあるからで、私には神々という概念に何の問題もないとまではいえない。大黒学さんは「日本型キリスト教」は異端ではないというが、私はどうもあやしく思う。(もちろん、私の「多神教的キリスト教」は「異端」的だと自覚している。正統でも問題ないと認めて欲しいが、私の「地獄」解釈は受け容れ難いだろう。)

JRF2016/6/182327

聖書とかを読むかぎり、ヤハウェは、元、アシェラやケモシュなどと同列のものとされる可能性があり、ヤハウェはそれらの否定を望んだ存在であったというのは認めねばならない。そういう神々の否定は命令されていた。一方で、唯一神(三位一体の神)である限りは、他の神々を造ることを認めていたのも神であるとせねばならない。「神々」を認めてないけど認めている。その後ろ暗さには「三位一体」のような神秘があるようにも思う。

JRF2016/6/187668

私の「多神教的キリスト教」では小説において、最後の審判を軸としつつも転生を部分的に認めることで死後の世界に階層を作り、神々にも救いの余地があるようにするという工夫をしている。アシェラやバアルなどもそこで救いを認めることで、逆に日本の神々ならばもっと許されやすいだろうという期待を生もうとしている。そういう仕掛けなしに直に神々を認めてしまう「日本型キリスト教」は今の私から見るとやり過ぎのように思う。

JRF2016/6/188098

……。

↓を書いたころは、私はインターネットの時代、(強い)宗教組織の必要性について懐疑的だった。でも、今は、私の生活を支えてくれるような宗教組織があるのならば、その恩恵にあやかりたいと思うようになっている。私は弱くなった。

《仏教への教義:四諦の独自解釈》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html

JRF2016/6/182602

一方、大黒学さんはまだ強い組織を創るつもりはないようだ。何か組織を作るなら、迷い人たる私も合流できないかという思いはないわけでもない。今回の「ひとこと」は、それを探ってみるという面もあった。

JRF2016/6/181365

大黒学さんは、よく自らへの言及のあるサイトを読み、ブックマークされる。それを知っているがゆえに、私の小説等を読んで欲しくてこの「ひとこと」を書いた。ブクマ乞食みたいで、情けないが、これが仲間のいない私の現状でもある。誰か(Webクローラー?)がちゃんと彼にこの「ひとこと」を伝えてくれれば、と願う。

JRF2016/6/187014

……。

追記。

(結局、大黒学さんには、はてなブックマークから id コールしました。急いだわけではないのですが、私のこの「ひとこと」はリンクを生成しないので不安になったのと、id コールが使えることに後から気付いたためそうしました。)

JRF2016/7/37288

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