cocolog:87720849
レヴィナス『困難な自由』を読んだ。やはり難しい。しかしこの語り口には知性を感じる。それを学びたいと思わせるものがある。ユダヤ人内部の問題が語られるときも、日本人として人類としてどう引き寄せて考えるか、反射しての有責性が問われているように思う。 (JRF 7822)
JRF 2017年7月10日 (月)
『困難な自由』にはいくつかの版がある。私が読んだのは『困難な自由』の 1963年の原著初版の完訳にあたる。他に、同じ訳者による 1963年の版の抄訳が 1985年に出ている。これは中古で安く手に入るようだ。さらに、合田正人 監訳による原著 1976年版の完訳がやはり 2008年に出ている。
JRF2017/7/100580
困ったことに、1963年版に含まれる論考で 1976年版には含まれない論考がある。単純な増補ではないのだ。そのため、1963年版にも固有の価値があるということになる。私はタルムード講解に興味があった。この本でのタルムード講解のことは内田樹が他のところで言及しているぐらいだから、どの版にも載っているだろうと予想した。だから私にはどの版でも良かったことになる。
JRF2017/7/106992
何度か言及するように、内田樹のブログや Twitter を私は読んでいて、そのお礼がしたかったこと、前回読んだ合田正人訳の『諸国民の時に』([cocolog:87611452])が難しかったので内田訳のほうが良いかと思ったこと、今回、買った本が Amazon で入手困難になりかけていたのが 7月1日にたまたま新品定価で買えるようになっていたこと、…から、今回の版を買った。(高いので安い抄訳にするかかなり迷ったんだけど。)
JRF2017/7/107610
タルムード講話は、『タルムード新五講話』の新版の訳者あとがきによると…、61年と62年の講話が『困難な自由』に、63年から 67年までの 4 つの講話が『タルムード四講話』([cocolog:84060491])に、69年から 75年までの 5 つが『タルムード新五講話 神聖から聖潔へ』([cocolog:84060491])に、それ以降は、『聖句の彼方 - タルムード 読解と講演』([cocolog:86990506])に 6 篇、『諸国民の時に』([cocolog:87611452])に 5 篇が収録されている…とのことだった。
JRF2017/7/108787
今回の『困難な自由』では 60年と 61年の世界ユダヤ会議フランス支部主催のユダヤ人知識人大会(第三回、第四回)のタルムード講解が記録されているとのことだった。ともあれ、これで、レヴィナスのタルムード講解は出ているもの全部を読んだことになるのかな?
JRF2017/7/102646
……。
これまでの慣れがあるためか、合田訳より内田訳のほうがとっつきやすい印象を持ったが、それでもレヴィナスの息遣いは難しいようで、私の理解はおぼつかなかった。長い文節がなかなか読みとれず、読むのに時間がかかった。正直なところ、後半は流し読みをしてしまったキライがある。下記の引用も後半からのものはない。
JRF2017/7/109216
ただ、読み取れないのを著者や訳者のせいにするのははばかられる。行間から伝わる知性は、何とか私にも届いたようだった。内田樹や訳者あとがきで、訳すことで「写経」しようとした旨を書いているが、論旨を理解する以上に、レヴィナスのように語ることを学びたいと私も思った。これまでレヴィナスの本を何冊か読んできたが、語り口を学びたいと思ったのはこの『困難な自由』が一番だった。
JRF2017/7/101342
ここから、いちおういつものように少し引用していくが、私が(ほんの少し)理解できた部分だけを書き出すのみで、それ以外の難しいところを飛ばしているな…というのはいつも以上に感じる。
JRF2017/7/107196
……。
>ユダヤ教への帰依は典礼と学知を前提とする。正義は無知なるものには不可能だからである。ユダヤ教とは意識の覚醒のことなのである。<(p.20)
トランス状態で「聖なるもの」を憑依することはユダヤ教と背馳することである、と。理性的に学ぶことがユダヤ教である、と。悦[よろこ]びは学ぶ喜びである、と。そして、タルムードの学びは、禅の公案とも違う、と。聖書という根があってエクセントリックなものではない、と。…いうことなんだろうね。
JRF2017/7/107301
……。
>一神教への困難な道、それは西洋の歩んできた道と出会います。というのは、わたしたちはこう問うことができるからです。西欧的精神、つまり哲学とは、畢竟するところ、無神論のリスクを、おのれの成熟の代償として、あえて冒し、乗り超えるべきものとしてリスクを受け容れた人類の立場のことではないのか、と。<(p.37)
JRF2017/7/100657
私は多神教の仏教国の日本人として、一神教の光に照らされながらも、多神教的なものが許されえないか、生き残る余地はないかと考えてきた。その根拠は結局のところ、「唯一神」は一神教以前に「神々」を生んだのであって、そこに意味があるはずだという論でしかない。それが「成熟」の反対の「幼さ」に過ぎないというなら、その批判は甘んじて受けねばならないと思う。災害の多いこの国で、都合の悪いことを安易に神のせいにしないという「有責性」は維持しながらも。
JRF2017/7/100109
