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cocolog:85503423

岸田 秀『ものぐさ精神分析』を読んだ。放言調の心理学論文といったところ。その逆転の発想に納得することも多い。 (JRF 2565)

JRF 2016年7月 7日 (木)

『ものぐさ精神分析』(岸田 秀 著, 中公文庫, 1982年)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J7NZA6
http://7net.omni7.jp/detail/5110109447 (EPUB 3.0)

原著は1977年。

JRF2016/7/72255

↓を読んで、ベスト20の中に上がっていたこの本に興味を持ち、中古で買って読んだ。

《京大院生の書店スタッフが「正直、これ読んだら人生狂っちゃうよね」と思う本ベスト20を選んでみた。- リーディング・ハイ - 天狼院書店》
http://tenro-in.com/articles/team/22115

JRF2016/7/79155

……。

本を読んでいると、「放言」に辟易とする。

JRF2016/7/74735

まず、精神分裂病(統合失調症)について、

>外的自己はますます他者に屈従し、内的自己はますます他者を憎悪するようになる。他者は実際以上に脅威的となる。そうなれば、他者に対しては全面的な服従か全面的な攻撃かの両極端の態度のいずれかしかとれなくなる。<(p.17)

JRF2016/7/72422

時代のせいか、どうも偏見が強いように思う。私は統合失調症の発作を何度も経験しているが、私個人の体験は、「外的自己」と「内的自己」の分裂といったような自己認識を持たなかったし、「両極端の態度」も違う。そういう症状が現れた人がいたとしても、妄想を分かってもらえなかった末の言動だったのではないか。学者のくせに、どうも一方的な放言のように思える。

JRF2016/7/72854

>アメリカは、その不確実感、不安定感を補うため、他民族にその共同幻想を押しつけ、またときには他民族を大量虐殺するよう強迫的にかり立てられている。広島、長崎への原爆投下、ベトナムにおける大量虐殺は、インディアンの大量虐殺の経験の強迫的反復である。<(p.62)

JRF2016/7/76502

アメリカ人が(たぶん)見てないところで、日本人のアメリカに対するコンプレックスを慰撫する卑怯な記述に見える。これが放言でなければ何が放言だといったところ。事実の指摘にことよせた日本人読者を引きつけるレトリックだろう。

JRF2016/7/74315

>人間に関する問題ならどのような問題もすべてつながっており、ある問題を説明できて、別の問題を説明できないような理論は理論の名に値しない。<(p.69)

JRF2016/7/77158

著者もある種の理論を語っているわけで、ものすごい自信だと思う。まぁ、放言だろう。「理論」は適用範囲を定めた上でモジュール化するのが良心的だとは思うが、難しい。

JRF2016/7/76600

この本を読んでいると、いろいろ興味深い記述に出会う。ただ、それらも放言的であることを割り引いて読まねばならないのだろう。それをわからせてくれる記述が本の最初のほうに出てくるのは、むしろ親切と言わねばならないのかもしれない。

JRF2016/7/70228

……。

人類のネオテニー説から、共同幻想の成立まで…

JRF2016/7/78759


(…)生理的早産説と、(…)猿の胎児がそのままの形でおとなになったのが人類である(いわゆる幼形成熟[ネオテニー])とするL・ボルクの胎児化説とがあるが、(…)生理的早産は胎児化の一つの結果と考えることがえきるから(…)胎児化説を中心に論を進めたい。

(…)

この胎児化の結果、人類は滅亡の危機に直面したであろう。自活できるようになるまでこんなに長い期間保護してやらねばならないのだから、保護する側の負担はべらぼうに重い。

JRF2016/7/73439

(…)

子どもの本能は、まずはじめに現実と遮断された世界のなかで発動され、満足を知る。(…)親が提供してくれた人工的世界は、子ども自身にとっては、現実によっても他者によっても限定されない唯我独尊、全知全能の世界である。このような世界のなかで満足を知た子どもの本能は、現実からずれてしまう。

