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cocolog:86990506

レヴィナス『聖句の彼方』を読んだ。訳されていて日本語になってるのだが、意味をとるのが難しい。私は対象読者ではないのだろうと思う。 (JRF 4489)

JRF 2017年3月 6日 (月)

『聖句の彼方 - タルムード 読解と講演』(E. レヴィナス 著, 合田 正人 訳, 法政大学出版局 ウニベルシタス 512, 1996年 2014年新装版)
https://www.amazon.co.jp/dp/4588099957
http://7net.omni7.jp/detail/1106478508

珍しく新品で買った「新装版」だが、旧版との違いは(ほぼ)カバーだけのようす。

JRF2017/3/66914

レヴィナスのタルムード講解に関しては以前 [cocolog:84060491] で『タルムード四講話』と『タルムード新五講話』を読んでいた。

JRF2017/3/65873

……。

「序言」について。

「聖句」という…

>「存在論的な」命令は、(…)また内面性のユートピア的で「測りがたい深さ」にも似ていない (ただ、そのような内面性は、清廉潔白な意識を充たす政治的レアリズムの海のなかでは不可思議な島のごときものであって、誰もがそれは無意識的なものではないか、イデオロギーであり児戯に等しいものではないかと疑っているのだが)。<(p.2)

JRF2017/3/62795

私は自分を幼稚だと思う。イデオロギー的なものにはあまり支配されていないと思うが、統合失調症ということもあって、しばしば無意識的なもの、象徴的なものに引っ張られてしまう。現代日本の「安倍降ろし」と右翼的または保守的支持の言説のような政治的レアリズムに対しては、「大人」になれず、距離を置こうとしてしまう。

JRF2017/3/67444

……。

第2章から第6章までは「タルムード読解」という題が付いている。

JRF2017/3/61587

……。

「第2章 西欧のモデル」について。

ここのテクストでは、神の祭壇の前のテーブルでパンを永続させることから、トーラーを口にすることの永続が語られる。

JRF2017/3/62176

祭壇の前のテーブルが象徴するもの…

>王、それはテーブルを開放する者、人々を養う者のことです。永遠なる主と向き合ってパンが置かれるテーブルは、政治的権力(…)は人々の飢えに心を砕くという恒常的な思想を象徴しているのです……。時間の終末ではなく、空腹な人々の飢えに心を砕くのです。<(p.37)

JRF2017/3/64629

(飽食の)西欧は国連などを通じた努力にもかかわらず、世界から「飢え」をなくすことには致っていないという。

ちなみに「テーブル」は「Shulchan」のはず。以前 [cocolog:85762266] でユダヤ教の食事等の戒律を述べた『Kitzur Shulchan Aruch』を読んだ。

JRF2017/3/68881

>(…)「聖なる事物は上昇させるべきであって、降下させるべきではないから」です。大理石のテーブル、金のテーブル、金のテーブルです。これはひとつの教育学です。高められたものを決して卑俗化しないこと、つねにそれを高揚させ、老いつつある価値からもつねにその昇華された形を引き出すこと、これです。(…)相対的価値と聖潔なる価値とのあいだにはおそらく区別があるのです。(…)西欧は数々の相対性とそれらに対する異議申し立てを説きました。<(p.41)

JRF2017/3/61747

西欧のモデルに「永続性」という概念はない…ということなのだろうか? 古代ギリシャに関してはそうなのかな? キリスト教についてはそこまででもないような気がするが…。「諸価値」とは別の永続性ある「聖潔」、飢えに対処するような大事なことを見失なわないということか? そこは西欧も、できてはいないかもしれないが、見失なってはいないように思うが…。

JRF2017/3/62141

>(…)他者に近づけば近づくほど、他者に対するあなたの責任は増大するのです。義務の無限 -- おそらくはそれこそが無限との関係がまとう様態そのものなのでしょう。ここにもまた、高みへの運動が見られますね……。<(p.55)

ユダヤ教徒の「有責性」…。その覚悟はやはりすごいと思う。私は幼稚で無責任だ。

JRF2017/3/65996

……。

「第3章 逃れの町」について。

ここのテクストは、意図せずに犯罪にあたるものをおかした者が追放されると同時に「血の復讐者」から護られる「逃れの町」について語るところから、トーラーによる庇護を語る。

