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cocolog:86854015

三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』を読んだ。終末論法はよくわからない。眠り姫問題はわかる。三浦版の転生概念については反論したくなる。 (JRF 0479)

JRF 2017年2月11日 (土)

『多宇宙と輪廻転生 - 人間原理のパラドクス』(三浦 俊彦 著, 青土社, 2007年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4791763831
http://7net.omni7.jp/detail/1102515303

JRF2017/2/117694

……。

まず、序章について長く引用しながら、コメントしていく。

JRF2017/2/113623

>自己がこの自己として存立していることの意味を問う「自己同定の哲学」は、「私」のアイデンティティの基準を問うものと、「私」が存在することの根拠を問うものに大別されるだろう。基準問題は実践上の定義の問題であり、根拠問題は存在論的な実在問題である。基準問題の答えが根拠問題の問いかたを規定していることは間違いない。

JRF2017/2/116018


(…)

「私」がなぜ存在するかを問うためには、そこで問題とされる「私」とはそもそも何か(いつどこに位置する何物と同一と認められるか)という、同定基準が明確になっていなければならないからである。しかし他方、根拠問題の答えが、基準問題の答えの再評価を要求することも確かである。すなわち二つの問いは絡み合っている。
<(p.13-14)

JRF2017/2/116949

次の二つの論証において、前提が基準問題への答えであり、結論が根拠問題の問いかけとなっているらしい。

JRF2017/2/111059

(物理説)

前提1 私は特定の精子と卵子からしか生まれえなかった。

前提2 量子的不確実性もしくは宇宙全体の初期状態のランダム性と、カオス的な影響により、宇宙の物質的歴史とは全く異なるような無限の道筋がありえた。

結論 私というこの物理的因果線が生ずる確率よりも、生じない確率のほうが無限に大きい(私が生まれる確率は無限小だった -- ではなぜ私は生まれたのか?)。
<(p.14)

JRF2017/2/114651

(心理説または機能説)

前提1 私は、特定の心的体験の継起としてしか存在できなかった。

前提2 量子的不確実性もしくは宇宙全体の初期状態のランダム性と、カオス的な影響により、宇宙にある心の全内容が現実とは全く異なるような無限の道筋がありえた。

結論 私というこの心的体験が生ずる確率よりも、生まれない確率のほうが無限に大きい(私が生まれる確率は無限小だった -- ではなぜ私は生まれたのか?)。
<(p.15)

JRF2017/2/115612

物理説、心理説ともに…

>私の存在が「ありえないもの」になるという先の結論は変わらない。(…)現に起こっていることは起こりやすいことであったはずだ、というアプリオリな原理に反しているのである。この不合理を説明できない限り、背理法により(つまり事実上起こりえないことが起こっているという「矛盾」により)、前提を否定しなければならなくなる。前提1を否定するか、前提2を否定するかである。<(p.16)

JRF2017/2/113236

サイコロが1から6までの値を取るのを問題とするとき、サイコロが八面体や十二面体である可能性や、サイコロがゆがんでる可能性など無限の可能性があるが、その無限の可能性があるからといって、サイコロが1から6までの値を取りうる確率が変わるわけではない。私が考えているそこにいたという確率は、私が生まれているという仮定のもとでは 1 であって、無限小などではない。結論部の否定(つまり背理法)はできないのではないか。

JRF2017/2/110827

ところで、「私」には二つの考え方があるように思える。一つは、「その私」と指示されたところである。その私の中の認識等がどうなっているかはわからないが、世界(宇宙)の中でこれがそうだと指示されたものである。

JRF2017/2/110520

もう一つは、「認識する私」である。認識する私はいろいろありうる。「その私」にはすり傷がすねにあるのであるが、すり傷がひざにある可能性のあった自分もまた私でありえたと考える。私の可能性は無限にあって、それをどこまで私と認識しているかはよくわからない。

JRF2017/2/118191

おそらく著者の物理説が「その私」の考え方で、心理説が「認識する私」の考え方であるのかもしれない。著者は、それをわかりやすく唱えたということかもしれない。

「認識する私」は、後の用語でいうところの SIA (Self-Indication Assumption)的で、「その私」は、SSA (Self-Sampling Assumption)的だが、逆に思えることもあるので、著者が私の考えをどうみなすかはわからない。

