cocolog:87123943
ドーキンス『利己的な遺伝子』を読んだ。刺激的な言い回しは不誠実に思うが、私のような人間の関心を買うための必要悪なのかもしれない。興味深い本だった。 (JRF 6687)
JRF 2017年3月29日 (水)
……。
私はリチャード・ドーキンスのこの本に対しては読む前から色々なところでその意見を読んで批判的だった。ただ、訳本にすら接することなく批判ばかりしているのはフェアではないので、今回、旧版ながら買って読むことにした。(機会があれば新版も読みたい。)
JRF2017/3/298700
(直接的には、最近のブックマーク(↓)を受けてこの本を読もうと思った。)
はてなブックマーク - 《検診で発見されたがんの予後が良くても、検診が有効だとは言えない - NATROMの日記》
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20170307#p1
jrf:>主張は真でも、ドーキンスと同じ話題づくりの不誠実さを感じる。(…)<
JRF2017/3/292784
……。
私の基本的なスタンスは、ドーキンスの主張は「遺伝子本質論」だというもの。西洋哲学に存在を本質(ウーシアというらしい↓)と偶有で表すものがある。本質は神から与えられるべきものという含意がある。
《ウーシア - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
JRF2017/3/297857
ドーキンスは、遺伝子が神から与えられたものであるという考え方をとっているというわけではないが、説明原理として、何か本質的なものが生物にはあり、その本質が遺伝子なのであるという論を取っているという疑いが私にはある。遺伝子も多くの構成物質の一つに過ぎないという観方に立ち得ていないのではないかという疑いがある。
JRF2017/3/292075
または、遺伝子とは何かという定義らしきものはあるが、そのときどきに遺伝しているように見えるものに便宜的に遺伝子という言葉に繰り込み、機序が完全に明らかでないのに、自分の定義した遺伝子に機能をすべて帰着しているのではないかという疑いがある。
JRF2017/3/292901
遺伝子が本質的な働きをすることはあろう。機能を遺伝子の違いに帰着してほぼ間違いないこともあろう。しかし、それは生物の本質(というものがあるとしてそれ)が遺伝子であることを意味しないし、遺伝があるように見えるものがすべてドーキンスの定義する「遺伝子」にそのすべてを負うものでもないと私は思う。
JRF2017/3/291209
……。
ドーキンスは刺激的な言い回しを使いがちであるというのも私から見た批判ポイントだ。その点において「不誠実」と言えるようにも思う。ただ、本が読まれるためには論争があったほうがよく、論争を惹起するために刺激的なレトリックを使うのは、それほど罪のあることではない。「不誠実」を悪としても、必要悪の範囲に入るだろう。(まぁ、宗教的批判者の中には、「必要悪」という概念を認めない人もいるような気はするが。)
JRF2017/3/297310
……。
私自身の進化に関する考え方は、↓の記事に示している。
《イメージによる進化》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/06/post.html
《「イメージによる進化」の「忘却からの帰還」からご教授いただいたことへの対論》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/06/post_1.html
JRF2017/3/299480
獲得形質の遺伝は基本はないものと私も思っている。最近「セントラルドグマ」の行き過ぎの批判もあるようだが、それについては私はそれほど重視しない。
《エピジェネティクス - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9
JRF2017/3/293383
ただ、イメージによる進化という観点からみた場合、獲得したイメージをもとに配偶者選択が行なわれ、それが遺伝に影響を及ぼすことはあると考える。もしかすると、配偶者選択の効果により(特定の本能を持つものが選択されるなどで)イメージの遺伝みたいなものが起こっていてもおかしくはないと考える。
JRF2017/3/290889
