« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

cocolog:86784687

佐藤優『はじめての宗教論 右巻・左巻』、内田樹『街場のメディア論』、尾関宗園『平常心』、山下一仁『農協の大罪』を読んだ。 (JRF 9325)

JRF 2017年1月30日 (月)

……。

……。

『はじめての宗教論 右巻 - 見えない世界の逆襲』(佐藤 優 著, NHK出版生活人新書, 2009年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4140883081
http://7net.omni7.jp/detail/1102827244

『はじめての宗教論 左巻 - ナショナリズムと神学』(佐藤 優 著, NHK出版新書, 2011年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4140883367
http://7net.omni7.jp/detail/1103004398

JRF2017/1/307211

神学部卒の元外交官の佐藤優の本。彼は今、神学に関して↓で連載していて、途中からだが、一応、私はそれを読んでいる。その連載の最初のほうが本になった『神学の思考 - キリスト教とは何か』(平凡社)も以前に(このひとことには書いてないが)読んだ。その本はわかりやすく、それがオーソドックスな神学の思考かと言えば首をかしげるが、一つの考え方としては理解した。が、続いている連載のほうは難しくて、私は理解しているとは言い難く「一応」読んでいるに過ぎない。

JRF2017/1/302009

《佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】》
http://webheibon.jp/blog/satomasaru/

JRF2017/1/309344

今回の二冊の本はどういうものであるか、後編である左巻のあとがきの紹介を見よう。

>(…)『はじめての宗教論 右巻 -- 見えない世界の逆襲』(2009年刊)では、合理的な「見える世界」によって支配されている近現代の背後にも「見えない世界」が存在することをできるだけわかりやすく説明した。

真理は具体的であるので、「見えない世界」がどのように私たちの現実に影響を与えているかという問題について、左巻では取り扱った。具体的にはナショナリズムの問題だ。ナショナリズムは近現代人にとって、宗教の役割を果たしている。
<(左巻, p.257)

JRF2017/1/308180

読んでるときには、そういう意図だとは私には思い浮かばなかった。右巻は、外交官の経験に裏打ちされた、北朝鮮や東ヨーロッパのキリスト教会が果たした政治的役割など海外事情の記述がおもしろかった。左巻は、『神学の思考』と重なる部分もあるが、全編を通じて自由主義神学のシュライエルマッハー批判という感じだった。

JRF2017/1/300650

前編である右巻の最初で、>キリストの復活とは、ナザレのイエスが夢に出てきたということです。<(右巻, p.13) と断定する。著者はプロテスタントで、これ以降の説明ではちゃんとイエスが真の神であり真の人であるということを言うのであるが、ここでは、まるで一部の読者を切り捨てるかのようにこう言い切ってしまう。この辺は「(叙述のための)テクニックだな」「(人の悪評を気にせず)強いな」と思う。

JRF2017/1/303343

……。

ちゃんと訓練を受けていれば聖書をひいて好きな意見をいうことができるようだ。例えば、新約聖書のローマ書 第13章では権威つまり国家への従順を説く。一方で、国家への不従順を説きたいときは黙示録 第13章を参照するのだという。

>要点は、終末論に革命的要素が入っていて、地上の権力を基本的に認めないという姿勢が強く打ち出されていることです。だから、ナチスは黙示録を聖書から除外したわけです。<(右巻, p.156)

JRF2017/1/304139

「好きな意見」と言っても「救済のために」という前提はあるかもしれない…。

>神学は、学問的真理を追究しているわけではありません。救済を追求しているのです。真理が救済につながらないならば、そういう真理はいらないというのがキリスト教の基本的な考え方です。<(左巻, p.109-110)

…そこまで言うのは厳しいな、と感じる。聖書の矛盾に対して不誠実なように思うが、これが実践的な神学者というものなのだろうか。

JRF2017/1/304371

……。

プロテスタントはそもそも自由意志の存在を否定するのが神学的見解かと私は思っていたが、どうやら違うようだ。

>(…人間は…)神の似姿であるがゆえ自由意志をもっているということです。この自由意志を使って、人間は必ず悪いことをする。責任逃れをしようとする。自由意志によって良い選択、神に至る選択はできない。これがプロテスタンティズムの人間観の根本です。人間の自由意志というのは奴隷意志であり、常に間違った選択しかできないというわけです。<(右巻, p.171)

