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cocolog:87865666

白田秀彰『性表現規制の文化史』を読んだ。「猥褻」という概念が社会階層差から来たもので、今では、親の管理下にあって意志が未熟とされがちな青少年に関する規制が焦点になっていることが書かれていた。 (JRF 5499)

JRF 2017年8月 6日 (日)

『性表現規制の文化史』(白田 秀彰 著, 亜紀書房, 2017年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4750515183
http://7net.omni7.jp/detail/1106793244

JRF2017/8/68866

著者は、著作権クラスタで私の中では有名な人、MIAU の設立にかかわり、一時期はテレビ出演などもしていた。その Twitter を私は毎日チェックしている。最近、この本が出る大事な時期に、Twitter を鍵付きになさったようで、当分、鍵を外す様子がないのが残念。著作権や情報法の専門家だが、このごろはそのあたりのことをつぶやくことは少ない。でも、トシが少し上の一般ネットユーザーに近い立場からの情報は、私には共感したり納得できることが多いので、その Twitter をチェックしている。

JRF2017/8/64507

keyword: ポルノ

性表現に関する規制は私も関心があるところ、最近では、[cocolog:87632884] でロリコンマンガとヘイトスピーチの関連について考えたりしていた。

いつもどおり、この本を少し引用してコメントしようと思う。

JRF2017/8/65716

……。

>私たちは生物であり、生殖活動をしなければ子孫を残すことはできません。(…)「えっち」とは(…)「極めてありふれていて、ほとんどの人が自ら経験すること」であり、またそのことの表現ということになります。(…)仮に、私たちが表現に影響されて、その表現にならった行動をしてしまうとした場合(実際にはそんなことはないのですが)、「えっち」をすると命が生まれる可能性があるわけですが、人をさいなんだり人を殺せば命が失われてしまいます。どちらがより「望ましくないか」については、議論の余地もなく暴力だと私は考えます。<(p.8-9)

JRF2017/8/66535

そして暴力よりも「えっち」のほうが規制が厳しいのはおかしい…ということになる。

JRF2017/8/65985

性器をモザイクとかで隠すけど、読むのが規制されてない大人ならば、たいていの人は(売春などでかもしれないが)実物を見る機会があったはずで、なぜ隠すのかよくわからない…とは私も考えていた。むしろ、未成年が読んでしまうことを想定して隠しているのではないかと私は考えていた。

JRF2017/8/64649

ただ、「えっち」は、飲食などと同じ生理的な快楽の中では、命の誕生とそれにともなうリスクという重大な結果に結び付いていることも事実で、特に、産婦人科が今ほど発展していない時代には、「間違い」が母体等を傷付けることがないようにする必要はあったものと私には思われる。

JRF2017/8/67391

しかし、そうだとしても、性教育など教えることのほうが大事で、教える時期のコントロールの問題というならわかりやすいが、実態は、変に隠しながらも猥談などで興味をそそることが多かったのではないか。(下層民は)知れば参加するという流れであったということなのだろうか。

JRF2017/8/63957

夫が妻が知ることをコントロールできるのが一つの権利として認められていて、それを守るために他の情報源が規制されていたということはないだろうか。その場合、生理のある女性は、母などからある程度は情報を得ていることも前提とされている…。妊娠などの際には母系社会のネットワークに頼らせるため、それ以外の情報源もまた規制されているということがなかっただろうか。未熟児の「処理」などの情報が出回らないよう広く「えっち」に情報の規制の網がかかっていたということはないだろうか。

JRF2017/8/68464

夫の妻に対する尊厳のため、妻と子の醜聞からの安全のため、「えっち」は暴力よりも秘密にすべきだったというのはありえるのではないかと私は考える。「秘すべきこと」だったのが、表現規制につながるのは短絡的だが、まぁ、許容できるところではないかと思う。

JRF2017/8/63846

性交の出来不出来で、淘汰がかかるのは人間という種にとって正しくないという直観もあったのではないか、それが夫の妻に対する尊厳を認めることに繋っていたのではないかと思うが、どうだろう?

JRF2017/8/64784

……。

>「えっち」すぎると財産相続で困る(…。…)男性についても女性についても、財産継承者が確定するまでは、抑制された性生活が要求されることになります。というのは、財産を受け継ぐ立場にある子孫が多数存在することは、財産の分散や相続争いをもたらすことになるからです。(…)また、上層階級においては、結婚に伴ってやり取りされる財産が、相続に次ぐ大きな財産移転の機会であったため、当然、婚姻制度に大きな関心を払うことになります。

JRF2017/8/64298

(…)

このため、上層階級において、一族中の未婚の女性の身体を管理し、結婚まで純潔を維持させることは、財産管理とほとんど同じ意味を持つことになります(…)。また、そうして一族を管理することが、男性らしさまたは男性としての能力であるとみなされるようになると、女性の純潔は、一族の名誉とも関係してくることになります(…)。
<(p.28-30)

JRF2017/8/62383

逆に言えば、財産を持たない下層階級は「えっち」過ぎても問題はない。ゆえに、上層階級からみるとどうしても、下層階級は「猥褻」になる…ということ。猥褻な文化の侵入を阻止する必要がある…ということ。