JRF2017/2/113730

上の背理法について認めるとしても、「認識する私」という考え方の場合、結論部が無限小になってそれを否定されたと考えるならば、前提部の「認識する私」も無限大の可能性の中でのありえない一つの「その私」となって「否定」できると考えることもできるかもしれない。著者の考えのように進める必要はないように思う。

JRF2017/2/111046

実はここに関して、メモをしていたのものがあるのだが、後から読んで意味がわからなくなってしまった。その私の意味不明な部分を次の >…< で示す。

JRF2017/2/115446


記録の確定のしやすさは現実のほうが優れている。現実は無限に記述可能である。現実感のある夢は、しかし、記述可能性が薄い。可能世界が無限といっても、記述の根拠がないため、その無限が現実の無限の記述(の可能性)よりも大きいとは限らないのではないか? いちおうここでは「記述」としたが、もっと一般に精神が追える方向としてもいいかもしれない。

(…)

現実は確かな存在者である現実にならねばならない。ないはずの現実がある。「記述」がなくても現実は存在している。現実は豊かである。

JRF2017/2/116773

(…)

「今この私がいる」より「これを考える「私」がとにかくいる」ほうが確実。認識する私のほうが空想的に大きい。しかし、「記述」を考えると、それほど大きいわけではないのかもしれない。

JRF2017/2/110711

著者はこの後、個体説と自我説を説明するが、よくわからない。個体説が「認識する私」、自我説が「その私」に対応しそうではあるが…。

JRF2017/2/111845

自我説の場合…

>たとえば妊娠中絶によって、自意識的存在に成長する前に(つまり「私」になる前に)殺された生命は、必ずまた別の形で生まれてくるはずだということになる。<(p.19-20)

「その彼」は存在しうる。他者の認識の中で「その私」となるはずだったものがありうる。それはもちろん私にとって「その私」ではないし、私にとっての「その私」は私でしかありえない。自我説が要請するのは、認識にとって「その彼」たりうるかどうかなのだとすれば、別の形で生まれなくても、自我は存在したとできる。(…ここも意味不明だな。どうも私は理解できてないようだ。)

JRF2017/2/118583

>いかなる方法によっても、「私」を生まれなくさせることはそもそも不可能なのである。(…)ここから輪廻へはあと一歩だ。「私」は、そして誰もがそれぞれ「私」なわけだが、必ず生まれている。ということは、仮にたった一つの自意識的心身しかいないような世界 a になっていたとすれば、その存在こそが「この私」なのである。(…)最初の「私」が出現したときにすべての人格が余さず生まれていたのだとすれば、その後の歴史は、同じ私たちが繰り返し別個の心身に宿りながら再生を繰り返してきたことになる。<(p.20-21)

JRF2017/2/118398

「私」はその都度、生まれる・新生するとしてなぜ都合が悪いのかわからない。私は「私」を模倣して生まれる。それはちょっと転生的であるが、「私」という二者の同時存在を許さないものではない。仮に無人島で生まれた子が自我を持つ前に親と(死に)別れて、かなり難しいと思うが、生き延びて、「私」という感覚を持てば、そこには「私」の模倣はないかもしれないが、環境により作られた「霊」はあると言えるのではないか。その「霊」を持って「私」が生まれた…と。

JRF2017/2/118550

成長によって「私」が育つことも考えるべきだろう。育った後の「私」は以前の「私」とは違う。そもそも、模倣に過ぎないから、模倣されるとき「私」は減じる、変形される。それぞれが「その私」を持っているが、「その私」は従来からあった「私」と同じではない。ただ、「その私」と指示する以上、その継続もまた認めざるを得ないだけだ。「その私」の前の(例えば両親であるところの)「その私」は指示できるだろうが、それは「転生」とは違うのではないか。「認識する私」も親からの模倣によってある程度、引き継がれているとしても、それは基本的には(自己に一番近い)他者である。