JRF2016/7/79752

(…)

動物は本能に従って行動し、それがそのまま個体保存、種族保存の目的につながっている。ところが、人間においては、本能に従うことは現実への不適応を意味する。(…)本能は、唯我独尊の幻想のなかで、自閉と全能の幻想のなかで空回りする。本来なら現実我を保存するはずの個体保存の本能は、全能の幻想我を保存する方向へずれる。

JRF2016/7/75423

(…)

種族保存の本能の場合にも、性欲の発現と、生殖器官の成熟とのあいだに数年の時間的ずれがある。そのため、人間の性欲は、まず不能の性として出発する。(…)倒錯の性とは、不能の性であり、幻想の世界に遊ぶ性である。

JRF2016/7/70578

(…)

そのうち、遅まきながら、感覚的運動器官あるいは生殖器官が成熟したときには、すでに手おくれで、人間の個体保存あるいは種族保存の本能は、前述のように本来の目的から遊離した方向へずれてしまっているから、ここで、何らかの打開策を講じなければ、人間は(…)不適応になって滅亡せざるを得なかったであろう。

JRF2016/7/76256

(…)

人類は、したがって、幻想の方向にずれてしまった本能を何とかして、現実の方向へ引き戻さなければ生きのびることができない状況に追いこまれた。本能はエスに変質しており、そのエスは、個体保存に関しては、自閉と全能の幻想我の保存をめざすナルチシズムと、種族保存に関しては、前性器的倒錯のリビドーとから成っていた。エスのおもむくままに従っていたのでは自滅する。ここで人類は、エスを抑圧することをはじめて知った。

JRF2016/7/77752

(…)

ここに文化が発生した。文化は、矛盾する二つの要請を同時に満たすものでなければならない。一つは、曲がりなりにも現実の個体保存または種族保存を保証する形式を提供するものでなければならない。もう一つは、できるかぎり各人の私的幻想を吸収し、共同化し、それに満足を与えるものでなければならない。文化は、前者の意味において、(…)擬似現実であり後者の意味において共同幻想(…)である。

JRF2016/7/75274

(…)

かつては本能に支えられていた人間のつながり(男と女、親と子など)は、今や共同幻想に支えられることになった。本能に支えられたつながりと共同幻想に支えられたつながりは、本質的に異なっている。第一に、前者は本能的必要のあるあいだしかつづかない。男(雄)と女(雌)は、生殖活動がおわれば、もはやたがいに男でもなければ女でもない。(…)それに反して、後者は永続化し、固定化する。ここに制度としての家族が成立(…)する。

JRF2016/7/78061

(…)

共同幻想は、かけ離れてしまった本来の現実と私的幻想との双方をいくらかずつ裏切った妥協の産物であ(…る…)。
<(p.42-47)

JRF2016/7/77523

かなり長く引用してしまった。ここの他に、幻想我やナルチシズム、リビドーについて詳しく解説している部分があるし、共同幻想についてもっと語っているところもある。ただ、著者はこの章を特に読んで欲しいと書いてあったので、この章(「国家論」という章)から長々と引用した。

JRF2016/7/79482

文化は現実の生活を可能にすると同時に、共同幻想を創る。個々にとって共同幻想はアウトソーシングされた部分で、私的幻想の上層をなしている。不倫について考えたとき([cocolog:85244915])、>自分の子だから育てたい、という気持ちは本能的のように思う。<と書いたが、これはたぶん本能というより共同幻想が要求するものなのだろう。

JRF2016/7/78259

>現実を見失った人間は、おのおの勝手に私的幻想の世界に住んでおり、ただ、各人の私的幻想を部分的に共同化して共同幻想を築き、この共同幻想をあたかも現実であるかのごとく扱い、この擬似現実を共同世界としてかろうじて各人のつながりを保ち、生きていっているに過ぎない。<(p.69)