鳥の本能などが、獲得形質の遺伝は完全にないというモデルから導ける、その時間的余裕が常にある、というのは私には信じがたいというのもある。自分の体内の反応などから、「遺伝」というものを想定して、配偶者の体内反応などを参考に、獲得した情報を反映することをやっているのではないかと私は疑っている。大きくは配偶者選択を通じてということだが、ラマルク説的な機構の関与があったとしても私は驚かない。
JRF2017/3/292039
鳥などの「複雑」な生物だけでなく、獲得したイメージをもとに生殖を行う例として、自分が隠れて成長したので、隠れている配偶者を見つけることに選好を持つ場合なども見つかるのではないかと思う。
JRF2017/3/296318
……。
上の記事を考えていたころに比べて、私は一神教的有神論に傾斜している。といっても、洗礼等をまだ受けておらず信仰生活に入ったとはいえないのだが。
聖書に書かれた創造論は真実かどうか…難しいところだが、大きな意味があるはずだと思う。そして、同じように進化論が成り立つように見えることにも「神の意志」、大きな意味があるはずだと信じたい。
JRF2017/3/292681
遺伝子が擬人的に利己的に見えるなら、だから、そこに何がしかの意味があるということになる。当然、そこからは、人間機械論的な自己認識を肯定すべき傾向が導かれるだろうし、それが現代に向けての神のメッセージということになる。こういう信仰を持つ人にも、本当にドーキンスは責任を持てるのか?
まぁ、ドーキンスがそんな責任をもつ必要はない、勝手に変な意味を見出すなと言われるだろう。しかし、ある種の人々はその責任を負うことになるのだ。
私はそういう責任を負う職にはないが、一有志として「利己的な遺伝子」という考え方には反発するのである。
JRF2017/3/299419
……。
>われわれは生存機械 -- 遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。<(p.4)
>一つの生存機械はたった一個のではなくて何十万もの遺伝子を含んだ一つの[ruby:乗り物:ヴィークル]である。<(p.48)
>動物は敏捷で活発な、遺伝子の乗り物、すなわち遺伝子機械になった。<(p.81)
JRF2017/3/291272
「機械」という言葉を使うのは、上で述べた「刺激的な言い回し」である。
機械が発達したころに生物(人)を機械で造れると考えたり、コンピュータが発達した現代において、AI で人の心を完全にシミュレートできると考えたり…というのは物事のなりゆきを延長する自然な考え方かもしれない。が、現に、人の体を機械でおきかえるのはとても困難なままだし、人の心も完全には解明されていない。(似たようなことは↓でも述べた。)
JRF2017/3/296504
[cocolog:86854015]
>三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』を読んだ。(…)「弱い魂仮説」は否定される方向に科学は向っているとは言えるかもしれないが、現実に否定にまでいたってないし、将来的にも否定しきることはできないと私は考える。<
JRF2017/3/296496
遺伝子が乗り物にしているというのは、遺伝子本質論的な言い回しだ。しかも、擬人化までしている。「本質」を擬人化するのはある種、異端的で、もし遺伝子に対する擬人化ではなく、本質に対する擬人化であればもっと簡単に責められたであろう。本質を遺伝子とするクッションが一段があるから、その批判より先の批判がまずなされているだけだ。
擬人化は比喩だろうが、一方で、別の誤解を生みはしないかと心配になる。それは、DNA が脳みたいだといった私のブクマを思い出すからだ。
JRF2017/3/296854
はてなブックマーク - 《『人工細菌誕生』の論文を解説してみる:その1(はじめに&研究の経緯) - I'm not a scientist.》
http://d.hatena.ne.jp/popeetheclown/20100604/1275670795
jrf:>生物は欠損を回復するもの。この研究者らが抱いた「疑い」からすれば、移殖された「臓器」すなわちDNAにより細胞の機能が再生した(ただし人造脳移殖に相当するほど本源的だが)ということまでしか言えていないのでは?<
JRF2017/3/290747
脳はある種の分子のかたまりで、機構は単純そうなのにうまく説明できない。同じように単純そうな遺伝子も説明できない機構を持っていて、実際「意志」みたいなのがあるかもしれないと考える人がいてもおかしくないと私は思う。
「擬人化」には、そういう(小さい)リスクも現代ではあるのではないか?