JRF2017/1/301859

《自由意思と神の恩寵》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html

JRF2017/1/303198

……。

左巻の主人公はシュライエルマッハー。彼は「天上にいる神」という概念が「地球が丸い(から上はない)」という概念に脅[おびや]かされたとき、神を心の中に位置付けた。

>(…)神は天上ではなく、各人の心の中にいることになりました。神を「見えない世界」にうまく隠すことに成功したと言ってもいいかもしれません。(…)しかし、ここから別の問題が新たに生じました。人間の心理作用と神を混同してしまう危険です。神は絶対的存在です。自らの心の中に絶対的存在を認めることで、人間の自己絶対化の危険性が生じたわけです。<(左巻, p.13)

JRF2017/1/302629

シュライエルマッハーは慎重だったが、彼の影響を受けた(と思われる)他の人々にとって、イエスという啓示は遠くなり、例えば今そこにある「超越性」である国家に神が「受肉」することとなった。佐藤は、それが第一次大戦を招いたかのような論をとる。

JRF2017/1/307686

これに対し、バルトは神を再び「天」に戻した。

>では、バルトはローマ書から何を見出したのか。神が「上」にいるということをもう一回発見したのです。その場合の「上」というのは形而上的な概念ではありません。神はわれわれの内側にいるのではない。われわれが把握できない遠いところ、見えない世界にいる。イエス・キリストを通じてのみわれわれはそのことを知ることができる。<(左巻, p.206)

JRF2017/1/308684

私には、神は四次元か五次元か百次元か知らないが、汎神論的というのでもなく、「そこにいる」と思える。「遠いところ」ともまた違う。「聖霊」(?)が、「啓示」ではないかもしれないが啓示的に何か作用していてよいと思う。私が洗礼を受けてないキリスト教徒未満だからそう思っているのかもしれないが。

JRF2017/1/304259

……。

政治への言及はやはりおもしろい。

>(…)「年越し派遣村」のような運動に、右派が積極的に関わるための理論を新たに作る必要はありません。保守・右翼の発想としては心情で十分です。(…)カンパをしようというレベルで十分です。理論を緻密[ちみつ]に組み立てたうえで運動を推進するのは左翼の側です。<(左巻, p.197)

JRF2017/1/308639

私はどちらかと言えば「左」だが、緻密に論を立てることができてない。そこがダメなんだろうな…。

JRF2017/1/305003

……。

本の論とは関係ないが…、

>こういう冗談がある。「哲学を語るにはドイツ語、恋愛を語るにはフランス語、家畜をしかるときはロシア語」。<(左巻, p.89)

以前、古川日出夫『ベルカ、吠えないのか?』を読んだ([cocolog:86693243])が、それがロシアが舞台だったのは、このジョークとかけてもいたのかな?

JRF2017/1/307765

……。

読んでいて、何を言いたいのかときどきわからなくなった。難しかった。引用された部分も難しく、著者がその後にする解説でやっと少しだけ意味がつかめるといったふうだった。著者(佐藤)は頭がいいと感じる。私は情けなくなる。著者はどうしてそこまで頭がいいのか、多くの本を引用するということは本を読んでどこが大事かまで覚えているということだろう。すごい。私のようなのは、つきしたがうしかないのではないかと思えてくる。学力も、経験も、圧倒的な差があった。

JRF2017/1/308031

……。

……。

『街場のメディア論』(内田 樹 著, 光文社新書, 2010年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4334035779
http://7net.omni7.jp/detail/1102952844

JRF2017/1/301483

佐藤優と同じく多作家の内田樹の本。内田のブログ・Twitter を私は読んでいる。その本は、読みやすくスッと言葉が胸に入ってくる。世間に対し上から目線に近いものを抱かせてくれるので、読むと何か偉くなった気になる。

JRF2017/1/303527

ただ、この本の元となった講義を聞きに来たメディア人を目指す人にこの本がどれだけ役に立つかと問われると疑問符がつくところもある。例えば、「世論」への迎合と高いものを値切って買う消費者にあわせる「ビジネス」マインドがメディアを衰退に導いているという論は、読者にとって蠱惑的だが、メディア人がそれに対応できるか、実用知とできるかと言われると難しいだろう。

JRF2017/1/304804

>印刷物が「危機耐性」が強いメディアである(…)。ラジオもそうです。(…)ラジオの部品は安価で、入手が簡単です。(…)僕は「危機耐性」と「手作り可能性」はメディアの有用性を考慮する場合のかなり重要な指標だと思っています(…)。<(p.39-40)

