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中島 梓『コミュニケーション不全症候群』を読んだ。精神分析に関する論文というよりは、コミュニケーション不全に関する雑感をまとめた本という印象。 (JRF 0627)

JRF 2016年7月12日 (火)

『コミュニケーション不全症候群』(中島 梓 著, ちくま文庫, 1995年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480031340
http://7net.omni7.jp/detail/1101296513

ハードカバー版は、筑摩書房より 1991年8月に出ている。

JRF2016/7/127541

↓を読んで、ベスト20の中に上がっていたこの本に興味を持ち、中古で買って読んだ。

《京大院生の書店スタッフが「正直、これ読んだら人生狂っちゃうよね」と思う本ベスト20を選んでみた。- リーディング・ハイ - 天狼院書店》
http://tenro-in.com/articles/team/22115

JRF2016/7/121094

……。

中島 梓は栗本 薫の名義で『魔界水滸伝』を子どものころ私は読んでいた。(完結までは読んでいないので、機会があれば手に入れなおして読むかもしれない。) 中島 梓は『象印クイズ ヒントでピント』に出ていたのをよく見た印象が私には残っている。Wikipedia で調べると、『ヒントでピント』の後期には出ていなかったのだが、なぜか印象に強い。

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この本は、「コミュニケーション不全症候群」と著者が思う若者の群れについて述べている。それらは、(主に)男の「おタク」であり、女の拒食症・過食症であり、今では BL (ボーイズラブ)小説というべき JUNE 小説の読者・作家である。結局は、その成熟のなさを憂い、彼・彼女が大人社会に組み込まれていくことを願うという結論になっている。

JRF2016/7/129243

私は、ベンチャービジネスをゆるく目指しながら、消費者としてオタク文化に向き合うというスタンスだったつもりが、すっかりオタク、オタクとしての見識の高さも備わってない不具のオタクになってしまっているのだが、この本を読んでもそこから出られる足がかりはまるで得られなかった。

JRF2016/7/120729

中島 梓は JUNE 小説の「道場」を通じて、コミュニケーション不全症候群の一群と向きあい、自身の小説を通じて何がしかの貢献をしているといるという自負があったようだが、それが私に届くことはありそうもなく、この本を読んだ私同様の「おタク」はただ迷いに落ちるだけになったのではないかと思う。

JRF2016/7/127577

ちゃんとした批評眼を持っていれば、中島 梓の記述で十分、コミュニケーション不全症候群からの脱出の方途が書かれているのかもしれないが、私には読み取れなかった。

もしかすると、40才を超え「終った」感の強い私と違い、もっと若い人間、モラトリアム期間にある大学生等が読めば、人生をそれなりに修正するのに役立つのかもしれない。

JRF2016/7/129495

……。

動物はテリトリーを持っている。

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>私は水槽に金魚やいろいろな魚を飼っているので、単なる定説としてだけでなく、実感としてわかるのだが、過密というものは、存在に生存の基本となる空間の確保をおびやかす。金魚やフナは、ある一定限度以上の数をせまい水槽にいれると、互いに攻撃的になり、しだいに本能が狂ってき、結局弱いものから仲間に攻撃されてどんどん死んでいって、その結果水槽には調和のとれた人口がもどってくる。もしそれ以上の限度を越えた数が水槽にいれられると、かれらは互いに共食いをはじめる。<(p.30)

JRF2016/7/128731

人にとって「テリトリー」とは「居場所」である。「居場所」を現実でなくヴァーチャルな場に求めたのが「おタク」になる。

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>おタク族は要するに「自分の場所」を現実の物質世界に見出せなかった疎外されそうな個体が、形而上世界のなかに自分のテリトリーを作り上げる事で現実世界の適応のなかにとどまったのである。おタクと分裂症患者の違いは、分裂症患者は現実の規範に背をむけて、自分の内的世界につくりあげた個人的幻想の規範に「適応」した存在であるのにたいして、おタクは一応現実の規範には適応しており(…)<(p.62-63)

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私はオタクであると同時に分裂症(統合失調症)患者だが、「現実の規範」に背をむけるというのはどうかな…妄想状態のことをそう表現しているのかもしれないが、実感には合わないことだと思う。

JRF2016/7/121963

>かれら -- おタクたち -- は、なんといったらよいのだろうか、分裂症になるためには悲しいかな本人の創造性において致命的に欠落している存在であるといってよい。<(p.66)

JRF2016/7/127624

私は創造性があったから分裂症になった…と? そういえば心当たりがある。私は結構プログラムを作ったりしていた。創作物に自己の根拠を見出せるのが分裂症なのだろうか? しかし、なぜ、それが薬で寛解するような発病のしかたになるんだろうか?