JRF2017/3/299033
>私は遺伝的自己複製子について、彼らはわれわれを、体と心を生みだした」(p.42)と書いた。この一節も当然のこととはいえ、誤って、「[彼らは]われわれを、体と心を制御する」(…)と引用されてきた(…)。この章の文脈では、私が「生みだした」(created)という言葉で意味しているところは明白であり、「制御」(control)とは非常に異なると考える。事実の問題として、遺伝子が「決定論」として批判されるような強い意味でその創造物を制御したはしないことは、だれにも理解できることだ。
JRF2017/3/292528
(…)
われわれは避妊法を用いるたびに、なんの努力もなしに(そう、かなり簡単に)、それらを否認しているのである。
<(p.433)
JRF2017/3/296190
避妊法を用いれるということは遺伝子に操られてないことの証左…。そうはいうけど、そういう書き振りではなかった。あと「created」も十分刺激的な言い回しだと思う。
JRF2017/3/291743
>メアリー・ミッジリー(…がいうには…)「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子が焼き餅焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的であったりすることがありえない以上に」(…。)<(p.444-445)
JRF2017/3/296388
私が言いたいのも、まぁ、これぐらいのところだ。ドーキンスは、それに対し、専門家(生物学者)の間での言い回しに過ぎないとして自身の言い回しを擁護している。確かに、専門家の間でのみ通じる便利な言い方はあって、でも、それが外に出てきたとき、やはり社会は何がしかの対応をせねばならないことがある。その対応を呼ばれてもいないのにやりたい私のような人もいるということで…。
JRF2017/3/292226
>私が、「生存機械」という言葉を使ってきた理由も、「動物」といったのでは植物が除外されてしまうし、それどころか一部の人々の頭の中では人間さえも除外されてしまうからであった。<(p.301)
>本書の全体を通じて私は、遺伝子を、意識をもつ目的志向的な存在と考えてはならないと強調してきた。<(p.313)
JRF2017/3/292726
本の後のほうに行くほど、ドーキンスは「刺激的な言い回し」に留保を付けるようになる。…ずるい。要するにわかってて刺激的に言っていたことは間違いないと思う。その「不誠実」をどう考えるかが読者に問われる。
JRF2017/3/296976
>一部の生物学者はもっと先まで行って、DNA を、ちょうど眼が物を見るために生物個体によって用いられる道具であるのと同じように、生物個体が繁殖のために用いる道具であると見ている! 本書の読者は、この態度がとんでもなく大きな誤りであることを認められるであろう。<(p.380)
第2版になって付け足された部分(章)だが、道具でないとすれば何なのだろう。ここでは上で「遺伝子を、意識をもつ目的志向的な存在と考えてはならない」と書いたことに反して、やはり主人的なものと見ていると断罪すべきではないのだろうか?