JRF2016/7/75563

私が書いた小説「神々のための黙示録」([cocolog:85308129])の二節を思い出した。あれは睡眠学習の機械で夢を共同化するとかいうお話だった。

JRF2016/7/72915

……。

近親相姦の禁については説得力があると思った。

JRF2016/7/76553

>このような血縁幻想を共同幻想とし、同じ赤の他人たちのなかから特定の者を選んで親とか兄とか妹とか呼んだとき、家族が成り立ったのである。共同幻想としての血縁と、生物学的なつながりとは別のものであって、後者は、前者のいわば参考資料ととして使われたとしても、後者が前者を一義的に決定することはない。<(p.48)

JRF2016/7/76169

幼児は性的欲望がないわけではなく、むしろ持っているのに不能者であるというところに倒錯が起こるという。「性的タブー」は、そういう幼児が外からの支えとしてむしろ必要とするものなのだという。

JRF2016/7/78499

>近親相姦のタブーが普遍的で強力なのは、近親者が幼児の性欲の最初の対象であり、最初に幼児をしてその耐えがたい性的不能の事態に直面させる危険があった人物だからである。もし、性のタブー、とくに近親相姦のタブーがなかったなら、人間の精神発達は、幼児期にあまりのショックのために押しつぶされ、挫折してしまうであろう。<(p.103)

JRF2016/7/74432

……。

>今や、正常者となっているおとなでも、(第二次)思春期のころに、同性愛行為その他の倒錯行為の思い出を、二つ三つもっていない者は少ない。<(p.91)

そうなのかな? 私は、第二次性徴期の前の小学生時代のほうが、「痛い」言動に心当りがある。性器の成熟の前に、性的妄想・性倒錯があるというのはそのとおりで、私が「不能の性」に苦しんでいたのかどうかは定かではないが。

JRF2016/7/74963

……。

フロイト派のリビドーの解説で、「口唇期」というのはなんとなくわかったのだが、「肛門期」の意味、なぜ、そう呼ぶかについて私は得心してなかった。この本ではじめて納得した。

JRF2016/7/73390

>幼児は、主として肛門括約筋の能動性を通じて自己を主張する(…)。幼児は、母親の命令に反抗して糞便を排泄することを拒むことによって我を通す。あるいは、母親を喜ばせるため、その願いを聞き入れて糞便の贈り物を母親に与える。糞便は幼児がつくった最初の生産物であり、幼児にとってこの上なく貴重なものであって、それを贈り物として与えるのは大変な好意である。あるいはまた、母親を困らせるため、所定の場所以外のところで、所定の時間以外のときに、排泄する。<(p.105-106)

JRF2016/7/74933

……。

>近代においては、両性の持続的関係、ひいては結婚を主体的個人としての両性の恋愛という幻想によって支えようとする努力が払われてきている。<(p.137)

恋愛は幻想…か。私にはかかわりあいのねぇこってす。

JRF2016/7/78821

……。

>人間の親は、動物の親と違って、生んだ子を育てないことができる。殺してコインロッカーに捨てることもでき、お金を取って売ることもできる。これらは何ら人間性に反した行動ではなく、動物にはできないきわめて人間的な行動である。そして、もし生んだ子を育てるとすれば、人間の親は動物の親の何倍、何十倍もの努力と犠牲が要求されるのである。<(p.149)

JRF2016/7/71226

著者は、最後の章の「わたしの原点」で、自分がもらいっ子であった過去を記す。著者の「親」は大学時代に死んでしまう。以前から神経症であった著者は、その後、自分を精神分析した。すると、母の「やさしさ」のかげに>ひたすらおのれのために、わたしがどれほど苦しもうがいっさい気にせず、あらゆる情緒的圧迫と術策を使ってわたしを利用しやすい存在に仕立てあげようとしていた母の姿<(p.324)を発見する。それが著者が神経症という代価を払って否認してきたことであった。