JRF2017/1/305263

直前のひとこと [cocolog:86756868] で、「潜在的な自由」「潜在生産力」の話をしたがそこにつながる話だと思う。でも、一方で、クーデターならテレビ局を狙うというように、「危機耐性」とはまた別の「危機における意味」みたいなものは、現代のメディア人もそれなりに考えているのではないかと思う。メディア人にとって、そういうときにどこにいたいかという問いは意味あるのかもしれない…。下記の「兵常心」につながる話でもあろう。

JRF2017/1/303835

>テクストはさまざまな経路を通じて次から次へと手渡されます。その段階では、テクストの手渡しは、本質的には、商取引ではありません。それは「あ、これどうぞ」と無償で供与されます。それがある段階で「反対給付義務」を感じる読者に出会う。「これはすばらしい贈り物を受け取った」と感じたその読者は「お返し」をしないと、自分の身に「悪いこと」が起こると直感する。それゆえ、まずは自分に直接それを贈ってくれた人に「お返し」をする。それを受け取った人も同じように自分にそれを贈ってくれた人に返礼する。そうやってやがて贈与の起源にたどりつく。<(p.173)

JRF2017/1/306396

「贈与経済」という考え方に驚く。「価値」は、長い期間を得たあとにその価値を認める者が返礼をしたとき、はじめて生まれたと言える…。経済シミュレーション(simple_market_0.pl)を書いた(↓)とき、価値を認める人がその時点時点に発生すると考えたが、反省すべきことのように思った。

《外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2011/01/post.html

JRF2017/1/300886

「中間にいるのがメディア」みたいなことはこの本のどこにも書いてなかったが、いつか「返礼」する者のために「わけのわからないこと」も直感的に選んで伝えておく。そういうメディア人でいてください。…ということなのだろう。…いいこと言うなぁ。

JRF2017/1/309327

……。

……。

『平常心 - 激動期を生き抜く心の五〇〇語』(尾関 宗園 著, サンマーク文庫, 1999年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4763180762
http://7net.omni7.jp/detail/1101581797

元は1974年に徳間書店から刊行。

JRF2017/1/304048

ずっと前、Amazon で「平常心」を検索すると、なぜか数冊しか本が表示されなかった。そのときに興味を持った本。今、Amazon で「平常心」を検索するとたくさん本がある。

JRF2017/1/301532

「平常心」については 2008年6月19日の一連のひとこと(例えば [aboutme:60374])で書いたが、つまりは、「兵常心」、能などになった物語「鉢木」で、苦しい生活をしていても一端必要となれば「いざ鎌倉!」と命がけで戦う、その心掛けのことのように解釈するのが私は好きだ。

JRF2017/1/307846

この本の場合は、いくつか用例があるが、例えば下のように使われている。

>ありがたいことに、最近の私には「病気は病気で幸せ」 -- こんな感覚がわいてきた。入院してきた者だけが手に入れる、なめらかな平常心だろう。<(p.148)

JRF2017/1/308998

著者は、禅宗(臨済宗)の坊主で、それに似つかわしく、割り切った語り口で読者に「喝[かつ]」を加えていく。今の Twitter は 140 字ごとにひとことしていくが、まるでそのように短かい言葉で一言居士を演じていく。ただ、「なんとか bot」を別として、このような言を Twitter に書きつらねる人は意外といない。書いていることはなかなか厳しい。

JRF2017/1/302523

>本書は、私が自分に喝をいれるために書きためていたメモが元になっている。どれもが自分自身に放った言葉だから、遠慮がない。なんの飾りもない、私の本音のままである。<(p.3)

JRF2017/1/301534

著者はテレビにも出ていたようだが、よく(中小の)会社にも呼ばれていたようで、今でいう「ブラック企業」礼讃的なものも多くあって、私は辟易する(もしくは憎しみを感じる)。例えば…、

>「わしは精いっぱいやった」では人は動かぬ。「精いっぱいやった、これ以上やったら死んでしまう。だが、それでもさらにもう一歩進める」というところから、人を動かす力が出てくる。<(p.78)

JRF2017/1/303275

「ブラック企業」で働く経営者も従業員もそれなりの信念があってやってはいるのだろうと思う。私はニート(40歳オーバーだが)として、そういう者に申し訳ないと思いながら、もう少しマシな世の中にならないかと考える。甘やかす…ということだろう。でも、そういう人は「ご苦労様」といわれるより、さらに叱ってもらうことを求めるのかもしれない。そこに本書のようなものへの需要があるのかもしれない。