JRF2017/3/69307

>殺人者が望まなかったにもかかわらず犯されたこれらの殺人は、柄から離れて通りがかりのひとに当たってしまう斧とは別の仕方では生じないのでしょうか。自由で文明化された西欧の社会、しかしながら社会的平等と厳密な社会的正義を欠いた西欧の社会にあっては、貧者に対して富者が自由にできる優越 -- 西欧における誰もが誰かに対しては富者なのですが -- 、この優越が結局はどこかにいる誰かの苦悶の原因となるのではないか、そのようなことを考えるのはばかげているでしょうか。世界のどこかに、このような優越の帰結であるような数々の戦争と殺戮があるのではないでしょうか。<(p.72)

JRF2017/3/61216

「逃れの町」では生きることが保障される。我々の町こそが「避難の町」にして「追放の町」なのだ…と。

しかし、[cocolog:84060491] で『タルムード四講話』と『タルムード新五講話』を読んだときは、偶然に 2015年11月13日のパリ同時多発テロ事件のすぐあとだった。もう「避難の町」と言ってられない現実がそこにある…。

JRF2017/3/63068

>バライタがある。ある弟子が (逃れの町に) 追放されたときには、(彼と共に) 師もまた追放される。なぜなら、「彼が生き延びることができるように」と言われているからだ。-- 彼が (真に) 生きるためなら、何でもしなければならないのだ。<(p.78)

JRF2017/3/64187

だから、ふさわしくない弟子に教えるのははばかられる…と。でも、それはふさわしくないとして排除される者が出る論理ではないのか。斧を使うキコリが、不意の殺人に近いからといって卑しめられることにはならないのか。でも、ユダヤ教の枠組ならそんなことはないのかな。でも、それが周りに与える影響はどうなのだろう。「有責性」はユダヤ教徒に対してだけ言っているのではないはずだし。

JRF2017/3/64657

>トーラーが逃れの町なのではないでしょうか。(…)トーラーは死よりも強いのではないでしょうか。<(p.80-81)

でも、トーラーは、食事をくれるわけでもなく、生きる条件のすべてでもない。死んだらもともこもない。神は生ける者の神で、生きようとすることは別にちゃんとやらねばならないのではないか。

JRF2017/3/68629

>さらに、もしお望みなら、こう言うこともできる。トーラーに語られていることが避難所であるのは、死の天使に対してのみなのだ、と。

……血の復讐者に対しては避難所ではないのです。<(p.82)

JRF2017/3/69510

トーラーを唱えていれば、神に対してのみ義務を果たしていればいいというのはユダヤ教の考え方ではない。『タルムード四講話』([cocolog:84060491])(p.31)に出ていた大贖罪日(ヨム・キプール)に関する教えでは、「人間が神に対して犯した罪過は大贖罪日に赦される。人間が他者に対して犯した罪過は、あらかじめ加害者が相手の怒りを鎮めておかない限り、大贖罪日においても赦されない。」とあった。

JRF2017/3/67576

少しトピックからはずれるが、ユダヤ教が禁ずる太陽崇拝にこの考え方が適用できないか? 太陽は明らかに人に恩恵を及ぼしている。たとえ、その恩恵は神にさかのぼるものだとしても、人に対してはその人に感謝する。同じように太陽に感謝することがなぜ大きな間違いなのだろう? 神も人格神として人格を持つという言い方が許されるとして、人格のない者に感謝するのは間違っているからだろうか? その辺の感覚が納得できない私は、日本人らしいアミニズムに陥っているということなのかな?

JRF2017/3/66375

>(…)『剣が孤立した者たちに臨み、彼らは愚か者になる』(。…)改めて、真理の多元性、とはいえ一なる真理の多元性が、人格的なものにもとづく真理の多元性が確証されます。他者への呼びかけによって自分たちの「天才的な考え」を制御することのない孤立した者たちの逸脱に御用心! 孤立した者の痴呆とその傲慢という罪に御用心!<(p.88-89)

JRF2017/3/60315

私は「孤立した者」で日々「愚か」になっていくのに危機感を覚えている。なんとかここから這い出したいが、どうすればいいのかわからないでいる。いろんな人から、道は示されているのかもしれないが、それを選べないでいる。