JRF2016/7/126113

著者は、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎某をおタクの典型例として分析していく。

JRF2016/7/125092

>彼はアニメーターになりたいという希望を持っていたようだが、そのために仲間を探したり、方策を求めたり、実際にコミケットで「顔」になったりするためにさえ必要な最小限の現実への適応も欠いていたので、コミケットにも出入りはしたものの、そこに自分の世界を作り上げる事も出来なかったし、また作品世界に自分の居場所を見出して、そこにとりつく同族のおタクによって支えられる事にもならないまま、どんどん孤立をふかめていったのだろう。<(p.72)

JRF2016/7/120606

私は今、仲間が欲しいと痛切に感じている。だが、どうやって仲間を作ればいいのかわからない。コミケ類には参加したことがない。それに今さら参加して何かが変わるとは思えないのだが…。苦しい。なんとかしたい。一方で、このトシになると打算的な関係しか築けないのではないかという不安・恐怖もある。責任逃れに聞こえるかもしれないが、女ではなく男であることも仲間の作りにくさには関係していると思う。

JRF2016/7/128431

>おタクたちは人間ではないのである!……人間よりも、機械のほうに自我の基盤をとりつかせた存在なのだ。<

私なんかからするとそれはオタクとは違うだろうという類型の者も、いっしょくたにして著者は論じている。大人の側から見ると同じものなのかもしれない。

JRF2016/7/125492

>(…)おタクの男の子たちが自分と機械や作品とだけの交感の世界に埋没し、その結果として誰にたいしても「おタク」と、自分の領域を決して譲らず、侵させないぞ、という意気込みに満ち、かつ相手の名など知る必要はない -- どうせ誰であっても同じこと、一瞬の邂逅ののちには相別れ、二度と再び会うことはなののだから、とでもいいたげな呼びかけをする(…)<(p.110)

JRF2016/7/122703

「オタク」という語は「お宅」という呼びかけから来ている。この本では他に説明があるが、ここに上げられた理由がもっともしっくりくると思う。

JRF2016/7/122094

……。

>(イギリスの少女終身囚マリー・ベルのように)<(p.129)

マリー・ベルと言えば魔法少女もののアニメがあった。あれってここからとったのか?

JRF2016/7/125749

《花の魔法使いマリーベル - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%AD%94%E6%B3%95%E4%BD%BF%E3%81%84%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB

JRF2016/7/126799

《メアリー・ベル事件 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

JRF2016/7/128057

……。

オタク達は社会の「選別する目」から逃げ、無視する選択をしたのに対し、そこから逃げられず自分を追い詰めてしまうのが「コミュニケーション不全症候群」の別群、ダイエット症候群の女の子達である。

JRF2016/7/124819

>一方でダイエットを賞賛し、ダイエットによって得られる「美」と「幸福」を約束しながら、その一方で「摂食障害を乗り越える」いことをうたう、こういったマッチ・ポンプ式の方法が、少女たちの心を決して本当に理解することも救うこともできぬであろうことは想像に難くない。それはこの文化、このマスコミがずっとやってきたやり方であって(…)<(p.142)

JRF2016/7/125900

ダイエットに成功した者も、成功者に与えられるはずの「美」と「幸福」が与えられないのに気付き、さらなる「成功」を目指して拒食症などに向かっていくという。そうまでして得たいのは「誰にでも好かれる自分」なのだ。

JRF2016/7/126836

>他の人間の好意のおこぼれによってだけ、彼女たちは社会の片隅に生存を許され、辛うじて居場所を見出す。より多くの好意はより多くの居場所を、広いスペースを約束するものだ。<