JRF2017/8/68020

……。

>さて、「猥褻」が、庶民の日常的な性生活を嫌悪した感覚から生じたことは説明しましたが、それが悪として認識される背景には、どうやら「性」そのものがなんらかの悪であるという感覚が存在するようです。なぜなら、下層階級の日常的なだらしない生活は、本来性生活に限定されるものではないはずなのに、現在「猥褻」という言葉で、ことさら性生活があげつらわれているからには、それが典型的な悪徳と見られていたからに違いありません。<(p.48)

JRF2017/8/60096

>先入観なしに素直に見れば、性活動および性表現は、それ自体で有害であると考えることは困難です。とはいえ、性活動は生命を産み出すための方法であるということ、そしてそれに伴って興奮や高揚や快楽といった精神的作用を伴うことから、人々の規範意識の関心を強く引くことになりました。こうして、性活動や性表現は、哲学や宗教の関心を引く事柄となり、またそうした関心の対象であることが受け容れられるようになりました。<(p.81)

JRF2017/8/66896

厭世宗教などは、麻薬や性交のような興奮や高揚の機会を、管理下に置こうとする。それが性が「悪」とされる要因。…ということらしい。

JRF2017/8/66382

人は快楽のため生きるのではないが、生を悦ぶことも必要なことだと私は思う。そのあたりの匙かげんを宗教家という専門家にまかせてしまったほうが気楽でいいということはあるかもしれない。青年のうちは、性表現を手に入れることに一喜一憂するものだが、長い人生においてはそれは大きな問題でなくなる。それを伝統を守る宗教家などは個人個人よりよく知っているということはあるかもしれない。自分で性について決定しようとするのは浅はかなのかもしれない。でも、一方で、それは決定に必要な情報が隠されがちであるからかもしれないとも思う。

JRF2017/8/60300

個々が性欲について情報を隠すのは、恥ずかしいから。なぜ、恥ずかしいかというと、つきつめると性交や排泄のときに人は無防備になるから、…だろうか。そうすると、宗教が性を抑圧するのは、社会が無防備になることを全体として抑止しているという面はないだろうか。旧約聖書 ヨシュア記 2章のラハブが斥候を導き入れたようなことが、自らの社会で起きないように、性の乱れが都市社会のほころびとならないように、抑圧しているということはないだろうか。社会を守るという目的からして、無防備をもたらす「えっち」は悪なのだ、と。

JRF2017/8/64083

……。

>「規範」の領域においては、これまで抑圧されていた女性が、性的に自由であった男性に優位する、という状況を生み出した(…)。そこで、社会における女性の地位を向上させる運動の中において、性規範を強調し、性的な「だらしなさ」を批判糾弾する戦術が採用されました。私が見る限り、性的な規範を強調し、その逸脱を批判する理由は、これがおもっとも大きな動機になっていると思われます。<(p.113)

JRF2017/8/61780

BBC の女性記者が二次も三次もいっしょくたにして「児童ポルノ」を批判していたという文脈で、弱い女性が、より弱い(二次に逃げるしかないような)男を批判する構図になっていると指摘したことがあった([cocolog:86989717])。この本によると、フェミニズムの文脈においては、性表現をたたくことが、男性全体よりも優位に立つという意味を持っていたということらしいが、現在においては、男性が分断され、それは弱い側の男をたたくという印象のみを与えることにつながっているということかもしれない。

JRF2017/8/66249

ただ、「猥褻」への批判が下層民への批判だとすると、「リア充」から見て、自慰にふける男たちが、だらしない人間だという視線は、当然のものなのかもしれない。しかし、それは伝統的な性的な自由を持つ者を猥褻とする観方とは少しズレがあるということだろう。二次のポルノを見るものはどちらかといえば自由がないがゆえに、見るのである。三次では許されない児童を描いたポルノを見るという点では、より自由かもしれないが。

JRF2017/8/65039

>それらの性表現規制条例は、性の抑圧を招くだけで、女性の解放と性差別是正にはつながらないとして、条例に反対する「フェミニスト検閲反対行動委員会(…)」が結成され活動してもいました。こうして、フェミニズムの運動内部においても、ポルノグラフィに対して対立する態度が見られたのです。<(p.139)

JRF2017/8/66459

二次ポルノをよしとする者は、三次に対してより厳しい意見を持ってたりする(参:[cocolog:87632884])ので、性の解放を願う派とは意見をたがえることはありえるかな…。ファンタジーである三次ポルノを是認しても、実際の乱交は決して認めえないといったふうに。

JRF2017/8/68013

……。

>私は性表現規制を正当化する適切な理由があるとすれば、ここにあるのではないかと考えています。つまり、他者の生活の自立(広い意味でのプライバシー)を侵害するような方法で頒布される性表現はよろしくない、ということですね。<(p.157-158)

JRF2017/8/63078

逆に言えば、それ以外を規制の理由としたくないということ。これまで割と中立的に語ってきたものの、ここで旗幟鮮明にしたということだろう。どちらかと言えば著者は反規制派ということでよかろう。