>相互性というのは起源における非等格性の上に築かれた構築物です。平等性がこの世界に存在しうるためには、存在者たちがおのれ自身に対して他者に対して要求するよりも多く要求することが必要です。人類の運命がそこにかかっている有責性をおのれの上に感じ取っていることが必要です。そして、そのような意味において、おのれを人類全体とは別のものとして立てることが必要です。<(p.47-48)
JRF2017/7/102063
個人個人が独立してあるところに平等という概念はない。個人が他者の発見により有責性という「くぼみ」を作るところを反省して、そのくぼみを誰しも持っているのではないかという期待・信頼が生まれる…といった感じなのだろうか。
JRF2017/7/105664
>女性が男性を補完するとしても、それはある部分が別の部分を補って完全体を作るというような仕方で補完するのではない。そうではなく、こういう言い方が許されるとすれば、二つの完全体が相互に補完し合うような仕方で補完するのである。<(p.64)
男女も有責性という「くぼみ」から連帯するのだろうか。よりジェンダー的に自分が担うべき責務を自覚するということか…。しかし、そう言ってしまうと、現代のジェンダー論で受け容れられるだろうか…。
JRF2017/7/104943
……。
メシアの時が確保された「完全な義人」とは別に…
>預言者たちが預言したのは、日々の経済的活動は続けながらも、そのような生活の決定論そのものには身を委ねない者たちに向けてです。彼らは家庭を作り上げますが、それを律法修学生が体現している知的で非利己的な生活のためにすでに奉献しています。そして律法修学生とは、啓示すなわち神についての知識に直接踏み込む者のことなのです。商いをし、労働をし、けれどもその労働を律法修学生のために奉献する者、所有しているけれど、その資産を律法修学生のために奉献する者もそれと同じです。家庭、労働、財産などは前メシア期的な制度です。
JRF2017/7/107847
(…)
けれども、非利己的な精神に直接的な関係を持つことはできなくても、律法修学生という媒介者を経由して間接的にそれに与[あずか]ろうとする者たちによっては、単なる歴史的必需品以上のものとなります。
<(p.106-107)
JRF2017/7/106457
自分は修業はせず慎しい生活を心がけるぐらいだが、「菩薩」に援助することで彼の救いの恩恵を受けられる…といった信仰、(小乗)仏教や道教に、イスラム教のスーフィズムもいくぶんかそういう考え方で、あったと思うが、ユダヤ教にも似たような考え方があるのは驚いた。それでも、少しニュアンスは違うのかな?
JRF2017/7/103784
……。
>ラビ・アブフによれば、道徳的努力の本質は、悪を回り道したあとに「善」へと帰還することのうちにあるのです。真の努力というのは革命的でドラマティックなものなのです。けれども、それにもさらに異論が立てられます。汚れなき純粋さ、歴史を持たない完全性、過誤に対する絶対的な防御、自然の決定論と切り離されたものを選ぶ立場です。それは同時に努力と男らしさを要求します。<(p.110)
JRF2017/7/100580
keyword: 神義論
ラビ・アブフのような考え方をすると、「神義論」、神が悪を創ったのはなぜかという議論は、容易に決着する。いわく、悪があったほうがより深い「善」に致ることができるから、と。しかし、良い子が良いことをしても何も言われないが、ジャイアンが良いことをすると褒められるということ、放蕩息子が帰ってくると喜ばれる(ルカによる福音書 15:11) というのは、やはり問題にはなる。
JRF2017/7/103364
……。
>すでに述べましたように、あらゆる議論は、不思議なことに、恩寵にかかわるキリスト教のロジックの対極にあります。過ちは外部からの救いを必要としている。というのは、真の知は自得することのできないものだからだ。しかし、違反は内側しか償うことができない。<(p.128)
JRF2017/7/104110
これは聖霊のはたらきという概念を批判しているのだろうか? 「内部」から訴える声が人を救うのではなく、あくまで外部からの知が人を救うのだ…と。禅的な考え方かもしれないが、智は内側から達するものとして、悟るものとしてもあるのではないか。教えられなければわかりえないことはあるにしろ、すべてそうだというのは、少しユダヤ教からも外れているのではないのだろうか? 卒啄同時というとき、確かに師が外から作用を及ぼすことが多いだろうとはいえ、自然などが師の替わりをなすこともありえるのではないか。
JRF2017/7/107928
……。
>ですから、具体的に言えば、それが意味するのは、ひとりひとりは、おのれがあたかもメシアであるかのように行動しなければならないということなのです。
メシアニスムとは歴史を停止させるために到来するひとりの人間がいると信じることではありません。万人の苦しみをわが身に受けることのできるわたしの能力なのです。わたしがおのれの能力と世界に広がるおのれの有責性を認識する、その瞬間のことなのです。
<(p.152)
JRF2017/7/107555
誰かがメシアになってくれることを期待するのではなく、自分もメシアたろうとすること…。自分にできないことを期待しないというのは、確かに責任感のあることだとは思う。でも、他に生活があるがゆえに到達できる地点もあるのであって、自分にできた立派な姿勢を他に求めるのが聖職者などにとって重荷にならないということもないようにも思う。勝手にメシアのハードルを上げて、真のメシアを拒否することにつながるのではないか。…といったあたりで、私の考え方は、イエスをキリストとする思想に接近するのか…。
JRF2017/7/103286
……。