JRF2016/7/123847

拒食症に陥いる者の典型として長女が挙げられたり、それは、自己臭恐怖症や(それとは一見逆の)不潔恐怖症と共に現れることがあると述べられる。

JRF2016/7/125361

ダイエットを一度はしたいと思ったことがある者はダイエット症候群だと著者は見ている。私はオタクの典型というべきデブでずっとあったのでダイエットの必要性はたびたび認識するが、拒食症などは想像できない。一応、風呂は定期的に入っているが、電車に乗ると女性に避けて座わられることがあって、自己臭恐怖症ではない本当の自己臭を気にすべき中年になっていると思われるのだが、あまり気にしないことにしている。

JRF2016/7/125436

……。

コミュニケーション不全症候群のもう一群として、著者は BL (ボーイズラブ)小説・マンガ文化について言及する。

JRF2016/7/126606

>私は現在でも「JUNE」誌上において「小説道場」という連載をつづけている。それはそういう、今言ったような簡単にいうなれば「ホモ小説」だけを受け付ける、ということになっている小説教室である。<(p.199)

この本では「BL」という言葉はまだ出てこないが、現在とは少し違った意味で「やおい」という言葉は紹介されている。

JRF2016/7/129261

>自分は少年でありたい。そして自分を愛する者は男性でしかありえない。この両者の論理的結合の結果が JUNE ジャンルである、ということができるだろう。<(p.236)

JRF2016/7/121829

自分をかえりみて、なぜ BL にはまるのかは人それぞれで、著者の意見に納得できるかどうかはわからない。ただ、著者は、自分が女性なのに女性が排除される BL 文化では、おのずと、自分の精神を分析するような試みがなされ、それが女性をいやしていくようなことがあると述べている。

JRF2016/7/124295

>JUNE 世界のなかでは、不器量であること、肥満、もてないこと、は最大のおそるべき罪である。(…)肥満したおタクと、拒食症の少女たちとは、おたがいに相手を拒否しあい、おたくはアニメのロリポップに理想の恋人を見出し、拒食症の少女たちはもっとも肥満の影もない美少年にみずからをなぞらえ、たがいに悲痛な同類嫌悪におちいっているのである。<(p.240)

JRF2016/7/125693

うーん、オタクの側は嫌ってないと思うな…。ガリガリ少女萌えみたいなのも見たことあるし。ただ、甲斐性(主に稼ぎ)がないので相手になりえないというのと、嫌われているのはそれとなく知っている…というのはあるとは思う。

JRF2016/7/125573

……。

まとめの部分より引用。

>まず、現代がコミュニケーション不全症候群の時代である、ということ。それは多過ぎる人口密度とせますぎる縄張のなかで、限度をこえた数の魚を入れた時の水槽のようにきわめてパニックをおこしやすい状況になっている現代の社会状況と密接なつながりがあるということ。(…)それはまた、目の前にいる人間を、個人的に知り合いになるまでは人間として認知しないというかたちをとること。(…)<(p.264)

JRF2016/7/125137

都会人だけが疎外されているのではない。田舎者は、まずTVを観て都会を目指すが、TVの世界から疎外され、都会からも疎外される二重の疎外に苦しむという。

JRF2016/7/126583

>成人したらマンガを読んだりJUNEものを読まなくなるべきだというようなことではない。そうではなくて、成熟とは自ら選んで環境にかかわってゆくことであり、状況をコントロールできる能力を身につけることである。(…)彼らは「子供の柔軟性を保ち続ける大人」という、ある意味での理想的な人格へ達することもできるのではないだろうか。(…)だがこれは理想論であり、逆に生まれようとしているのは「大人のずる賢さとエゴイズムを身につけた無責任な子供」という最悪の存在であるかもしれないのだ。<(p.310-311)

JRF2016/7/126264

私は無責任…冒険をしたことの責任を取らない人間になってしまっている。私は何がしかをしたつもりも多少あるのだが、それが他者から評価されたことはない。ここからどうすればいいのかわからない。

JRF2016/7/127335

……。

……。

この本は、岸田 秀『ものぐさ精神分析』を読んだ([cocolog:85503423])つづきで、読んだといったところ。今の自分の状況を説明するのは『コミュニケーション不全症候群』のほうだが、社会問題に目を向けさせる『ものぐさ精神分析』のほうが読んでいておもしろかった。正直、『コミュニケーション不全症候群』は、私はすでにトシを取り過ぎて読者対象からはずれてしまったのだと思う。社会が「現代」という名の病にかかっているということだったが、私はその病がもう膏肓[こうこう]に入る段階にあるのだと思う。

JRF2016/7/124644

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