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他人の幸せや成功を妬まないことが大切であるということと、それが礼によって達成されるということについて考える。 (JRF 8433)

JRF 2016年12月 4日 (日)

最近、昔、読んだ本を何冊か再読していた。その中に新渡戸稲造の『武士道』もあった。『武士道』の中心的主題等とは必ずしも関係ないが、ちょっと前にブクマやツイートで見た主張を思い出して次の一節に目が留まった。

JRF2016/12/42638

『武士道』(新渡戸 稲造 著, 矢内原 忠雄 訳, 岩波文庫, 1938年・改版 1974年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003311817
http://7net.omni7.jp/detail/1100428050

JRF2016/12/47231

>一方において勇の鍛錬は呟[つぶや]かずして忍耐することを銘記せしめ、他方において礼の教訓は我々自身の悲哀もしくは苦痛を露[あらわ]すことにより他人の快楽もしくは安静を害せざるよう要求する。<(p.91, 第十一章「克己」冒頭)

JRF2016/12/47890

ちょっと前のブクマまたはツイートとは「他人の幸せや成功を妬むような社会ではダメだ」といった趣旨だった。それ自身はよくある主張で、他者の足を引っ張ることで「平等に不幸」を実現するのはダメだと続くもので、それゆえわざわざそのブクマやツイートのリンクの必要はないと思うほどだ。私自身、ブログのほうで↓のようなよく似た主張をしている。

《誰もできないよりは誰かができたほうがいい》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2011/02/post.html

JRF2016/12/48168

『武士道』のこの部分によると、「礼の教訓」が「妬む」ような社会に歯止めをかけるという。「礼」ってそういうものだったか?

JRF2016/12/47766

人は聖になれずせいぜい仁にしかなれない([cocolog:84664128])。聖人のようにふるまえるのではなく、また聖人だろうと超能力的にすべての人に行為の意味をわからせることはできないだろうから、一定に決まった「礼」によって意図を明確に示すしかない。「礼」とは人の有限性に根ざすものではないだろうか。

JRF2016/12/46487

自ら苦しみながら他人の幸せや成功を見た者が、礼にのっとることで精神の安定を得るという方向はあるかもしれない。幸せや成功にある者が礼にのっとることで、嫌味にならないというのはあるかもしれない。もっと実質的なところで、礼は税制にのっとることも含み、最低限の再分配を意味しているのかもしれない。

JRF2016/12/44207

「礼」そのものではなく「礼の教訓」だから、礼を失したときの疎外感が、共に社会の一員であることを忘れさせ、一方の無視、一方の攻撃的な態度をとらせうるということで、逆に言えば、社会というのは他人の幸せを自分の幸せとして、他人の不幸を自分の不幸として共感できるところにあると言えるのかもしれない。

JRF2016/12/44873

「礼」は人の有限性に根ざしながら、社会を構成してくれる。天下のまわりものは金にかぎらず、自然に運は巡るとは言え、有限の生では運が巡ってくるのをいつまでも待てるわけではない。有限で感情が揺さぶられがちな常の人にとっては、礼を守り範を超えないことが平和を導くのだろう。

JRF2016/12/47831

ひるがえって私に限れば、「礼」からかなり離れている。ひきこもりで社会常識を発揮する場がない。犬畜生に劣りがちな自分をもう少し外に向かって開かねばならない。それはわかっているんだけど、なかなかなぁ…。ときどき半ば強制的に人と関わらなければならなくなって、最近もそういうことがあって、反省することしきりなんだけど…。

JRF2016/12/48207

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