JRF2017/3/297608
……。
>それは、われわれ動物が既知の宇宙におけるもっとも複雑でもっとも完璧にデザインされた機械だからである。<(p.6)
これはインテリジェント=デザイン(ID)論を想起させるね。これはまた別の方向で、あぶない「刺激的な言い回し」をする。
JRF2017/3/295814
……。
>各個体がその集団の幸福のために犠牲を払うようにできている種ないし種内個体群のような集団は、各個体が自分自身の利己的利益をまず第一に追求しているべつのライバル集団よりも、おそらくは絶滅の危険が少ないであろう。したがって、世界は、自己犠牲を払う個体からなる集団によって大かた占められるようになる。これが「群淘汰」説である。(…)進化説の詳細を知らない生物学者たちに長年真実だと考えられてきた説である。<(p.25)
JRF2017/3/298575
>彼らは、進化において重要なのは個体(ないし遺伝子)の利益ではなくて、種(ないし集団)の利益だという誤った仮定をおこなっている。<(p.16)
JRF2017/3/297105
共食いなども散見されるだろうが、種(集団)の利益になるようにという選好もそれなりにあるのではないだろうか。イメージは集団行動から導かれることもある。配偶者選択時に集団行動の履歴に関連した何かを選んでいるということもあるのではないか。
JRF2017/3/295739
>昔から支持されてきたもう一つの説は、ふつう「個体淘汰」とよばれているものである。私としては遺伝子淘汰というほうが好きであるが。……<(p.25)
JRF2017/3/298532
個体は遺伝子のことなど気にしていない。でも、自己保存欲の一環として子を守ったり、群を守ったりすることはある。遺伝子に還元されない・獲得形質が遺伝できないから、群行動を遺伝させることが難しくても、群行動をしているうちにそれに適応する形で、遺伝子が獲得(または遺伝子の使用方法が変容)されることもあるのではないか。そうやって遺伝子に刻まれているのは、「遺伝子を守る」というよりは「子を守る」「群を守る」という単位でしかないように思う。
JRF2017/3/298969
遺伝子の伝統は長いはずだから、「遺伝子を守る」という行動もあっていいはずだが、そこまでのものはないと思う。蜂の群なども、遺伝子を守ろうとしたのではなく、群をうまく守るためには遺伝子を守るようにしたほうがよいことに「気付いた」からそう適応した・そういう集団が有利になったのではないか。それはあくまで遺伝子の機能をうまく使ったということでしかないと考える。
JRF2017/3/299698
先の避妊法の逆で、精子や卵を大切にするというのはあるかもしれないが、それは子孫を残す…そのためには(遺伝子も含めた)精子や卵を健康に保つというぐらいでしかないと思う。ただ、獲得形質を遺伝させようとするのにシステムが抵抗し、獲得形質が遺伝しないように遮断してきたほうが遺伝的に有利だったというのは、あるのだろう。
JRF2017/3/298012
……。
「遺伝子の定義」…
>遺伝子について万人の賛意を得られる定義はない。たとえあったとしても、神聖で犯しがたい定義というものはない。(…)私がつかいたいと思うのは、G. C. ウィリアムズの定義である。彼によれば、遺伝子は、自然淘汰の単位として役立つだけの長い世代にわたって続きうる染色体の一部と定義される。前章で用いたことばで表現するなら、遺伝子は複製忠実度のすぐれた自己複製子であるといえる。<(p.54)
JRF2017/3/297700
>遺伝子を単一のシストロンと定義することは、ある目的には適切だが、進化論を論じるにはそれを拡大する必要がある。(…)自然淘汰に成功する単位がもつべき特性を確認することからはじめよう。前章のことばでいえば、それは長命、多産性、複製の正確さである。そこでわれわれは単に「遺伝子」を少なくとも潜在的にこれらの特性をもっている最大の単位と定義する。遺伝子は多くのコピーの形で存在する長命の自己複製子である。が無限に長命ではない。<(p.64)
JRF2017/3/295822
染色体の交叉によって「遺伝子」が壊れることもあるが、ごく短い遺伝子などは、何世代にもわたって、場合によっては何百万・何億年にもったって「寿命」をもつ。…云々。
