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cocolog:87611452

レヴィナス『諸国民の時に』を読んだが、難しくて理解できなかった。哲学者はこれを読み下しているのだな。尊敬する。期待して読んだ「タルムード読解」は、他の章に比べてわかりやすかったが、得るところは少なかった。 (JRF 0634)

JRF 2017年6月20日 (火)

『諸国民の時に』(エマニュエル・レヴィナス 著, 合田 正人 訳, 法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス 398, 1993年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4588003984
http://7net.omni7.jp/detail/1101131561

JRF2017/6/201770

レヴィナスのタルムード講解については、以前 [cocolog:84060491] で『タルムード四講話』と『タルムード新五講話 神聖から聖潔へ』を、[cocolog:86990506] で『聖句の彼方 - タルムード 読解と講演』を読んでいた。

本書は、いくつかの大区切りがあって、その最初のひとつが「タルムード講解」になる。

JRF2017/6/200208

……。

「序言」の章から。

聖書では世界の言語は七十あるとされる。

>七十の言語を聴取し理解するには、どれほど広い教養がいることだろう! しかし、タルムードの伝承を信じるなら、サンヘドリンの成員になるためには、この法外な教養が必要とされていた。(…)口伝のトーラーによると、自分の隣人を決定的に裁く権利を有するためにも、七十の言語に通じた教養が必須だったのだ。<(p.2)

JRF2017/6/202659

ユダヤ人の(噂話的な)特徴の一つとして、多くの言語を操るというのがある。それはこういうところに根ざしていたのだろうか。

JRF2017/6/205106

……。

「タルムード読解」の「聖書に場所を得るために」の章から。

この章は、聖書の正典化の手続きについて、特にエステル記が聖霊に由来するかどうかについて論じる。

JRF2017/6/206039

>一民族の歴史にすぎないものを不遜にも聖典に祭り上げることの危険! ですからラビたちは、一民族の歴史がそれだけで聖書の聖潔をもたらすことはないと考えていたのです。要するに、私たちの聖書は、エジプト脱出の物語をはじめとして、東方の一民族特有の歴史にすぎないのではないか。はたして、それは人類のための聖書なのか。こうした昨今の疑惑を、ラビたちはすでに知っていたと申せましょう。<(p.23)

JRF2017/6/206883

ヘレニズムの時代は現代文明にとっても大事な一時期で、そこにイエスがあらわれたことに意味を見出すのは、とりあえずいいとして、さらにモーセの時代も人類の歴史にとって特別であったとなぜ言えるか。エジプトやメソポタミアの神話に比べて、なぜ聖書なのか…、本(巻物)が特別な意味を持ちはじめた時代ということなのか…。

JRF2017/6/201035

「三度」はあくまで象徴的数字だが…、

>聖書のなかですでに三度語られたことに、それに似たある新たな出来事の物語が付加されることはない。これは、歪曲を防止するのに不可欠な主張です、変節に御用心! よく言われる「時代は変わった」に御用心! (…)聖書が出来事に意味を授けるのであって、聖典が出来事から意味を得ようとするのではないのです。<(p.28)

JRF2017/6/205274

預言が実現するのであって、超自然的または戦争などによる表徴に神の意思を読みこむのではない…と。預言者の時代が過ぎ去って、神の意志があらわれるように見えることがあっても、それはどこか聖典ですでに表明されたことに違いないのだろう。

JRF2017/6/201430

>この教えは、聖典の聖潔を二つのレヴェルに区別しています。ひとつは真の意味での聖典の聖潔。いまひとつは、テクストそれ自体ではなくその読解と読誦にのみ認められる聖潔であり、エステルの巻物に授けられるのは後者の聖潔なのです。(…)聖霊はエステルの巻物を読むよう勧めはしたが、それを書きはしなかったことになろう。<(p.32)

JRF2017/6/207993

聖霊によらず書かれたものを、聖霊に満たされて読むことができることがありうる…と。でも、それは、統合失調症を経験した私には痛いくらい納得できる考え方だな…。その陽性症状のとき、何げない本、または悪魔的なエロマンガの中にも、神のメッセージがあると「感じた」ものだった。読む側こそが問題というのは、多かれ少なかれどんな聖典にも言えることのようにも思う。