>(…)あたかもある天上的な救いが目に見える悲惨さを廃絶することなしに、その悲惨さに打ち勝ってしまうかのように。人間的な営みの有効性に信仰の魔術が取って代わる。人間たちにむかって「善」をなす能力を身につけよと叱咤する「神」に、限りなく寛大な神が覆い被さる。その神は、人間をその邪悪さのままに放置し、邪悪であるにもかかわらず救われた人間に、無防備な人類の運命を委ねてしまうのである。<(p.175)
JRF2017/7/106175
「無防備」は、『諸国民の時に』を読んだときにキリスト教への批判とともにでてきたキーワードで、そのときはよくわからなかった。ここでは少し解説がある感じ。「信仰のみ」という考え方が究極的に意味するところを否定しているのだろうか。しかし、信仰として知を求めることは、現代の職に生きるものにとって酷薄なのではないか。これはこの本の後半の教育論にもかかわることだが、聖職でない者に宗教を支えてもらうためにその宗教的発言を評価しようと思えば、「教え」とは外れた正統的でない解釈の余地も認めねばならぬのではないか。それとも「師」はそれでも何かを教えることができるということを重視するのか…。
JRF2017/7/109168
……。
>「神の言葉」は学習を通じてしか聴き取られないこと、「神の言葉」はパンのように与えられるのではなく、師を要求するということ。学習とは学齢期の子どもたちのためのアルファベットや語彙や文法の習得に限られないということ、そうではなくて学習とは宗教生活の稜線をなすものであること。こういったことはすべて「パリサイ派の教え」として受け取ってよいものである。どうしてその名を拒む必要があるだろう。<(p.102)
JRF2017/7/109134
ここは、マタイによる福音書 4:4 や申命記 8:3 に出てくる「人はパンのみにて生くる者にあらず」という言葉(とその続き)を想起していると思われる。でも、私はパンのように必ずしも師を通さず与えられる知識も大事だと思うなぁ…。師に与えられた知をただ繰り返すのも知恵がないように思う。が、行間に意味のこもったタルムードを学ぶような者が、自分で考えないということもありえないように思うから、ユダヤ教はそれでいいのかな?
JRF2017/7/106698
……。
シモーヌ・ヴェイユの言葉…
>「人間たちは超自然的な愛をその魂のうちに住まわせながら、なお自分を無神論者であると信じ、そう広言することができる。このような人々はきっと救われる。」この断言にわたしたちも与する。<(p.197)
JRF2017/7/108528
人は脳のすべての動きを解き明かしたわけではない。コンピュータがこんなに発達しているのに、いまだ人と対等に話せるようにまでは致っていない。コンピュータは未だ(人間の)奴隷が命令を聴くようには柔軟に命令をこなすことはできない。電気が広く普及するまえに機械工学が、人間を機械で作ることを考えながらそれを果たせなかったように、IT革命の現代も AI がすべてを解決すると思いながら、結局は、人間と置きかえられない部分が多くできることが予想される。
JRF2017/7/103160
それでも人は、発展を信じて「神の領域」などないかのごとく信じて生活できる。そう信じて人生を過ごせたならそれは幸せなことで、神に奇跡を起こしてもらおうとして当然に果たせなかった人よりは、現世において救われているし、来世においても救いに近いのかもしれない…とは思う。
JRF2017/7/107365
神のことを考えなければ、そこに頼らなければ、生活できないという人の生はどこかおかしい。それはそうかもしれない。私は神のことを考え、そして働いていないことに、社会的に働けないことにいつもまどっている。私が救われるはずはない。悲しい。自分を変えたい。変えられないと考えてしまうのは甘えなのだろうか? そういう私よりは現代の無神論者のほうがはるかに神に望まれた生活をしているだろうと確信する。
JRF2017/7/105181
……。
>ある重要なミドラッシュによれば、紅海を渡海するときにイスラエルの民とエジプトの民を分かったのは、裁きの峻厳さである。というのも、神的なるものの普遍性は人間たち同士のあいだの関係を通じて実現されるという仕方でしか存立しないからである。<(p.204)
JRF2017/7/102108
多神教を許して欲しいと願う私は「霊的に凡庸な人々、異教徒たち」(p.203)の一員であることは確実で、そういう人々もいることが神的秩序で、その秩序の流れとしては、我々はいずれ滅ぶべきものなのかもしれない。エジプトの軍が、紅海に飲まれたように、ノアの洪水に飲まれた人々のように。おそらく、私はこれを悲しいと思わねばならぬ…。
JRF2017/7/102450
……。
>神の善性とは (シモーヌ・ヴェイユが感動しているように) あの超自然的「同情」を通じて無限の憐憫[れんびん]を以て人間を遇することにあるのか、それとも「神の盟約」を通じて、敬意を以て人間を遇することにあるのか、いずれであろう。<(p.207)
JRF2017/7/100508
人間の反応のために、全能から縮退する神…それがユダヤ教の神ということか…。聖霊を与えるというわけでもなく…。聖書と口伝の律法(タルムード)は与えられているからそれで十分ということなのだろう。それでは新しい時代に対応できないのではないかと思ってしまうが、科学の先端分野にユダヤ人もいることから、そうではないということだろう。ユダヤ人の教育において、ヘブライ語の学習という負荷があるがゆえに他の負荷に慣れるということがあるのだろうか?