JRF2017/2/115456

>「あらゆる可能世界は物理的実在である」という考えを採用すれば、輪廻は必要なくなる。(…)物理説においても心理説においても、「私」の誕生確率は、可能世界実在論(様相実在論)のもとでは1となる。そこに謎はない。<(p.25)

可能性が無限小であっても「ありえるもの」となるからか? 何かアイデアがチラと浮かんだが、忘れてしまった。

JRF2017/2/116364

……。

序章以降について…。

JRF2017/2/111604

……。

「観測選択効果」について、定義らしきものを書いていそうなところもあるが、私には定義に見えず、はっきりしない。ただ、「観測選択」と言うべきことがあることは私はモンティ・ホール問題(三囚人問題)(↓、または [cocolog:85822334])で学んだ。

《モンティ・ホール問題または三囚人問題の拡張とその確率操作シミュレーション》
http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2016/08/post.html

JRF2017/2/119838

モンティ・ホール問題で、司会者が一つのドアを開示したあとプレイヤーこと「観測者」にとってドアごとに確率が異なることになる。しかし、その経過を知らずに突然、その場に現れた者がいたとしたら、その者にとって、ドアの確率は等しいと仮定せざるを得ない。観測によって可能世界の形が変形を受ける…ということはありえる。

JRF2017/2/118029

>経験する前に確率を考えるのと、経験しているときに確率を考えるのとで、合理的な確率判断に違いが生ずるとは思われない。<(p.247)

しかし、情報が与えられているか否かで、確率の評価は変わりうる。情報を与えられるごとに確率は変わりうる。

JRF2017/2/110451

「眠り姫問題」の拡張を論じるところ(p.259)で、ニック・ボストロムが、二つの確率が共に 1/2 だと答えるのは、私には必ずしもおかしいとは思えない。それはボストロムの反論によるのではなく、情報の与えられ方の問題だと考えるからだ。

JRF2017/2/118800

これは拡張でない「眠り姫問題」でも問2と問3で共に 1/2 と答える流儀もあるという考え方に落ち着く。それは、問2 の段階では曜日が大事であるという認識はなかったため、1/2 派の観方をしていたが、問3 の段階で曜日が大事であるという情報が手に入ったため 1/3 派のフレームで問題をとらえなおした…ということはありうるからである。

JRF2017/2/117390

「眠り姫問題」については別に記事を書いた(↓)。そちらも参照して欲しい。

《眠り姫問題のプログラム》
http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2017/02/post-1.html

JRF2017/2/115992

……。

>(…)多時空多宇宙説は、非可算無限個の宇宙生成を禁じていない。

(…)

念のため、数学的に確率ゼロというのは、不可能という意味ではない(Holder, 2004, p.148)。実数全体からランダムな選択で自然数を選ぶ確率はゼロだが、もちろん自然数が存在しないことを意味しない。ただ、ある事象の確率がゼロであれば、たとえ無限回の試行をしても、それが実現される確率は保証されないということである。
<(p.93)

JRF2017/2/117918

我々の世界は、確率ゼロの領域にあるのかもしれない。我々にとって、その存在の可能性は確実だが、多時空多宇宙の中では可能性がまったくないといってよい領域に属するのかもしれない。私が生まれる確率もゼロであった可能性がある。…と言ってよいと私は思う。

JRF2017/2/117962

……。

この本では、「終末論法」をいろいろな角度から、読者による肯定的反論を誘うようなかたちで、様々に否定する理論を駆使する。その前の章からの「全体的証拠の要請」または「全体的証拠の同定」と「語用論的独立性の要請」によって確率の定義の仕方に文句を言う。私には、その論証が理解できなかった。

JRF2017/2/113969

終末論法については、その最初のところでつまづいていた。6章の最後のほうで


C. 私は終末論法を考えている(集団 M に属している)
E. 私は人類の中の六百億人目付近に生まれた
A. 人間の総数は千二百憶人程度である
B. 人間の総数は六百億の千億倍を超える
<(p.170)

上のうち C を除いたのが(三浦版の)もとの終末論法で、P(A|E) が P(B|E) より尤もらしいとして、つまり、「終末」は近いとして論証するものである。

JRF2017/2/111255

>ここで集団 M の観測選択効果によると、C と E は独立でなく、C ナラバ E であることに注意しよう。(…) C に条件付けると、さらに A に条件付けようが B に条件付けようが、E の確率は 1 に他ならない。<(p.171)