JRF2017/6/204612

……。

「タルムード読解」の「聖典の翻訳」の章から。

イスラム教のコーラン(クルアーン)は翻訳を禁じられているという。現在、出まわる「翻訳」に見えるようなものは「解説」の一種だとか何だとか。では、ユダヤ教にとって「翻訳」は良いのかどうかというのが、この章の問題。問題ないという意見とギリシャ語への翻訳のみ特別だという意見などが飛びかう。

JRF2017/6/200981

その、主語がなくてもよい日本語が独特な多神教世界の下地になった可能性があるように、ヘブライ語の特殊性がこの一神教を導いた可能性はあると思う。しかし、ヘブライ語ゆえに神がユダヤ人を愛したということはないのではないか。原著の雰囲気は元の言語でないと味わえないということがあるから、神がたまたま語った言葉を残した聖書の言葉であるヘブライ語でないとニュアンスがうまく伝わらないということはあるかもしれないが、本質的なことが伝わらないと考えてしまうのは行きすぎのように私には思える。ヘブライ語ができない私はそう思いたい。

JRF2017/6/202477

ヘブライ語がギリシャ語に翻訳されることで、アレキサンドリアでは、誰でもわかる信仰に解放された…、

>解放はまた同化、「ヨーロッパ」へのある程度の同化でもあります。七十二人の翻訳者たちの考えが一致したという奇跡を物語ることで、『メギラー』9a が「正当なものとみなした」のも、聖書のうちへのギリシャ語のこのような参入であり、ヘブライ語聖書とギリシャ語聖書とのこのような同盟であり、このような同化だったのです。<(p.77)

JRF2017/6/202761

このころユダヤ教はトシをとっていて、奇跡というものが起きなくなり、預言者もあらわれなくなった。宗教がトシをとると硬化してしまうということ。それが、ギリシャ語に翻訳されるときの「奇跡」を通じて若がえりしたのかもしれないと思う。新たなタイプの奇跡を願うことが可能になったのではないか。

JRF2017/6/203503

……。

「タルムード読解」の「偶像崇拝としてのトーラー蔑視」から。

トーラー(聖書)を蔑視することを偶像崇拝の一種とみる。トーラー崇拝を偶像崇拝の一種とみなしているのではないことに注意。

JRF2017/6/208397

>ある書物の教えにもとづいてユダヤ教徒たらんとすること、それはなによりもまず、みずからを読者、すなわちトーラーを学ぶ者とみなすことであり、真の読解ないし学習によって偶像崇拝をまぬかれることです。<(p.95)

JRF2017/6/206812

私はユダヤ教やキリスト教に関心と好意を持っているが、洗礼等は受けておらず、ユダヤ教徒・キリスト教徒ではない。しかし、聖書を読む習慣は持っている。週に一度、一章弱をヘブライ文字で音読し英語でその部分の意味を読むということをしている。ただ、それに意味があるのかとしばしば悩むことがある。一つには、別の日本語古典などを読んだほうがいいのではないかという方向で悩むことがあるし、もう一つには、もっとヘブライ語に精通して、聖書をもっと量を読んだほうがいいのではないかと悩むことがある。

JRF2017/6/209054

>複習しないこと、それはたしかにトーラーを記憶にとどめないことです。それはまた、一回目の読書によって隠蔽されていまったものを受けつけようとしないことでもあります。初回の読書は開始であり開けであるとともに覆い隠すものでもあるのです。初回の読書は、最初の語で、第一印象で、初歩的な事実で事足れりとするのです。初回の読書は比喩的な意味を定義どおりの意味に解してしまいます。それこそが精神性の否定であり、一切の偶像崇拝の起源なのです。<(p.108)

JRF2017/6/206814

うーん、しかし、最初の読みって大事だよ。聖書みたいな複雑な文献は最初は読み間違うもの。そして、読み間違いにも個性があって、あとから振り返ったときに、どうしてそう間違ったかで自分や社会の影響をはかることができる。もちろんあとから振り返る復習も大事だけど。…キモチワルイ処女崇拝みたいな私の思い込みに過ぎないのかなぁ?