JRF2017/1/304628

私が本書で惹かれた言葉・身にこたえた言葉・「これはどうだろう?」と思った言葉を、少し羅列する。

JRF2017/1/307133

>「ただいま、考えているさいちゅうです」 -- いちばんのくず、いちばんの不健康な人間の言い分。<(p.61)

JRF2017/1/309779

>「私はもう死んでも生きてもどちらでもよいんです」と、投げ出し気分で、だれもが口にするこの言葉。これはどうも虫がよすぎる。死にたいなら死にたい、生きたいなら生きたい。どちらかひとつに決めないとはぜいたくな。徹底してあなたが「死にたい」と進められるなら、だれもが、そんな見込みのない人間を相手に、生きる手伝いをしようとは思わない。「生きたい」なら「生きたい」と一生懸命進めるなら、これもまた、おのずから生きる道が開かれる。<(p.74-75)

JRF2017/1/301756

>「がんばってもだめなときはどうしますか」などといっているうちは、まだがんばっていない証拠だ。<(p.81)

JRF2017/1/306684

>右の手がこごえていたら、左の手でもみほぐすという。バカなことをいうもんじゃない。こごえた右の手で左の手をもんでやったほうが、はるかに右手の解決になるんだ。<(p.97)

JRF2017/1/301915

>だれでも、風は無心に吹いているという。また、そう思いたがる。だが風にしてみれば、あなたの頬にこんなに強く当たってよいものかどうか迷っているのかもしれない。<(p.119)

JRF2017/1/301781

>この世に「不幸せ」ってことがありますか。この世に「苦労」ってことがありますか。私には、どこを探しても、そんなものが見当たらない。<(p.143)

JRF2017/1/308134

>おれはこのごろ、自分が無能であることがわかってきた。うれしいかぎりだ。<(p.145)

JRF2017/1/303321

>いまのきみの職業は、きみが好きで選んだ仕事だなどとはいわすまい。きみは行くところがなくて、やむをえずこの職にすがりついた。この職に救ってもらった。それを忘れて、自分の職に不服をいうやつがあるか。<(p.159)

JRF2017/1/306237

>他人を許す許さぬより、まず許せない自分がある。<(p.169)

JRF2017/1/308154

>たるんでいるのは、きみだけだ!<(p.188)

JRF2017/1/302062

……。

……。

『農協の大罪 - 「農政トライアングル」が招く日本の食糧不安』(山下 一仁 著, 宝島社新書, 2009年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796667202
http://7net.omni7.jp/detail/1102588903

JRF2017/1/306053

私は、大阪のベッドタウン的な町に育ちそこに住んでいる。昔あった田んぼが住宅に変わるたび切ない思いをする。周りの宅地の多さに比べ、田んぼはあまりにも少ないとは言え、田んぼが近くにあることには安心感がある。かといって私は、農業に従事したり、関わりを持とうとすることもない。私には別の道があると思ってきた。

JRF2017/1/307775

エネルギーと食糧を輸入に頼る日本。エネルギーの輸入が必要な以上、農業にこだわるのにどれほど意味があるかとも思っていたが、この本の第8章で反論があった。国際ルールで、食糧の輸入禁止はダメでも、輸出禁止が認められていること、少ないエネルギーをすべて食糧生産にまわす事態があるかもしれないこと、等々。確かに食糧の(上で出てきた)潜在生産力を残しておくことは必要なのかもしれない。

JRF2017/1/302639

一般的に農業には不作に備える保険のような仕組みが必要だろう、それが昔は地主、今は農協なのではないか…と私は思った。その上、昭和恐慌(p.69)の経験の後に誕生した組織を引き継いだ農協は、金融的異常事態への対応能力・政治力ももつことが求められたのかもしれない。米の先物市場開設への政治的な反対も元をたどればそういうところから出ているのだろうし、金融への進出も必要なものだったのだろう。

JRF2017/1/303203

そして、戦争中・戦後まもなくの統制経済を経て、潜在生産力を維持するためには、農地も大事だが、戦後まもなくの経験で農地を復興・開拓する労働力(p.164)が役に立ったこともあって、農業人口を維持する方向(p.110)があったということだと思う。「農協」は兼業農家も重視する数の組織になったのだろう。

JRF2017/1/307940

農地の広さと機能を保ちながら、減った需要に対応するためには「減反」という政治的な対応で、農業の管理はしていくという方向がとられたのだろう。しかし、実態は、農地法がザル法(p.169)で、減反はむしろ水田の喪失につながってしまっていたようだ。