JRF2017/3/66289

>私たちは感情の混乱を意識と取りちがえ、憎悪を友愛と取りちがえます。(…)それに対して、エルサレム、この真正なるトーラーの町では、それ以上に意識的な意識、完璧に覚醒した意識がある。大いなる目覚めがあるのです。(…)もはや私たちは、血の復讐者を生み出すような殺人を犯すことがないのです。どの実在も自分の実在のことを気遣う、そのような無秩序から私たちは脱出して、ついに他の人間が見えるものと化すような秩序に入ろうとするのです。<(p.90)

JRF2017/3/68519

そこまでいうのはキリスト教の黙示録の世界のように想う。人々が恨みを抱かないユートピアとも違う。ただ、積極的に「見ないふりをする」という世界ではダメだというのはわかる。

JRF2017/3/63039

……。

「第4章 最後に残るのは誰か」について。

ここのテクストは、ローマは結局ペルシャに倒されるといった予言についてのもの。

ローマとは何か、ペルシャとは何か、ギリシャとは何かをレヴィナスが語ってくれるかと思ったら、それほどでもない。

JRF2017/3/67202

>天賦の才の不平等はそれ自体で一個の暴力であって、この暴力は、生物学的起源以外の起源にまで遡るような社会によってしか解消できないものなのです。自然のさまざまな決定論にもかかわらず社会を維持しうるようなこの種の社会、宗教の観念はそうした社会に近づけられねばなりません。それ自身では平和な社会を築きえないギリシャによるローマの征服、それは戦士たちによる征服となんら変わらない征服なのです。<(p.108)

JRF2017/3/60910

ユダヤ人には優秀な人、「天賦の才」を持っている人が多い(と思う)。でも、それは優秀な人が選ばれるにまかせて「進化」したからではなく、神の下で弱い者へのも有責性を認め、多様性を維持して進化したからなんだろうか?

JRF2017/3/65927

……。

「第5章 条約」についえ。

ここのテクストは、神との契約の数え方についてのもの。

>筆記の明晰さと明確さを推奨するバエル・ヘテヴ、「きわめてはっきりと」という表現がここで、全面的な翻訳可能性を意味するものと化すのです。<(p.128)

JRF2017/3/67757

契約を石に刻むときに「バエル・ヘテヴ」と言われたものが、70の言語で書き込むことを意味するようになったという。面と面を向かっての契約の祝典が、万人に向けての条約となったということか。

JRF2017/3/61015

>タルムードとは天使との格闘なのです。<(p.133)

創世記32章でヤコブが天使と格闘する。天使は高潔な原理であって、人のような肉に関する戒律の必要はない。戒律に服従する人が、高潔さと格闘し、自分にはわからない部分を認めつつも、すなわち、びっこを引いても戦い続けるのがタルムードということなのだろう。

JRF2017/3/61903

>〈契約〉、それは、万人が万人を見ることのできるようなひとつの配置ないし演出ではありません。〈契約〉、それは個人的な資格で先生に問いかける生徒たちなのです。<(p.138)

逆にいうと、現代の「条約」は、万人が万人を見ることのできるような配置または演出なのだということか。「西欧」が世界の飢えを気にかけるためにはそういう装置も必要なのかな…と思う。

JRF2017/3/60829

……。

「第6章 宗教的言語と神への畏れについて。」

ここのテクストは、間違った祈り方の問題が取り上げられる。

>(別の箇所で) 私たちは、善き音信を授かったときには「善をなす善きお方」と言い、悪しき音信を授かったときには (単に) 「真理に従って正義をなす裁き手よ称えられよ」と言うと学んだのではなかったか。<(p.154)

JRF2017/3/64479

神が悪をなすように見えるのはなぜか、「神義論」と呼ばれる領域がある。そこをユダヤ教は当然に越える。

JRF2017/3/62485

……。

第7章から第11章までは「神学」という題が付いている。

JRF2017/3/69833

……。

「第7章 聖典のユダヤ的読解について」では、タルムードの『マコット』篇の最後がテクストと下地になっているのだが、これまでと違って、テクストの引用がなく、論旨が見えづらくなっている。

JRF2017/3/67644

この篇では鞭打ちの罰が語られる。いわゆる「破門」すなわち「自民族からの切除」の罪が「天の法廷」に対してなされたとき、人間の法廷は鞭打ちを課すことで、この罪を贖[あがな]えると考えるのである。天上の罪を地上の罰で贖うわけである。