JRF2017/6/208479

……。

「タルムード読解」の「思い出を超えて」の章から。

この章では、エジプト脱出のような過ぎ去った昔にこだわわることの是非に関して論じる。

JRF2017/6/204625

>ラバン・ガムリエルはあまりにも厳格な師でした。過度の厳格さゆえの免職だったのですが、となると、後任を探さなければなりません。そこで指名されたのが、ラビ・エラザル・ベン・アザリアだったというわけです。彼は、叡智と物質的な豊かさと高貴さを兼ね備えた人物でした。(…)けれども、そのとき彼はまだ十八歳で、その髪はまだ白髪ではありませんでした。革新することなく教えることができるでしょうか。しかし、(…)過去の言説の同時代人でありつづけることなく、革新することができるでしょうか。奇跡が起こらねばなりませんでした。(…)頭に十八本の白い髪の毛が生えてきたのです。<(p.132)

JRF2017/6/206205

伝統は必要としても、革新もないといけないというときに、若い指導者が選ばれる。若い指導者は、自分の経験による歪み・しがらみが少ない分、習った伝統に忠実であるという面もあるのかもしれない。「習った伝統」に忠実であるがゆえに、現実的慣習を無視してそれを押し通し、革新するということもあるのかもしれない。もちろん、新しい現実に親しんでいて、古い時代の考え方を無視できるという面もあろうが。

JRF2017/6/208019

>タルムードのこの箇所で私にはっきりと感じられるのは、ユダヤ教が思い出をはみ出し、エジプト脱出の彼方で思い出を考え、「いかなる目も見たことのない」予見不能な未来を予感しているということ、この点です。予見不能な未来、それはまた、〈試練〉の新たな様式を介して、苦しみの新たな次元を介して開かれる未来でもあります。<(p.144)

JRF2017/6/205880

イスラエルの受難が人類の受難…、でも、少数民族など現代に「同化」によって滅びていく者の未来まで、イスラエルの未来は含んでいるだろうか? 失なわれる文化、都市的一神教でない文化は、かえりみる必要のないものなんだろうか…。

JRF2017/6/203923

……。

「タルムード読解」の「諸国民とイスラエルの現存」の章から。

この章では…、諸国民が神をたたえるなら、イスラエルは一層、神をたたえねばならない。それは諸国民がイスラエルの神をたたえることを受け容れるということだ。では、諸国民のうちユダヤの神殿を滅ぼしたローマについても、現代の「ローマ」についてもそれが言えるのか。…という議論をする。

JRF2017/6/202134

>汲々[きゅうきゅう]として独占され、多大な悪意をもって固執されている「父祖の地」に、土地なき者たちが、住所なき者たちが存在するのを受け入れること。これが人間性の基準なのでしょうか。この点に異論の余地はありません。(…)主の判定に従って、メシアはエジプトからの貢物を受け入れます。ですが、主が介入しなければ、メシアはそれを拒もうとしていたのです! 超人間的な赦しがなければ、平和はないのです!<(p.164)

JRF2017/6/205687

現代のイスラエル国に関しての部分。ここは少し訳がおかしいのではないか。「多大な悪意をもって固執する」とレヴィナスがみなしているのは「土地なき者」「住所なき者」たるパレスチナ人ではないか? しかし、そうだとして、レヴィナスはとても厳しい観方をしていることがわかる。

JRF2017/6/202192

……。

……。

さて、以上で「タルムード読解」部分は終る。それ以降もこの本は続くのだが、その哲学がバカな私には難しすぎて、議論がほとんど追えなかった。他の哲学サイトでも私は議論についていけないことが多いので、私は哲学に慣れてないということだと思う。「タルムード読解」は、タルムードのある部分を解説しようという意思があるから、まだわかりやすいというだけで、それ以外の哲学の部分は、私はおよびでない感じを受けざるを得なかった。モーゼス・メンデルスゾーンやフランツ・ローゼンツヴァイクの哲学の紹介もあるが、元を知らないからか、ほとんど理解できなかった。