JRF2017/8/68779

ここの理由は「見たくないものを見ないですむ自由」(ときどき桃井はるこ氏が言ってたこと?)ということかな。ただ、家族を単位にして、子供に見せないという判断については、著者はどう考えるのだろう。あくまで個人単位でのみ正当なものとするのだろうか。どういう表現が OK かは実際見てみるまで判断できないというのではまずいので、著者の認めるところに立っても、親がまず判断すべき、そうできるようにゾーニングするという価値観はありうるように思うのだが…。

JRF2017/8/62226

>私は性そのものに害悪が存在しないことから、性表現について規制をしなくても、反社会的行為の増大といった影響は生じないと考えます。性表現の規制への違反というかたちで「作り出された反社会的行為」というものが消滅する分、むしろ確実に反社会的行為は減少するものと思います。<(p.183-184)

JRF2017/8/62116

keyword: レーティング

今の情勢だと、ポルノ解禁するとしても、レーティングが残ることになるだろう、レーティングが強化されるかもしれない。未成年市場が狙えないとペイしないという論理で、自由が制限されることもあまり良いこととは思えない。ペイしなくてもいい、同人でできるようになればそれでいいという考え方もあるかもしれないが、自由であるために変に同人市場が膨らむことは、変態性欲=反社会性を応援するようなもので、それもあまり良くないように思う。

JRF2017/8/60534

レーティングは甘くして、三次は「犠牲者」がいるからモザイクあり、[cocolog:71701861] で述べたように、非実在の二次は基本モザイクなしで、ロリコンマンガはモザイクありぐらいが私は適当だと思うのだけど…。

JRF2017/8/64104

……。

>「青少年が成熟した大人に比較して、性表現から害を受けやすい」とすることについての証拠は、どこにも提示されていません(※注45:一方、性表現から害を受けにくいという証拠についても提示されていません。(…))。

JRF2017/8/66449

(…)

私にはその根拠は、大人の側に「自分たちは性表現にさらされてもかまわないが、青少年については好ましくない」という印象論から来ているとしか言えないように思われます。注意すべきは、それが最初の猥褻基準を設定した 1868年のヒックリン基準で示されていた、「反道徳的な影響を受けやすい人々を、堕落させ頽廃させるから猥褻表現を規制するのだ」という理由付けの繰り返しになっていることです。
<(p.177-178)

JRF2017/8/67846

>現在、たくさんの男女や青少年たちが、おそらく二〇年前には見ることもできなかったような赤裸々なポルノグラフィに触れているはずなのです。しかし、こうした統制のできない性表現の拡大に伴って、性犯罪は減少傾向にあり、若者たちは実際の性行為から離れている傾向が強まっています。<(p.200-201)

JRF2017/8/61106

自分が「青少年」だったころを考えると、あまりにも幼い時期に性表現を見てもただ気持ち悪いだけだったし、ある程度長じると隠されているがゆえに不健全さがつのる面もあったように思う。

JRF2017/8/63821

また、ピルなど避妊の方法もいろいろでき、中絶などの安全性も高まっていることを考えれば、性に対する慎重さは昔ほど必要なく、むしろオープンに情報に接することができたほうが良い面もあるかもしれないと思う。

そういう点からは、性表現規制はなくしていく方向のほうがいいのかもしれない。

JRF2017/8/64675

ただ、少子化という点から考えると、ポルノが(マスターベーションによる満足などで)実際の性行動を回避させる面があるのはマイナスかもしれないとは思う。しかし、それも、独身者の経済的な困窮が先にあって、ポルノへの需要ができているという面のほうが強いのではないかとも私は思うので、大きな理由にはならないようにも感じる。

JRF2017/8/64500

海外に恥ずかしくないように規制がなされてきたという面があるのはそうだと思う。その点に関して、海外に出る日本の「検閲」下にある作品は、モザイクがあり、それが「お墨つき」を与えている可能性がある点は留意すべきことのように思う。二次の児童ポルノなどが、実は流通できなかったというイイワケが使えないことは、私は未来に対する責任感があることだと評価する。モザイクがあるのは悲しいが、規制(理性)が必要だと認識していた証拠が残ることは評価する。

JRF2017/8/64440

……。

……。

昔は、Google 経由で簡単にモザイクなしのポルノが見られた。それが少し難しくなってきている。ただ、一度、「解禁」されたデジタルデータは、どこかには残っているはずで、私などのオッサンが知ることのできないところで、若者はポルノに触れているものだろう、とは思う。(でも、やっぱり自分の目から見えにくくなるのは悲しいものだ。)

JRF2017/8/69537

「モザイク」はすべて時代遅れだと私は言う気はないが、もう少し規制の張り方を変えられないものかとは思う。レーティングもやり過ぎで、何を規制しているか、何を根拠に規制しているかがわからないのも気持ち悪いと思う。そのあたりは今後の課題で、トシをとったものの、一人のオタク(だった者)として関心は持ち続けていきたい。

JRF2017/8/67316

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