あまり関係ないが、染色体の話題が出たので…。
[aboutme:116617]
>染色体数の減数変化もおそらく増数変化もあるはずである。<
JRF2017/3/296368
はじめの生物の染色体数は少なかったはずで、一方、ヒトの染色体数は 46 で、チンパンジーは 48。だから減数変化もおそらく増数変化もあるはず。それが進化の役割をどれだけ担っていたかはよくわからないが、そんな大きな変化でも、まともに個体は適応できたはずである。ここで、遺伝子って大きい役割があるとしても、ここまで大きなエラーを許容できるということは、実はそれ以外の機構の役割がかなり大きいことの証左ではないかという疑いが私にはある。
JRF2017/3/291252
「それ以外の機構」がまず遺伝子から作られたということもあるかもしれないけど、それが必ずないとダメだとすれば、それは本当に遺伝子のメカニズムというべきものなのか?…とか思う。
中立進化説との絡みもあって、単純な DNA の置換による突然変異説は、今いち信用できないというのもあり、使う遺伝子の選択みたいなことが何か…増えた染色体を減らす過程で何とか…と考えることがある。はっきり「こう」というメカニズムを思い付いているわけではないが…。
JRF2017/3/292956
……。
>この話から、たとえ遺伝子から行動に至る、胚発生上の原因の化学的な連鎖がどのようなものかをまたく知らなくてさえ、「なになに行動のための遺伝子」といういい方をして、いっこうにかまわないといえる。原因の連鎖には学習が含まれていることさえわかるかもしれない。<(p.102)
上で>機序が完全に明らかでないのに、自分の定義した遺伝子に機能をすべて帰着しているのではないか<と書いたが、それをドーキンスはここで正当化している。まぁ、その論が間違っているとまでは言えない。
JRF2017/3/291320
ただ、ここのインプリケーション(含意)は、発生について知らずとも、遺伝子操作を偶然的に行って、それがどう行動につながるかを見れば良いというものではないか? だが、そんな簡単に行動がプログラムできるだろうか。蜂が病の幼虫を見つけ出すような「突然変異」を偶然的に発見することなどできるのだろうか? そこに危険はないのだろうか?
JRF2017/3/295095
……。
>性は逆説的なものに思われる。なぜなら、それは個体が自分の遺伝子をふやすためには「非効率な」方法だからである。(…)この明らかな矛盾から、一部の理論家たちは群淘汰説にはしった。性に対する群レベルの利点は比較的考えやすいからである。W. F. ボドマーが簡潔に指摘したように、性は、「異なる個体に別々におこった有利な突然変異を個体に集めるのに役立つ」と彼らはいうのである。<(p.76)
JRF2017/3/298322
私の「イメージによる進化」説は群淘汰説の一種なのだろうか。そう見なされそうである。私は性の役割はイメージを実現しやすいから…と考えてしまうなぁ…。
ドーキンスのこの後の説明は、配偶者選択が有利だから遺伝子に刻まれたというだけで、なぜ有利なのか説明できてないように私は思うのだが。
JRF2017/3/299912
……。
>遺伝子もまた、直接自らの指えあやつり人形の糸を操るのではなく、コンピューターのプログラム作成者のように間接的に自らの生存機械の行動を制御している。<(p.88-89)
ここも作成「者」と擬人化しているのが気になる。遺伝子もまたプログラムそのものであり、プログラムを作るプログラムとしてあると考えるほうが良いように思う。もちろん、タンパク質を組み上げるというハードの役割も持ったプログラムだけれども。
JRF2017/3/296496
脳は遺伝子のプログラムに制御されるわけではなく、脳は造られたあとは、自己で学習し、言わば自分で自分をプログラミングしながら、遺伝子とはほぼ独立に個体を制御することになる。まぁ、そのあたりはこの後のところでドーキンスが語る通りではあるが。
>脳は遺伝子の独裁に叛[そむ]く力さえそなえている。<(p.99)
JRF2017/3/292143
……。
ESS (evolutionarily stable strategy) について…
JRF2017/3/295730