JRF2016/7/79432

……。

親は共同幻想によって何とか自分の重い負担を納得しようとする。そのような幻想の一つに親孝行があるという。

JRF2016/7/78493

>東洋の親孝行の思想はさらに露骨であって、無償では子を育てる気になれない親の気持ちがのぞいている。この思想は親の負担を子に移すことによって軽減しようとするものだが、子が親に孝行するのは親が子を育てる以上に無理なことであって、いずれそのうち、親は失望し、子はうしろめたさを感ずるという、親子にとってともによくない結果になるのがオチである。つまり、この思想は気の進まぬ親にだましだまし子育ての義務を引き受けさせようとする欺瞞策である。だが、問題はそういう欺瞞策が必要だということにある。<(p.151-152)

JRF2016/7/74020

私は「高齢ニート」で、介護もはっきりいって難しく、親孝行などこれからできそうにない。まぁ、それに対して皆もそうだという意見なわけで、少し楽になった。が、こんなことで楽を感じる自分に罪深さも感じる。

JRF2016/7/74603

……。

現代の人間も物理的化学的現象にほかならないという「擬物論」に対して、著者は動物や物などの動きを人の精神の動きなどに擬[なぞら]えて説明する「擬人論」の復権を訴える。

JRF2016/7/73355

>ヒステリーや強迫神経症の症状は、その意味を精神分析者が了解し、患者に意識的に了解させれば、消失するのであった。<

母の恩着せがましさに対して嘔吐する息子の例が語られる。母親がその意味を理解し、恩着せがましさを改めれば、または、息子がその意味を理解して母親を直接非難すれば嘔吐の症状はなくなる。物ではなく意味が症状を変えたのである。

JRF2016/7/71854

>たとえば、風が吹いて、Aが自分の家の壁に立てかけてあった材木が倒れ、たまたまその下にいたBの子どもが大怪我をした。AとBとのあいだで補償の交渉が数ヶ月つづいたが、なかなか話はまとまらなかった。Aは、Bが人の弱味につけ込んで過大な補償を要求してくると思い、腹を立ててBをなぐった。子どもを怪我させられた上に、自分までなぐられたBは大いに怒り、Aの家に放火した。Aの家は燃えて灰になってしまった。この事件の経過に関して、風が吹いたという最初の物理現象と、それから数ヶ月後の、Aの家が燃えたという物理現象とを、切れ目のない物理的因果の連鎖で埋めることができるだろうか。<(p.162)

JRF2016/7/77363

「風が吹けば桶屋が儲かる」式のたとえだが、興味深い。[cocolog:85464900] で私はサイコロの目に沿った行動を特別視して縁起論に結びつけているが、ここの議論につながるところかもしれない。

JRF2016/7/79806

>環境の変化と生物の形態の変化とを直接的に対応させるラマルキズムが進化の事実を説明し得ないのは、それが決断の問題であることを忘れているからである。用不用説を実験的に検証しようとして、何百世代かにわたってネズミの尻尾を切りつづけた根気のいい学者がいて、そのあげくネズミの尻尾は少しも短くならないことを発見したが、わたしに言わせれば、ネズミ自身が尻尾のない方が生存に有利だという判断に達しないかぎり、決してネズミの尻尾はなくならないであろう。(…)定向進化の事実は、進化が何よりもまず決断の問題であることを証明する。<(p.169-169)

JRF2016/7/74605

尻尾のない方が生存に有利だと判断した上で、性選択にそれを活かした場合は、そうなるであろう。このあたり私も↓で議論している。

《イメージによる進化》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/06/post.html

JRF2016/7/77209

>癌の治療のむずかしさは、危険思想を撲滅するむずかしさと似ており、癌の転位は、大量の反乱分子を虐殺しても、その思想が存在するかぎり、また別のところにそれを信じる者が現われるといった風である。(…)癌細胞を取り出してすりつぶし、その構成要素を調べて癌の本質を知ろうとするのは、たとえばテレビをぶっこわしてその構成要素を調べて、テレビが伝えていた情報の内容を知ろうとするようなものではなかろうか。<(p.172)