JRF2017/7/108787
……。
この後、イスラエル国の話題や、ユダヤ人の教育の問題などの論考が続く。そこは少し流し読みぎみに読んでしまった。ユダヤ人固有の問題を語っているとは言え、そこは日本人などが「ナショナリズム」を健全にする上で参考にすべき考え方があったように思う。ユダヤ人に対して語られる有責性という言葉は、もちろん、それ以外の人類、日本人も担うべきものだろう。
JRF2017/7/100757
……。
今回、引用のあとのコメントを書いてて、我ながら偉そうだなと思った。訳者は次のようなことを述べている。
JRF2017/7/107547
>哲学史上の熟知されたエピソードのように「レヴィナスの思想は要するに……である」というふうにたいへんすっきりした「説明」をしてくれる学者も (たくさん) いる。そういう人たちにとっては、レヴィナス先生は「要するに……にすぎない」という程度の人に見えているのであろうし、そのような人に向かって「それは誤解です」と異論を立ててもしかたがない。著作を「解釈」する人間と、「写経」する人間は求めているものが違うのである。<(p.390)
JRF2017/7/105150
私は「解釈」する人間たろうとしていたということかもしれない。後半、引用できなくなったのは「写経」が必要なことを痛感できたからだとすれば、少しは恥を雪[すす]ぐことができた…となろうか。わからない。
もう一度、または何度か読まないといけない本のように思う。今後、折を見て再読したい。
JRF2017/7/106852
……。
……。
追記。
再読した。少しだけその際の抜き書きを追加。
JRF2018/6/197095
……。
>「汝自身を知れ」があらゆる西洋哲学の根本的な掟となることができたのは、結局、西欧がおのれ自身のうちに世界をふたたび見いだしているからである。<(p.27)
>一神教は無神論を乗り込え、それを包括します。けれども懐疑と、孤独と、反抗の年齢に達していないひとは、一神教に至ることができないのです。<(p.37)
JRF2018/6/190317
>こう語る人たちがいる。「女のいない男は、世界における神の似姿を矮小化してしまう。」それがわたしたちを女性的なるもののもうひとつの次元、母性への考察へ誘う。<(p.62)
>(…レオン・ブランシュヴィックの『日記』より…)「夢をたくさん見た人は、現実では驚くことがそれだけ少なくなる(1898年12月7日)。(……)1892年にはおそらくそうだったろう。しかし1942年は!(1942年12月7日)」<(p.76)
JRF2018/6/190845
>ならば、善き意図はすでにして一個の行為である。政治的犯罪の首謀者にとって -- 右翼であろうと左翼であろうと、裏切りであろうと暗殺であろうと -- その意図は禁欲と諦念、献身と犠牲、服従と忠誠の厳格さ、そして、どの場合でも、安全で保証された人生からの離脱を意味していることに変わりはない。一個の犯罪を行うためにはまことにあまりに多くの美徳が必要なのである。<(p.222)
JRF2018/6/192031
>預言者やタルムードの賢者たちは抗生物質も原子エネルギーも知らない。しかし、そういったすべての新しいものを理解するために必要なカテゴリーは一神教にはすでに備わっている。<(p.283)
JRF2018/6/199145
『困難な自由 - ユダヤ教についての試論』(エマニュエル・レヴィナス 著, 内田 樹 訳, 国文社, 2008年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4772005242
http://7net.omni7.jp/detail/1102612248
JRF2017/7/100392