JRF2017/6/204157

そういう中から、いくつか引っかった部分だけを少し抜き出しておく。

JRF2017/6/205867

……。

「思考と聖潔」の「ユダヤ教とケノーシス」の章から。

「ケノーシス」というのは「神の謙譲・へり下り」のことで、キリスト教では、神が人(イエス)になったのが「ケノーシス」の最たるもの。レヴィナスは他のユダヤ人から批判されながらも神の「ケノーシス」を認める。

JRF2017/6/204061

>ケノーシス(…)は、ユダヤ的な感受性にとっても、このうえもなく意義深いものである。(…)聖書では、神の〈荘厳さ〉や〈崇高さ〉を喚起する用語の前後に、身を屈して人間の悲惨を思いやり、この悲惨に宿るものとして神を描く用語がしばしば置かれている。(…)たとえば『詩篇』147:3 の聖句にいう、「打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる」お方は、それにつづく聖句によると、「星の数を定め、それぞれに呼び名をお与えになる」お方にほかならない。…<(p.192)

JRF2017/6/206923

カバラーの影響のもとにあるヴォロズィンのラビ・ハイームの『ネフェシュ・ハハイーム』によると、下位にある人間に、しかし上部構造である神が依存をしていると説く。

JRF2017/6/201115

>人間の主体性は反転し、即自によっても対自によってももはや定義されないものと化す。今や人間の主体性を定めるのは、他なるものへの、諸世界と他の人間たちへの「恐れとおののき」ゆえの自己忘却であり、自己放棄による献身である。この献身はまた、「他のために」尽くすことで悦に入ることのないよう、神がみずからの全能を断念することを示してもいる。

JRF2017/6/209957

(…)

『箴言』15:8 では「正しい人の祈りを神は欲する」と言われているが、この聖句の定義どおりの意味にかなった祈りを、神は望むのだ。諸世界と結びつきうるために、諸世界の存在ならびに高貴さのために、神はこのような祈りを、そしてまた、トーラーに忠実な人間たちを必要としているのである。
<(p.210-212)

JRF2017/6/206703

全能を断念する神のケノーシス…。

JRF2017/6/205308

マイモニデスの『迷える人々のための手引き』を読んだとき([cocolog:85424726])、マイモニデスの神が無実体(Incorporeal)の意見に対し、神が実体(corporeal)があることは否定できないのではないかと私は考えた。それは「受肉」という教義に道をひらくか否かという考え方の差だったように思う。

JRF2017/6/209063

レヴィナスはユダヤ教徒として当然、「神の受肉」を受け容れることはない。その理由らしきものは先の章、「対談」の「ユダヤ教「と」キリスト教」の章にある。

JRF2017/6/206707

>今の私には、無防備なるものを了解することはもはやできません。アウシュヴィッツが起こってからというもの、それは不可能になったのです。(…)無力なケノーシスは、人間たちにとってあまりにも高くつくものなのです! 十字架にはりつけられた無力なキリストは結局、十字軍を導いたのです! しかもキリストは、暗殺者を阻止するために十字架から降りてはこなかったのです。<(p.277)

JRF2017/6/200274

受肉によって、神の遍在が停止されることを述べているのだろうか…。他者に神を見出せなくなることを述べているのだろうか…。

JRF2017/6/205579

少し議論が外れるが、カバラーとケノーシスから、佐藤優『神学の思考 - キリスト教とは何か』(平凡社)(p.112-113)にあったカバラー思想に影響を受けたモルトマンの創造論を私は思い出した。それは次のようなものである。

JRF2017/6/205443

>アウグスティヌスは、神は人間と自然を自らの外部に造り出したと考えました。しかし、このような考え方をすると、神は人間と自然がない領域には遍在していないことになります。神が支配していない領域、 すなわち神の主権が及ばない領域が存在することになるのです。遍在することができない神は、ユダヤ教、キリスト教の神概念と相容れないように見えます。ここで、カバラー思想を援用して、モルトマンは神の自己限定 (その結果、神の収縮が起きる) について考えるのです。