JRF2016/7/70148

ここまで来ると放言となろうが、擬人化のほうがよく説明できることというのはあるのかもしれない。ホメオタシスやストレスの説明のように、還元主義ではうまくいかないが、モデル化はうまくいくというのはあるかもしれない。でも、この例の場合、危険思想が体の中の何に相当するのかといった分析はさらにありえ、そこでは擬物化がまた顔を出す。擬人化は厳密な議論や治療法にはなかなか結びつかないように思う。

JRF2016/7/75457

……。

>(…)抑鬱感情とは、無限の高みにのぼった幻想我の観点からみじめな現実我を見たときの感情であると思う。<(p.241)

思っていた自分と違うというだけで、「無限の高み」は違うんじゃないかな。まぁ、抑鬱とは、現実を思い知ることではあると私も思うが。

JRF2016/7/72764

>自分のある面を嫌悪するのは、はるかにもっと嫌悪すべき別の面を隠すためである。自己嫌悪の強い者は、そのゆえをもって、自分は自分の悪いところを客観的に見て、責めるべきところは責める「良心的な」人間だと考えがちであるが、実際には、自己嫌悪の存在そのものが、彼がその逆の人間であることを証明している。<(p.254-255)

JRF2016/7/70662

私は自己嫌悪をけっこうするが、自分が良心的な人間と考えたいのかなぁ…。抑鬱と何が違うんだろう。正直なだけ…正直でない自分を隠したい…とか? うーん、どうも的外れな気がして見当がつかない。

JRF2016/7/70667

……。

>わが家は軍国主義にも国家主義にも縁がなく、わが町、善通寺町は空襲も受けず、遠い親戚の一人を除き、家族や親戚に戦死者も戦傷者も出していない。わたし個人は、戦中戦後を通じてひもじい思いをしたこともなく、直接的には何ら戦争の被害を受けていない。焼跡も闇市も知らない。<(p.318)

その逆を語り告ごうという動きがあって、こういう感想は逆に知ることが少ない。私の親の場合は、中国で終戦を迎えてやっと帰って来たと聞くぐらい。

JRF2016/7/79091

……。

……。

なかなかおもしろかった。が、最初のほうに述べたように放言的で、査読を受けた学術論文とは大いに異なるといったところだろう。これで人生が変わるかだが、親との関係について考え直す者はいるかもしれない…ぐらいのところか。恋愛論はどうだろう? もっといいのがありそうな気がするが、私はそういうのを選んで読むということがなかったのでよくわからない。

JRF2016/7/77534

この本は、病院での待ち時間をつぶすために読みはじめたようなもので、今読んでる途中の本(前の「ひとこと」 [cocolog:85464900] に書いてる)を読むのを諦めたわけではない。病院とかは涼しいが、家でクーラーを着けないでいるととにかく暑い。そういう季節に読んでいる。2011年の原発震災以来、せめての節電をこころがけているが、2016年、心折れがちなのを認めざるを得ない。

JRF2016/7/77320

……。

追記。

補足。

神経症はどうか知らないが精神分裂病(統合失調症)の治療には広く「物理的化学的」手段である薬が用いられるようになっている。統合失調症である私は抗精神病薬で症状がやわらいだという自己認識がある。この本の時代は私が使っている薬がまだなかった時代で、そういう面もあって著者は、薬物に頼らない治療法を模索しているのだろう。

JRF2016/7/94467

統合失調症はまだ十分に解明された病気とは言い難いようだが、この先、薬を利用しないという立場から病が記述されることはマレになるだろう。この本のような考察というのは、もう読めない種類の記述になっているかもしれない。そういう意味では時代の貴重な証言として読むこともできるのかもしれない。

JRF2016/7/92921

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