JRF2017/3/61485

>(…)法廷は生まれ変わらせようとする神的な意志が現出する場でもあることになろう。とはいえ、それが暴力であることは言うまでもない。が、それは復讐の精神も、侮蔑や憎悪の精神もなき行為なのだ。偏見のない友愛的な行為なのだ。それは他者への責任から生じる。世界についてのカイン的な見方とは逆に、他者の守護者としてあることが友愛を定義しているのだ。<(p.175)

JRF2017/3/67049

天上での許しのために罰を行う…それは友愛なのだ…と。私はどちらかというと体罰肯定論者(参:[cocolog:75330389])だけど、体罰が愛の行為というのは、ちょっと言い過ぎのように思うな。それは語りが難しい者の語りの代わりでしかないように思う。人は口先だけで生きていない。ほとんどの人間は口先だけでは納得できないということなんだけど、それはトーラーの考え方とはかなり違うもののように思う。トーラーの教師が体罰を肯定するのはむしろ意外だ。

JRF2017/3/61692

……。

「第8章 タルムードの諸節による神の名」では、タルムードの『シェヴオット』(35a)をテクストに神の名について論じるが、第7章と同じくテクストの引用はない。

章の主題とは関係が薄いがレヴィナスの読解の中心的概念である有責性の典拠について…

>『アモス書』(3:2)に言われているとおりです。「地上の全部族のなかからわたしが選んだのはおまえたちだけだ。それゆえ、わたしはおまえたちをすべての罪ゆえに罰する。」、と。<(p.206)

JRF2017/3/65633

……。

「第9章 ユダヤ教の伝承における啓示」。ここ以降は、タルムードの各部が取り上げられることはあるが、下地のテクストはなくなる。

JRF2017/3/64850

>「ラビ・アキバは聖なるテクストの文字の装飾まで解釈した」、とタルムードは言っています。こうした筆耕たち、文字の奴隷と呼ばれるこうした博士たちは、あたかも文字が〈精神〉の折り畳まれた羽であるかのように、〈精神〉の飛翔が一望しうるありとあらゆる領野を文字から引き剥がす。文字が担っていた意味の全体がこうして文字から引き剥がされ、文字はこの意味へと目覚めてゆくのです。「一度神はそう言ったが、二度わたしは聞いた」 -- 『詩篇』62:12 の聖句のこの一片は、無数の意味が神の〈言葉〉に宿っていることを公言しているのです。<(p.222)

JRF2017/3/66974

聖書やタルムードから、意味や解釈や真理を「引き剥がす」というのもレヴィナスの読解のキーワード。我々は、タルムードを、自由にというわけではないが、正統な読み方にさらされながら、各自の読みを見つけ取っていくことが求められるようだ。

JRF2017/3/68631

>エジプトで私たちが奴隷であったというこの外傷が私たちの人間性そのものなのであり、このことはただちに、地に呪われた者たちをめぐるすべての問題へと、すべての迫害された者たちへと私を近づけることになります。<(p.235)

JRF2017/3/64471

直近のひとこと([cocolog:86989717])で、二次の「児童ポルノ」の所持をとがめられるのを「迫害」と表現したが、「迫害」という言葉を冒涜する表現だったかもしれない。

JRF2017/3/69531

すべて「私たちが奴隷であった」というのは、↓を思い出す。

《ブログアーカイブの電子書籍の利用許諾(案)》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2012/05/post.html
>隷属使用の解放。借り入れた者が、その年版の所有権を持っていることを知れば、返却があったとみなさねばならない。七年より前の年版の所有権を持つものは、七年前に、それ一個につき一個の最新の年版の所有権を得たものとみなす。(…)<

JRF2017/3/68861

>《他》による《同》の動揺は理性の意味であり、理性の合理性そのものではないでしょうか。神の《無限》による人間の動揺です。人間には内包できない神の〈無限〉が人間に霊感を吹き込むのであり -- 動揺の根源的様相たる霊感、神による人間への霊感の吹き込みが人間の人間性なのです。 -- 「有限のなかの法外さ」における「なかの」は、隣人を迎える人間の「われここに」としてしか可能ではないからです。<(p.243)