P_c(E|A) = P_c(E|B) = 1 とするわけだが、5章の最初のほうで、P(E|A) = 1/2、P(E|B) = 1/千億 としていたのは、じゃあ、なんだったのか…ということになる。私はそこからひっかかっていた。そこから何か詐術があったのではないか…といぶしむ。

JRF2017/2/110612

ただ↓によると、終末論法は、あやしげだが、反論しにくい性質のもののようだ。

《Doomsday Argument - 忘却からの帰還》
http://seesaawiki.jp/transact/d/Doomsday%20Argument

JRF2017/2/110731


人類出現から現在までの人類の総数が600億人である(推定)。
人類出現から滅亡までの人類の総数が N 人である

我々が95%の多数派に属しているなら、

0.05×N ≦ 600億人

(すなわち、600億人目は全体の5%以上)である。もし、

N>600億人/0.05 = 1兆2000億人

なら、我々は5%未満の少数派に属することになり、コペルニクス原理に反する...というの論理。

JRF2017/2/116297

現在600億人のところに自分がいるということ自体が一つの選択になっていて、600兆人やもっと多く人の選択から「現在」が選ばれることもありえたのだから、そういう巨大な可能性に対して、600億という「少ない」数の仮説を選ぶのは元々、確率が小さいのだ。そういう事前確率の小さいところで 1兆2000億人という数字を出しても無意味。…といった感じの反論が三浦の論法の一つだったと思う。ただ、三浦は反論はいろいろ述べていてこれだけではない。

JRF2017/2/110826

……。

>哲学で言うゾンビ(哲学的ゾンビ)とは、言動も組成も物理的に人間と区別できないにもかかわらず、内面(主観的意識)を一切持たない存在のことである。

私たちは、魂の存在を確率的に否定することができる。私たち自身の心が複雑な身体に束縛された、とくに脳という最も複雑な器官に束縛された形でようやく現象できていることを知っているからである。

(…)

一方、ゾンビの場合は、同様の推論を用いることはできない。

(…)

いずれにせよ「私」はゾンビであることはできないので(ゾンビであったら推論の主体としてこの議論を意識できず、真の「私」ではなくなる)、(…)。
<(p.290-p.294)

JRF2017/2/117133

納得できない。

JRF2017/2/117505

まず、何か意識的な行為をしている他者がゾンビであるとするとき、自分がそれ以上の意識状態にあるとどうして考えられるのか。ゾンビが自分以外の他者の操作を受けていると考えるなら、「主観的意識」と我々が思っているのが全部他者に操作されていると考えて何が問題があるのか。物理的な私はすべて「内面」の錯覚かもしれない。私が他者に比べてゾンビである可能性を排除できるとは思われない。少なくとも排除しないモデルも妥当なはずだ。

JRF2017/2/111177

また、魂について、私は↓で>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合<についても、>人は死ぬと(…)「霊」が、新たに与えられる霊的肉体の脳に移し換えられ、そこで意志を構成する<ような「霊的肉体モデル」が考えられると述べた。

《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html

JRF2017/2/110138

霊的肉体は、すべて肉体的でなくても一部、肉体を超えるような働きと通じていたとしてもよいだろう。死なない場合の生きた肉体についても同じで、そのような脳外の魂の動きがあるといっても反駁できないことは、この先、どれほど科学が発達しても言えるとは思えない。部分的に、「生きてる間」という限定的に、脳に束縛されているのかもしれない。「弱い魂仮説」は否定される方向に科学は向っているとは言えるかもしれないが、現実に否定にまでいたってないし、将来的にも否定しきることはできないと私は考える。

JRF2017/2/118112

著者は、SSA の立場を取るらしく、私は SIA の立場にここでは立ったということなのかもしれないが。

JRF2017/2/111159

……。

この本における転生概念は、一つの源流からはじまって(p.305の (5))、多くの人の転生元が同じ一人に宿っていたことがあり、死後ある程度時間がたってから転生するような「隔世転生」がない(p.304)というもの。