JRF2017/1/305784

いざというときに役に立つ「効率的な農業」を鍛えておくといった場合、少ない時間で農業をする兼業農家の在り方は支持されるものであったのかもしれない。それが農薬と肥料に頼り、自然に負荷をかけるもの(p.101)だったとしても、備畜できるものをうまく使っての農業という評価になったのかもしれない。

JRF2017/1/303548

ただ、「兼業農家」が土地を主業農家(専業農家)に貸す(p.47など)といったとき、農地であるがゆえに有利な補助金等があって、不等な所得を得ていることになるのではないかという疑いが私には生じた。>小作人が農地改革で取得した農地を、宅地等に転用売却して大きな利益を得ていることは、かつての地主層には納得いかないところであった。<(p.62) とあるが、また別の納得いきがたいことが進行しているのではないかと思った。

JRF2017/1/304053

『街場のメディア論』でも消費者の機能は安く買うというところに特化されることが書かれていたと思う。消費者に環境や政治・食糧安全保障に配慮して買えと言っても限界があり、選ばれた政治家が責任を持って、規制するなり関税をとるなりする必要がある。自由市場にも限界がある。とはいえ、自由市場の力は偉大で、その力により効率を求めることが結果的に世界の富を増やすという点は否定できない。守られている市場の技術が時代遅れになっているなんてことは避けねばならないのだ。

JRF2017/1/301175

自由市場的な効率を求めていくという方向は、規模の農業を追及するという方向だろう。零細な兼業農家よりは規模の大きい主業農家を応援するというのこそありうべき方向なのかもしれない。

JRF2017/1/307802

じゃあ、その支援に直接支払い・個別補償がいいのかというと私には疑いがある。エネルギーを輸入し、狭い土地がほとんどの日本では、どうやってもコスト的に農業が不利で、できるだけ作らないという態度こそが実は正しいのではないかと思うからだ。一方で、数量のみを元に補償すれば品質に問題がでるだろう。だから、農業を維持したいなら、実質、作らなくても補償が得られるよりは、「価格」に上乗せしたインセンティブがあったほうが良いのではないかと思う。また、所得補償は、所得や労働実態の捕捉がザルになりがちにならないかという危惧もある。2017年、今の制度がどうなっているかはしらないが…。

JRF2017/1/305484

[cocolog:86756868] でトランプ氏にならって、保護主義をとる方向もありかと述べた。ならば、米価を下げ、麦価を上げ(p.41)、麦価の上げた分で所得保障するような方向もありえるかというと、さすがにそこまでは難しいだろう。

JRF2017/1/309527

農業総産出額はパナソニック一社の売上にも及ばない(p.25)といっても、その家電業界は苦境にある。>大きな日本市場に対して生産を拡大していけば、規模の利益が働いて輸出製品のコストも低下し、競争力が上がる。こうして世界に冠たる日本の輸出産業が成立した。<というのは今では中国(p.186)にあてはまることだが、日本が中国に米を輸出できるようになるとまでは現状では考えにくい。

JRF2017/1/304843

現在の農協とは別の米主業農家による専門農協(p.200)の設立が著者の結論。Wikipedia を見ると減反政策は 2018年にやめるらしい。苦しくなるばかりの日本は、農業国でも目指すということなのだろうか…。でも、原発震災の国、それを否定しがちな「東京」をかかえる国から喜んで買ってくれる国はあるだろうか。私もナッツとか産地気にせず食べてるから、気にしない人々がいることは確かだが…。まぁ、案外、農産物を多く輸出できる国を目指すことが、原発等のケガレをいやすことにつながるのかもしれないね。(^^;

JRF2017/1/303002

修正 「に上乗せしたインセンティブ」→「の高さに応じて補助を増やすようなインセンティブ」。

JRF2017/1/314081

……。

直上での修正は意味不明なものになってしまった。

要は、実質、作らなくても補償が得られるということがないように、より多く作り売った者がコスト割れになっても補償されるようにあるべきで、従来の米の価格を維持するという政策も、インセンティブという面から見れば意味があったのではないかということ。さらに、品質が良いものが評価されるよう政府がまとめたあと売るのではなく生産者が名前を出して維持している価格以上で売ったとしても、補償がなくなるようなことがないほうが望ましいというのが私の意見…か。ただ、それが、効率や自由化という面から見て、害があったのかもしれない…とは思う。

JRF2017/1/316838

« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/93568/64829382

トラックバックのポリシー

他サイトなどからこの記事に自薦された関連記事(トラックバック)はまだありません。

このころのニュース