>どの個体も、ESS 集団にいるより、全員ハト派の集団にいるほうが有利である。しかし、残念ながら、ハト派の申し合わせをした集団に生まれた一個体のタカ派はあまりにもめぐまれているために、タカ派の進化をくいとめることができない。こういうわけで、この申し合わせ集団は裏切りによって内部から崩壊してゆく運命にしばられている。そこへいくと ESS は安定している。それは、ESS がそれに加わっている個体にとってとくに有利だからではなく、単に内部からの裏切りを食いとめる力をもっているからである。<(p.118)
JRF2017/3/295772
適応度ではなく、「内心」の効用を考えるとまた別の在り方もありうるのではないか。いずれ適応度と効用のあり方が一致していくとしても。内心ではハト派を望みつつしかたなくタカ派を選択する…といった心情が、どう遺伝子的にプログラミングされうるのか、そこは本当に遺伝子的で適応度の問題なのか、私は疑問があるなぁ…。(むしろ、配遇者選択時のイメージ進化的なものの影響があるような気がする。)
JRF2017/3/292518
>たとえば、続けて七回の争いにタカ派を演じ、次に続けて五回ハト派を演じ、以下同様というのはだめである。どの個体かがこのような単純な順序をとったとしたら、そのライバルはすぐさまこの順序をのみこんで利用するであろう。単純な順序の戦略をとる相手を利用する方法は、彼がハト派を演じようとしていることがわかったときにだけ、彼に対してタカ派を演じることである。<(p.121)
JRF2017/3/295940
[cocolog:87083159] にも書いたが、アクセルロッドの「しっぺ返し」戦略が強いという有名な実験を少しずらして、負けるの覚悟で規則的に手を出すプログラムを多数参加させることで、学習をするプログラムに有利にしようという「八百長」ができる。わざと負ける者の適応度をなんとかする必要はあるが、特定の者(特定のイメージを持った者)に勝たせたいというときはそういう選択もありえるのではないか。
JRF2017/3/294786
雄どうしの争いなどにはそういう要素がからんでいることもあるのではないか…と私は疑う。ドーキンスは、あくまで群淘汰的な「イメージによる進化」的な見建ては拒絶するようだが。
JRF2017/3/293484
>実際、一人の作成者が二つ以上の戦略を提案することもありえた (もっとも、一人の作成者が、競技に複数の戦略を「つめ込んで」、そのうちの一つが他の犠牲的な協力という利益を受けとるようにするのは、不正行為になっただろう -- アクセルロッドもおそらくそれを許さなかったはずだ)。<(p.333-334)
私が考えるぐらいの「八百長」はすでに考慮済みといったところか。
JRF2017/3/290404
……。
豚を使ったスキナー箱の実験は興味深いものになるという。レバーを押せばエサが反対側に出るスキナー箱を用意して、二頭のブタを使って実験すると、一頭のブタがレバーを押して、その反対側へ走ってエサを取るのに対し、もう一頭のブタはレバーを押すことなく、奴隷に対する主人のように、別のブタがレバーを操作するのを待ってエサだけ食べるようになるという。このとき、ブタの力に優位・劣位があると、優位のブタが「主人」としてふるまうかというと、さにあらず、劣位のブタが「主人」としてふるまうようになるという。
JRF2017/3/296556
>優位ブタは到着するやいなや、劣位ブタを桶から追い出すのになんの苦労もない。報酬となる食べ物のかけらが存在するかぎり、レバーを押すという習性が、したがって無意識のうちに劣位のブタを満腹させることが、続くのである。そして、桶のそばで怠惰に横たわる劣位のブタの習性もまた、報酬を受けるのである。そこで、「もし優位ならば《奴隷》として振るまい、もし劣位ならば《主人》として振るまう」という戦略の全体が報酬を受け、したがって安定なのである。<(p.457)
ユーモラスな実験だが、ニート(40歳オーバー)な私は身につまされる。
JRF2017/3/290248
……。
近親相姦のタブーの遺伝学からの説明…