JRF2017/2/117240

しかし、一つの源流が「子」を生んだとき、それは親に一致しないから、その「子」の源流は「親」ではないとなる。>私たちは全員、すでに唯一の自意識として生まれていた<(p.305)は偽ではないか? 隔世転生を最終局面におけるおかしさで否定するなら、一つの源流という考え方も否定されねばならないのではないか? そして、同じく、滅亡がありうるとするなら、転生先がなくなるわけだから、そこもおかしくなるのではないか? 著者の「転生」の論理はおかしいと私は考える。

JRF2017/2/115473

……。

>観測者が生まれるかぎり「私」が生まれずに終わる確率がゼロということは、宇宙の歴史(観測者の持続的生存)が非決定論的ならば、「私」は最初の観測者誕生の時点で誕生しておらねばならないことを意味する(…)。<(p.306)

JRF2017/2/119150

そんなことはない。私がいるという条件で可能世界を切り取ると、「私」にいたるまでに確定的な道筋があったかもしれないが、今から見るといろいろな可能性がありえたわけで、その可能世界すべてに「私」を含むとしても、それは(三次元に対する)時間的に最初の時間からいたわけではない。最初の時間を含む可能世界に「私」が確定的に含まれているように見えても、それは最初の時間から「私」があったことにはならない。その誤解は「アキレスと亀」問題における時間軸の有限と分割個数の無限の違いみたいに思う。

JRF2017/2/114689

そもそも、上で述べたように、私が生まれる確率は多宇宙においてゼロであってもよかったのである。

JRF2017/2/117776

……。

著者は輪廻転生観が「有意義な概念的相違」をもたらすことを示すために、メリットとデメリットを説明する。私は転生と言えばデメリットとして差別の肯定を挙げる(例えば[cocolog:85062947])ところだが、著者はそのデメリットして「自殺」を大きく取り上げる。

>輪廻転生観の倫理的含意として、真っ先に思い浮かぶはずの教馴は、「不本意な死を過大に嘆くべからず」だろう。それと双対をなす教訓として、「不本意な生を過大に尊ぶべからず」もまた輪廻転生観から帰結する。<(p.326)

JRF2017/2/114819

自殺肯定論というわけだ。私も「死ぬ権利」(参:[cocolog:82413218])があるとか考えたものだったが、今はそこまで踏み込んでは言えない。でも、「いつか」私に関しては認めて欲しいという思いもないではない。

JRF2017/2/110469

……。

この本には、「「意識の超難問」の論理分析」という哲学的命題を記号論理を使って解決しようとする論考が付録で付いてくる。

>本稿が前提としたのは、超難問には3通りの解釈だけがあること、「なぜ」と問えるのは真なる命題についてだけであること、「私」という概念には定理(1)(2)が成り立つこと、この三点だけである。<(p.XVI)

JRF2017/2/117272

「なぜ」と問うているのを真と仮定してはいけないのではないか? むしろ、それを他の命題から導出すべきだろう。いや、本で、論理式で表した命題が正しいのか、命題の導出をどう行っているかについては私はちゃんと読めてないんだけど…。素朴なギモンとして…。

JRF2017/2/113843

……。

……。

私は修業が足りないと痛感した。情けない。この本に書いてるようなことをちゃんと理解できる自分になりたい。かといって、今さらどうにかできそうにないし…。以前、同じ著者の『ゼロからの論証』を読んだこと(参↓)があって、それからずいぶん時間がたって、思い出したようにこの本を買って読んだのだが、以前よりも私の理解力が落ちているように思う。確率論の哲学的側面をこの本のように論じた本は出会わなかった。日本語で読める貴重な本と私は思う。

JRF2017/2/119681

《シミュレーション・アーギュメントを論駁する》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/10/post.html

JRF2017/2/114448

この本は「多宇宙と輪廻転生」という題だが、私は、その題に沿うような小説「神々のための黙示録」を以前書いた([cocolog:85308129])ことがあった。この本を手にとったのには、その辺の異同を知りたいという気もあったのだが、ほぼ関係ない感じだった。この本を買った方、興味をひかれた方は、よければ↓も読んで欲しい。

《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970

JRF2017/2/111382

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