JRF2017/3/66242

デカルト的な自己同一性を理性と自由は根拠とすると考えるのではなく、他者への有責性を理性と自由の根拠とする…と。

JRF2017/3/68411

言葉は忘れたが、仏教などでもあったと思うが、「世界は自分の観念に過ぎない」とする考え方があったと思う。独我論? 観念論? 唯心論? でも、他者がやることというのは無意識以上の謎であって、それは普通にしている自己の予測を超える。ある種の精神以上になれば、それも予測した自己を観測できるのかもしれないが、そういう精神状態ではまともな生活はできなくなる。

JRF2017/3/65198

この本のここはそういうことを述べたわけではないが、理性的思考もまた他者にはじまるというのは、忘れてはならない物の観方であろうとは思う。一人で考え込むのはやっぱりダメだ。>> 自分。

私の統合失調症というやまいは自己同一性を失ったものでかったはずだが、他律を必要以上に受け容れた状態ではあったかもしれない。聖書があれば違ったんだろうか? レヴィナスの考え方もあやういもののように個人的には感じる。

JRF2017/3/60736

……。

「第10章 「神にかたどって」 -- ボロズィンのラビ・ハイームによる」では、『ネフェシュ・ハ・ハイーム』というカバラや『ゾーハル』の影響も受けた文書の世界観を紹介している。

その文書によると、世界は、より上位の世界が、下位の世界を外にまとうと同時に、下位の世界の魂や力となるという仕方でつながっているという。しかし、人間(ユダヤ人)は下位の世界に属すが、上位の世界に影響を与えるという。

JRF2017/3/62684

>被造物としてのその卑下にもかかわらず、人間は今もそれら他なるものを修復している (あるいは、庇護している) 最中である。そうしたすべてのために存在することで、人間は存在する。これは根底的な非 - ナルシズムである。ナルシズム的ならざる内面性というこの観念は倫理的な観念である。(…)神を前にした人間の行為は、それが数々の他なるものを巻き込むがゆえに重要なのだ。神への畏れとは数々の他なるものへの畏れなのである。<(p.263-264)

JRF2017/3/66008

すこし僭越に思える思考だが、レヴィナスの「有責性」という概念との共通性がある。

JRF2017/3/63340

……。

「第11章 スピノザの背景」は、スピノザを批判的に紹介し、解釈学を論じる短い論考である。

JRF2017/3/69925

……。

第12章から第14章までは「シオニズム」という題が付いている。

「第12章 カエサルの国とダヴィデの国」「第13章 政治は後で!」「第14章 同化と新しい分化」。

ナショナリズムや、西欧の同化について論じている。哲学的な用語の背景に時事が隠れているようで、これまで以上に読むのが難しく、私にはほとんど理解できなかった。

JRF2017/3/64041

……。

「訳者あとがき」は、スピノザを筆頭に様々な哲学者の名前が上がる。私は哲学者は、簡単な紹介文で知っているだけなので、ハイデガーやカントもほぼ名前だけ知っているという感じなのだが、それ以外のフランスの哲学者の名前を出されてもチンプンカンプンだった。それらの名をごく当たり前のように出してあとがきとしている。この本は、私を対象読者としてはいなかったのだな、とありありとわかる文章だった。

JRF2017/3/65472

……。

……。

私はタルムードに関心がある。しかし、タルムードは一般書籍として日本では売ってない。ミシュナーは売っているが高い。ミシュナはいずれ手に入れたいとは思っているが、Amazon で下巻が売り切れていることもあって手を出していない。タルムードも英語で探せばあるのかもしれないが、膨大な巻数のものを買い求める力は私にはない。

JRF2017/3/69058

だから、レヴィナスのタルムード講解はその手に入れやすい代替ということもあって、関心を持っている。しかし、これも安くはない。今回の本も何年も(10年ぐらい)前に Amazon の欲しい物リストに登録してあったのをやっと買ったというていたらく。上でも書いた『タルムード四講話』と『タルムード新五講話 神聖から聖潔へ』は以前買った。あと、『困難な自由』と『諸国民の時に』にもタルムード講解が含まれるらしいが、それらも高いので、どうしようか迷っている。買うとしても何年も先になるかも…。

JRF2017/3/63300

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受信: 2017-06-28 19:13:30 (JST)

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