>(…)兄が妹と、あるいは父親が娘が結婚すれば、事態は不穏に変化する。私の劣性遺伝子が大きな個体群の中でどれだけまれであろうと、そして私の妹の劣性遺伝子が大きな個体群の中でどれだけまれであろうと、私の致死遺伝子と彼女の致死遺伝子が同じである確率は心配になるほど高いのである。もし計算をするならば、私がもっている劣性致死遺伝子一つごとに、もし私が妹と結婚すれば、われわれの子供の八分の一は死産か幼いうちに死ぬだろうということが判明する。<(p.467-468)
JRF2017/3/296694
遺伝的に問題があると言われているが、実測するとそれほどでもない…とかいうふうに私は誤解していた。だから、岸田 秀『ものぐさ精神分析』を読んだ([cocolog:85503423])とき、>近親相姦のタブーが普遍的で強力なのは、近親者が幼児の性欲の最初の対象であり、最初に幼児をしてその耐えがたい性的不能の事態に直面させる危険があった人物だからである。<という説にもっともだな…と思ったのだった。
一方、実験室のラット (シロネズミ) やシロアリが近親婚を長く繰り返しても続いているという例(p.503)もあるので、「誤解」も必ずしも根拠がないわけではない。
JRF2017/3/291624
……。
卵を多く産むと育てるコストがかかったり卵を産むこと自身が負荷になることがある。そのため、卵を産む数は「利己的に」制限されるようになるという…
>彼らが産児制限を行なうのは、集団のための資源を過剰に利用しないようにするためなどではない。実際に生き残る自分の子供の数を最大化するために、彼らは産児制限を実行するのである。これは、普通われわれが産児制限に結びつけている理由とはまさに正反対の目標である。<(p.183)
JRF2017/3/295791
うーん。その地域のエサの量に集団で適応しているという観方は、利己的なインセンティブから説明できたとしても、なお残しても良いのではないか。より「内心」を覗くことができたなら、本人はもっと卵を生みたいというのを、集団の過密を見てガマンしているのかもしれない。そんな理性的な内心が鳥などにあるはずがない…というかもしれないが、それをいうなら、全体数・過密を考慮できるというそれ自体が発達した利他心と呼ぶべきものとも言えるのではないか? それをドーキンスも思慮に入れているではないか…と反論したい。
JRF2017/3/295650
……。
>私たちは、子供たちに利他主義を教え込まねばならないのだ、ということである。子供たちの生物学的本性の一部に利他主義が組み込まれていると期待するわけにはゆかないからである。<(p.223)
たしかに、子どもは残酷さを持っていることがある。私も↓と書いたことがある。
《時効延長絶対反対》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2010/03/post.html
>「あなた」も私も「悪」の死を願ったことがあり、力がないから殺せなかっただけではなかったか。(…)悪は確かに実在する。<
JRF2017/3/290579
これは性悪説とも違う。残酷さは無知・無邪気さのように私は思う。
でも、性善説ではないが、利他主義の素地みたいなものは皆持つことになるとも思うんだよね。母親に対して操作しようとしてできなかった状況を納得する経験を通じて、他者の利害を優先することが自分も含めた集団の利益となり、それが自分の利益に必ずしも直接つながってなくとも自分の利益と感じられるようになるのではないか。
keyword: 性悪説
JRF2017/3/295980
……。
>この問題にはダーウィンも気づいており、フィッシャーが明瞭な形で紹介している。(…)いったんその種の基準が同種の雌の間で魅力的なものとして広く受け入れられるようになると、それらの性質は、単に魅力的だというだけの理由で、自然淘汰において有利さを保持し続けうるのである。<(p.252)
私が上に挙げた《イメージによる進化》で「選択慣性」と呼んでいるもの、それは、性淘汰の理論そのもの…ということかな。私は新しいことを何も言っていない…と。
JRF2017/3/293942
この本には、ゴクラクチョウなどが尾が長いのが(下痢などの)病いを雌がわかるようにするためというのは考えたことがあった。
ハンディキャップ理論については、『行動生態学入門』([cocolog:86127317])を読んで知っていたが、違和感が残る。