JRF2017/6/200688

>しかし、事実、神の外を考えるような一つの可能性がある。すなわち、創造に先つ神の自己限定の仮定のみが、神の神性と矛盾せずに一致させられる。神ご自身の「外の」世界を創造するために、無限なる神は前もって有限性に対して、ご自身の中の場所を明け渡したに相違いない。神のこのようなご自身の中への退去が、神が創造的にその中へと働きかける場所を明け渡す。全能と遍在の神が神の現在を撤退し力を制限することによって、またそうする限りにおいてのみ、神の無からの創造のためのあの無が成立する。(…)<

つまり、神が収縮した後にできた空間で、われわれは造られたのです。

JRF2017/6/205495

アンセルムスの神の存在証明を思い出す。最大の存在というものが存在するはずで、それは神でしかありえないという証明…。でも、この「証明」は、順序に最大値が一意に定まらないものがあることなどから反駁可能である。むしろ、それを「証明」と言ってしまうことで、神の在り方を限定するものになってしまっている。

JRF2017/6/209519

この「神の収縮」も同じようなもののように私は感じる。神の創造の神秘をむしろ制限する方向にこれは作用しているのではないか。マイモニデス『迷える人々のための手引き』を読んだとき([cocolog:85424726])、「この宇宙」を創る前の神の生成…臨界現象的な現れ、「未来を作ったときに過去ができていた」ような創造もありうると私は考えた。それ以上のことは神秘として残しておくべきものではないか。数学的に最大というものを扱えば、別の観方が浮かび上がったように、物理学的に収縮がなくても遍在がありうるような世界観は証明しうるのではないか…と妄想する。

JRF2017/6/204962

「神の収縮」も「受肉」も「神の遍在」を否定はしないが、神の全能からのへり下りを認めるものではあるのだろう。

JRF2017/6/209292

神はいつでも力あると無神論者に働きかけるのが宗教の役目で、宗教へと統一させることは、人類の存続に意味のある考え方なのだろうと思う。刑罰だけでは十分ではない、神が必要なんだという議論はありうる。「受肉」によって「神の収縮」によって、神の不在を印象づけては、反倫理的な行動を許してしまうことにつながりかねないという観方もありえるのかもしれない。

JRF2017/6/206293

それは論理というよりも、印象が作る感情が大事で、すべてを論証できないことに意味があるのかもしれず、論証も印象を操作する意味しかないのかもしれない。なんのために論証しているのかが問われるのかもしれない。神学の(部分的)否定か…。

JRF2017/6/201720

キリスト教で、「神の遍在」と言えば「聖霊」の概念がある。そこの混乱があったということではないか…。レヴィナスは認めないかもしれないが、その部分に関する軌道修正は、(自由主義神学からの反省などで)現代ではなされているのではないだろうか。キリスト教の教義がアウシュヴィッツにどれほど影響したかはわからないが、反省はそれなりにあるのではないか。

JRF2017/6/208922

……。

「対談」の「ユダヤ教「と」キリスト教」の章から。

>私は、真の聖体はパンとぶどう酒のなかよりもむしろ、他者との遭遇のうちにあるのだと思いました。他者との遭遇のうちにこそ、神の位格は現前している(…)。<(p.270)

他者の「顔」が、レヴィナスのキーワード。

JRF2017/6/200107

……。

「訳者あとがきに代えて」の章から。

>そのような「〈正義〉の時」を要請し、また、みずから要請した「〈正義〉の時」によって審問に付されるのは、唯一者たる他者に対する唯一者たるこの私の無限の「責任」ならびに「慈愛」としての「倫理」にほかならない。<(p.320)

ライプニッツのモナドを思わせる「他者の唯一性」とそれへの「無限の責任」感も、レヴィナスのキーワード。

JRF2017/6/206569

……。

……。

哲学者は、こんな難しい本を読み下しているのかぁ。すごいな。それに比べて私はなんと愚かなのだろう。この本は、私に向けられていないというのは痛いほどよくわかった。

ああ、私は何ができるのだろう。哲学もダメ、数学もダメ。プログラミングも少し難しくなるとダメなので、インストーラを含むような実用的なプログラムは書けない。

内容によってではなく、それが理解できないことで、迷いを深くする読書だった。

JRF2017/6/204295

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