私は群淘汰を「イメージによる進化」的に捉えているつもりだったが、「イメージによる進化」がただの性淘汰のことだとすると、単に群淘汰を私は信じているということでしかないのかな。
JRF2017/3/293090
……。
>しかし、親群のなかにあった遺伝子は、すべての遺伝子が等しい分け前にあずかるような単一の容器で娘群に伝えられるわけではない。ある一つのオオカミの群れの遺伝子がすべて、将来における同じ一連の出来事からの利得を約束されているわけではない。<(p.409)
でも、娘群はある程度、遺伝子を引き継いでいく。群としての利益が遺伝子に刻まれても不思議ではない。
JRF2017/3/292130
この本でも述べるところがあるように、生物の細胞そのものが共生の結果生まれたと見ることができるし、生物の体全体が、細胞という個々の生物の群であるという観方も不可能ではない。相利共生(p.289)を延長された表現型の実現として見ることもできると考える。相利共生から一体の体としての群まで、協力のしかたは様々だけど、群淘汰が効いてくるということはあると思う。それが遺伝子淘汰に還元されなければ、永続的なものにならないのだとしても、個体による群が還元までに長く続いているということはありえると思う。
JRF2017/3/292952
>われわれは生物個体を細胞の「群れ」と考えることができる。群内変異に対する群間変異の比率を増加させる方途があれば、一種の群淘汰が作用しうる。ボトルラックの繁殖習性は、まさしくこの比率を増加させる効果をもっている。そしてスプラージュウィードの習性はまさにその正反対の効果をもっている。<(p.422)
JRF2017/3/299423
群淘汰は「平均への回帰」を駆動させながらノンゼロサムゲームで全体を動かしていくという戦略で、それとは別に突然変異を拡大させやすい「ミッシングリンク」を生む原理もあるのかな…とちょっと思った。基本、僻地で近親相姦的なんだけど、遠くの花にできるだけ授枌させようとする戦略とか。この辺、自分でシミュレーションしてみたい。
JRF2017/3/292202
>(ESS としては)「ごまかし屋」も「恨み屋」も進化的には安定である。(…)この場合、たまたまごまかし屋の平衡状態に達した個体群のほうがその後絶滅しやすいのではないか、というのがマッキーの論点である。つまり互恵的な利他主義に有利に作用するような、ESS 間に作用する高次の淘汰がありうるのではないかということである。この視点は、通常の群淘汰の諸理論とは別の、実際に機能しうる一種の群淘汰を支持する論議に発展させることができるだろう。<(p.508)
JRF2017/3/296685
群淘汰は一般に「高次の淘汰」ではないのか? 私はネオ・ダーウィニズムを結局、よくわからなかったということだろう。
JRF2017/3/294156
……。
……。
間違っているのは私だと思う。それは間違いない。生物学の専門家でない人間のたわごとなど何の価値があろう。
昔は、ネットで進化について間違った意見を述べようものなら、生物学クラスタの人々に吊るし上げられるものだった。…ように思う。まぁ、悪名高いところを叩いていたのが目立っていただけかもしれないが。
JRF2017/3/297442
最近は、そういう活動を見かけなくなった。昔は、ゲノム解析等の余った時間をそういうネット活動にあててて、今ではそういう時間がないということなのかどうなのか…。しかし、まぁ、悪徳商法とかなら別だろうが、こんな私のような狂人のたわごとに対しては、無視・スルーで終りになった。淋しいことだ。
ここは読む人も少ない僻地なので、言い放しになるのだけが、(ごく稀な読者に)申し訳ないところかな…。
JRF2017/3/296060
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https://www.amazon.co.jp/dp/4314005564
http://7net.omni7.jp/detail/1102305363 (新版)
新版が出ているが、小遣いの関係で旧版があまりにも安かったので、そちらを手に入れた。Amazon ではなぜか旧版が「利己的な遺伝子」ではヒットせず、「生物=生存機械論」で探す必要があった。なお、この日本語版は、原著第二版がもとになっているようだ。
JRF2017/3/295713